ごきげんとり 第1話
○ 2022年8月
俺がライター仲間の千鶴に頼まれ、九州のこの田舎町にやってきたのが昨年の10月。早いもので10ヶ月が経った。
普段は静かで朴訥な雰囲気漂う町だというのに、今月に入るとまるで町全体が何かにとりつかれたかのように一気に活気づき始めた。
毎年8月に開催される、町はずれにある小さな神社の例大祭が町の人々の心を浮き立たせているのだ。
町には他にもいくつかの神社が点在しているが、例祭として地域の人々の心を踊らせるのはこの祭りだけで、漂う空気にもそこに住む人間たちにもどこかソワソワとした高揚感があった。
山本虎太郎はその町の急に高まったテンションを不思議な気持ちで眺めていた。
都会で生まれ育った虎太郎にとって、
熱量をすべて8月に注ぎ込むチグハグな町民の雰囲気はひどく異様で滑稽に見えた。
しかし、縁もゆかりもないこの地に来て、たったの10ヶ月で、町に古くから伝わる祭事の取材依頼が舞い込んできたことは素直に嬉しかった。
早速、千鶴に連絡をする。
「お前の町の根子例祭の取材依頼、俺のところに来たよ。町の人たちも俺のことをだいぶかってくれてるみたいでな。今日もこの後、祭りの実行委員の案内で神社に行くことになってるんだ」
少し興奮して早口になった自分に驚きながら、俺は千鶴の反応を待った。
いつもの甲高い声で喜んでくれると思ったからだ。
しかし千鶴は黙ったまま。
「おい、千鶴、聞いてるのか?」
さらに数秒の沈黙が続く。
「千鶴?」
千鶴は何か考えている様子だったが、急に早口になって、
「コタロウの……名刺か何か、町の人に渡した?」と問うてきた。
名刺か何か……?と一瞬考えたのち、
「まぁ、引っ越してきたばかりの頃に結構沢山配ったけど。それがどうした?」と返した。
言葉には出さなくても千鶴の吐息だけで何かに失望した様子が伝わってくる。
「コタロウ、逃げて。祭りの取材はせずに今すぐ東京にもどってきて」
千鶴のものではないような低くくぐもった声に、虎太郎は戸惑った。
○ 2023年9月
白川真巳子が乾克夫と出会ったのは、
シングルマザー・ファザー対象の婚活パーティーだった。
「子連れ」を結婚相手として迎え入れ、もちろんその子どもも責任を持って養育する。
当たり前のことのようで難しいその条件を
最初から了承したうえで申し込んできた男性陣の中に克夫がいたのだ。
真巳子は当時既に46歳で、再婚相手との子を望んではいなかった。
そのため、新しい相手と子をなす可能性が高い若い参加者の方が有利で、自分には誰も寄ってこないだろうと諦め半分での参加だった。
だが、意外にもあっさりと克夫に見そめられ、とんとん拍子に交際から結婚へと至ったのである。
乾克夫は40歳。
年齢より若く見えるのはスラリと伸びた長い手足と、甘いマスクのおかげか。
パーティー会場に来ていた男性陣の中で1番格好良かったし、スーツ姿もオシャレに決まっていて、とてもこれまで独身だったとは思えない。
遠くから眺めているつもりだったのに、あまりに長いこと見つめていたらさすがに目があった。
克夫が私の下の名前を記した名札を見て、
「真巳子さんっておっしゃるんですね。素敵な名前だ」
と発した瞬間に、多分私は恋におちたのだと思う。
笑うと目尻にできる皺が可愛らしくて、優しさがにじみ出ている。
(一目惚れってあるんだな)
そう自覚しながら真巳子は自己紹介より先にこう口にしていた。
「娘がいるんです。10歳で。女の子ですからこれからいろいろと難しくなってくると思います。それと私、46歳です。もう子どもは望んでいません」
年頃の女の子を連れて再婚をするリスクは真巳子にもわかっていたし、娘の亜巳がいやだといえばそこで諦めるしかないと思っていた。
最初に一番大切な情報を相手に伝える。
これで反応が悪ければ引き返すし、逆に反応が良すぎても怖い。
どんなふうに返してくるか。
真巳子は克夫の目をジッと見た。
「ええっと……僕が真巳子さんとお付き合い、いや、結婚することになったとして……」
ハッ、と真巳子は我に返る。
「ごめんなさい。会ったばかりの人にこんな話を」
「いえ、大事なことですから。最初に言ってもらえるのは逆にありがたいです。そうだなぁ……」
克夫の誠実さが伝わってくる。
こんなに重い話に真剣に応えてくれようとしている。ありがたい。
「まず、真巳子さんの年齢については問題ないです。子どものことも別に。それと、もちろん僕は娘さんのことを本当の娘として育てていきたいと思いますが、10歳か。これから年頃になっていきますからね。真巳子さんが不在の時に僕と娘さんが家の中に2人きりになってしまうことも結婚すれば頻繁にあるでしょうし。それは真巳子さんもご心配ですよね。うーん……」
克夫はさらに考えこむ仕草を見せる。
真巳子は、今この場で初めて会った男性がそこまで深く「年頃の娘を連れて再婚することに対するリスク」について考えてくれることに感動していた。
克夫は思いついたことを一瞬飲みこむような仕草を見せ、ちょっと頭を掻いたあとで、私をまっすぐに見て言った。
「今すぐに、とは言いませんが、僕と娘さんと真巳子さん、3人での暮らしより、僕の両親も交えて5人とか……」
「5人!?」
真巳子は自分が発した声の大きさに驚く。
真巳子の反応に克夫は慌てて
「すみません。いきなり同居の話なんて出したりして。嫌ですよね。最初から義理の親との同居なんて」と目をそらした。
前夫と離婚して5年。
これまで仕事をしながら一人で亜巳を育ててきた。
その中でいちばん気がかりだったのは、
