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「ジェット風船の行方」とその後

*この記事は3年前に投稿した「ジェット風船の行方」を創作大賞応募用に加筆修正したものです。

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父が他界した。
脳梗塞で倒れ、2年間の闘病の末のことだった。
今回は父の葬儀時に起きた奇跡についてお話ししたいと思う。

まず、この話を始める前に皆さんに知っておいてもらいたい重要なことがある。

父は「悪い男」だった。

女と金にだらしのない、私の中ではどんな小説や映画に出てくる悪い男よりもドラマティックに悪い男で遊び人だった。
周囲に迷惑をかけまくるが本人はいたって楽しそう。
ザッと思い出せるだけでもこうだ。
自分の孫と同い年の隠し子を作る。
甲斐性もないのにすぐに女に店を持たせようとする。
大体失敗する。
大体バレる。
困ったらすぐに逃げる。(フットワークはめちゃめちゃ軽い)
だから私の記憶の中でも、父が家に居る時期と居ない時期があった。

それはそれはとんでもなく悪い男だったが、謎の関西弁&九州弁のミックス語を使いこなし(出身は神戸、20代後半から九州に50年間住んでいた)愛敬だけはあったのでいつもワイワイニコニコでモテていたのも事実である。

そして大の阪神タイガースファンであった。
毎年キャンプ情報からガッツリ見て「今年の阪神はやりそうな気がする!85年と同じ何かを感じる」と当たらない阪神優勝予言をする。
ちなみに「85年」というのは阪神が日本一になった年。阪神ファンにとって栄光と伝説の特別な年が85年なのだ。
私たち親子が住んでいた当時の九州地方はセ・リーグであれば巨人、パ・リーグであれば現ソフトバンクホークスのファンが多数派で一般的だった。そのため阪神ファンは肩身が狭かったが、
父は経営していた多国籍スナックに吉田義男(1985年優勝時の阪神の監督)のサインを飾り、
店内では六甲おろしを流していたため、しょっちゅうお客様に怒られていた。

そんな父が亡くなり、いざ葬儀である。

脳梗塞で倒れて以来、亡くなるまでの間に何度か危ない状態に陥っていたのでそのたびに何軒かの葬儀社を見て回っていた。結婚式を挙げる時には充分に下見や準備ができるのに、お別れは大体いつも急である。そのため葬儀場を吟味することはなかなかないし、あまり早めに決めておくのも不謹慎な気がするが、ありがたいことに我が家はその時間や機会に恵まれたため、
「とうとうその日がきた」という時には良い葬儀場を見つけていた。
「お葬式」というよりも「お別れパーティー」のようにしてくれるという葬儀場。
故人が好きだったもので会場を飾りつけ、個人が好きだった曲を流し、棺を置いたカフェのような雰囲気の中で軽食やお酒や会話を楽しむことができるパーティー。


父が好きなもの。
それは阪神タイガース。
私は自分が持っているすべての阪神グッズを持って葬儀場に走った。義妹はTSUTAYAで「六甲おろし全集」という、いろんな曲調の六甲おろしが入っているアルバムを借りてきてくれた。
CDをかけてみる。
まずは普通の六甲おろし。次はヘヴィメタルバージョンの六甲おろし。次は演歌バージョン。こんな調子で10通りの六甲おろしが流れた。ご機嫌である。通夜の場に六甲おろし。なかなかロックだ。
このお別れパーティーは「翌朝まで好きな時間に来て好きな時間に帰ってください」というフリータイム制。我が家のようにお店を経営(多国籍スナック)していると、このフリータイムスタイルはなかなか有り難く、本当に翌朝までいろんな方がお別れをしにきてくれた。飲んで笑って泣いて。
様々な夜のお店からも綺麗なお姉さま方が沢山会いにきてくれたし、父も満足だったと思う。
入れ替わり立ちかわり最後に会いに来てくれる人たち。その人たちの話を聞いていると「パパ、さすがに恥ずかしいよ」と笑っちゃうくらい、私の予想の上をいく遊び人ぶりであった。

