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人魚な王子

誰かを好きになるってことを、教えてくれたのは君だった

第1章

 
 いつもの散歩ルートだった。冬特有の強く冷たい風は今日は穏やかで、曇り空の下でもさほど体は冷えてこない。
ゴツゴツした岩の合間は流れも少なく、数日続いた晴天で温まった海水に漬かっている方が、体を外に出すより楽だった。
岩礁に囲まれたこの小さな砂浜は、季節に関係なく多くの人間が訪れる。
人目につきにくい浅瀬の波打ち際にぷかぷか浮かんで、僕は水面に目から上だけを出し、岩陰からこっそり彼らの様子を見ていた。
珊瑚の枝みたいに細い足でちょこまか動く人間の群れは、何時間でも飽きずに見ていられる。

 人間なんて、人魚を惑わすロクでもない生き物なんだから、あんなのに関わっちゃだめ。
見つかったら捕まって殺される。
陸に上げられた人魚は、誰も海へ戻ってなんて来ない、来られない。
だから決して、彼らと目を合わせてはいけないよ。
二度と海へは戻って来られなくなるんだから……なんて、同じ人魚仲間から散々言い聞かせられている。
もういい加減、そんな危険な遊びはやめなさいって、どれだけ言われたか分からない。
だけど、誰もその人間としゃべったことがないんだから、笑っちゃうよね。
僕は、僕たちと似たような格好をして、陸上で動く彼らが不思議でたまらなかったんだ。
人間って、海の中じゃ生きられないんだって。
僕らは少しなら陸に上がれるのに、人間は少しも水の中にはいられないんだって。ヘンだよね。

 その日は同じ模様の服を着た人間の群れが、朝の早い時間からやって来ていた。
いつもここを住処にしている人間たちじゃない。
初めてみるような若い群れだ。
そういうのも、時々やって来る。
すぐに折れてしまいそうなほど細長い銀色をしたの伊勢エビの触覚みたいなハサミで、波打ち際に落ちている透明なくしゃくしゃしたものや、白くて浮かぶ容れ物、薄く伸ばして筒状にした金属の塊なんかを拾い集めている。
人間って、こういうことするの好きだよね。
いつも沢山置いていくくせに、拾い集めるのも大好きだ。
だったら置いていかなきゃいいのになぁとか思いつつも、それがきっと習性なんだろうなとは、頭で理解しているつもり。
貝殻とか珊瑚の欠片なんかには興味がなくて、人間は人間の作ったモノだけを広い集める。
そういうのは、海にもいっぱい流れてくるから、僕も知ってる。
見たことある。
置いて行く人間と集める人間とは違う人間だから、きっとそれを拾う人間は、何かの役に立てるつもりなんだろう。
ポケットに入れて持って帰って、人間の巣に飾るとか? 
そんなことが楽しいと思えるのなら、僕もだって一度くらいなら、彼らと一緒にやってみてもいいんじゃないかなーとは思っている。

 その紅藻みたいな色をして、お揃いの服を着た人間の女の子が2人、群れから離れて僕の隠れている岩場のすぐ近くまでやって来た。
黄色い長い髪の女の子と、僕と同じように短くてくるくるした黒髪に黒い目の女の子。
僕が自分で決めている、ここまで人間が近づいたら逃げようと思っていたラインを、彼女たちはあっさり越えてきた。
大変だ。
見つかる前に逃げ出さないと。
僕は水音を立てないよう、こそっと海に身を潜める。
今日の、ここでの人間観察はおしまい。
お腹も空いてきたし、なにかお魚でも捕ってこよう。
いや、やっぱり海老の方がいいかな~なんて、そんなことを思いながら、僕がその岩場を離れた時だった。

 ドボーン!! 突然の水音に、驚いて振り返る。
さっきまで陸にいた黄色い長い髪の女の子が、岩場から海に落ちてきた。
足から落ちた彼女は、バタバタと狂ったように暴れ出す。
え? どうしよう。
このままここにいたら見つかっちゃう。
急いでこの場を離れなきゃ。
僕は自慢の大きな尾ひれでのキックを繰り出すため、鱗で覆われた半身を曲げる。

 ドボーン!! 逃げだそうと思った直前、また続けて同じ水音が聞こえた。
今度は黒髪の女の子だ。
両手を真っ直ぐに前に伸ばし、紅藻みたいな服を胸びれのようにヒラヒラさせ、その腕を後ろへ押し出し水を掻く。
黄色い長い髪の子とは違う。
人魚のようにスゥーっと水中を進んでくる。
彼女は僕に気づくことなく、先に落ちた黄色い髪の女の子の腕を掴んだ。
人間の泳ぐところは……。
正直、見たことあるけど、こんな近くで見たのは初めてだ。
最初に飛び込んで来た子は、あんまり泳ぐのは得意ではないみたい。
だけど後から来た黒髪の女の子は、まるで人魚のように泳ぎがきれいだった。
ヘンな皮みたいな服というものを身に纏っていながらも、スッとしたひとかきで迷うことなく水中を進む。
魚のようにぐるりと黄色い髪の女の子のまわりを一周すると、パニックになっている彼女の体をしっかりと抱きかかえ、水面に押し上げた。
おかげで、最初に落ちた女の子は、僕がいた岩にしがみつくことができた。
だけど……。

 人間は、水中では息が続かないって、本当なんだな。
こんなにも呼吸がもたないんじゃ、ちっとも泳いでなんかいられないじゃないか。
ウミスズメだって、もっと潜っていられるよ? 
後から海に飛び込んだ黒髪の女の子は、すうーっと静かに、ゆっくりと水中に沈んでゆく。
そのまま海底の砂の上に横たわり、動かなくなってしまった。
そりゃこんな邪魔そうな皮を、自分の本当の皮の上にも被ってるんだもん。
動きにくいよね。
水を吸うと重たくもなるし。
僕はその紅藻色の皮を、好奇心からちょっとだけ触ってみる。
ざらざらしたヘンな肌触りだ。
ちっとも泳ぐのに向いていない。
岩にしがみついている女の子が、仲間に向かって何かを叫び始めた。
まずい。
すぐにここを離れないと、大勢の仲間がやってくる。
だから僕は、見つかる前に逃げないと。
だけど……。

 浅い海の、水底に沈んでいる彼女を見下ろす。
くるくる巻いた短い黒髪が、ゆらりと波に揺れた。
僕の尾びれの巻き上げた砂が、彼女の頬にかかる。
その瞬間、僕は彼女の人魚のような、すっとした腕のひとかきを思い出した。

「……。助けなきゃ」

 この子はきっと、人魚から人間になった子だ。
きっとそうだ。
だってあんなにも上手に泳いでいたんだもの。
もしかしたら、かつて海から上がった人魚の子孫とかかもしれない。
気がつけば僕は、彼女を抱え、水中を猛スピードで進んでいた。
生きている人間に、直接触ったのなんて初めてだ。
なんて柔らかく温かい体なんだろう。
海に住む生き物とは大違いだ。
どこに置いておけばいい? 
同じ群れの仲間のところ? 
だけどそれじゃ僕が見つかっちゃう。
そうだ。
この浜の向こうに、岩に囲まれた砂場がある。
そこならきっと、群れの仲間もすぐに気づくだろう。
今は満潮から引き潮に変わったばかり。
あそこなら僕でも、この人間を浜にあげてから、すぐに海に戻れる。
急がないと、僕も彼女も、どっちも危ない。

 小さな湾を横切り、勢いをつけて浜に飛び上がる。
なんだって人間は、こんな厄介で動きにくい陸なんてところに住んでいるんだろう。
水から上がったとたん、自分の体以上に彼女の体が重くなる。
飛び上がるように浜に上がったせいで、砂浜といえそこにこすりつけ、彼女の顔に傷をつけてしまった。
白いこめかみから、赤い血を滲ませている。
あぁ、ごめんね。
痛いよね。
ごめんなさい。
そうだ。
人間は僕たちみたいに、固い鱗で覆われていないから、傷つきやすいんだった。
本当はちゃんと謝りたいけど、僕ももう行かなくちゃ。

 彼女を浜に打ち上げると、濡れた砂の上で腕をつっぱり、大きな尾ヒレをくねらせてずるずると海中に戻る。
他の人間に見つからなかったかな。
大丈夫だったかな。
だけどこの子は、すぐに見つかりますように。

 水中に体の半分が戻ったところで、彼女の2本しかない細い足から、黒い何かがポロリと剥がれ落ちた。
もう一方の足の先にも、同じ殻みたいなのがついている。
これは大切なものなんだろうか。
僕は波に運ばれようとするそれを捕まえると、彼女の足に戻す。
これでもう大丈夫なはずだ。
とにかく僕だって逃げないと。
打ち寄せる波に身を潜める。
水の力を借りて、すぐにその場を離れた。

 安全な沖にまで出て、ようやく一息つく。
もしかしたらあの子は、むかし陸に上がった人魚だったのかもしれない。
だって僕とそっくりだったもの。
多分きっと、もうずっと昔にこの海から上がり、陸で生きる決意をした人魚だったに違いないんだ。

 それ以来どうしても、黒髪のくるくるした彼女の姿が忘れられなくて、触れた温かな体温と柔らかい肌の感触がいつまでも腕に残っていて、仲間に頼み、無理を言って人間にしてもらった。
海に沈んでゆく白い横顔に、きっと恋をしたんだと思う。
僕は今日、その大切な彼女に会いに行く。
人魚から、本当の人間になるために。


第2章


 二月になったある日、僕は決められた服を着て、教えられた場所へ向かった。
人間の中には人魚と仲良くしてるのもいて、その人たちの助けで色々と用意してもらえた。
住むとことか、お金とか。
だけどそれは大事な秘密だから、ここでは内緒。

 人間ってのは、自分の皮の上に、この「服」という名前の衣装を着けていなくちゃならないんだって。
ほら、ヤドカニたちが自分の殻に海藻をくっつけて着飾るみたいにさ。
人間はそれにちょっとしたルールがあって、なにを着けるかでその人の今の状態とか役割、立場を表してるんだって。
だから人間は、その時々に応じて服という名の皮を変えてるんだって。
人は服を見て相手の状態を判断する。
見たらその人がどんな人か分かるようになってるから、ちゃんと服は着ないといけないらしい。
下着とか靴下とか、色々沢山つけなきゃいけないから、とっても面倒くさい。
そういえばウミガメのおじいちゃんも、甲羅にイソギンチャクいっぱい付けてたよね。
嬉しそうに拾ってきた貝をのっけてたくせに、突然怒りだして、急に「取ってくれ」とか言ってきてたけど。
きっと人間もそんなものなんだろうと思う。

 2本の足で歩くのにも慣れた。
人間の足は柔らかすぎるから、先端を覆う靴を履くんだって。
最初はそれがあると歩きにくくて嫌だったけど、確かに裸足で外を歩くのには、この作りは向いてない。
しばらく練習してたら、靴にも慣れた。
海にいた頃は、水の外に出ると体が重くて仕方がなかったけど、まぁ僕たちだって岩場に上がって日光浴とかはしてたから、そこは案外平気。
ちょっと不便。

 僕は人間になって、とにかく最初は体が熱くてたまらなかったけど、それでも夏に比べたら冬の方がいいよって言われたから、夏になったらどうなっちゃうんだろう。
それでもようやく体の熱さにも慣れ、外の空気が寒いと感じられるようになってきた。
人間は鱗がない代わりに、この服という布で体を守り、体温の調節もするらしい。
便利なのか不便なのか、まだよく分からない。

 僕は制服っていう、曇り空みたいな色の上着を着て、やっぱり決められた鞄を持ち、靴を履いて外に出た。
この制服と靴と鞄を持っていれば、ちゃんと人間扱いされるんだって。
便利なアイテムなんだって。
僕には最初、どうしてもそれが信じられなかったけど、制服を着て少し外を歩いてみたら、本当に大丈夫だった。
誰も僕が人魚だと思ってないみたい。
平気だ。
海の仲間から教えてもらった通りにちゃんとやれば、大丈夫。
問題ない。
僕はそう確信した。

 決められた日と時間に学校という場所に着いたら、職員室に行けと言われている。
人間の暮らしってやつは、色々と決まりがある。
あとはそこで、先生って呼ばれてる人の、言う通りにすればいいんだって。
黙って大人しくしていれば、絶対に人魚だってバレないんだって。

 陸の上を靴を履いて歩くのは、海の中を泳ぐのとは全然違って、とっても新鮮な感覚だった。
水と違ってフワフワしていて、自分の体が軽くなったのか重くなっているのかもよく分からない。
周囲には沢山の人や動物がいて、空にはあまり見たことのない鳥が飛んでいて、時々海に流れてくる本や、人魚づてに話しでしか知らなかった桜の花の、本物に咲いているところを生まれて初めて見た。
何もかもが初めて見るものや聞く音ばかりで、臭いなんかも全然違ってて、この世界も案外にぎやかで綺麗なところだったんだなって、そう思った。

「君が転校生? 随分薄着だね。寒くないの? 帰国子女だって? 」

 案内された部屋で待っていると、担任っていう名前の先生がやってきて、僕にそう言った。

「はい、そうです。寒くはないです」
「そう。分からないことがあったら、なんでも聞いてね」
「はい!」

 いよいよ人間生活の始まりだ。
手に入れたばかりの新しい心臓が、ドキドキと高鳴る。
見るもの全てが新鮮で不思議なものばかりだった。
高校という場所に作られた、大きな建物の中を歩く。
人間ってのは、こんなにも大きくてまっすぐなものを、上手く作るもんなんだな。
廊下って呼ばれてる、不思議な洞窟を通るのも初めてだ。
だけどここはちょっと、どこもかしこも真っ直ぐでつるつるしすぎだよね。
ごつごつした海の洞窟とは大違いだ。
人間ってのはきっと、こういう真っ直ぐでつるつるした感じが好きなんだろうな。
辺りをきょろきょろ見ながら歩いていたら、先生は突然扉の一つをガラリと開け、廊下の脇に規則正しく並ぶ四角い横穴に入っていく。
なんだろう。
あまりにもきれいに並びすぎているのも、どうかと思う。
それがちょっと怖くて、おどおどしながら僕も中に入ると、そこにはやっぱりちゃんと規則正しく並んだ人間が、沢山座っていた。
僕が足を踏み入れたとたん、彼らの視線が一斉に集まる。
びっしり並んだ、もうすぐ幼生の生まれてくる直前のイカの卵か、ゴンズイの群れみたいだ。

「あー、みんなに転入生を紹介する」

 僕の新しい肺が、息を止めた。
自分はいま本当に、人の姿をしてるかな? 
ちゃんと人間になれてんのかな。
ここにいる人たちから、アイツなんかヘンだぞって、思われてないかな。
僕の体にはもう、ヒレもなければウロコもない。
きっともう、今までのように海も上手に泳げない。
だけどここで生きていくって、決めたんだ。
もうあの暗い水底には、決して戻らない。

「宮野正輝です。よろしくお願いします」

 はやる胸の鼓動を押さえながら、教室の中をじっくりと見渡す。
ゴンズイの群れが、ようやく人の顔に見えてきた。
均等に並んだ机と、そこに大人しく座っている一人一人の顔を、ゆっくりと確認していく。
ちゃんと探さなくちゃ。
僕の希望。
僕の光り。
僕に生きる意味をくれた人。
立たされていた壇上から、一歩前に踏み出す。
みんな同じ服を着て、同じような格好をしているから、あんまり見分けがつかない。
微妙な顔の形と目鼻の位置、髪型だけが頼りだ。
並んだ机と人の隙間をゆっくり進む。
1人の女の子が、ごそごそと顔を上げた。
ちょっとクセのあるくるくるした短い黒髪と黒い目。
僕とそっくりな人間の女の子。

「あぁ、やっと会えたね。元気にしてた?」

 懐かしい彼女の顔が、こっちを見上げる。
間違いない、この人だ。
僕の運命の人。

「好きです。結婚してください」

 指先で彼女の前髪に触れ、頬に触れる。
体を曲げ、その唇にキスをしようとした瞬間、左頬に激痛が走った。

「痛ったぁーい! 何で叩くのさぁ!」
「当たり前でしょう!」

 真っ赤になった彼女が、ぷりぷりに怒っている。

「いきなりやって来て、なんなの?」

 教室にいた他の人間たちが、一斉に笑った。
僕は痛む頬を押さえる。
あぁ、そうだった。
彼女は僕のこと、覚えてないんだった。

「だって、キスしないとダメな仕組みなんだもん!」
「なにが? てゆーか、なんで!」

 痛い。酷い。
彼女を見つめる。
真実のキスを彼女としなければ、僕は本当の人間になることは出来ない。
僕が海から出た日から1年という期限を過ぎれば、僕は海の泡となって消える。
だけどそれは、彼女には絶対に言ってはいけない秘密。

