ごきげんとり 第3話
〇 2025年7月
「克夫さんの妹!?」
乾真巳子は驚いて、飲んでいたコーヒーをつまらせ、咳き込んだ。
真巳子の同僚で社会科教師の鳥居由紀は、
驚く真巳子を見て、逆に驚いた様子だった。
中学校の職員室。
同じ学年の担当になり、席が隣同士の真巳子と由紀は最近よく話す仲になった。
真巳子は48歳で、由紀は38歳。10も年下のはずなのに気が合う。どちらかというと、由紀の方が落ち着いていた。
「え?本当に聞いてないの?一度も?誰からも?」
咳き込みながら、由紀の問いに「うんうん」と頷き返す真巳子を見て、
「呆れた……」と小さくつぶやき、由紀は克夫の妹の説明を始めた。
「その……克夫さんの妹の千鶴はね、私の高校の同級生なの。私はこの辺りの生まれじゃないけど、高校だけこっちにきてて。そこで千鶴と知り合ったんだけどね、18の時に千鶴、いなくなっちゃったんだよね」
「……いなくなった?」
ちょっと前に娘の亜巳が、友だちのお兄ちゃんがいなくなったのだと話した時のことを思い出していた。
「ああ、いなくなったって言ってもね、いるのよ。東京に。今は東京でフリーのライターをやってる。大丈夫!生きてる!」
真巳子の不安を感じとったのか、由紀は声のトーンと言い回しを軽くして、千鶴の無事を伝えてくれた。
しかし、狭い職員室だ。
この時間が空き時間の私と由紀の他に、教務主任や教頭もウロウロしているからあまり大きな声では話せない。
由紀は小声で続ける。
「千鶴がいなくなってしばらくして、突然本人から私の所に連絡がきたの。『私が連絡してきたことは家族には絶対言わないで。でも、私は元気で暮らしてるから安心して。こっちに来る時に携帯電話も解約して誰からも連絡がつかないようにしたけど、由紀には一応新しい番号を教えておくね』って」
黙って聞いていた真巳子が口を挟む。
「どうして千鶴さんは由紀先生に連絡したの?よっぽど仲が良かったとか?」
由紀が首を横にふる。
「仲は良かったことは良かったけど、そこまで……親友ってほどではなかったかな。多分、千鶴が私に連絡してきたのはね、私がこの町の出身じゃないからだと思うの。ちょっとしたスパイに任命された感じよ」
「スパイ……」
根子町の出身ではない由紀をわざわざ選んで連絡してきた千鶴。
2人が18の時ならば、20年もの間、実家に安否を知らせていないということだ。
一体、千鶴に何があったのだろう。
「まぁ、年に1〜2回、お互いに近況報告をしあう程度だったんだけどね、私、この間話したのよ、千鶴に。お兄さんが結婚して、そのお嫁さんとお子さんが実家に引っ越してきたよって」
急に自分の話題になったことに慌てた真巳子は、話の先を急かすように大げさに頷いて見せた。
「そしたら千鶴、すごく驚いて。『教えてくれてありがとう!お兄ちゃんの奥さんの名前分かる?由紀に分かる範囲のこと教えてくれない?』って。そんなこと言うものだから、私てっきり、千鶴が真巳子先生にお祝いを送ってくるとか、電話するとか、もしかしたらご家族にも20年ぶりに会えたりしたんじゃないかって……」
会うも何も、私は克夫さんに妹がいることさえ知らなかった。
克夫さんからも聞かされていないし、お義父さんもお義母さんも何も言わない。
結婚して、家まで改築してくれて、家族として迎えられているのに、夫に妹がいることを同僚から聞かされたことに真巳子はショックを覚えた。
それに私は千鶴さんのことを知らなかったけど、千鶴さんは私のことを知っていたことになる。
根子町に引っ越してきてからなんとなく感じていた違和感が私の体を包み込んだ。
この町の人たちは私たち家族のことを知りすぎている。
真巳子は、引っ越してきてすぐに、
「乾さんのところのお嫁さんだ」
