ごきげんとり 第2話
○ 2025年4月
私は乾亜巳、小学6年生。
この春から、ここ、根子町に引っ越してきた。
ママが「いぬいかつお」という男の人と結婚して、
私は「いぬいあみ」になった。
このたび初めて、
かわく、と書いて、
いぬい、と読むことを知った。
知らなかった読み方の漢字が自分の名字になるなんて変な気分。
ママは私にかつおさんのことを
「お父さん」もしくは「パパ」と呼んでほしいみたいで、何度も「そう呼んだっていいのよ」と言ってくるけど、
私はそのどちらの呼び方もしたくない。と、いうより、突然現れた人を「お父さん」なんて呼べないから、
普通に「かつおさん」と呼んでいる。
ママが結婚して、かつおさんの実家に行くことになったと聞いた時は、
正直、
(マジで?やばいな)
と思った。
ママがパパと離婚して、2人だけの生活になって、
そりゃあ寂しいこともあったけど、私は放課後に「1人の時間」がもてることを結構気に入っていたし、この生活がこれから先もずっと続いていくものだと思っていた。
ママも大変だから彼氏くらい作ってもいいけど、いきなり結婚しちゃうんだもん。
びっくりした。
だってママは「男運」が悪い。
パパも悪い男だったと聞くし(ママが言ってた)
「ママは男を見る目がないのかも!もう結婚なんてこりごりよ」なーんて言ってたのにさっさと年下の男の人と再婚しちゃってさ。
私は正直に言うと「いぬいかつお」のことを怪しんでいる。
だって、あんなにモテそうな男の人がわざわざ子持ちの年上の女性と結婚するだろうか。
それをちらっとママに話したら、
「ね、夢みたいな話よね。奇跡よね」
と言って笑っていた。
ダメだ。
「幸せボケ」って、多分ママみたいなことをいうんだろうな。
それに、はじめのうちは「入籍した」と言っても何も変わらなかった。
かつおさんが2週間に1度、3時間かけてママに会いに来るぐらいで、
その時に「こんにちは」って愛想良くしていたら、ママも嬉しそうだったし、
かつおさんもニコッと笑ってくれた。
3人でどこかへ遊びに行くこともなく、
ママが料理を作って振る舞ったり、2人でちょっとお散歩してくると言って出ていくから、私は留守番をしながら待っていた。
正式な手続き上のことはわからないけれど、名字もそのまま「白川真巳子」の娘の「白川亜巳」で過ごすことができていた。
「入籍した」といっても、生活が変わらないなら、まあ、いっか!と思っていた。
なのに……。
「入籍した」から1年後の引っ越し。
6年生で転校なんて勘弁してほしかったよ。
修学旅行は前の学校のみんなと行きたかったのに。
でも、幸せそうなママの姿を見ていたらとてもそんなことは言えなくて、
「かつおさんの名字になるんだね。これでいぬいって読むのか~」とか、
「新しいお家に引っ越せるなんてラッキー」とか、
「新しいおじいちゃんとおばあちゃんは遊んでくれるかな」とか、
やたら嬉しそうな演技をしてしまった。
その結果が今。
反省してる。
もっと、駄々をこねるなりなんなりしておけばよかった。
せめて、私がいろいろ我慢していることをママにわかってもらいたい。
でも、ママの顔を見ちゃうと言えないんだよね。
新しい家は大きかった。
私とママが引っ越してくるから、建て替えたのだとおじいちゃんが言っていた。
おばあちゃんはタイミングが良かった、と言っていた。
気を遣ってくれたのだろう。
かつおさんのことは「お父さん」とは呼べないけれど、かつおさんのお父さんとお母さんのことは「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼べる。不思議。
世の中のおじいちゃんとおばあちゃんは、血が繋がっていてもいなくても、みんなおじいちゃんでおばあちゃんなんだ。
新しい家には私の部屋があって、それはすっごく嬉しかったんだけど、
家の周りには何もない。
いや、家はある。
ただ、お隣さんが遠い。どの家にも庭があるから遠く感じるのか。
お店も車で行けばあるけれど、何もかもが少しずつ遠いのだ。
それに近所の人がしょっちゅう家にやってきて、そのたびに自己紹介とか挨拶とかをしないといけないから疲れた。