「どうしてもなの!」

 もう一度彼女にキスしようとしたら、今度は体ごとドンと突き飛ばされた。
床に尻もちをつく。

「もう! なんで突き飛ばすのさ! やめてよ!」
「それはこっちのセリフ!」

 痛むおしりをなでながら立ち上がる。
このおしり、まだそんなに慣れてないのに。
もっと大切にしたかったのに。
泣きそうな僕に、教室の人間はみんな笑っている。
先生が言った。

「なんだよ、お前ら知り合いだったのか」
「はい。そうです」
「は? ぜんっぜん知りません! 全く見ず知らずの他人です!」

 なんだそれ。なんかめっちゃ悔しいし。
僕は痛む頬をおさえたまま、泣きそうな気分で彼女を見下ろす。

「なんでそんなこと言うの!」
「だって、そうなんだもん!」

 記憶がないって、本当に面倒くさい。

「じゃあ奏。おまえが面倒みてやれ」

 先生という人間が指示を出すと、本当にここの人たちは、それに従わなくてはならない仕組みらしい。
彼女はまだぷりぷり怒っていたけど、僕のことをあっさり引き受けた。

「名前、海野奏っていうんだ」
「あんたの席は、あそこだってよ」

 彼女が指さした窓ぎわに、誰も座っていない机と椅子が置いてあった。
僕はとてもうれしくなって、満足してそこに座る。
初めて人間の世界に用意された、自分の場所だ。
そこに腰を下ろすと、すぐに彼女に手を振る。
それなのに、冷たくプイと横顔を向けられた。
教室のみんなはずっと笑っていて、それでもみんなが僕を見て楽しそうにしてくれているから、よかった。
人魚だって、バレずに紛れ込むことに成功したみたい。

 学校というところは、自由に動いていい時間と、座って先生の話を聞かなければいけない時間とに分かれているらしい。
教科書という名の本をもらったから、ぱらぱらと中をのぞく。
文字は習ったけど、あんまり好きじゃない。
絵とか写真は、見るだけで分かるから好き。

 もし奏が僕を好きになってくれなくても、人魚に戻る方法はある。
海の魔女にもらった銀のナイフで彼女の心臓を突き刺し、それを食べればいいんだって。
だけどさぁ、そんな怖いこと出来る? 
もうちょっと他にいい方法はないのかって聞いてみたんだけど、それくらいと交換しなければいけない、強い魔法だから無理って言われた。
海底に住む魔女がかける魔法は、いつだって同じ価値のものと交換で成り立っている。
僕が人間になるために彼女に捧げたのは、あと300年は続くであろう僕の寿命。
どうせ人間になるんだから、そんなもの必要ない。
海の魔女たちは、そうやって誰かの願いを叶え寿命を奪うことで、永い時を生きている。
だけど僕はずいぶん前から、ただ永い時を生きることにうんざりしていた。
もう海の中に興味はない。
飽きた。
泡になって消えるってのは、そういうこと。
つまらない毎日に意味はない。
だったらたとえこれが最期に、好きなことをしてみたい。
僕は人間の世界を見てみたい。

 学校というのはじっと黙って座っていなきゃいけない時間の方が、好きに動いていい時間の方よりずっと長くて、退屈すぎた。
先生の話だってとんでもなく長いので、奏の隣の席の人に、場所を変わってくれって頼んだら、ダメだって言われる。
そんなことまで、ここでは自分たちで決められないらしい。
席も授業の時間も全部、先生が決めてるんだって。

 いつまでたっても授業ばっかりで何にも出来ないから、「これ、いつ終わるの?」って後ろの人に聞いたら、途中に長い休みがあることを教えてくれた。
昼休みって言うんだって。
やっと来たその昼休みも、別に思ったよりあんまり長くなかったけど。
僕がぶつぶつ文句を言っていたら、教室の壁に貼られた時間割というのを教えてくれた。
学校じゃみんなその通りにしてるんだって。
先生の決めた時間のルールに、みんなが大人しく全くその通りに従っているらしい。
仕方がない。
これが人間の世界だというのなら、僕もそれに従わないと。
だってもう人間なんだし? 
なかなか動かない時計の針を見ながら、ずっとため息をついていたら、なんだかまた笑われたけど、退屈なものは退屈なんだから仕方がない。
チャイムが鳴って、ようやく自由な時間が戻ってきた。
それを放課後と呼ぶらしい。
急に教室中も賑やかになった。

「奏!」

 急いで彼女に駆け寄る。

「ね、一緒に散歩に行こう。この辺りのこと、まだ全然知らないんだ。案内して。きみに色々教えてほしい」

 彼女の手をとる。
海から出て数日、ようやく会えたのに、今日はもう随分と時間を無駄にした。

「君の好きなものを教えてほしい。僕にはまだこの世界は、分からないことや知らないことだらけなんだ。僕は一番に、奏の好きなものを好きになりたい」

 海の中も綺麗だけど、陸の世界は海とは全く違う。
遠くから見ていただけだった、山の中にも行ってみたい。
建物の中や、乗り物にも乗ってみたい。
それになによりも、人間たちが、奏が住むこの街のことが知りたい。
奏と一緒に色んなものを見て、あれもこれもたくさんのことをやってみたい。

「悪いんだけどさぁ!」

 彼女はそんな僕の手を、乱暴に振り払う。

「私はこれから用事があるし、あなたにつき合う義務もないんだけど」
「どうして?」
「は? どうして?」

 どうやら彼女は怒っているらしい。
僕は今日一日、朝からこんなにもずっと我慢して、ずっとこの時を待っていたのに。
彼女の黒い目が、キッとまっすぐに僕をのぞきこむ。
くるくるした短い髪の先が揺れた。

「あのさぁ、あんたは私と初対面のくせに、随分なれなれしいよね。どうしてそんな絡んでくんの? 私が何かした? 全く身に覚えがないんだけど。こんなに懐かれる覚えもなければ、理由も分かんない」

 僕はぷりぷり怒っている彼女をじっと見下ろす。
奏は僕よりちょっと背が低い。
髪の色は同じで、海で見たときには青白いと思っていた顔は、思ったほど白くはなかった。
彼女は怒ってるけど、教室の他の人間はくすくす笑っている。
奏に溺れた記憶はあるんだろうけど、そもそも溺れてたんだから僕のことを覚えてないのは、仕方ないんだよね。
それに僕が人間になって陸に上がった時点で、記憶も消されてるし。
なんて説明すればいいんだろう。
秘密や隠し事って、本当に難しい。

「好きだから?」

 教室に爆笑の渦が巻き起こる。
彼女はまた顔を真っ赤にした。

「だから、なんで?」

 なんでって聞かれても、それしか答えようがない。
僕が人魚から人間になる魔法の、本当を教えることは出来ない。

「なんでだろ。恋は盲目? 一目惚れ?」

 そう言ったら、彼女は急に色々なものを乱暴に鞄に詰め始めた。
彼女が使っているのは、僕と同じ鞄だ。
それを見ただけでも、なんだかうれしくなってしまう。

「とにかく、私はあんたに全くなんの興味もなければ、知りたくもないから! そこんとこ勘違いしないでよね。じゃ!」
「え? 待って。どこ行くの?」
「あんたには関係ない!」

 奏は僕の持っているのと同じ鞄と、それとは違う大きな鞄を抱えて、教室を飛び出すように出て行く。
そうは言われても、僕だって彼女を放っておくわけにはいかない。
僕の鞄は……。
特に大事なものが入ってるわけでもないから、いっか。邪魔だし。僕は何もかもをそのまま教室に残して、彼女の後を追いかけた。


第3章


 奏の後を追って、まっすぐな廊下を走る。
この場所には教室という名の部屋が他にもたくさんあって、しかも同じ年齢の人間たちが大勢集まっていた。
若いイワシの群れみたいなもんだ。
そのイワシの群れが、放課後になって詰め込まれていた教室から一斉に解放される。
ようやく学校全体が、普通に自由に動き始める。
その人間の数は、海で暮らしている人魚たちと比べものにならない。
それぞれに小さな群れに分かれて、思い思いの場所で何かをしているようだった。
そうか。
ここは、若い群れで暮らす安全な縄張りみたいなものなんだ。

 廊下の窓の外に見える木々の、芽を出したばかりの小さな若葉が物珍しくて、本当はもっとゆっくり見ていたいのに、奏は廊下の角を曲がってしまった。

「待って。ねぇ待ってよ!」

 彼女を追いかけ、校舎の外へ出る。
その僕の目に、やっぱり真っ直ぐに四角く区切られた緑のフェンスと、大きな掘りに蓄えられた大量の汚い水が見えた。

「なにこれ」

 その風景に、思わず立ち止まる。

「なんでこんなところに、水の塊があるの?」
「水の塊? これはプールっていうのよ」
「プール?」

 フェンスに手をかける。
コンクリートの壁の中に作られたようなそれは、丁度目線くらいの位置で、灰色の空に緑の波紋を移す。
その汚れて濁りきった水は、ひどい悪臭を放っていた。
海の水とも川の水とも違う。
独特な雰囲気だ。

「プール、見たことないの?」
「ない」

 そう答えると、奏は意外にも僕に近寄ってきて、くすっと笑った。

「あんたさ、本当にずっと外国で暮らしてたの? 帰国子女とかいってたけど、プールが珍しい国とか」

 大好きな彼女が、僕の隣に並ぶ。

「ね。確かに今は汚いけど、もう少ししたら、みんなで掃除するの。そうしたら綺麗になって、ここで泳げるようになるのよ」
「泳げるの? ここで?」
「そう」

 こんな狭くて汚いところで、しかも人間と一緒に泳ぐなんて、考えられない。
てゆーか、人間はなんでこんなところで泳いでんの? 
てか、泳げるの? 
彼女の手が、僕の手を掛けた同じフェンスの、すぐ真横にかかる。
彼女の方から近づいてきてくれるなんて、思いもしなかった。
よかった。
奏は僕のこと、やっぱり好きみたい。
彼女の手に自分の手を重ねたら、速攻でガシャンと引き抜かれた。

「そういうの、やめて」
「なんで?」
「私はもう行くからね」

 奏の顔が真っ赤になっている。
彼女はどうも、照れやさんみたいだ。
再び駆け出した彼女は、すぐ目の前のプールの角を曲がっていく。
僕は迷わず、彼女を追いかける。

 そのプールの前で、制服とはまた違う感じだけど、同じ服を着た数人の人間たちが体を動かしていた。
この服は見たことがある。
奏を初めて見た時と同じ、紅藻色の服だ。
彼らは真っ直ぐに腕を伸ばしたり、足を伸ばしたり、人間としての体の全てを、まんべんなく動かして確認しているようだ。

「あー。やっぱ奏についてきちゃったんだ。このひ……」

 長い黄色い髪の女の子が、僕を見て何かを言いかけたけど、それをぐっと飲み込んだ。
彼女はじろじろと少し怯えたようにじっと視線だけで僕のことを見ながら、徐々に遠ざかっていく。
奏はコンクリートの壁にくっついた錆びかけの水色の扉を開けて、その中に入ろうとしていた。

「着替えてくるね」
「あ。僕も入る」

 彼女に続いてその中に入ろうとしたら、またドンと突き返される。
めちゃくちゃに怒られた。

「ここは女子更衣室!」

 もの凄い勢いで、扉を閉められちゃった。
結局一人で外に取り残されている。
ふと背中に感じる視線に振り返ると、そこにいた同じ紅藻色の人間たちが、じっとこっちを見ていた。
まぁ、見られたところで何も言うことも言いたいこともないから、別にいいんだけど。

 だけどさすがに、じっと見られているのは居心地悪くて、早く奏が出てこないかなーとか思いながら、少し脇へよける。
僕が人魚だって、もうバレたワケじゃないよね。
その人間の群れから、女の子の一人が近づいてきた。

「かっこい~! 帰国子女の転校生が来たって聞いたんだけど、そうなのかな?」
「ねぇ、どこの国に住んでたの? 日本は久しぶりとか?」
「中東とか、どっかそっち系の人とのハーフ? 顔の彫りが深いっていうか、めっちゃミステリアスな感じだよね」
「妖艶イケメン!」
「そう、それ!」

 女の子たちが僕を見て笑っている。ちょっと恥ずかしい。

「ねぇ、どこから来たの?」

「えぇ……っと……。遠い、海の向こうの……」

 よく分からないけど、よく分からない人間たちに囲まれて、よく分からない質問攻めにされている。
それにどう答えていいのか分からなくて、もぞもぞ誤魔化しているうちに、奏が隠れていた部屋から出てきた。

「みんなお待たせ! 時間だよ。さぁ始めよう!」

 彼女の言葉で、そこにいた人間の全てが動き出した。
二人で一組になると、熱心に同じ動きで体を動かし始める。

「何してるの?」
「筋トレよ」

 奏はそれだけを答えると、あとは知らんぷりだ。
僕は仕方なくそこにしゃがみ込んで、じっと彼女の様子を見ている。
奏も知らない女の子と一緒になって、ずっと体を動かしていた。
僕は退屈で仕方がなかったけど、奏がそうしているのだから仕方がない。
彼女が動けばそっちについていくし、座れば隣に腰掛ける。
邪魔って言われたら、ちゃんとそこから少し離れたところで彼女を見ていた。
奏は跳んだり走ったり、とにかく忙しそうだ。

 他にも何人か男と女がいて、なんとなく男女で分かれてるけど、大体同じことやってる。
じっと見ていたら、何だか大きなため息をついて、体を動かしていた人間の一人が僕に声をかけてきた。

「お前さぁ、見学なの?」
「けんがく?」
「入部希望だから、見てんじゃないの?」

 この人間の男は、とても背が高い。明るい茶色の髪と目が、サラサラしている。

「そうじゃないなら、邪魔だから出てってくんない?」
「僕は、奏を待ってるだけだから」
「かなでぇー!」

 突然その男は大きな声をあげると、僕の大切な奏の名前を呼びつけた。
彼女はぱっと顔を上げると、やっぱりその場で大きな声を出す。

「宮野くん。見学じゃないなら、帰って!」

 彼女が離れて見てろって言うから、遠くから離れて見ていたのに、奏までそんなことを言う。この男の子が邪魔するなら、僕は負けない。

「僕は奏の用事が終わるのを待ってるんだけど」
「はぁ? 知らねぇよ。見学か帰るかどっちかにしろ」
「じゃあ、けんがくする」
「あぁそう。どうでもいいけど、じゃあここに名前書いてくれる? 見学なら見学にまる、体験入部するなら、それも書いて」

 そう言われ、彼から紙とペンを渡される。

「入部する気がないなら、本気で邪魔だからどっか行って」

 そう言うと背の高い彼は、チッと舌打ちすると僕から切れ長の目を反らす。
黄色い長い髪の女の子が、慌てて駆け寄って来た。
彼女はその男の子の紅藻色の服の袖をぐいと引っ張る。

「ねぇ、ちょっと! いいの、そんなことして」
「仕方ねぇだろ。どうやって追い出すんだ?」
「だって!」

 なんだか2人で揉めているけど、彼らの言うことは間違っている。

「僕はここから動かないよ。追い出されもしないし、自分の意志でここにいる」

 そう言うと、黄色い長い髪の女の子は、茶色いサラサラした髪の男の子の後ろに隠れた。
彼は自分の髪と同じくらい茶色い目で僕に言う。

「あっそ。じゃあ、どうすんだよ。このままうちに入部する気?」
「これに名前を書けば、ずっとここにいていいの?」

 渡された板の上の紙切れを見る。
自分の名前を書くのは、たくさん練習した。
まだ字を書くのには、あんまり慣れてないけど。
奏と一緒にいることを認めてもらえるっていうのなら、僕に迷いはない。
その質のあまりよくない紙の上に、一生懸命練習した名前を書く。
丁寧に書いたつもりだったけど、ちょっとガタガタになっちゃった。
それでもだいぶ、上手く書けたと思う。
茶色い髪の背の高い男の子に、その紙を挟んだ板とペンを渡すと、とてもムスッとした表情で受け取ってくれた。
奏もずっとそんな感じだから、きっと人間にはこれが普通なんだろう。
いつもにこにこしている人魚と違うのは、きっと習慣みたいなものだから仕方がない。