「克夫さんの結婚相手と連れ子が来たぞ」と、
町の人たちに好奇の目を向けられていたことを思い出した。
いくら小さな町で、
お義父さんが長年、町議を務めてきたからといっても、
自分のことを知られすぎているというのは、
気持ちが良いものではない。
すごく前向きに「乾家の皆さんは私と克夫さんの結婚がよほど嬉しくて町中に話してまわったのかしら」と考えてみても、気持ちはすっきりしなかった。
俯いて一点を見つめている真巳子に向かって、
由紀が心配そうに声をかける。
「真巳子先生に千鶴の存在を知らせてないってことはさ、乾家にも何か考えがあってのことじゃないの?それに千鶴はこの町の人たちを避けて私に連絡をしてきてるぐらいだから、みんなが黙っているのなら、真巳子先生も千鶴が東京にいることは誰にも言わないであげて」
真巳子はぼんやりしながら、
「わかった」と気のない返事をした。
そこでチャイムが鳴った。
授業を終えた教師たちが次々と職員室に帰ってくる。
次の時間は授業が入っている。
由紀とは
「またあとで」と言い合って、席を立った。
授業予定の教室に少し早く着いたため、真巳子は廊下から教室の中を覗いてみた。冷房が入っているので休み時間でも扉は閉めっぱなしだ。
内容までは聞こえてこないが生徒たちが笑いあっている姿が見える。
4月からこの学校で働きだして、最初はおとなしい生徒たちだなと思っていたけど、7月に入ったあたりから皆が急に明るくなって会話が増えた。
それはとても嬉しいことなのだが、少しソワソワし過ぎでは?と思うくらいに皆、浮き足だっている。
何が原因で急に活気が出てきたのかを考えていると、
「先生、入らないんですか?」と声がした。
声がした方を見ると、男子生徒が2人立っている。1人がにこやかに扉を開けて、
「どうぞ、どうぞ」と、教室の中へと誘ってくれた。
「あ、ありがとう。なんだか最近みんな楽しそうね。何かあるの?」
疑問をそのままぶつけてみる。
「ああ……お祭りが近いからですね」
生徒たちは互いの顔を確認しあいながらそう言った。皆が頷いているので間違いではなさそうだ。
「毎年、8月の盆のあたりにあるんです。根子神社の根子例祭!」
扉を開けてくれた男子が元気に説明してくれる。
「4年前はすごくおいしい牛肉が振る舞われたんですよ。祭りは夜中に終わってたから、朝起きたら牛肉が配られて」
「覚えてる!一昨年は朝から祭りに行った人だけ、うさぎの肉を食べられたって聞いたよ」
「俺!牛もうさぎも食べた!」
生徒たちの根子例祭情報が止まらない。
祭りの話をしだしたと思ったら、すぐに肉の話になったことに中学生らしさを感じる。
根子神社の根子例祭……。
あの、引っ越してきた日に行った海沿いの神社か。
真巳子は境内に生魚が散乱した、小さな神社に漂う匂いを思い出していた。
それと共に、ここのところ更に義父の元への客人が増えたこと、義父が「話し合いがある」と言って頻繁に出かけていたことに合点がいった。
すべて根子例祭関連の用事なのだろう。
「根子神社の中でお祭りがあるの?お店が出たりする?お神輿みたいなのとか、練り歩いたりとか、そういう神事があるの?」
真巳子は生徒たちの「牛肉」や「うさぎ肉」が振舞われたとの話から、盛大な祭りの後に特別な夜店やキッチンカーのようなものが出店されるのかと思った。
生徒たちはキョトンとして、顔を見合わせる。
首をひねっている者もいる。
「いやぁ〜、これと言って……。ただ毎年、おねこさまに感謝して、肉を食べるよなぁ」
「時間も毎年変わるしね」
「今年は朝の9時からだってお父さんに聞いたよ」
「昨年は7時からだったよね」
おねこさまに感謝して、肉を食べるだけ?
開始時間も毎年変わる?