もう面倒。
ママと住んでいたアパートは、お隣さんは壁1枚挟んだだけのお隣さんだったし、会えば挨拶をするくらいで、家にやってくることなんてなかったから。
夜も真っ暗だ。
前の家は夜が眩しいくらいに明るくて、外もうるさかった。
明るくてうるさいから、1人で家にいても何も寂しくなかった。
それに慣れっこになっていたから、
根子町のこの静けさが奇妙に感じられた。
「田舎の空は星が見えて良いわねぇ」なんてママに言われて、最初の夜こそテンションが上がったが、もうちっとも嬉しくない。
この静かで真っ暗な夜が怖い。
○ 2025年6月
引っ越してきて2ヶ月。
クラスに友だちができた。
私が通う小学校は1学年1クラスの小さな学校だ。
ずっとこの根子町に住んでいる人が多いみたいで、みんな一緒に中学校に上がる。
私立を受験する人がいないのだと聞いて驚いたけれど、そもそもここから通えるような私立がないのだと知り納得した。
前にいた学校はここに比べれば大きかったから、同級生でも名前も顔も知らないって人がいたけれど、
今は私以外のみんなが小さい頃からお互いのことをよく知っている。
町のことも友だちのことも何も知らずに入ってきたものだから、
疎外感ハンパない。
そんな中でも何人かとは、一緒に帰ったり喋ったりできるようになった。
修学旅行が近いからね、まぁまぁセーフ。
最初はみんな私に興味津々で、
「いぬいさんのところに引っ越してきたんでしょー?」とか、
「かつおさんといぬいさんのお母さんが結婚したんだって、親に聞いたー」とか、
「いぬいさんのお母さんって、かつおさんより年上なんでしょー?」とか、
「いぬいさん」になりたての私に、
「いぬいさん」がいっぱい出てくる話をしてくるからちょっと面白かった。
面白いなぁとは思いつつ、
各々の家で親に吹き込まれた情報を私に直接伝えてくるものだから、
(もしかして、都会から引っ越してきた転校生をいじめる、みたいなやつが始まるのかな?)とドキドキしたけど、
別に何も偽情報はなかったので素直に「そうだよ」と返していたら、
それで皆の転校生への興味が落ちついたようだった。
おじいちゃん、おばあちゃんのことを見ていても、
学校の先生や友だちを見ていても、
この町の人たちは皆、穏やか、というよりも、
静かで、
まるで「はしゃいではいけません」と禁じられているかのような雰囲気が町全体に漂っていた。
そういえば今週、学校からの帰り道で猫同士のケンカに遭遇した。
私はあまり猫に詳しくないから、もしかしたらケンカじゃないのかもしれないけど、
シャーシャー言い合っていて、
静かな町の夕方にその鳴き声が響き渡っていた。
私がちょっとたじろぐと、
一緒に帰っていた友だちの紗代ちゃんがポケットから何やら取り出した。
「えっ?それ、なに?」
「魚。おねこさまの好物。おねこさまが荒ぶっている時にはこれでご機嫌とりをするの」
紗代ちゃんは、
何かの儀式のようにポケットから出した小魚を持って道の端まで行き、しゃがんだ。
小魚を置いて、ぶつぶつと何かを唱えた後、すくっと立ち上がって黙って歩き出した。
私は慌てて紗代ちゃんの背中を追った。
「ねぇ、ねぇ!魚をいつもポケットに入れてるの?」
「入れてるよ。亜巳ちゃんは入れてないの?いぬいさんのおじいちゃんに習わなかった?」
「入れてない!習ってない!」
「じゃあさ、これからは入れておいた方がいいよ。いつおねこさまが怒っても良いように。いつでも出せるところにお魚とかチーズとか、おねこさまの好きなものを」
おねこさま……
「怒らせちゃうと大変だから。うちのお兄ちゃんね、おねこさまを怒らせて、いなくなっちゃったから」
「……え?」
亜巳は驚いて紗代を見た。
沙代は何でもないことを話すかのように
「魚っていっても、ほら、これ、いりこだから。生のやつじゃないから。大丈夫よ」
「へぇ……。生じゃないやつ」
私は根子町に引っ越してきた日の夕方、
おじいちゃんに連れられて、
「おねこさま」に引っ越しの報告をしに行った時のことを思い出していた。
正直、こんなに疲れているのにわざわざ当日に行かなくてもよくない?