「見学? 体験入部?」

 完全に怒っているような声で、茶色いサラサラした髪の男の子は言った。
とても感じはよくない。
だからきっと、人魚の仲間は人間なんてやめとけって言うんだろうな。

「奏は、ここの仲間なの?」

 遠くにいるままの彼女は、背中を合わせたもう一人の女の子を背に乗せて担いだまま、ちらりとこっちを見た。

「奏は女子水泳部の部長で、男子の部長は俺だ」
「奏がいるなら、一緒になる」
「へー。そうなんだ。ワケ分かんねぇし知らねぇけど、分かった」

 彼はその紙に、何かを付け加えた。

「じゃとりあえず、仮入部ってことで。お前、あいつにちょっとでも変なことしたら、俺が許さねぇからな。それだけは覚えとけ」

 すぐにその紙を、板ごと隣にいた長い髪の女の子に渡す。

「男子更衣室はこっちだ。中に入って早く着替えろ」
「着替え? 着替えって、みんなが着てるこれのこと? 持ってないよ」
「じゃあ部のやつを貸してやるから、来い」

 彼に連れられて、奏の入った部屋とは違う隣の部屋に入る。
コンクリートの壁がむき出しの、冷たくて暗い部屋だ。
ここは陸の上だけど、この部屋は海の中の洞窟みたいで、ちょっと落ち着く。
ただ立ちこめる臭いは最悪だけど。

「サイズ違いは気にすんな」
「みんなこの、同じ色で同じ格好の服を持ってるの?」
「あ? あぁ。そうだよ」

 みんなと同じ紅藻色の服を渡されて、僕はちょっと困惑している。
だけど、同じ種類の魚がみんなほぼ同じ模様をしているように、人間は同じ服を着ることで仲間になるんだと自分を納得させる。
着替え……るのは、上手になってるけど、裸はあんまり見られたくないな。
生まれ変わったばかりの僕は、間違いなく全身人間のはずだけど、人間から見てもちゃんと人間になれているだろうか。
一緒に入ってきた彼は、じっと僕の体を見ている。

「なに? どうかした? なんかヘン?」

 完璧な人間になっているはずだけど、そんなにまじまじと見られると、ちょっと緊張する。
シャツのボタンをぎこちない手で一つ一つ外して、それを脱ぎ捨てる。
人魚だった時は平気だったのに、今は素肌を見られるのは恥ずかしい。

「いや、別に」

 彼はようやく目をそらすと、鼻の下をごしごしとこすった。

「泳ぎは得意なの?」
「うん。速いよ」

 それはもう、人間となんて、比べものにならないくらい。

「そっか。そりゃ楽しみだな」

 そう言うと、彼は僕の足元を指差した。

「おい。服くらい、ちょっとはたたんでから椅子の上に置いとけ。俺とペアで筋トレやるぞ」

 出て行く彼の背中を、慌てて追いかける。
なんだかよく分からないけど、ここでは彼の言うことを聞いていればいいみたい。
ようやく外に出て解放された僕は、奏に駆け寄る。

「おい。お前はそっちじゃねぇよ」
「え、なんで? これから奏と一緒に出かける予定なんだけど」
「出かけねぇよ。お前は俺とここで筋トレだっつってんだろ」

 せっかく奏を追いかけて来たのに、ここでもまた別々にされた。
人間というのは、男と女で別々に動くらしい。
隙をみて彼女のそばに行こうとすると、茶色の彼に怒られるし、その彼の命令で全員が走らされたり、腕立て伏せとかいうのをさせられたり、全く納得がいかない。

「もう飽きた! 僕はこんなことをするためにここに来たんじゃない!」
「お前、どんだけ体力ないんだよ。よくそんなんで今まで生きてこれたな」

 走ったりジャンプしたり体を曲げたり……。
海にいた時には全くやったことのない、陸での動きだ。
使う筋肉も種類も全然違う。
僕の真新しい心臓は破裂寸前だったし、肺だってこれ以上息が出来ないっていうくらいにゼーゼーしてる。
足も腕も慣れない使い方をしたせいで、さっきからなんかプルプルしてるし。

「つーか、よくそれで泳ぎが速いとか言えるよな。どのレベルで言ってんの?」

 茶色の彼は、何人かいるこの仲間たちの中では一番余裕があって、一番上手で丁寧で、一番たくさんの数をこなしていた。
そんな彼は僕を見下ろして、呆れたようにフンと笑う。

「ま、プールも知らないんじゃあ、しかたないか」

 僕はここにいる人間たちの誰よりも、奏や他の女の子たちなんかよりもずっと、走るのは遅くて、体力もなければ力もなかった。
呼吸はすぐに乱れ、息苦しくなって地面に倒れ込む。
キツい。
陸の生活って、海とはこんなに違う。
ここでは僕の体は、何の役にもたたない。
冷たい土の上で動けなくなった僕を見かねたのか、茶色の彼は渋い顔で手を差し出した。

「ほら。こんなところに寝てないで、立てよ。そこでちょっと休憩してろ」

 人間の手だ。いま僕の目の前に差し出されているのは、間違いなく本当の人間の手だ。
それが今、知り合ったばかりの僕に向かって差し出されている。
初めて彼らの方から僕に向かって差し出された手。
僕はその手を掴んだ。
人間になって初めて、人の体温に触れたような気がする。

「ありがと」

 まだ騒ぐ心臓と苦しい呼吸を抑えながら、僕は彼に示されたプール前の広場に設置されたベンチに横になった。
薄暗い真冬の曇り空の下、植木に囲まれちょっとジメジメしたこの場所に集まった人間たちは、奏も茶色い髪の男の子も、飽きることなく筋トレとやらを続けている。
この茶色の彼は、やっぱりここのリーダーみたいだ。
文句なく一番に足が速くて、動きが俊敏で、他の仲間への気遣いも見せている。
奏は女子のリーダーっぽい。

 僕の全身は悲鳴を上げていた。
腕も足もプルプル震えて、まともに動かすことが出来ない。
結局ベンチに横になったまま、彼らが動いているのを、最後まで見ていた。

「岸田くん、いい人でしょ」

 奏が近寄ってきてくれたから、起き上がる。
筋トレもようやく終わったみたいで、全員が地面に腰を下ろしぐったりし始めた。
やっぱりみんなしんどいんだ。
彼女は海でよく見るペットボトルを僕に差し出す。
くれるの? 僕に?
これは全く傷もない新品みたいだ。
中身もちゃんと入っている。

「入部するなら、頑張って」

 ようやく彼女の微笑みが、僕に向けられる。
それを受け取るよう促す彼女の手首を掴むと、強く引き寄せ、そのまま隣に座らせた。

「それ、奏が飲んでいいよ」

 やっと彼女の方から来てくれた。
うれしくて、顔がにこにこしている。
そんな僕に、彼女は大きくため息をついた。

「体弱いの? なにか病気があるとか?」
「ううん。それはないよ。なんで?」
「いや。別に」

 体は健康。新しくなったばかり。
どこも痛くも痒くもない。
ただ人間の食べ物には、まだ慣れない。

「僕はいいから。奏はそれが好きなの?」

 海に流れ着くのは、ほとんどが空っぽのペットボトルだけど、時には中身があったり未開封だったりするのも珍しくはない。
飲んだこともあるけど、どれもあんまり好きじゃない。

「別に好きってわけでもないし、私の分はあるから大丈夫」

 彼女はそれを僕の膝に放り投げると、パッと立ち上がった。
落っこちそうになるのを慌てて受け止める。

「今日はもう終わりだから。早く着替えて来なよ」
「え? 一緒に帰ってくれるの!」

 そう聞いたのに、返事はない。
ムスッとして歩き出した彼女の後ろをついて行く。
奏の言う通り、男子のグループは女子とは違う洞窟みたいな小部屋に次々と戻っていく。
「岸田くん」と呼ばれた彼は、その入り口で立っていた。

「じゃあね」

 奏はそう言って、やっぱり男子とは違う隣の部屋に入って行こうとしている。

「僕も奏と一緒がいいんだけど……」
「お前はこっち!」

 岸田くんはぐいと背中から僕の服を引っ張っると、男子部屋の方に引きずり込む。

「ねぇ、なんかずるくない?」

 それで待ち構えてたんだ。
僕は他の人間の体温でもわもわした狭い更衣室は、あんまり好きじゃない。

「なにがだよ」
「だってさぁ、岸田くんの方が力も強いし、ここのこともよく知ってるんだから、そんなの敵うわけないじゃないか」
「あ? なに言ってんだお前。いいから黙ってさっさと着替えろ」

 男ばかりの部屋に連れ込まれて、仲間として認められたっぽいことがうれしいのか、うれしくないのか、よく分からない。
他のみんなが出ていっても、もたもたと着替えに手間取る僕を、岸田くんは待ってくれていた。

「忘れ物はないか?」
「うん、ないよ」

 彼にそんなことを言われて、なんだかちょっとうれしくなる。
人間の方から僕に話しかけてきてくれることが、うれしい。

「ありがとう」
「……。先に出てろ」
「はい」

 すっかり日の落ちた、真っ暗な外に出る。
かなり気温は低いけど、僕にはこのくらいが丁度いい。
一本だけ立っている外灯の明かりの下に、奏と黄色い長い髪の女の子が待っていた。

「奏! 一緒に帰ろう! 遅くなっちゃったけど、君とならいつだって僕は……」
「おいコラ、宮野。ちょっと待て」

 更衣室の鍵を閉めていた岸田くんが、大きな声を出す。
奏を抱きしめようと両腕を広げた僕は、また岸田くんに背中からつかまれた。

「なんで邪魔するのさぁ!」
「お前、マジでそれやめろ」
「どうして?」
「どうしてって、奏が嫌がってるだろ」
「え、そうなの? 僕は奏が大好きなのに?」

 彼女を振り返った。
奏は確かに、俺を凄く嫌そうな目でにらんでいる。
返事もない。
黄色い長い髪の女の子が、不機嫌にぼそりとつぶやいた。

「ねぇ、宮野くんは、どこで奏を知ったの?」
「あー。そうだねぇ……」

 その質問に、どう答えればいいのだろう。
僕はゆっくりと、慎重に言葉を選ぶ。
吐く息が白くゆっくりと宙を舞う。

 あの瞬間、僕の世界はひっくり返ったんだ。
長い間暮らしてきた大好きな海を、生まれて初めて、本気で出ようと思った。
この衝撃と共にいられるのなら、どこにだって行けるし、何にでもなれる。

「僕は本当に、奏が好きなんだよ」

 そう言ったのに、長い髪の女の子は眉間にしわを寄せ、岸田くんは盛大に白く息を吐き出した。

「だってよ奏」
「つーか、答えになってないし」
「どうすんの、コイツ」
「私にそんなこと聞かれても困る」

 岸田くんと黄色い長い髪の女の子につつかれて、奏はスッと一歩前に進み出る。
僕と同じ真っ黒いくるくるした髪と目で、真っ直ぐに僕を見つめた。

「私は宮野くんのこと知らないし、今日初めて会ったばっかりで全然どんな人か分かんないし。悪いけど、正直ちょっと迷惑してる」
「それは今から、仲良くなるから大丈夫」

 僕は外灯に照らされたくるくるした短い黒い髪を、指に巻いて引っ張ってみたいのをずっと我慢してる。

「奏は僕と、仲良しにはなってくれないの?」

 今日一日はなんか何にも出来なかったけど、明日からはもう大丈夫。
今日は奏に会えただけでよかったんだ。
僕たちはこれからお互いを好きになる。
それなのに彼女は、首に長いふわふわしたものを巻き付けたまま、困ったようにうつむいた。

「そ、それは大丈夫だと思う。仲良くはするよ」
「ふふ。じゃあよかった。これからよろしくね」

 奏はかわいい。
なんかずっと彼女が顔を真っ赤にしてもじもじしてるのを、いつまでも見ていたい。

「ねぇ、もう帰ろう?」

 黄色い長い髪の子は、うんざりした様子で岸田くんの袖を引いた。

「ねぇ岸田くん。悪いけど、奏と一緒に駅まで行ってくれる?」
「いいよ。どうせ俺もそっちだし」

 岸田くんが歩き出すと、奏ともう一人の子も歩き出す。
校門まではついていったけど、僕の家とは方向が違うみたいだ。
残念。

「じゃあまた明日! 学校でね!」

 本当はずっと一緒にいたいけど、さすがにそれは無理だよね。
だけどまた明日も学校で会える仕組みなのは、とても便利だ。
広い海の中みたいに、探しにいかなくてもいいから。

 僕は精一杯の笑顔で、大きく手を振った。
三人はちらりとこちらを振り返っただけで、そのまま明るく照らされた道を行ってしまう。
人間は目もあまりよくないっていう話しだから、見えなかったのかな。
もう外は真っ暗だし。
僕はまだこの世界のことも、人間のことも分かってないんだから、仕方がない。
まだ始まったばかりだ。
僕は彼らの姿が見えなくなるまでそこで見送ると、与えられた陸の家に戻った。



第4章


 陸の生活が始まって、僕は毎日のように朝一番に学校に来て、奏と会う。
家を近くにしてよかった。
あんまり早く来すぎると学校の門が開いていなくて、時計の針が7時にならないとダメだって学校の人に追い返された。
教室を開けてもらうのも待って、誰もいない奏の席に座っている。

 海上でも浅い海の中にいても、太陽の光は感じるけど、陸の上だとその光はまた違って感じる。
空に浮かぶお日さまは、何にも変わっていないのにね。
いつも見下ろしていたゆらゆらと揺れる海藻の森の代わりに、今は頭上で知らない木の葉の裏を見上げているのも、新鮮だった。
海の海藻みたいに、色んな種類がある。
僕にはそれをただ立ち止まって見上げているだけでも楽しい。
僕は閉めきった窓を開け放つ。
外から新鮮な空気が生暖かい教室に流れ込んできた。

 その窓から見えるのは、どこまでもどこまでも人間の住む街で、これだけの沢山の数が狭いところにひしめき合っているのだから、陸の生活とは、同じ仲間と過ごす日々とは、どんなに楽しいものなんだろうかと思う。
広い海に孤独に暮らしていた自分が、もう想像出来ない。
僕はここで生まれ変わったんだ。
これからはこの世界で生きてゆく。
窓の下にやっと登校してきた奏を見つけて、思い切り手を振った。

「おーい。かなでー! おはよー」

 彼女は一瞬ビクリとして、チラッとこっちを見上げたけど、手を振り返してくれることはなく、足早に校舎へ消えた。
奏は恥ずかしがり屋さんだな。
だけどもうすぐ、僕のいるこの場所にやってくる。
他の人間たちが「寒いから早く窓閉めて」って言うから、仕方なく閉める。
僕は席へつくと、うきうきしながら彼女の到着を待っていた。
当然のように、ちゃんと迷わずすぐに僕のところへやってくる。

「おはよう、奏。今日は一緒に何する?」
「ここは私の席だからどいて」

 彼女は乱暴な物言いで、鞄の中にある本を取り出すと、がしがし机に突っ込んでゆく。

「どうしたの、奏。怒ってるの? なにかあった?」
「別に!」

 もちろん僕は、彼女に席を譲る。
だってこの席は奏の席で、だから僕もここで待ってたんだから。

「ねぇ、このあたりで一番の、奏の好きな場所を教えて。僕もそこに行ってみたい。この場所で、奏の一番のお気に入りの景色を、奏の好きなことを僕に見せて」
「そんなことして、どうすんの?」
「僕も好きになりたいから」

「あのさぁ!」

 彼女は作業の終わったらしい鞄を、ドカリと机の上に置いた。

「今日も明日も明後日も、もうずっと学校にいる間は、普通にしっかり授業を受けて、普通に部活よ。筋トレ。あんたも入部したんだったら、ちゃんと行かないとね」
「奏と一緒なら、どこへでも行くよ。いつでも、どこにでも」

 他のみんなは、やっぱり僕たちを見てくすくす笑っている。
どうしてそんなに笑うんだろう。
笑うことは好きだけど、ここの人間の笑い方はなんだか好きにはなれない。
きっと距離が近すぎるんだ。
海にはもちろん、僕以外にも人魚の仲間はいたけど、こんな身近でくっつき合って、ずっと同じ時間を過ごすことはあまりないから、それがうれしくもあり、ちょっと窮屈な気分にもなる。