深夜になり、酔って号泣している私の甥(父から見れば孫)が「俺が20歳になったら一緒に飲む約束だったじゃないか!なんで死んだんだよ!まだ一緒に飲めてないよ!」と片手にビール瓶、片手にコップを持ってフラフラと棺の前にやってきた。甥は父の入院中にハタチになっていた。
「飲もう!よし!今一緒に飲もう!」と勢いづいた甥は棺の中の父にビールをかけた。
想像してみてほしい。
泥酔で号泣の孫が棺の中の遺体にビールをかける。えらいことである。
いくら悲しみの場の酔っぱらいの行動とはいえ、私もさすがに慌てた。その時は「そんなことしちゃダメよ。でもよかったね、一緒に飲めて良かったね」なんて優しく甥を宥めながら父の顔にかかったビールを拭いたのだが、その数時間後…。
夜があけて父の顔を見て腰が抜けそうなほど驚いた。
棺の中の父はニッコリと口を開けて笑っていたのだ。
ビールで口元が潤ったのだろう。もしくは余程ビールが美味しかったのか。
闘病中は誤嚥を防ぐため、好きなものも食べられず、飲めなかった父。相当辛かったと思う。
私が見舞いに行くたびに「ビール、ビール、ビール」と要求してくるのがお決まりのようになっていたし、当然のことながら飲ませてあげることができなかった。ある日突然倒れて、亡くなるまでの2年間、求めながらも得られなかったビールの味。久しぶりに口にできて、それも孫に飲ませてもらえたのだ。本当に幸せそうな笑顔で、
「うまいなぁ」と言ってるみたいに見えた。

父が笑っているだけで私たち家族も嬉しくなり、酔いと疲れから変なテンションだったのだと思う。
せっかくの阪神葬だし、
出棺の時に「ジェット風船」を飛ばせないだろうか、という話になった。
阪神ファンならおなじみの、
7回と勝利の瞬間に飛ばす、あのジェット風船だ。ちょっとした冗談のつもりだったが葬儀社側も「我々も出棺の時にジェット風船を飛ばすのは初めてですので楽しみです。でも外では何かと危ないので室内でお願いします」とこの計画に乗ってくれた。

いざ出棺の時。
お花と阪神グッズに囲まれた笑顔の父を親族全員で囲む。
六甲おろしを強めに流した。
ジェット風船を飛ばす役目は孫である我が息子だ。(孫の中でも1番年下で父から溺愛されていた)

風船を飛ばすためには、まず風船を膨らませないといけない。六甲おろしが鳴り響く中、大人が必死に風船を膨らます。無事細長く膨らんだ風船を受け取り、緊張の面持ちで風船の口の部分をギュッとつまむ息子。
六甲おろしが間奏に入った瞬間、
「それ!今だ!」と
息子に合図を送ると、風船はピューッと高く舞い上がった。
すごい勢いで天井にぶつかり、萎みながら右に左に揺れ落ちてきた。時間にすると3秒くらいの出来事だったと思うが、風船が舞い上がり落ちてくる様は親族一同にスローモーションで見えていたはずだ。
みんな口を開けて目で風船を追う。
風船は棺の中の父の股間の上にストンと落ちた。

「命中や」と誰かが言った。

ジェット風船を放った息子は股間命中に大喜び。みんな笑顔で「おーっ」と盛り上がって拍手をした。
「出棺です!」の声で、萎んだジェット風船を股間に乗せたまま父は笑顔で旅立っていった。
賛否あるとは思うが、私たち家族はあのビールで潤った笑顔とジェット風船に救われた。
父の遊び人人生の集大成であったように思う。
ただ、今思い出しながらこれを書いていて気づいた。
やっぱり寂しい。
私は父に憧れていたのかもしれない。


〈追記〉

パパへ

パパが股間に萎んだジェット風船を乗せて旅立った日から早いもので4年が経ちました。
その間に世界では大変なことがいろいろあったんだよ。
でも、まぁ、パパに伝えたいニュースはひとつだけ。
パパがよく言ってたよね。
「もう一回監督したらええがな!そしたら優勝できるかもしれへんで!」って。毎年毎年、勝手な優勝予想と監督予想をしてたパパいちおしの岡田監督が今年からまた阪神の監督をしてくれてます。それもね、今のところ調子が良いの。もしかしたら、もしかするの。
パパが言ってた「今年の阪神はやりそうな気がする!85年と同じ何かを感じる」っていうやつ、私も感じる。たしかに感じる。
もしも、良い報告ができそうな時は六甲おろしを流してジェット風船を飛ばして知らせるね。
あーあ、一緒に見たかったな。
4年経ってもやっぱり寂しい。




#創作大賞2023

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