と思ったけど、
おじいちゃんの様子が「本気」だったから、ちょっとだけ怖くなってついて行った。
海の近くの小さな神社。
おじいちゃんはそこを「おねこさま」と呼んだ。
夕方のオレンジ色になった境内で、
海の近くだからこういう磯の香りがするのかなと思っていたら、階段を上がりきった所や鳥居の足元に生の魚が置いてあってビックリしたのを覚えている。
魚の存在に気づくと、磯の香りだと思っていたものが急に生臭く感じられて、なんだかとても気持ちが悪くなった。
ママのことを見たら、ママも私のことを見つめ返してくれて、2人でぎゅっと手を握り合った。
おじいちゃんは何も気にしていない様子で、
「おねこさま」に私たちのことを報告してくれた。
「克夫が乾の家に連れてきてくれました。真巳子と亜巳です。おねこさま、どうぞよろしくお願いいたします」
私もママも、おじいちゃんに続けて「よろしくお願いします」と頭をさげた。
そこにサッと風が吹いて、
また魚の匂いがした。
本殿の横の草場が揺れる。
気づけば、あちこちに生魚の残骸が落ちている。
それを見たおじいちゃんが
「真巳子さんと亜巳ちゃんを気に入ってくれたみたいだな」と満足そうに笑った。
**********
紗代ちゃんに小魚のことを教えてもらった夜、私は興奮していた。
普段は静かな5人の食卓で、初めて私から話し始めた。
「今日ね、猫がケンカしてるところに通りかかったの。そしたらお友だちがポケットからいりこを出して、道に置いたの」
おじいちゃんもおばあちゃんも聞こえているはずなのに黙っている。
最初に反応してくれたのはママだった。
「いりこ?ポケットから?給食で出たやつをとっておいたのかしら。よく出るわよね、小魚とアーモンドのおつまみみたいなの。ママ、あれ好きだったわ~」
「私もあれ好きだけど、給食に出たやつじゃなくてね、家から持ってきたものをポケットに入れてるみたいなの」
そこでようやくおじいちゃんが口を開く。
「克夫、お前まだ真巳子さんと亜巳ちゃんにおねこさまの好物のこと話してなかったんか」
おじいちゃんは少し怒っている様子だ。
おばあちゃんは知らん顔をしてお味噌汁をすすっている。
変な空気にしてしまった。
克夫さんが笑いながら、
「ごめんごめん。まだ教えてなかったかな。この村ではおねこさまを大事にしているんだ。だから、猫の好物を持ち歩いて、もし怒ってる猫や荒れた猫を見かけたら、それを出すようにしてるんだよ」
克夫さんがこの辺のことを「村」と呼んだ。今は「根子町」だけど、きっと何十年か前までは村だったんだろうなと想像する。
「私てっきり、おねこさまというのは根子神社のことを言ってるのだと思ってました。猫のこともおねこさまって言うんですね」
ママがそう言うと、
おじいちゃんはますます機嫌が悪くなった。
するとそれまで黙っていたおばあちゃんが
「根子神社の守り神は猫だから。どちらも同じ、おねこさまなんよ」と言って、
「亜巳ちゃんが持ち歩く用に小魚を準備してあげましょうかね」と席を立った。
この町の人たちが猫好きなことには、うすうす気づいていた。そもそも犬を見かけない。
だけど、いくら好きでも猫を怒らせないようにと、ごきげんとりの為に町民みんなが好物を持ち歩くなんて……。
その時、紗代ちゃんの、
〈怒らせちゃうと大変だから。うちのお兄ちゃんね、おねこさまを怒らせて、いなくなっちゃったから〉
という言葉を思い出した。
ここで話してはいけない気がする。
でも、このもやもやとした気持ちをどうにかしたかった。明るくなら話しても良いような気がした。
「お友だちのお兄ちゃんがね、おねこさまを怒らせていなくなったって言ってたんだけど」
私はおそるおそるおじいちゃんを見る。
かつおさんもおじいちゃんを見た。
おじいちゃんはうっすらとした笑顔で、
「ああ、亜巳ちゃんのお友だちいうんは紗代ちゃんのことやろう。紗代ちゃんのお兄ちゃんの壱申くんやな」
と言った。
どうしておじいちゃんは紗代ちゃんのことを知ってるんだろう。私がそんなことを考えていると、
「壱申くんはおねこさまを怒らせたからいなくなりおった。ばちがあたったんよ」
おじいちゃんは私とママを交互に見ながらニカッと笑った。
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