「ねぇ、なんでみんなは、笑ってるの?」
「さぁ、なんでだろ」
「奏は部活と、その筋トレが好きなんだね」
「そうだね」
「分かった。じゃあ僕も部活に行く」

 にこっと微笑んだ僕を、怒っているような、困っているような目でにらんでくる。
彼女はそのまま、教室から飛び出していった。
僕はもちろん、迷うことなく後を追いかける。

「ねぇ、待って」

 追いかけっこなら得意だ。
岩礁の合間を、仲間や魚たちと泳ぎ回った。
体をひねり、くるくる方向転換しながら、時にはさっと一直線に素早く泳いで、相手を捕まえる。
海の中だと普通に楽しめたけど、地上ではそんな動きは出来ないのがもどかしい。
二本の足だけで走るのは、海ほど早くないし、慣れてもない。
こういうときに、自慢の尾びれがあればなぁ。
僕の尾びれは他の誰よりも大きくて太くて、きれいな青い鱗で覆われていたのに。
奏は廊下に出ると、教室とは違う隠された小さな横穴みたいな空間に入っていく。
僕は思わず、くすっと笑ってしまった。
そんな行き止まりのような小さな横穴に入ったって、どこにも逃げ場所はないのに。
ここで捕まえてくれって言ってるみたいだ。

「もう。奏はやっぱりかわいいなぁ」

 彼女の望み通り、すぐに捕まえてあげよう。
そして僕は、しっかりと彼女を抱きしめるんだ。
「愛してるよ」ってささやけば、きっと気持ちはすぐに通じ合う。
そしたら僕は、晴れて奏と真実のキスを交わし、人間になる。
ここの本当の仲間になれる。

「捕まえてあげるからね」

 奏の逃げこんだ、小さな横穴へ足を踏み込もうとした瞬間、彼女は大きな金切り声を上げた。

「ここ女子トイレだから!」

 見ていた他の女の子たちにも悲鳴を上げられ、あっという間に沢山の人が集まってきちゃった。
なんだか怒ってるみたいにたくさん注意された。
もうここには絶対に入らないと約束する。
ごめんなさい。

 この世界には、それなりのルールがある。
人魚にだってしっかりとした掟もあれば、なんとなく皆が守っている決まりというか習慣みたいなものもある。
僕は人間になったばかりだから、それがよく分からない。
奏はそこに入ったまま、次の授業が始まるぎりぎりまで出てこなかった。
僕は彼女を傷つけてしまったのだろうか。
奏に嫌われるようなことはしたくない。
少しずつでいいから、この世界を理解したい。
僕は反省を示すために、同じ教室に入らないようにしていたけど、そうじゃないって言われたから、それからの授業はちゃんと椅子に座っている。
いつになったら僕は、ここの決まりを全部覚えられるんだろう。

 学校ではチャイムというものが鳴ると、それを合図に自分の席に座らなくてはいけない。
僕と奏の席は遠いので、少しでも早く奏と仲良くなりたいと、彼女の隣に座っている人間に場所を変わってくれと頼んだけれども、信じられないっていうような顔をして断られた。
教室の中では、この座席という指定場所まで先生によって決められていて、自分たちの意思では勝手に変えられないらしい。
そうならそうと、早く教えてくれればいいのに。
変更してくれって、さっそく先生にお願いしに行こう。

 授業中は立ってはいけない。話してもいけない。
授業以外のことをするのもダメ。
だけど寝るのはOKだから、座ったまま寝ている。
だけど時々起こされる。
先生の話しは、確かに面白いものもあったけど、僕にのんびりしている時間はない。
早く奏と仲良くなって、人間になってしまいたいのに。

 ようやく自由な昼休みになっても、奏は他の女の子たちと一緒になってしまって、僕とは話そうともしてくれない。
なんか他の女の子たちから、僕は邪魔モノにされているみたいな感じもする。
僕は奏と一緒にいたい。
早く人間になりたい。
この生涯をかけた一度きりの魔法が、泡となって消えてしまう前に、僕は奏とキスがしたい。

「おい、宮野。一緒にメシ食うぞ」

 僕の後ろに座っていた岸田くんが、突然声をかけてきた。
岸田くんの回りには、他にも男の人間がいる。

「僕は奏と食べたい」

 そうやってずっとお願いしてるのに、彼女には逃げられてばかりだ。

「うん、分かった。いいからこっち来て座れ」

 彼に手招きをされ、仕方なくそこに座る。
わいわい何かの話しをしながらの食事が始まったけれども、僕ややっぱり奏が気になるし、正直まだ陸の食べ物には慣れない。

「お前、食わないの?」
「あんまり食べたくない」

 他に出来ることもないし、仕方なく岸田くんの席がある窓際の椅子に座る。
ここから外を眺めても、海は遠すぎて少しも見えない。
奏と話したい。
奏と一緒に手をつないで歩きたい。
僕の望みは、それだけなのに。

「食欲なくても、何かは食っとけ。この後、体動かすんだから。お前体力ねーし。水泳部入ったんだろ?」
「うん。奏も水泳部だからね」

 岸田くんは鞄の中から、銀色のぺこぺこする袋みたいなものを取り出すと、それを僕にぽいと投げた。

「なにこれ」
「栄養ドリンクゼリー。腹になんか入れとけ」

 岸田くんから渡された海藻の粘膜のような食べ物は、ちょっと酸っぱかったけど、これなら食べられなくはない。

「まぁ……。いけるかも」

 そんな僕を見て、岸田くんはまたため息をついた。
彼は他の男の子たちと何だか色んな話しをしているけど、僕にはよく分からない。
半分だけ聞いて分かったような分からないような顔をしておく。
ようやく最後の授業が終わって、放課後が近づく。
一日の約半分をこの椅子に拘束されていなければならないとは、実に理不尽きわまりない扱いだ。
チャイムと同時に立ち上がる。

「奏!」

 そんな僕を、またみんなは笑った。
僕は何にも気にならないけど、彼女にはそれがどうしても耐えられないみたいだ。
一目散に教室を飛び出す。

「あ! どこ行くの? 待って」

 足を使って走るのは結構しんどいけど、奏のことだったら追いかけられる。
階段を転ばないよう丁寧に駆け下り、急いで廊下の角を曲がった。
奏は僕を気にしてはくれているみたいに、時々は振り返る。
だけど待つ気は全然ないみたいで、奏との距離はどんどん開いていって、それでも追いかける僕は、ついに足をもつらせ、思い切り転んでしまった。
ドサリという大きな物音が、誰もいない廊下に響く。
それに気づいた彼女は、ようやく立ち止まった。

 僕はもう息が苦しくて、立ち上がることも出来ず、上体を起こすだけで精一杯だった。
なんとか床に腰を下ろしたまま、廊下の壁にもたれ天井を仰ぎ見る。
地上で体を動かすのは、自分の体の重みとの戦いだ。
腕を持ち上げることすら難しい。
荒い呼吸が落ち着くのを待っていたら、奏が近づいてきた。

「息……が、苦しいの?」
「走りすぎたから」

 体から変な水が吹き出している。
これが汗ってやつか。

「ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」

 奏が自分から話しかけてきてくれている。
それだけでうれしくなる。
彼女はまだ呼吸の整わない僕の前に膝を折りしゃがみ込むと、難しい顔をしたまま首をかしげた。

「お願い。教えて。私は本当に、あなたのことを何にも知らないの。どこの誰かも分からない。なのにどうしてあなたは、私を知ってるの? どうしてそんな簡単に、好きだとか言えるの?」

「……。僕のこと、怖い?」
「怖いし気持ち悪い」

 そっか。奏はそんなふうに思ってたんだ。
だからこんなに避けられてたんだ。

「僕は本当に、君のことが好きだから」

 ゆっくりと体を起こす。
だけどその理由を、教えるわけにはいかない。

「僕は奏が大好きで、奏にも僕を好きになってもらいたいだけ」

 真実のキスさえ済ませてしまえば、僕が人魚から人間になれれば、こんなことも終わる。
そうしたらもっと普通に、彼女とも過ごせる。
だから一刻も早く、彼女とキスがしたい。
そっと微笑んで、彼女の頬に指で触れる。
鼻先を寄せ、僕は彼女に唇を近づける。

「だから、そういうのやめてって言ってるのが、分からない?」

 肩をグイと押され、僕の体は簡単に廊下の壁に戻された。
僕の肺はまだ悲鳴をあげていて、どうしたって彼女には敵わない。

「何考えてるの? 信じられない! 頭おかしいでしょ? ホントにヤダ」

 奏の頬を、一滴の滴が流れる。
その目から、止めどなく涙が溢れ出す。
人間が流す涙の本物ってやつを、初めてこの目で見た。
その涙はとてもきれいなものだと聞かされていたけど、そんなことは全然なかった。
こんなにも悲しいものだったなんて。
だけど僕は、それを知るために彼女を泣かせたかったわけじゃない。

「ゴメン、泣かないで。そんなつもりじゃなかったんだ」

 奏の両方の目から溢れ出す水に、そっと触れる。

「触らないで!」

 弾かれた手が、その痛み以上に僕を傷つける。
彼女は本当に怒っていた。

「もう二度と触らないで。話しかけないで。部活も辞めて。私に近寄らないで!」

「それは困る。そんなことしたら、僕は死んじゃうよ。僕はずっと奏のそばにいたいし、一緒に楽しいことを、沢山したい」
「私が嫌だって言ってんの!」

 彼女にそう言われたら、本当にどうしようもない。
泡となって消えるしか残されてないんだ。
そのために僕は海を出てきた。

「じゃあ、どうすればいい? 僕はもう、奏とは仲良くなれないの?」

「これから私は部活に行くけど、その時に一切こっちを見ないで。話しかけないで。話題にもしないで。もちろん触るのも禁止。その約束が守れるのなら、学校の中だけでは普通にしゃべってあげる」

「奏がそうしたいの?」
「そうよ!」

 僕はしゃがみ込んだ廊下で、目の前にいる彼女を見上げた。
それはとても辛い約束だけど、彼女がそれを望むのなら、僕はそうする。

「分かった。約束する」

 彼女が不意に小指を差し出したので、僕も同じように小指を差し出した。
奏はそこに自分の指を絡めてくる。
彼女の手の一番隅っこについた五本目の指は、とても小さくて細くて柔らかかった。

「約束破ったら、絶交だからね」
「うん」

「本当に約束破ったら、もう絶対に許さないからね」
「うん。ちゃんと守る。もう僕からは話しかけないし、奏のことも見ない」

 絡めた指と指がほどける。
まだその感触は残ってるのに、彼女はスッと立ち上がった。
これから僕は、もう奏には自分から話しかけてはいけない。

「そしたら、僕のことを嫌いにならないんでしょう? 仲良くしてくれるんでしょう?」
「……。約束守れたらね」

 彼女は廊下の角に消え、僕はゆっくりと立ち上がる。
大丈夫。
ちゃんと約束したんだから。僕はそれを守るし、彼女も守る。
奏とした初めての約束なんだから、僕は守る。
僕は奏を好きだけど、奏にも好きになってほしいから。
寂しいけど、よかった。
これでちょっと安心できる。
しばらくは、たぶんきっと平気。

 それからの僕は、奏と約束した通り部活に行っても彼女に声をかけなかったし、見向きもしなかった。
本当は凄く見たいけど、目を合わさないように足元だけで彼女を探している。
集まった男の人間たちに混じって、岸田くんの命令に従いずっと体を動かしていたし、文句も言わなかった。
ただ他の男の子たちにはついていけないから、疲れたら群れから離れたところで座ってる。
少しずつ動けるようになってきたけど、まだまだ追いつけない。

「お前、本当に軟弱なんだな。今までどうやって生きてきたんだ」

 そんな僕を見かねた岸田くんが、そんなことを言った。
海では平気でも、陸で出来ないものは出来ないのだから仕方がない。

「さてね。これでも結構楽しくやってたよ」

 次の日もその次の日も、僕は奏との約束を守って彼女に話しかけたりはしなかった。
朝は一番に教室に入って、自分の席で彼女を待つ。
見ちゃダメって言われてるから、見ないフリしてこっそり見てる。
たまたま僕の後ろの席だった岸田くんに連れられて、学校のこととか部活のこととか、色々教えてもらえるのはよかったけど、それが奏ならもっとよかったのに。
僕は奏以外とは話したくないし別に話す必要もないので、ずっと黙って自分の椅子に座っている。
机に寝ているフリをしてこっそり彼女を見ているけど、コレ、いつまで続くのかな。
僕にはあんまり時間がないんだけど。

「お前、奏と約束したんだって?」

 いつものようにプール前のじめじめした広場で、柔軟体操というのをやっていたとき、岸田くんが聞いてきた。
最近はずっと、僕は岸田くんと筋トレをしている。
冬の曇り空も見慣れてきた。

「なにが?」
「もう奏とはしゃべらないって」

 どうしてそれを彼が知っているのかは知らないけど、奏との約束を二人だけの秘密にするっていう約束は、そういえばしていなかったことを思い出す。

「そうだよ」

 彼は両足を広げて座った僕の肩を、斜め上からぐいぐい押していた。
出来たての僕の体は固くはないけど、押しつけられる岸田くんに遠慮がないのはちょっと無理。

「もう諦めた?」
「なにを」
「奏のこと」
「僕にその選択肢はないんだ」

 岸田くんは奏の友達で「いい人」って言ってたから、いい人だ。
それでも彼とするこの柔軟体操とかいうやつは、嫌いじゃないけど好きでもない。

「悪いけど、それだけは譲れない」

 おせっかいな岸田くんを押しのけ、すっかり僕の休憩場所として定着したベンチに腰を下ろす。
初めの方こそ、ここの人間たちはバカにしたようにすぐに休む僕を見ていたけど、それにももう飽きたみたいだ。
僕だって、もうすっかりこの筋トレには飽き飽きしている。

「ねぇ、いつまでこんなことしてんの? 好きだよね、筋トレ」

 少し気温は緩んできたとはいえ、真冬のプールは相変わらず緑色をしていて気持ち悪い。

「プールだってずっと汚いまんまだし。いくら泳げるようになるっていっても、こんなところじゃ泳げないよ。てゆーか、こんなところで泳ぎたくもないし」

 僕が休憩に入っても、岸田くんはずっとその場に動かないでダッシュしたり、ヘンな角度に体を曲げて無理矢理バランスをとったりしている。

「そりゃ俺だってそうだよ。こんなプールじゃ泳げない」
「じゃあなんでこんなことしてんの。ここって、泳ぐ人たちじゃなかったの?」
「泳ぐために今これをやってんだろ」

 僕にはそれが不思議でたまらない。
なんだろう。
こうやって筋トレという儀式をすることで、あの汚い水が浄化されるよう祈りでも捧げているのだろうか。

「筋トレしたら、泳げるようになる?」
「そうだよ。早く上手く泳げるようになるための、準備だからな」

「筋トレなんて、しなくても泳げるよ」

 僕がそう言うと、そこにいた人間たちの顔色が変わった。
ずっと僕を馬鹿にして見下していたのに、怒りの感情が追加される。

「筋トレ飽きた。早く泳ぎたい」
「そんなこと言う奴で、本当に泳ぎが早い奴って、見たことねぇんだよな」

 吐き捨てるようにつぶやく岸田くんの言うことだって、僕には理解しがたい。

「それはきっと、そういう経験が少ないからだよ。仕方ないよね。陸は海より狭いしね。君たちがそういうことを知らないのも無理はない」

 人間の寿命は短い。僕はもう200年は生きた。
だから生まれて100年も経たずに死んでしまう人間には、人魚にはない幼さがあると思うんだ。
もちろん人間より長く生きることに、優越感なんて全くないけれど。

「だから、本当に泳ぎたいんだったら、こんなところで筋トレなんてしてないで、ちゃんと泳げるところに行って、そこで……」

 岸田くんはのそりと立ち上がると、僕の視界を塞いだ。
彼の太い腕が僕の胸ぐらを掴み、ゴツンと額を合わせる。
今の彼の茶色い目は、決して冗談を許さない。

「お前さぁ、本気でなんで水泳部入部しようと思った? 奏の後追いかけるためだけなんだったら、部活辞めて余所でやれよ」
「誰にも邪魔はさせないって言ったよね。僕の行動を決めることが出来るのは、僕と奏だけだ」
「残念だったな。俺はこの水泳部の部長なんだよ。俺が辞めさせると決めたら、お前はここに居られなくなんだよ」
「悪いけど、そんな脅しが利くのは、人間同士だけだから」

