余裕が無くなった時が人の本性の表し?俺は、そうは思いたくない。
危機的状況に見舞われた時、人は余裕をなくす。
金銭的に困った状況に陥った時。
自然災害の被害に遭った混乱のさ中。
家庭内に亀裂が走り、家族仲が悪くなった時。
世界的にウイルスが流行し、パンデミック状態になった時。
昨今で代表して上記のような状況が見受けられたのは、やはりコロナ禍と何年かごとに起きる大地震だろうか。
コロナ禍でも大地震が起きた際にも、それによって相次いで犯罪行為が蔓延った。
避難区域内で女性が一人で御手洗に立った時を狙う性犯罪。
コロナ禍で経済的状況が立ち行かなくなり、暴動的になった人が民家を狙って強盗に入ったり、詐欺や万引きに走ったり。
”余裕が無くなった時がその人の本性の表し時”
なんて言葉を聞いたことはないだろうか。
俺は、そうは思いたくない。
だってその説が真だとするならば、人間という生き物のあり様はあまりにも悲しすぎる。
経済的であったり、交友関係が満たされていたりして、所謂余裕のある人は人に優しくできるとも言う。
世間で言う”社会的弱者”から遠い立場にある人達だ。
だが、経済的に余裕があろうが交友関係が問題なく満たされていようが、人に冷たく当たり、もののように扱い、「自分は強者なのだ」とおごり、自分勝手に生きる人もいる。
だから、余裕のある人が相応に優しくなるようにできているとは俺は思えないのだ。
上述の例をふまえて、俺は、比較的余裕のある状況にある人の精神状態こそが人の本性なのではないかと考えている。
というか、余裕が無くなった時なんて冷静な気持ちや態度、姿勢を保っていられないのが普通というか、それもまた人間の防衛本能の正常な在り方というか、余裕がないからこそ自分だけは守ろうと必死になるから、相対的に見て余裕がない姿に見えるだけなんじゃないかと思っている。
もしあなたが絶対になくしたくない人やものをいきなり取り上げられて、それでも平静を保ってみろと言われたらどんな反応をするだろうか。
「はい、全然いいですよ!平気です!」
なんて、言えるだろうか?
俺の場合だが、到底無理だ。
見せたくなかろうがなんだろうが、泣き喚き、怒りをむき出しにする自分が容易に想像出来る。
そしてそんなのを、俺の本性だなんて思いたくない。
ある程度何かしらに満たされた状態を”仮の姿”とも思いたくない。
何かしらに満たされているから俺が俺でいられるのだとしても、その何かしらも自然発生的に生まれたものでもない。
俺が惜しまない努力を見せた結果培ったものたちだって山ほどある。
なんだか、怒りや悲しみなど、わかりやすい感情を人が露わにした時のことを「本性が出た!」みたいに言うのって、それ自体が馬鹿げている気がするのだ。
喜怒哀楽のどれも欠かしてはならない感情だし、当たり前のことなのに。なんで少しでも負の要素が孕まれているからといって本性だなんだとすぐに言い出される傾向にあるのだろうか。
あえて言わせてもらいたい。
滑稽である。
あくまで俺から見た感想だが、あまりにも子供じみていて、何もわかっていないように見える。
哀や怒があるからこそ喜や楽が輝くのだ。
その成り立ちをわかっていないの?
…今日俺は、ふとそんなことを考えていた。
読んでくださってありがとう。
またお会いできたらたいへん嬉しく思います。
※クレプトマニアについての記事ですが、鋭意製作中です。もう少々お待ちください。
※2 自死についての記事のアンサー記事のことも、忘れてはいません。気持ちが固まるまでもう少し待ってくだされば幸いに思います。
それでは、今夜もありがとう!
またね。
千川 悠里(10)