「ねえ、お肉って毎年食べれるの?一昨年がうさぎで、昨年は?昨年は何の肉を食べたの?」
生徒たちが不安そうに顔を見合わせる。
私、何かいけないことを聞いてしまったんだろうか。
「あの……、先生、例祭ではお肉が出る年と出ない年があって。昨年は出ない年でした。親から聞いた話だと、食べられる肉の年だけ、肉が出るんです」
「食べられる年?」
真巳子は混乱した。
その祭りは一体何なのか。
おねこさまに感謝して、肉が食べられる年と食べられない年があって、
開催時間も毎年違う。
そのうえ生徒たちは例祭に向けてどんどん元気になっていく。
「肉を食べたら終わり?食べられない年は?」
「食べられない年も大人がなんとかしてくれて……それでみんなで『これで今年も大丈夫。おねこさまよろしくお願いします。いつもありがとうございます』って、言うよね?」
学級委員をしている女の子がそう言うと、皆コクリと頷いた。
そんな祭りがあるものか。
しかし古くから伝わる、それも生徒たちがこんなに楽しみにしている地域の行事に新参者がとやかく言うわけにはいかない。
真巳子は「ありがとう」とだけ伝えて、例祭の話を切り上げた。
だが、授業中もずっと、真巳子の頭の中は根子例祭と克夫の妹のことでいっぱいになっていた。
**********
帰宅後、どうしても千鶴のことが気になった真巳子は義母の乾恭子に千鶴の話を切り出した。
キッチンに立っている義母の背中はいつも寂しげだった。
美しいが覇気がない。
直情型の義父とは正反対の、消え入りそうな雰囲気を持っていた。
話しても何も答えてくれなかったらどうしよう。
そう思ったが、夫の克夫に聞くのもなんだか怖い。
恭子に話すことが一番な気がしたのだ。
「お義母さん、町の人から克夫さんに妹がいるって聞いたのですが本当ですか?」
由紀の名前を出してはいけないと思い、町の人から聞いたことにする。
普段から乾家の事情に詳しい町の人たちだ。それなら恭子も不思議に思わないだろう。
「千鶴さんっておっしゃるんですよね?」
千鶴の名前を出した途端、恭子が、ハッと顔をあげた。
そのまま私を見る。
恭子はあきらかにうろたえていた。
上げた顔をもう一度下げて「この村の人たちはおしゃべりね」と、静かに笑った。
「ええ。千鶴という娘がいます。克夫の妹で、元気でいるのなら今38かしら。18の時にいなくなっちゃったのよ」
由紀から聞いた話と一致した。
義母は嘘をついていない。
「高校3年生のね、おねこさまのお祭りの後に。私たちはお祭りの片づけとかいろいろ、てんやわんやしていたから、具体的に千鶴が何時に出ていったのかわからないんだけど。帰宅して、千鶴を呼んでも返事がなくて。部屋に探しに行ったら『家族のことも、この町のことも信じられなくなりました』って書き置きがあったわ。それっきりよ」
真巳子は信じられない思いで義母の話を聞いていた。
義母の手が微かに震えている。
「探さなかったんですか?千鶴さんのこと」
探したに決まってると思ったが、つい責めるような口調で義母にそう尋ねてしまった。
「夫からはね、放っておけと言われたけど私はやっぱり心配で。でも、こんな田舎に住んでいて、私一人じゃ手だてもなくて。それに千鶴が自ら出て行ったのだから、もうそのままにしておこうってあきらめたの。だってあの子はね、家族のことを信じられなくなって出て行ったのだから。見つけたところでもうこの家には戻ってこないでしょう」
高校3年の8月のことだったから、義父は町の人たちに「千鶴は留学した」と説明した。その後は海外で結婚したことになっている。
「だからね、千鶴がいなくなって20年経つけど、町の人たちは何も言わない。彼女が外国で幸せに暮らしているからだって。そういうことになっているから」
義母は薄く笑いながらそう言った。
同じ娘を持つ身として、真巳子は義母の話が信じられなかった。
そこに嘘偽りはないにしても、そんなことあるだろうか。
そんなに簡単にいなくなった娘をあきらめることができるだろうか。
真巳子がそう考えていることを見透かしたように、恭子は真巳子を真っすぐに見つめこう言った。
「亜巳ちゃんも我慢してるわよ。見て見ぬふりをしているうちにいつかいなくなっちゃうんだから。真巳子さん、あなたも気をつけなさい」
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