 岸田くんの強ばった表情がピクリと動いた。
本当にくだらない。
僕には、こんなことで時間を潰しているヒマはない。

「ねぇ、苦しいから放して。僕の肺はここでの呼吸に慣れてない。まだ息をするのが若干難しいんだ」
「お前ってさぁ、なんでこんな……」

 何かを言いかけて、彼は話すのをやめた。
考え込んでいるかのようにむっつりと動かなくなった手を振り払おうにも、力では敵わない。
突然岸田くんは、もがく僕をあっさりと開放した。
締められた喉元が苦しい。
少し気道が狭まるだけで、やっぱり咳き込んでしまう。
ごほごほとその場にしゃがみ込んだ僕に、岸田くんは吐き捨てるように言った。

「ちっ。やってらんねぇな。ホント」

 彼はもうきっと、本当に面倒くさくなったんだ。ごつごつした背を僕に向ける。

「そんなに体が弱いんじゃあ、泳ぐったって完全に戦力外だろ。ここはお前のリハビリ施設じゃねぇんだよ。入部したとしても、マネージャーも無理なんじゃねぇの? つーか、そんな性格で他の連中と上手くやれるのか?」
「僕はここにいるって言ったよね。それは誰にも邪魔をさせない」
「邪魔してんのは、お前の方だろ。ここの仲間になりたいのなら、もうちょっと上手くやれよ」
「上手くって? どうすればいいの?」

 そんなこと、僕の方がもっとずっと知りたい。
そんなこと、僕がちゃんと知っていたなら、僕はこんなところで、こんなことをしていなかった。

「僕がここにいる理由は、僕が決める」
「邪魔なんだよ。今すぐ出て行け。ここはお前みたいなクズが、来るようなところじゃねぇ!」

 岸田くんの剣幕に、すっかり静まりかえる。
僕は膝についた陸の土を払い、立ち上がった。
居並ぶ水泳部員たちを見渡す。

「なにがそんなに気に入らないのか知らないけど、僕はここを辞める気はないから」

 春先のまだ冷たい風に、ざわりと木立が揺れる。
ここにいる人間たちの視線の全てが、たった1人の僕に集まっている。
それでも僕は、ここから動かない。ふいに奏が動いた。

「岸田くんのその言い方は、ちょっとよくないと思う。たとえ宮野くんの態度が悪かったとしても、初心者だって歓迎されるべきよ。現に、高校になってから水泳部に入ったメンバーだっているじゃない。それでも泳ぐのが好きだっていうなら、私は歓迎する」

 張り詰めた空気の中、奏の手が僕の背に触れた。
彼女の目が、僕の視線と重なる。

「ね、私の話を聞いてくれる? 宮野くんにはね、筋トレが必要だと思う。いまの宮野くんにとって、一番大切で、必要なもの。それは自分で自分の体をみていて、よく分かってるでしょう?」

 彼女のおだやかな微笑みに、僕はうなずく。
彼女の言うことなら、なんだって聞く。

「それは私にとっても、ここにいる皆にとっても、同じくらい大事なものなの」
「同じくらい大事って?」
「ここにいたいと思う理由」
「奏は、本当にそう思ってるの? 僕がここにいることと、同じくらいに?」
「そう。だからやってる」

 それでもし、僕も彼女と同じ気持ちになれるというのなら、僕はその言葉に従おう。

「奏は好き? 水泳部と筋トレが」
「うん。好き。大好き」
「そっか。じゃあ僕も好きになる」
「よかった」

 奏が好きなら、僕も好きにならなくちゃいけないから。

「だから岸田くんもみんなも、ちゃんと仲良くして」

 振り返った彼女を、岸田くんは忌々しげに見下ろす。

「くだらねぇ。だったらコイツの面倒はお前がみろ!」
「男子部員をまとめるのは、岸田くんの役目でしょ。ねぇ、いずみも!」

 奏の声に、黄色い長い髪の女の子はビクリと肩を揺らす。

「男女のマネージャーを兼任してるんだから、ちゃんと彼のこともケアしてあげて」

 奏は改めて、そこに集まっている人間たちをゆっくりと見渡した。

「泳ぎたいって言ってる仲間を、ちゃんと受け入れることも必要だし、それも私たちの役目だと思う。同じことを、宮野くんにも言えるけどね。本当に水泳部に入るつもりなら、他のメンバーとも仲良くすること!」

 奏が僕をかばってくれている。
彼女は許してくれたんだろうか。
君を泣かせてしまった僕のことを。
君が本当に僕のことを思ってくれる日がくるのだとしたら、僕がここに残る意味も出来る。

「分かった。そうする」
「ちゃんとみんなと仲良く出来る?」
「出来る」

「岸田くんの言うこと、素直に聞ける?」
「これからは、ちゃんと聞く」

「同じ水泳部のみんなとも、仲良くする?」
「する」

「そう。よかった。じゃあ私は信じるよ。だって私との約束も、ちゃんと守ってくれてるもの」
「そんなの、当然じゃないか」

 じっと彼女を見つめたら、その顔はちょっと赤くなった。

「じゃあいいよ。筋トレ再開ね」

 奏の顔は見る間にどんどん真っ赤になって、さっきまで一緒に体操していた女の子のところへ逃げるように行ってしまった。

「奏? ねぇ、奏は照れてるの?」

 近寄ろうとした僕を、制止するように彼女は片手をあげた。
その仕草に、僕はピタリと動きを止める。

「筋トレ再開ね!」

 奏が僕に話しかけてくれている。僕の方を見て、僕に声をかけてくれるから、僕はうれしくなってつい笑ってしまう。

「うん。分かった。奏がそう言うなら、いつだって僕はそうするから」

 そんな奏を見ながら、僕はまだにこにこしてしまっている。
岸田くんは「はぁ~」とため息をついた。

「何なの? お前」

 彼は僕に呆れてはいるけど、もう怒ってはいないようだった。

「もう俺には無理。つーか、お前とやってたら俺の練習にならないから、ペア交代な。入部、するんだろ?」
「もちろん」

「あー。だったらもういいよ。ただし、さっきの約束はちゃんと守れよ」

 練習は再開された。
冬の終わりの湿っぽい広場で、いつもの風景に戻ったのはいいけれど、やっぱりプールの水は緑のまま汚くて、彼らはそこで泳ごうとする気配もない。
もしかして、僕の「泳ぐ」っていう意味と、人間の「泳ぐ」っていうのは、少し意味が違うのかなーなんて、そんなことを思い始めていた。



第5章


 学校には僕は相変わらず一番に登校して、自分の席に座っている。
他にすることもないし、奏の姿を少しでも長く見ていたいから。
それなのになぜかお昼休みには、岸田くんのつくる教室での群れの仲間に入れられてしまった。

「だから宮野はさぁ、なんで飯くわねぇの?」

 だけどここは水泳部ではないから、岸田くんは比較的大人しくしている。
人間というのは、時間と場所によって群れるメンバーが異なり、その中での役割も変わるのだと知った。

「どれもマズい。口に合わない」
「お前、今までどういう暮らししてきたんだよ」
「どうって……」

 そんなことを聞かれても、話せることは少ないし、話す気もない。
陸で手に入る魚はどれも生臭いし、変な切られ方をしている。
そもそも死んだ魚を並べられても、食べようという気にならない。
くらげも細切れだし、口に入れていいと思えるのは海藻とアサリくらいだ。

「肉食え、肉!」
「肉ねぇ……」

 結局、以前岸田くんにもらったゼリーが、のどごしがよくて味にクセもなく、そればかりを腹に入れている。
他のモノにはチャレンジする勇気もなければ、興味も引かれない。

「そんなんじゃあ、丈夫な体になれねぇぞ」

 バシンと背中を叩かれる。
口にくわえていたゼリーのパックを、落としそうになった。
なんだかすっかり口に馴染んでしまって離せなくなったそれを、口元でゆらゆらさせながら、教室の向こうにいる奏を見ている。
岸田くんは、そんな僕を見ながら言った。

「今日の部活も筋トレだからな。黙ってちゃんとやれよ」

 真冬の雲はゆっくりと灰色の空を流れてゆき、日差しに温かさの気配が宿り始めていた。
プール周りに植えられた背の低い木にも、活動の兆しを感じる。
岸田くんの宣言通り、プールの更衣室から出てきた僕に、奏と黄色い長い髪の女の子が近づいてきた。

「ね。宮野くん。いずみが宮野くんのための筋トレメニューを考えてきてくれたよ」
「いずみって?」
「うちのマネージャーよ。いい加減、他のメンバーの名前も覚えてくんない?」

 午後の薄曇りの中で、一瞬さした光りが奏と黄色い長い髪の女の子を照らす。
彼女の名前は「いずみ」。覚えた。

「宮野くんは柔軟は問題ないけど、体力ないから。ほら、これがそのメニュー表とチェックリスト。スマホで動画見られるでしょ?」

 奏はいずみに僕と話すよう促しているみたいだけど、そのいずみの方はあまり乗り気ではないみたいだ。
ムスッとしたまま、こっちを見ようともしない。
僕は気にせず奏に答える。

「スマホって?」
「鞄は?」
「置いて来た。教室」
「あぁ。分かった。もういいよ。あとはいずみから聞いて。ちゃんといずみの言うこと聞くんだよ」

 せっかく奏の方から声をかけてきてくれたのに、もう行ってしまう。
本当は追いかけて行きたいけど、僕は奏との約束をちゃんと守ると決めているので、そうはしない。
少し離れたところにたたずむ、黄色い長い髪の女の子を振り返る。
奏に仲良くしろって言われたから、そうするだけ。
彼女はうつむいたまま、怯えたようにちらちらと僕を見ていた。

「いずみっていうの?」

 彼女はビクリと体を震わせてから、ゆっくりとうなずく。

「よろしくね」

 そう言うと、彼女はギュッと固く口を結んだまま、視線を左右に泳がせた。
彼女が何かしゃべるのを待っていたけど、何にもしゃべりたくないらしい。

「ねぇ。それを見せてくれるんじゃないの?」

 彼女の抱える小さな板には、奏の説明していた紙がある。
僕はそれを見せてもらおうと、彼女に近寄った。

「いやっ!」

 ドンっと押しのけられ、地面に尻もちをつく。
痛い。
だからさ、僕のお尻は出来たてほやほやなんだから、もう少し大切に扱ってほしいんだけど。

「宮野! いずみに何をした!」

 彼女の叫び声を聞いた岸田くんが飛んでくる。
彼女は彼の背にパッと隠れた。

「何にもしてないよ! てゆーか、僕が突き飛ばされたんだけど」
「ご、ごめん……」

 黄色い長い髪のいずみは、岸田くんの後ろでこそっとつぶやく。

「ちょ、ちょっと、あのヒトが怖かっただけだから……」
「いずみ。お前、こっち来い」

 岸田くんに連れられ、彼女は学校の縁に沿って植えられている木の方へ行ってしまった。
僕は痛むお尻をさすりながら立ち上がる。
奏がやって来て、僕を見上げた。

「私、ちゃんと見てたよ。宮野くん、何もしてなかった。いずみが急に突き飛ばしただけだよね」
「奏が分かってくれてるんだったら、それでいい」

 そう。奏以外のことなんて、どうだっていい。
他のことは全て、なんだっていい。
その髪に触れたい。手を握りたい。
だけど彼女は、今は真剣な目で僕を見上げているから、その黒い目をじっと見つめ返す。

「大丈夫だよ。私が後で……。ちゃんとあの二人に言っておくから」

 静かに微笑んで、彼女はうつむく。
その視線はなんだか寂しそうに、ゆっくりとこちらに背を向けている二人に向かう。
岸田くんはいずみの肩に腕を回し、親しげに額を寄せ合い、黄色い長い髪の女の子と何かを相談してるみたいだ。

「いいな。いずみがうらやましい」

 まだ肌寒い曇り空が、そのまま奏を取り込んでしまったみたいだ。
彼女のそんな顔を、初めてみた。

「私なのかなーって思ってた時期もあったけど、そうじゃなかったみたい」
「あの二人は、仲良しなんだね」
「そうかな。そうでもないと思うけど」

 奏の目は、じっと二人の背中を追っている。
いずみが岸田くんになにかを言って、彼の手が彼女の頭をくしゃりと撫でた。

「別に。岸田くんは……。普通にああいうことが、誰にでも出来ちゃう人だから」
「奏は、あれがしてほしいの? 岸田くんが、いずみにしたみたいに」

 奏が寂しそうにそう言うから、僕がやってあげる。
僕は岸田くんのマネをして彼女の肩に腕を回し、額を寄せその短いクセのある髪に指を絡める。

「こんな感じ?」
「だからさぁ! それがやりすぎだって言ってんの!」

 パシリと手を払われる。
突然の奏の大声に、岸田くんといずみが振り返った。

「ねぇ、ちょっと聞いて!」

 彼女はすぐさま岸田くんに駆け寄る。
いずみの肩に回っていた彼の手が解かれ、その腕はだらりと垂れ下がった。
奏はその彼の腕に触れる。

 ここからは少し遠くて、奏が岸田くんに何を言っているのかまでは聞こえない。
だけど、彼に一生懸命何かを訴える彼女の目には、岸田くん以外見えていないようだ。
岸田くんは彼がさっきまでいずみにやっていたのと同じように、そしてそれはさっき僕がやったのとも同じように、彼女の頭を撫でた。
それを奏は、今度は嫌がりもせず、されるがままに許している。
僕の中で、何か知らないものがドロリと動いた。
息が苦しい。
体の内側から黒くドロリとしたモノが湧き上がる。
こんな体の重みを、海にいた時には一度だって感じたことはなかった。
吐き気がする。
気持ち悪い。

 岸田くんは、さっきまでいずみにしていたのと同じように、奏の肩に腕を回す。
奏に何かをささやくと、今度はすぐにそれを外した。
僕の中で、その何かが怒りとしてはっきりと自覚される。
僕はいま、腹を立てているんだ。
何に対して? 
奏に対して? 