仕事の都合でどうしても亜巳に一人で留守番をさせる時間が発生することと、
仕事以外の時間も家事に追われ、思うように母娘のコミュニケーションの時間がとれないこと、だった。
両親の反対を押し切って結婚をし、まんまと失敗した身としては恥ずかしくて実家を頼ることもできない。
そう思って生きてきたが、正直な話、真巳子も限界にきていた。
嫁姑問題なんてどうでもいい。
亜巳と一緒に新しい家族の中で安心して暮らしていけるなら……。
真巳子が克夫の実家での同居を快諾し、入籍をしたのはそれから半年後のことだった。
○ 2025年4月
克夫の実家は九州の1時間も歩けば海に出る、漁業の盛んな田舎町にあった。
町の人たちは「朴訥」と表現するのが1番ピンとくる物静かさで、明るく人あたりの良い克夫がこの町の出身だということが信じられないくらいだった。
克夫と入籍して1年後、
私と娘の亜巳は克夫の生まれ故郷に引っ越してきた。
話を聞いた時には驚いたのだが、私たちとの同居のために実家を建て直してくれたという。
入籍から引っ越しまでに1年を要したのは、新居の完成を待ってのことだった。
「ちょうどリフォームを考えていたところだったから、タイミングが良かったのよ。私たちもまさか一緒に住んでもらえるなんて。夢みたいよ。真巳子さん、ありがとう」
義母は建て替えの理由を「タイミングが良かった」と言う。
息子より6つも年上の子持ちの女を温かく迎えてくれるだけでありがたいのに感謝までしてくれる。
真巳子には乾一家が神様に見えた。
克夫の父である乾貞夫は長年にわたり町議をつとめてきた町のまとめ役で、職を退いてからも近所の人や町役場の職員たちが貞夫のもとへ相談にやってくる。
「私ももう後期高齢者ですから」と笑うものの、ピンと伸びた背筋と腹筋を使って発声しているかのようなよく通る声は、貞夫を10以上も若く見せていた。
義母の乾恭子は、
目鼻立ちが整ったスッキリとした美人タイプで物静か。貞夫より更に若く見える。
初めて恭子に会った時、克夫は母親似だなと思った。
「突然孫ができちゃってビックリしたけど嬉しいわ。亜巳ちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんです。これからよろしくね」
知らない土地に引っ越してきて、それまで他人だった人たちと〈家族〉として暮らし始める。
亜巳はずいぶん緊張しているようだったが、
恭子からの優しい言葉に遠慮がちに微笑んだ。
克夫は自動車会社の営業をしていた。
本人は謙遜して認めないが営業成績もずいぶんと良いようで、何度も会社から表彰されているのだと義母がこっそり教えてくれた。
「車を売ってますからね、僕は運転が苦にならないというか好きなんです。だから真巳子さんと出会ったパーティー会場がここから車で3時間の場所でも行く気になれた。運転好きで良かった。真巳子さんと亜巳ちゃんに出会えたから」
こんなことをサラッと言える克夫は理想の夫だと思う。
私こそ思いきって婚活パーティーに参加してよかった。
入籍から新居への引っ越しまでの1年間は克夫が真巳子が住むアパートまで会いにきてくれていた。それこそ車で3時間かけて、月に2度。通い婚のような形だった。
克夫は「しばらくはゆっくりしていてもいいんじゃない?」と言ってくれたが、
私は大学時代に取得しておいた教員免許を使って、町の中学校で非常勤講師として働くことにした。
非常勤なら勤務時間に余裕があるし、この町の「社会」に触れられる。
少しでも早くこの町のことを知りたいという思いと、金銭的な面で100%克夫の世話になることに抵抗を感じたからだ。
それに、いくら「嫁姑問題なんて今更どうでもいい」と同居を決めたとはいえ、
一日中、義両親と顔を突き合わせているのは辛い。
働きながら、ちょうど良い同居のかたちを模索していきたいと、私は週に4日、近隣の中学校に通うことにした。
引っ越しの日は移動だけでも疲れていたのだが、
義父が「氏神様にご挨拶に行く」と言ってきかなかった。
新居から車で10分ほど行くと、海沿いに小さな神社があった。
車から降りた瞬間、気持ちの良い潮風に吹かれて、疲れが幾分癒やされた。
潮の香りもする。
夕方の海は穏やかで、夕陽が弱く神社を照らしていた。
数段の低い石段をのぼると立派な鳥居が見えた。
義父はそこを「おねこさま」と呼んだ。
「おねこさまに『克夫が嫁と孫を連れてきてくれました』言うてご報告しとかんと。ちゃあんとおねこさまに2人の顔を見せておかんと」
背筋を伸ばして早歩きの義父を追って、私と亜巳は急いで石段を駆け上った。
その瞬間、潮の香りとはまた別の、何か生臭い匂いが漂っていることに気づいた。
あたりを見渡すと鳥居の足元とお社の手前に生の魚が置いてあった。
最初に見た時にはそれが何かわからなかったが、あちらこちらに魚が食い荒らされたあとがあった。
この生臭さは魚のにおいだったのか。
普段はスーパーで綺麗に処理された切り身の魚を買うか、お寿司を食べるかぐらいしかしない真巳子には、生魚のにおいが春のあたたかい風に吹かれて漂ってくることが少し気持ち悪かった。
亜巳も魚に気づいて不安そうにしている。
私は亜巳の手をギュッと握り、
「あの……お魚があちこちに散らばってますけど。これは?」
と、義父に話しかけた。
義父は魚の残骸を一瞥して、
「おねこさまが喜んどる。真巳子さん、あなた、歓迎されとるよ」
と笑った。
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