「かなでー! こっち戻って来てー! 早くー」

 三人の視線が、僕に集まった。
みんな何事かって顔してる。

「かなでー! すぐ来てー!」

 奏だけを呼んだつもりだったのに、岸田くんといずみもついてきた。

「なに? どうしたの?」

 奏は一番に僕に声をかけてくれる。
僕は奏を、誰にもとられたくない。

「奏が僕から離れたから」
「別に、ずっと離れてるけど」
「離れないで。そばにいて」

 彼女の頬が赤くなる。
それは僕を意識してるってこと? 
触れようと伸ばした手は、やっぱり払われた。

「触ったら、もう口利かないって言ったよね」
「はい。ごめんなさい。もうしません」

「そうだ。いずみのことも触らないで。約束。絶対触らない」
「さっきのは、僕から触ってない」
「そうだけど、そうじゃなくて。これから触らないっていう、約束」
「約束する」

 そう言って彼女は、岸田くんといずみの見ている前で、また小指を差し出すから、それに触るのはいいみたいだ。
僕は奏のマネをして同じように小指を差し出すと、彼女はそこに自分の指を絡める。

「ね、ちゃんと約束したところ、岸田くんといずみも見てるからね」
「うん。奏との約束は、絶対守るよ」

 僕は隣で聞いている、びくびくしているいずみに向かい合う。

「僕からは、絶対触らない」

 いずみはそれでも困ったようにモジモジしていたけど、岸田くんにコツリと肘でつつかれ、ようやくうなずいた。

「わ、分かった。ちゃんとするから。私も」
「うん」

 きっと人間は、誰かとお友達になるときには、こういうお約束が一つ一つ必要なのかもしれない。
僕とみんなの前で約束したいずみは、大きく息を一つ吐き出したあとで、ようやく肩の力を抜いた。
覚悟を決めたように僕を見上げる。

「はい。これが筋トレメニュー」

 人の体のを動かす向きと、その回数を説明した紙を渡される。
僕だけ他のみんなとは違うメニューを、いずみが見ている前でやれということみたいだった。
「いたずらするなよ」っていう言葉を残して、岸田くんと奏は行ってしまう。

「人間って、これをやらないと泳げるようにならないってこと?」

 水泳部のみんなは、ずっと筋トレをやっている。
だからきっと、泳ぎたいと思う人間が泳げるようになるには、こういう準備が必要なんだ。

「……。まぁ、そういうことかな」
「いずみはやらないんだ」
「私はマネージャーだから」

 彼女はまだ肌寒い曇り空の下で、もじもじと黄色い長い髪をかきあげた。

「いずみは、泳げるようにはなりたくないってこと?」
「そういうことじゃない」
「元々泳げないとか」
「そういうことでもない」
「じゃあなんで、いずみはみんなと一緒に……」
「もう! そういうことはどうでもいいから!」

 彼女は唐突に怒り始めた。

「さっさと始めなさいよ!」

 いずみのことは、よく分からないけど、僕は奏と約束したから、約束した通りに彼女の言うことを聞いて、他の人とは違うことを始める。
僕のために用意したというだけあって、今までのよりかはずっと楽にやれるようになった。
ちゃんと奏や岸田くんのことを、信じてよかった。
なんだ。
やっぱり人間も、約束は守ってくれるんだ。
海の仲間は人間なんて信じるなってずっと言ってたけど、そうじゃなかったよ。

 いずみは僕が一人で筋トレをやってる横で、ぼんやりと他のみんなの様子を見ている。
彼女の視線は、どうやらずっとサラサラした茶色い髪の、背の高い岸田くんに注がれているみたいだった。

「岸田くんのことが気になるの?」

 いずみも、岸田くんのことが好きなんだ。

「別に。あんたには関係ないし」
「まぁ、そうだけどさ」

 その彼女の視界にはいつも岸田くんがいて、そして奏もいる。

「奏のことも好きなんだ」

 いずみはまた突然キッとなって、僕を振り返った。

「あんたと一緒にしないでくれる?」
「一緒じゃないよ。僕といずみは違うもの。ずっと奏を見てるから、奏のことが好きなのかなーって」
「あぁ、もう! あんたとは話しが通じない!」

 僕だって、別に奏に言われなかったら、仲良くするつもりなんてなかったし……。

「見張ってろって岸田くんに言われたから、あんたを見てるだけなんだけど。さっさとその紙の一番からやって」

 彼女に言われて、渡された紙に視線を戻す。
さっきまでやってたんだけど。
うん。
まぁそれはもう一回くらいやるけどさ。
僕が紙の指示に従って、また同じように体を動かしている間、やっぱりいずみは僕の方なんて見ていなかった。
彼女の視線の先にあるのは岸田くんだ。
僕はその隣にいる奏を見ている。
そういう意味では、いずみと僕は似ているのかもしれない。

 奏と岸田くんは、同じ部活の部長でリーダーだから、いつもだいたい一緒にいて、二人で色んなことを相談して決めている。
奏が彼を見つめる目は、とてもキラキラして輝いていて、それはそれは楽しくて仕方がないみたいだ。

「ふふ。奏は本当に、水泳部が好きなんだね」
「あんたは奏が好きなんでしょう」
「うん。そうだよ」

 冬の夕暮れは驚くほど早くて、辺りはもう簡単に暗くなり始めている。

「奏はあんたのこと、何とも思ってないよ。奏が好きなのは、岸田くんだし」

 そんなことを言ういずみの横顔を見ながら、そういえばこの子は、あの時奏と一緒にいて、海に落ちてきた子だなーとか、思い出したりなんかしている。

「知ってるよ。僕も岸田くん好きだし」
「あんたって、やっぱりバカだよね」
「そんなことを言う、いずみのことも好きだよ。だって奏と約束したから」
「うざ」

 校庭にぽつりと立つ外灯に灯りがついて、その灯りの下で並んで縁石に腰掛けていたいずみは、自分の膝を抱え丸くなった。
彼女はぼそりとつぶやく。

「奏と友達でいいんだ。奏と本当に、友達やれんの?」
「やれるよ。ちゃんと約束守っていれば、お友達でいてくれるって」
「へー。お友達なんだ。よかったね。奏とお友達でいいんだ」
「……。奏が、いずみとも友達になれって」
「あー。もういいよ。私がバカだった。そういうのいらないから、黙ってさっさと筋トレやって」

 僕は奏に言われた通り、紙に書いてある通りのことをやる。
正直つまらないし、面白くもない。
奏はどうして、こんなことが楽しいんだろう。
だけど奏が好きなんだったら、僕もこれを好きにならなくちゃ。
ちゃんと奏と、同じようにやれるようにならないと。
そんな僕に、いずみはボソリとつぶやく。

「奏はさ、岸田くんのこと、好きだよ」
「知ってるって言った。だから僕も好き」

 だから奏は、僕にも岸田くんと仲良くするように言ったんだ。
いつも奏から岸田くんに話しかけるのは、そういうことだから。

「正気?」
「しょうきって?」
「あー。そうか。分かった。あんたの『好き』って、そういう『好き』なんだ」

 彼女は呆れたように頭をボリボリ掻いた。

「くだらない。ま、好きにすれば? 私には関係ないし」

 もちろんいずみには、一切関係のない話しだ。
だから彼女には何を言われても、どう思われても平気だし。
そんなことより、奏の好きなものがまた一つ知れてよかった。

「岸田くん、本当にかっこいいよね」
「……。そうだね」

 外灯の灯りの下で、膝を抱えたいずみの頬が、わずかに赤らむ。
それはまるで、奏がそうなった時と同じだ。

「いずみも、岸田くんが好きなの?」
「うん」
「そっか。じゃあみんな一緒だね」
「そうだね」

 それから僕といずみは、真面目に筋トレを始めた。
いずみがあれこれ言ってくれるアドバイスはとても的確で、なるほど海から地上に上がってきたばかりの僕には、これは本当に必要なことだったとちゃんと思えた。
いずみはきっと、陸で暮らすためではなく、泳ぐためのアドバイスとして言ってるんだろうけど。



第6章


 春休みという授業がない季節がやって来て、僕はそれでも水泳部のために毎日学校へ行った。
いつもの場所の決まった日の決まった時間に、ちゃんと奏たちは来ていて、時計というものは実に便利なものだと知った。
それでも毎日のように、相変わらず走ったり体を曲げたりばっかりだったけど……。

 ある春休みの日には雨が降っていて、それでも部活はあるっていうから、僕はいつものようにプール前の広場でみんなが来るのを待っていた。
そこそこに強い雨が、白いシャツに通して肌まで染みこんでくる。
まだまだ春先というよりも、冬の終わりと言った方が正しい冷たい空の雨だ。
陸に上がってからは、常に皮膚が乾いていることには慣れたけど、やっぱり濡れている方が気持ちいいし落ち着く。
薄曇り空から降りしきる霧のような雨を見上げ、こういう日は一人岩礁の上に座り、ただ雨に打たれていたことを思い出す。
波を打つ雨の音だけが、僕の友達だった。
今はそこに人の住む音が混じる。

 ふと聞いたことのあるような声がして、閉じていた目を開いた。
雨の向こうで、見たことのある顔の奴らが、嫌な笑い方をしながら近づいてくる。

「宮野? お前なにやってんの」

 時間が来てるはずなのに誰も来ないと思ったら、今日の練習場所はここじゃないんだって。

「お前、本当に頭悪いよな。大丈夫かよ」

 傘とかいう雨具を持った、たぶん同じ水泳部の男らが言った。

「うん。平気。今日の練習は別の場所だったってこと?」
「お前はぁ~。だからさ、スマホ持ってんだろ? 今日は視聴覚室でやるって、連絡入っただろ」
「それはあるけど、必要ないから見てない」
「あはは。やっぱバカだろ」
「だよなぁ!」

 少なくとも僕は、自分が海の長老さまや海底に住む魔法使いたちよりも賢くないことを知っているから、それは本当のことなので大丈夫。
雨の滴が前髪を伝って頬に流れるのも、体がわずかに冷えているのも懐かしい。

「つーか、なんでうちの学校来た? 入る学校間違えてない? ほら、特殊とか支援なんとかって名前がつくようなさ」
「お前、かなりキモいぞ。分かってる? 顔だけで生きていくなら、水泳部やめてそっち行けよ。いやむしろさっさと行ってくれ」

 もしかしたら、彼らと何か話しや挨拶くらいはしたことあるかもしれないけど、残念ながら僕は、この2人の顔を何となくくらいしか覚えていない。
きっとここにいて僕に話しかけてきてるから、同じ水泳部員なんだろう。

「それは無理だ。だって奏がいるもん」
「は? 迷惑なんだよ。邪魔だって言ってんの分かんない? あーバカだから分かんないのか。じゃあ俺たちがここで教えてやるよ」

 男の子の一人が、握りこぶしを振り上げる。
僕は冷たい雨に打たれながら、じっと彼らを見ていた。
パシャリと水の跳ねる音が聞こえる。

「何やってんだ!」

 岸田くんだ。
彼は駆け寄ってくると、持っていた傘を僕にかざす。

「お前、なんでそんなずぶ濡れなんだよ! 傘は?」
「持ってない」

 その言葉に舌打ちすると、彼はそこにいた男の子たちを振り返った。

「俺は宮野を探してこいとは言ったけど、シメてこいとは言ってねぇぞ!」
「だけどさぁ! 正直コイツおかしいでしょ。気味が悪いっていうか、なんか変だし」
「岸田だって、最初は嫌がってたし」
「不気味でしょ。なに言ってんのか、話しも通じねぇし。単純に見ててムカつく」

 傘というものの下に入ると、雨音の弾ける音が聞こえる。
これはこれで悪くない。

「……。それでも、水泳部に入ったんだから、もう仲間だろ」
「だいたい、奏の後を追っかけ回してんのが、もうなんかさぁ!」
「そもそも、絶対追い出すとか言ってたの、お前だし」

 僕は傘を持つ岸田くんの横顔を見上げる。

「そうだったの?」

 彼は僕の問いには答えず、その子たちに向かって続けた。

「気が変わったんだよ。今後コイツに手ぇ出したら、俺が許さねぇからな」
「岸田は、そいつが変だと思わないのかよ」
「変だとか何とか、誰基準だよ。何基準で言ってんの? そんなの……。帰国子女とかだと、分かんないだろ」
「いや、そんなレベルじゃないって! お前だって分かってんだろ」

 岸田くんの横顔は、引いては押し寄せる荒海のように揺れている。
黙り込んだまま動けなくなった彼の向こうに、赤い傘が見えた。
いずみだ。

「宮野くん」

 彼女はその傘をやっぱり僕にかざすと、僕の頭にタオルを乗せる。

「頭拭いて。風邪ひくよ」

 少し背伸びをしたいずみは、タオル越しに僕の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

「長山くんと松下くんも、早く教室戻って。みんなで動画みてフォームの確認してるから」
「俺らはまだ、認めてねぇからな」

 2人は行ってしまった。
いずみと交代で、岸田くんの傘が僕の上に重なる。

「あいつらのことは気にすんな。濡れるから、こっち来いよ」

 岸田くんに連れられ、校舎に入った。
薄暗い冷たい春休みの学校の廊下には、今は僕たちしかいない。
入り口のところで、二人は傘を畳んでいる。
今なら。
ちょっとだけなら。
この二人にだったら。
聞きたいことが聞けるのかもしれない。
本当は僕にだって、あの2人の言い分は理解出来る。
それはずっと、僕自身につきまとっているものだから。

「ねぇ。やっぱり、僕はヘンかな。みんなと違って、どっかおかしなところがあるかな」

 その言葉に、二人が振り返る。
いずみは意を決したように言葉を切った。

「宮野くん。宮野くんはさ、かな……」
「ヘンじゃねぇよ!」

 彼女の言葉を遮り、岸田くんは言った。

「誰にだって、他のみんなと同じところもあれば、変わったところくらいあるだろ。気にすんな」

 岸田くんは持っていた傘を、投げるようにして傘立てに戻した。
僕は自分の手を広げ、じっとそれを見る。
少し前まで、この手の指の間には膜が張り、伸びた爪と固い鱗に覆われていた。

「僕は……。みんなと同じようになれるかな」
「さぁな。知らねぇよ」

 岸田くんは、じっと力のこもった目で僕を見下ろす。

「だけどさ、少なくとも俺といずみは……。お前に味方するよ。多分だけど。そう決めたから」

 黄色い長い髪のいずみも、雨の降る冷たい玄関でコクリとうなずいた。
どうしてこの二人は、僕に優しくしてくれるんだろう。
なんだかそのことに、彼らを騙しているようで胸が苦しくなる。

「ねぇ、僕ってへん? みんなと本当に違わない?」

 僕にとってそれは、一番の不安。最大の秘密。
僕が人魚で、人間になるためにここに来たってことを誰かに知られてしまったら、僕はもう人にはなれない。
岸田くんはゆっくりと目を閉じてから、それを閉じたのと同じ速度で開いた。

「誰とも違わない奴なんていねぇよ。みんなどこかは同じように見えて、それでもどこかは絶対に違ってる」

 だけど僕は、本当にみんなとは違うから……。
その証拠に、傘だって持っていない。
明日になったら、一番に傘を買いに行こう。
人は、雨が降る日には、傘をさすものだと知ったから。
いずみは動かなくなってしまった僕に、首を少し傾けて言った。

「シャツ。濡れてるけど、大丈夫?」
「うん。濡れてるのは平気だから」

 僕が濡れていることなんかより、いずみはもっと大切なことを言った。

「……。奏が待ってる。行こう」

 彼女の言葉に促され、静まりかえった廊下を歩き出す。
雨は季節の変わり目を知らせる春の雨で、きっとこれからは今よりもずっと温かくなる。
僕のこと、いずみと岸田くんは、きっと嫌いじゃないよね。
探しにきてくれたんだもの。
そんなことを聞いたって、彼らはちゃんと答えてはくれないだろうけど、きっとそうなんだろうってことくらいは、僕にだって分かった。

 他に誰もいない廊下で、歩きながらベタつくシャツを脱いだら、いずみに驚かれる。

「ちょ、いきなり脱がないでくれる!」
「え、でも……」

 そんな僕を、岸田くんは笑った。

「はは。絞って干しときゃ、乾くだろ」

 なんだか岸田くんがそうやって笑ってくれると、僕も安心する。まだここに居ていいんだって思える。
その場でジャーっと絞ったら、またいずみに叱られた。

「ちょ、ちょっと待って! 宮野くん。廊下で絞らないで、流しでやってくれる?」
「え? そうなの? ここでやっちゃダメなの?」
「ダメ!」
「ははは」

 人間ってのは、色々と決まりがあるから面倒くさい。
だけどそれが分からないから、『ヘン』って言われるのかな。
岸田くんは笑っていて、いずみは怒っている。
その違いがよく分からない。
僕はこれから、色んなことを一つ一つ知っていかなくちゃいけない。
そしたらきっと、本当の人間に近づける。

 岸田くんといずみに連れてこられたのは、来たことのない知らない部屋だった。
階段状の床に長い机が並び、黒板の代わりに大きなスクリーンがある。

「お前、なんだよその格好」

 いつものメンバーがそこに揃っていて、上半身裸の僕を見て笑った。

「宮野くん!」

 奏だ。 奏がいる。
彼女は僕に駆け寄ってくると、僕を見上げた。

「どうしたの!」
「どうもしないよ。よかった。やっと奏と会えた」

 僕は彼女と出会うために、ここに来たんだ。
彼女が僕を一生懸命に見上げてくれるから、もう他のことなんて全てがどうでもいい。

「心配してくれた?」
「し、心配はしてたけど……」

 短くて黒い僕と同じようにくるくるした髪に、そっと触れる。
彼女はその僕の手を掴んだ。

「なんで裸? 風邪ひくって! ほら、手だって冷たいし、体だって……」

 奏は自分の手を僕の胸に重ねる。
うれしくて、つい腕を伸ばし抱き寄せてしまいそうになったところで、彼女はすぐ一歩後ろに下がった。

「だから、これ以上は禁止」
「奏に会いたくて、ここに来たんだ」
「だからそれが分からないって言ってんの!」
「じゃあ分かってもらえるようにする」

 もう一度彼女の髪に手を伸ばそうとしたら、後ろから岸田くんの大きなため息が聞こえてきた。

「お前ら、いちゃつくなら終わってからにしてくれ」

 せっかく奏の方から近寄ってきてくれたのに、彼女は僕から離れてゆく。
その顔はムッとして、暗く沈んでいた。
奏は岸田くんのことが好きって言ってたけど、本当は嫌いなのかな。
だけどそんなことは聞けないから、僕は天井からぶら下がる大きな画面を見上げる。

「なに? これ」
「去年の競技会の動画。お前も出るつもりなら、ちゃんと見とけ」

 ようやく全員が揃って、みんなでその映像を見る。
学校にある汚い水の塊とは全然違う、青い四角い水の中で、たくさんの人間が泳いでいた。



第7章


 4月になった。
咲き始めたと思った桜は、あっという間に満開になって、せわしなく散っていく。
花が咲くのも一瞬で、その時には葉もつけずに花しか咲かせない木なんて、初めて見た。
この一瞬の美しさのために、他を捨て全力を注いで生きるなんて、きっとそんな生き方には無理がある。
僕には出来ない。
散ってゆく花吹雪を見上げながら、そんなことを思った。

 クラス替えというのがあったけど、また奏と岸田くんと一緒になれた。
いずみとは今回も別のクラスだ。
教室が二階から一階に変わって、先生はそのまま。
同じ教室に入っていた他の人間のいくつかは変わったけど、別にどうってことはない。
奏と一緒だから大丈夫。

 新入生歓迎会というのがあって、奏に言われて大勢の人間の前に立たされた。
体育館のステージ上に、他にも水泳部の人が何人かいたからよかったけど、同じ年に生まれた人間の、これだけの数を一カ所集めるなんて、凄い。
世界中の人魚を集めたって、決して敵わないだろう。
そんな人間の力に改めて驚く。
だけどそれはそれでなんだかずっとざわざわしていて、みんなから見られているようで、居心地はよくない。
岸田くんも奏もやたら張り切っていたけど、僕はステージの上に立ってずっと困っているだけだった。

 それからしばらくして、新しく入部してきたとかいう一年生たちと一緒になって、僕はやっぱりプール前で筋トレをしている。
変わったことと言えば、草木が生えてきたことと、吹く風が生ぬるくなったことくらいだ。

 新しく高校に入ってきたという彼らは、筋トレも初めてなのかと思っていたのに、僕よりもずっと上手にちゃんと出来ていた。
僕がここへ来たばかりの頃と同じように、彼らも僕を不思議がる。

「宮野先輩、こんなんで大丈夫なんですか? なんか、プールで泳いだことないって」
「うん。だけど、これでも大分上手になったんだよ」
「そうなんですか? でも宮野先輩がいてくれるから、初心者でも安心して入部出来ました!」

 なんだかよく分からないけど、この一年生たちというのは、僕にも遠慮なく話しかけてきてくれるのが、ちょっと嬉しい。

「宮野先輩、めちゃくちゃカッコいいですよね。髪と目は黒いけど、髪の毛めっちゃくせっ毛だし」
「そうかな。普通だと思うけど……」
「アラブの大富豪の息子っていう噂は、本当ですか?」
「えーあーうん。ゴメン。よく分かんないや」

 じめじめしたプール前の空き地は、それほど広いわけじゃない。
その狭いところで何人かに詰め寄られて、僕にはどう答えていいのかが分からない。
奏に仲良くしろって、優しくしろって言われてるから、そうしてるけど、本当はかなり困っている。
その困っているところに、奏が来た。

「ほら。遊んでないでちゃんと指導してあげて」
「そんなの無理だよ。奏が一緒にいてくれるなら、頑張る」
「別に私がいなくったって、平気でしょ?」
「いやだ。僕は奏がいないと何もしたくないしやりたくない」

 それを聞いていた一年生たちは、目をまん丸くした。

「え! お二人は付き合ってるんですか?」

 季節はすっかり春になっていて、ぽかぽか陽気に照らされたこの場所も、そこそこ居心地は悪くない。

「違うから!」

 奏はすぐにそんなことを言って、怒っているけど、最近は普通に話してくれるようになった。
照れてしまうのは、僕を気にしているからだというのも、なんとなく分かる。
紅藻色のジャージの裾をひるがえし、去ってゆく彼女の後ろを追いかける。

「ねぇ待って。奏。僕は……」
「調子乗らないで。これ以上近づくのは禁止」

 そんなことを言われても、僕はちょっとうれしくなってしまっているから、止められない。

「無理だよ奏。奏と一緒じゃなきゃ、僕はなんにもしたくないんだから」
「これからいずみが説明するから、一緒に聞いてて。じゃあね」

 彼女のいう通り、プール前の広場にすぐにいずみがやって来た。
だけどその隣には岸田くんもいて、結局岸田くんが全部しゃべってる。
相変わらず筋トレばかりの日々だ。
こんなので新しく入って来た一年生とかいう人たちは、つまらないってすぐに辞めちゃうんじゃないかと思ったけど、そうでもないみたい。
他の運動部はいろんなことしてるのに、そこだけは本当に不思議だ。
そんな日々が続いている。

 筋トレが終わって部活が解散になると、僕はいつも広場のベンチで奏を待つ。
一日のうちで彼女と一緒にいられる最後の時間だ。
僕の方から奏に話しかけてはいけないという約束はまだ続いていて、更衣室から出てきた彼女の方から、声をかけてくれることはない。
それでも少しでも奏の側にいたくて、僕はここで彼女を待つ。
奏はいつも最後に出てきて、いずみと一緒に鍵をかけた。

 彼女はいつもベンチに座っている僕をチラリと見てから、そのまま他の人間たちのところへ行ってしまう。
そこには岸田くんといずみもいて、しばらくおしゃべりは続く。
すっかり日の落ちた真っ暗な学校の片隅で、僕は彼女の横顔をじっと見ている。
この時間だけは誰にも、奏にも邪魔をされない唯一の時間だ。
僕は奏に気づかれないよう、暗闇に浮かぶ彼女の横顔を見ている。
最近は一年生たちがやってきて、色々話していくこともあるけど、数回で飽きたのか、今ではほとんど来なくなった。

 いつの間にか春も過ぎ去り、夏の気配が漂う夕暮れ。
部員たちのそれぞれのおしゃべりが終わると、順番に人は散っていく。
校門へだらだら向かう集団に紛れ、奏が歩き出すのを待って、僕はちゃんと距離を置いてついてゆく。
こっちから近寄るのもダメっていう約束だから、それもちゃんと守ってる。
だからきっと、もう奏は僕に怒らなくなったんだと思う。

 僕の歩く少し前を、いつも岸田くんを真ん中にして、右にいずみ、左に奏が並ぶ。
たまに違う子も混ざったりするけど、結局はそうなる。
僕には奏たちのしてる話がほとんど分からないけど、彼女の楽しそうな笑顔を見ているだけでいいんだ。
学校の先生の話とか授業の話なら何となく分かるようになったけど、学校以外の話は、何一つ理解出来ない。

 岸田くんの言ったことに、奏が反論し、それを肘打ちで返した岸田くんに対して、彼女は彼のシャツを引っ張る。
それを振り払おうとする岸田くんに、奏は笑いながらまた何かを言い返している。
奏は今日は、いつも以上にとても楽しそうだった。
そんな様子をぼんやり見ながら歩いていた僕を、岸田くんの隣を歩いていたいずみが不意に振り返った。

「……。ねぇ、いつも後ろからついてくるだけで、なにしてるの?」

 今日は奏と岸田くんがずっと話しているから、弾かれてしまったいずみが、珍しく僕の隣に並ぶ。

「奏を見てる」
「うん。知ってる」

 いずみはなんだか、少しムッとした顔でうつむいていた。

「いつもさ、そうやって遠くから見てるだけでいいんだ」
「だって、奏がそうしろって」
「奏のこと、好きなんじゃないの? 好きだからわざわざここまで来たんでしょ」
「そうだよ」
「もっと積極的にいかなくていいの?」
「積極的って?」

 いずみはパッと顔を上げると、細い眉をキッとつり上げ僕を見上げた。

「ねぇ、もっと奏と話したくない? 仲良くなりたいでしょ?」
「それはもちろん」
「だったら行こうよ」

 彼女は僕の袖を掴むと、それをグイと引っ張った。
どんどん奏に近づいていく。

「ちょ、待って。これ以上近寄ったら怒られるから、それはやめて!」
「別に怒ったりなんかしないよ。奏としゃべりたくないの?」
「奏に嫌われるようなことはしない」
「私に無理矢理連れてこられてんだから、平気よ」

 抵抗しようとしても、僕の力ではいずみに敵わない。
ずるずると引きずられるようにして、僕は初めてこの三人が帰る輪の中に入った。

「宮野くんも一緒にお話ししたいって!」
「ちょ、いずみ。僕はそんなことは言ってないから! ごめん奏、だから僕は、本当に邪魔するつもりはなかったのに、いずみが僕を……」

 奏に嫌われたら、僕はもう生きてはいられない。
ビクビクしている僕を、奏が見上げた。
怒られる! 
緊張に身を固めた瞬間、岸田くんの大きな腕が、ガシリと僕の肩に乗った。

「おー! 宮野か。お前も思ったより奥手だよな。愛しのカナデチャンなのに」
「な、やめてよ! 奏に嫌われる前に放して!」
「あはは。奏も、もうそんなに怒ってないってよ。ほら、たまにはちゃんと相手してやったら?」

 岸田くんにドンと突き飛ばされ、奏と肩がぶつかる。
彼女の顔はムッと歪んだ。

「ご、ごめんなさい!」

 彼女は自分の肩の、僕の触れた部分をおさえた。

「痛い」
「ごめん。ごめんね! もう行くから。じゃあね!」

 ここから早く逃げなきゃ。奏に嫌われちゃう。
じゃないと彼女との約束が……。

「もういいよ。大丈夫。嫌ったりしないから」

 岸田くんといずみは先に行ってしまっていて、僕と奏が取り残された感じになった。

「一緒に帰ってくれるの?」
「どうせすぐそこまででしょ。今日は一緒に帰ろ」

 奏が隣にいることを許してくれた。
そのことがうれしくて、また僕はドキドキしている。
緊張でそうでなくても動かしにくい体を、ゆっくりと歩く彼女の歩調に合わせてガタガタ歩く。
夕暮れの初夏の校内は、いつもより暑かった。
ずっとこうなりたいと思っていたはずなのに、僕は怖くて彼女の顔が見られない。
岸田くんの大きな背中と白いシャツは、奏と交代したいずみと二つ並んで、のんびり歩いている。
奏の口から大きなため息が漏れた。

「奏は、岸田くんのことが好きなの?」
「……。そんなことないよ」

 そうは言っても、奏が岸田くんのことを好きなのは、何となく分かる。

「そっか。僕も好きだよ。もちろん奏のことも好きだけど」
「そうね。岸田くん、いい人だもんね」

 僕たちはいま並んで歩いている。
奏とお話しが出来るなんて久しぶりだ。

「筋トレさ。だいぶ回数こなせるようになったよ」
「うん。知ってるよ。岸田くんといずみも褒めてた」
「ホント?」
「私はさ、宮野くんが水泳部に入ってくれて、うれしいと思ってるよ。それは本当だから」
「うん。ありがとう。奏にそう言ってもらえると、僕もうれしい」
「最近は、いずみも岸田くんも、宮野くんのことばっかり話題にしてるし」
「え? どんな話ししてるの?」

 思わず彼女を振り返る。
それは、奏も僕の話をしてるってこと?

「ないしょ! でもいいの。もうすぐそんなこと、言ってる場合じゃなくなるんだから」

 真っ暗になった校内の、外灯の下で彼女はにこりと微笑んだ。

「来週にはプール掃除があるんだから。いよいよだね。ようやく泳げるようになるよ!」

「あのプールで?」

 僕の知ってるプールは、まだ汚い緑色のままなのに。

「奏は、泳げるようになったらうれしい?」
「もちろんよ。凄くうれしい」
「そっか。じゃあ僕も楽しみにしてる」

 くるくる巻いた黒い短い髪の下で彼女の目が笑って、僕はそんな顔を見られるのなら、もう他のことなんて全部、なんだっていいような気がした。



第8章


 そのプール掃除の日は、いつになくじっとりと蒸し暑い日になった。
長い雨の季節が終わって、よく晴れた日をわざわざ選んでるんだから、余計にタチが悪い。

「ねぇ、暑すぎない? なんでこんな日にやるの?」

 ずっと閉じられていたフェンスの鍵が開けられ、初めて入ったプールサイドは、ずっと留まっていた水が臭くて仕方がない。
人間はよほど、この臭いというものに鈍感なんだろう。
僕はそれにどうにも耐えられなくて、頭からタオルをすっぽり覆って鼻を押さえている。
日光を遮るようなものがないのも最悪だ。

「うるせーぞ、宮野。こっからが本番だからな!」

 水抜きの儀式とかワケの分からないことを言って、みんなで整列してパンパン手を叩いたりして、岸田くんも奏も夢中になってなんかしてるけど、暑いし臭いし最悪でしかない。
僕はプール脇にあるコンクリートの階段状ベンチのてっぺんに、わずかに付けられた小さな庇を見つけて、その日陰に避難している。
いつもみんなとは違うことばかりしているいずみがやってきて、寝転がっていた僕の隣に座った。

「宮野くんも行ってきなよ。みんなでやらないと終わらないよ」

 そういういずみは荷物に囲まれて、ちゃんとこの日陰にいるじゃないか。

「僕はいずみの手伝いをする」
「はは。こういう時だけだよね。宮野くんが他の人に近寄ってくるの。私は別にいいけど、奏はきっとめっちゃ張り切ってるよ」

 汚いプールの水位が徐々に下がってきた。
奏たちはバケツやブラシを持ち出して、いくつかある水道の蛇口にホースを繋いでいる。
みんなウキウキしていた。
いずみは色んなものの数を数えたり並べ直したりしてたけど、それが一区切りついたのか立ち上がる。

「さ。宮野くんも行くよ」
「え。ヤダよ」

 そう答えたとたん、いずみは大声で叫んだ。

「かなでー! 宮野くんがプール掃除したくないって!」
「一緒にやるよー! こっちおいでー」

 にっこにこの笑顔で、ジャージの裾を膝上まで巻き上げた奏が、ブラシを片手にブンブン手を振っている。

「だって。呼んでるよ」
「……。行ってきます」

 そんなにうきうきで誘われたら、行かないわけにはいかないじゃないか。
いずみにけしかけられ、奏の隣に並んだら、うれしそうに持っていたブラシを渡された。
そんなふうににこにこされたら、受け取るしかないじゃないか。

「奏は何するの?」

 彼女は僕に渡したブラシの代わりに、先端に小さな網のついた棒を持ち出していた。

「私は水面のゴミ集め」
「じゃあ僕もそっちがいい」

 そう言ったのに、岸田くんにがっちり肩を組まれる。

「お前は俺とブラシで頑張るんだよ! 一緒に一番乗りするか?」
「は? どこに?」
「プールの中」
「ヤダ! そんなのしないよ、するわけない。気持ち悪い」
「じゃ、私が行く」

 奏はドロドロの水面に沈む梯子に手をかけた。

「ダメだよ奏! そんなところに入ったら、死んじゃうよ!」
「はは。何それ。死にはしないって」

 柔らかいつるつるした彼女の素足が、プールの半分にまで減った水に浸けられた。
緑色の腐った水は、変わらず強い異臭を放っている。
僕は頭からタオルをかぶり、臭いから逃れるため口元を覆ったまま叫ぶ。

「奏! 早く戻ってきて! ダメだよ、かなで!」
「だから宮野。お前も来いって」

 奏や岸田くんだけじゃない。
水泳部のみんなが、その汚い水の中に入っていく。
僕はもう気が気で仕方がない。こんな水の中で生きていられる生物なんていない。
それなのに、奏は水面に浮く無数の木の葉を網ですくい始めた。

「何やってんの! そんなことしてる間に、奏が死んじゃう!」

 必死で訴え続ける僕に、岸田くんが「こういう時、王子さまは助けに来てくれるんじゃねぇの?」なんて言うから、みんなは笑った。
奏はプールへ降りられない僕に向かって、「別にやりたくないならいいけど。じゃあ上でいずみのお手伝いしてて」なんてことを言う。

 照りつける太陽に、むせかえるような臭いが足元から漂う。
タオルがあっても息苦しい。
僕にとっては地獄のような光景なのに、人間は平気のようだ。
膝までだからいいのか? 
他の人間たちも次々中に入ると、ぬるぬるとした壁に水をかけ、それをブラシでこすり始めた。
いずみとか他のメンバーは、網ですくい上げられたゴミを集め、ザルに入れそれを干している。

「ねぇ! 大変だよ! こんなことをしてたら、みんな死んじゃうよ! 息が苦しくなって、動けなくなる。早く上がってきて!」

 作業をしていたいずみは、ついにイラッとしたらしい。

「あー、もう。宮野くんのそういうの、もういいから。だからみんなから『王子』って呼ばれてんの、知らないの?」

 必死の訴えにも、誰も耳を貸さない。
僕はこんな水の中には入れないけど、奏にもしものことがあったら、もちろん迷いなく飛び込むつもりだ。
タオルの端を握りしめる。
だけどどうせ助けるなら、プールサイドから近い方がいい。

「奏! できるだけこっちにいて」

 だったら何とか助けられると思う。
そう思って手招きしているのに、彼女は知らんぷりだ。
心配している間にも、水はどんどん引いていき、汚いプールの底が顕わになってゆく。

「ほら。宮野くんも見てないで、洗剤入れるの手伝って」

 プールに入っていない部員たちは、大きなボトルに入った液体を、バケツに移し替えている。
そこに水を入れ薄めたものを、いくつも用意していた。

「僕は奏から目が離せないからだめ」

 プールの底でゴミを集める岸田くんに向かって、僕はしっかりと宣告しておく。

「もし奏になにかあったら、絶対に許さないからな!」
「おーい。かなでー。あいつ何とかしろー」

 いつの間にか網からブラシに持ち替えた奏は、プールの壁面を元気にこすり始めていた。
それでも僕は、彼女が心配で心配で仕方がない。
ずっとプールサイドから彼女に寄り添う僕に向かって、やっと奏が口を開いた。

「ねぇさぁ。私は死なないから、みんなの手伝いして」
「絶対? 絶対に約束する?」
「約束する」
「本当だね」
「本当だから! ちゃんとみんなの手伝いして」

 くそっ。
だけど奏がそうやって約束してくれるのなら、従うしかない。
僕はタオルを頭に巻いたまま、渋々プールの上から洗剤の入ったバケツを彼女に渡した。

「ちょっとでも気分が悪くなったら、すぐ僕に知らせて」
「……。いや、中に入ってもない人にそんなこと言われても……」

 時折奏をチェックしながら、仕方なく掃除を手伝う。
初夏の照りつける太陽は午後になっても衰えなくて、額の汗はそのままタオルに吸われていった。
奏たちは渡したバケツに入っている液体にブラシの先を漬けると、茶色くなった床をこする。
水道に繋いだホースを持った人間が、壁面に残る汚水を流した。
水泳部員総出でそんなことを続けるうち、汚かったプールが徐々に綺麗になってくる。
その光景に、僕は頭に巻いたタオルを外した。
あれだけ汚かったプールの、真っ白な本来の姿が見え始めている。

 ホースの水が宙を舞い、キラキラと輝くそれは、中に入っていた部員たちの頭上に降りかかる。
掃除の終わりが見え始めた頃には、みんなすっかり遊び始めていた。
ブラシを剣のように振り回してるのもいれば、一列に並んで一斉に走り出し、スピードを競っているのもいる。
歓喜の悲鳴が上がり、奏は岸田くんたちと一緒になって、なにやら陣取りゲームのようなことをしていた。
肩と肩をぶつけ合い、お互いの陣地とした床をこすり合う。
飛び散った水は奏の頬を濡らし、それをかけてきた岸田くんに彼女は同じようにやり返す。

「……。奏、楽しそうだね」
「宮野くんも混ざってくれば?」

 僕はもうすっかりすることがなくなってしまったので、プールサイドにしゃがんで眼下に広がる奏たちの様子を見ている。
同じように退屈したらしいいずみが隣に並んだ。奏も岸田くんも、すっかりびしょ濡れだ。

「いずみはどうして行かなかったの?」
「……。私は、あそこに入ってもすることないから」

 いずみの視線は、僕と同じように奏と岸田くんを見ていた。

「なんで? 一緒に掃除すればよかったのに。することは沢山あったよ」
「自分だってそうでしょ。さっさと行けば、この仲間に入れてもらえたかもしれないのに」

 沢山の人間が、狭いところに詰まってふざけ合っている。
中にいるのと外から見ているのとでは、見える景色が違うんだ。

「あんな汚いところに入るなんて、気が知れない」
「あぁ。あんたにとってはそうだったね!」

 いずみは突き放したようにそう言うと、折りたたんだ膝を抱え込み、びしょ濡れのままふざける奏をじっと見ていた。

「そんなの、行ったって、自分が空しくなるだけよ」
「……。そうなの?」

 岸田くんが笑うと、奏も笑う。
奏の手が彼の腕に触れ、岸田くんは彼女を腕につかまらせたまま、また笑った。
奏はまた別の男の子を追いかけて、走り回っている。

「……。そっか! 筋トレを続けていれば、これが出来るようになるんだ!」
「もういい。あんたとはしゃべらない」

 いずみが行ってしまった後には、一本のブラシが残されていた。
いずみは、本当は中に入りたかったのかな。
初夏の夕陽が沈みかけている。
綺麗になったプールの壁や床をもう一度水で流し、あふれた水を排水溝へ集め流し込む作業に移っていた。
これくらい綺麗になったプールの底になら、入れそうな気がする。
勇気を出して、ちょっと入ってみようか思ったのに、奏が出てきちゃったから、もう本当にお終い。

「ほら。片付け手伝って」
「じゃあ、今度は奏と一緒にやる」
「いいよ。一緒にやろ」

 使い終わったブラシをまた水で流して、壁に立てかけた。
このまま明日まで干しておくんだって。
僕と奏はみんなと一緒に、乾いたゴミをビニール袋に詰めて捨てに行く。
奏はもうさっきまでの、岸田くんと一緒の時みたいに笑わない。
それがなぜだかこんなに近くにいるのに、彼女を遠く感じさせる。
帰り支度を済ませ、更衣室から出た広場でいつものミーティングが終わると、解散となった。

 歩き出した岸田くんに、今日は誰よりも早く、一番にいずみが駆け寄った。
彼に声をかけ、親しげに身を寄せる。
岸田くんといずみは、歩きながらじっと何かを話し合っているみたいだった。
それに気づいた奏が、僕にそっとつぶやく。

「ね。宮野くん。一緒に帰ろ」

 奏からの誘いを、僕が断るわけがない。
僕と奏は、岸田くんといずみが歩く後ろ姿を眺めながら、西日の差す校門まで歩く。

 何を話そう。どんな話しをしよう。
奏としゃべる機会が出来たら、あれを話そうこれを話そうと色々考えていたのに、そうなったとたん何一つ思い出せない。

「奏は、岸田くんと仲良しだね」

 ふと思いつき、さっきまで目にしていた光景を、口に出してみる。
さっきまでの奏は楽しそうにしていたのだから、今つまらなさそうな顔をしている彼女も、きっと喜ぶに違いない。

「そうかな。そんな言うほど、仲良くはないよ。同じ水泳部員ってだけで」

 僕の予想に反し、彼女の表情はますます沈んでゆく。

「なんで? さっきまであんなに楽しそうにしてたのに」
「そうだけど。それとこれとは、また話が違うじゃない」

 プール掃除に疲れた体で、顔を上げた彼女の視線の先には、岸田くんといずみがいる。
今日の二人は、いつも以上に大切な秘密を分かち合いながら歩いているようだ。

「何だか、よく分かんなくなってきちゃった」
「なにが?」
「岸田くんが、なに考えてるのか」
「え? 奏のこと好きだと思うよ」
「前はもっと、違う話も色々してたのに最近は全然。部活のことばっかりで、『今日なに食べたー』とか、『なにしてんの』とか、そういうのはなくなっちゃった」
「奏は、今日なに食べたの?」

 僕の大切な彼女が落ち込んでいる。
オレンジ色の光が、彼女の横顔を柔らかに包み込む。
奏が聞いて欲しいのなら、僕はなんだって聞いてあげる。

「別に、そういう話しが本当にしたいんじゃなくて、同じ時間を共有したいってゆうか、興味もたれてないんだなーって思うのが、ちょっとアレだよね」
「アレって?」
「はは。なんだろ。寂しい? とかなのかな」
「奏は寂しいの?」
「ううん。寂しくはないよ。ちょっと残念」
「ざんねん?」
「ごめん。難しかったね。もう忘れて。じゃあ、また明日」

 奏は学校の門をくぐると、すぐに駆け出して行ってしまった。
まだ空に残っていた夕陽だけが彼女を追いかける。

 僕には人間のことはまだよく分からなくて、奏と岸田くんとの間になにがあるのかなんてことは、もっと分からなくて、だけど奏が悲しんでいるのなら、それは何とかしてあげたいと思う。

 ゆっくりと色をなくしてゆく景色の中を、彼女は岸田くんといずみに追いついた。
彼の肩にポンと触れ、笑顔で見上げる。
その姿は僕にはとても寂しそうには見えなかったけど、奏自身がそう言っているのだから、彼女は今も寂しいと思っているんだ。
そんな彼女に僕は、自分の出来ることなら何でもしてあげたいと思った。


第9章


 水泳部のプール使用が解禁されたとかいう日は、よく晴れて日差しも強い日だった。
海にいたころには知らなかった汗も、大量にかく。
なんだが自分の体がベタベタして臭うようで、気持ち悪い。

 その日の奏は、朝からうれしそうにしていた。
岸田くんもだ。
プールの始まるのが、よっぽどうれしいらしい。
奏がうれしいのなら、僕もうれしい。
だから、寂しいと言った彼女のことはまだ気になっているけど、今がそうでないのなら、よかった。

 放課後が来ると、奏は一番に教室を飛び出した。
奏の向かった先は分かっている。
僕は奏との約束で声をかけたくても話しかけられないので、急いで彼女の後を追いかける。
岸田くんも一緒に飛び出した。

「やっとこの日が来たぜ、宮野!」

 彼まで上機嫌で、走っちゃいけない廊下を走っている。

「よかったね」

 僕がそう言うと、岸田くんはなぜかちょっと驚いたような顔をした後で、すぐに笑った。

 先にプール前広場に来ていたいつも不機嫌な感じのいずみも、珍しく楽しそうにしていた。
今日は水泳部の他の人間たちの様子も違うし、行動も違う。
更衣室に入り、いつものジャージに着替えようとした僕に、岸田くんは何かを投げてよこした。

「宮野、今日からはこっちだ。いずみが注文してくれていたやつが届いてるぞ」

 渡されたのは、ツルツルの生地で出来た、丈の短いショートパンツだ。

「え? なにコレ。ヤダよ」

 この狭い部屋で毎日のようにみんなと一緒に着替えていたから、裸の自分でも見た目は人間の体になっているのだということに不安はない。
だけど、他の服を全て脱ぎ捨て、この一枚だけになってしまうのには、さすがに抵抗がある。

「早くしろ。みんな同じようなの着てるぞ」

 確かに、岸田くんもそうだし他の連中も同じように上半身は裸のまま、膝上までのぴったりとしたパンツ一枚になっていた。
人間というものは、本当に見た目を揃えるのが大好きだ。
僕は仕方なく、同じ格好になる。

「なにコレ、きついんだけど」
「それでいいんだよ」

 この黒くてつるつるした生地は肌に吸い付きピチピチしすぎていて、ちょっとどころではなくかなり着心地が悪い。
もたもたしている僕を残して、他の人間は全員、いつも使わない更衣室の奥の扉から出て行ってしまった。
それにしても、いくらなんでもほとんどハダカな感じで外に出るなんて、恥ずかしすぎない? 
まぁ人魚だった頃は、そもそも服なんて着てなかったんだけど。

 鱗のなくなった柔らかい生まれたての肌を、そのまま晒しておくなんて出来ない。
僕はいつもいずみが用意してくれているタオルを手にとると、それで全身をくるんだ。
きっと、さっきみんなの出ていったこっちの扉から外へ出ないといけないんだよね。
ドアノブに手をかけ、重たいそれを押し開けると、コンクリートの狭い通路に出た。

 壁の向こうからは、楽しそうに騒ぐ声が聞こえる。
そのなかに奏の声もあることを確認してから、僕はそこを通り抜けた。
出来たての足が、焼け付くような日差しで熱くなったコンクリートに焼け出される。
地下牢のような通路を抜けると、視界は一気に広がった。

 キラキラとした眩しいほどの光を浴びて、透明すぎる水が輝いていた。
プールというのは、大きな器に入れた綺麗な水のことだったんだ。
だけどこんな小さな水たまりを、奏たちはずっと待ちわびていたのだろうか。

「あぁ。だからみんなで掃除したんだ」

 あのドロドロと汚かったプールは、すっかり生まれ変わっていた。
そのプールサイドで、簡単なストレッチが始まっている。
なんだ。
結局、この小さな水たまりにきれいな水を張っても、することはいつもと同じじゃないか。
わざわざ裸でやる意味が分からない。
暑いし変なショートパンツにまだ慣れないし。
僕は大きなバスタオルにすっぽり身を包んだまま、みんなの一番後ろの隅っこでストレッチをする。
男子はみんな僕と同じような格好をしていて、女の子の方は体にピタリとした胴体だけにこのヘンな布を貼り付けたような服を着ている。
奏もそうだ。
だけどいずみだけは、いつもの紅藻色のジャージで、小さな日陰に入り何かの作業をしていた。
いずみはいいな。
この体操が終わったら、今日は僕はいずみのそばで休もう。
夏になりたての日差しは直接肌に当てると体が痛い。

「おっしゃ、行くぞ!」

 岸田くんの一声に、水着というらしい服一枚になった部員たちが、一斉に水へ飛び込んだ。
彼らはバシャバシャと水しぶきをあげ、水面にずっと体を浮かべたまま前に進む。
あぁ。そういえば、人間はこういう泳ぎ方をするんだった。
いつも遠くから見ていた光景が、目の前にある。
それを少し眺めていただけで、自分のものになったばかりの二本の足の裏が、焼けるように熱くなったことに、ちょっと怒っている。
階段状になったコンクリートの上に上がると、いずみのいる日陰に寝転がった。
彼女はどこからか出してきた細々とした色んなものを並べその数を数えていたけれど、その手をとめる。

「宮野くんは泳がないの?」
「どうして?」
「いや、こっちが聞いてるんだけど」
「気分が悪いんだ」
「体調悪いの?」
「ちょっと違う」

 それは、体を締め付けるぴちぴちした水着のせいだけじゃない。
この臭いだ。
きれい過ぎる水からたちこめる異臭に、頭が痛くなる。

「汚いプールよりかはマシだけど、きれいなプールもやっぱり臭いよね」

 いずみはうんざとした様子で大きく息を吸ってから、思いきり吐き出した。

「あのね、そういうとこ」
「なにが?」
「奏が怒ってるの」
「え! 奏が怒ってるの?」

 もっと詳しく聞きたいのに、いずみはフンと鼻をならしただけで、どこかへ行ってしまった。
僕はこの小さな日陰から動きたくないから、まだここにいる。
鼻をつく酷い臭いに痛む頭と、照りつける夏の日に火照った体で、水たまりを見下ろす。

 バシャバシャと死にかけた魚のように泳いでるくせに、きれいに一列にならんで順番にお行儀よく泳いでいる光景は、とても不思議だ。
水面であんなに水しぶきをあげていたら、すぐにシャチとかサメが来て食べられちゃう。
見つけてくださいって、いってるみたいなもんだ。
あいつら容赦ないからな。
必死で逃げまわる切羽詰まった瀬戸際の魚みたいなのに、楽しそうにしているのは違和感しかない。
跳ね上がる水しぶきとキラキラ光る水面の合間に、奏を見つけた。

 彼女は一生懸命に泳いでいた。
四角い小さな水たまりの長い方の距離を、壁に行き当たっては折り返し、また折り返しを何度も繰り返し、飽きることなく往復している。
筋トレもそうだけど、人間というのは、同じことをいくら繰り返しても飽きない性分らしい。

「あー。ダルいし気持ち悪いし退屈すぎ」

 奏のことは見ていたいけど、とにかくここでは気分が悪くなる。
もう寝るしかない。
頭にタオルをかぶると、そこで目を閉じた。

「宮野。お前も来いよ」

 しばらくそうやって道具の数を数えててばかりのいずみの横で休んでいたのに、プールから上がってびしょ濡れの岸田くんがやってくる。
仕方なくタオルをから顔をのぞかせているだけなのに、彼は全身から水をぽたぽた垂らしながら、僕のタオルを奪いとった。

「やだよ。水は臭いし水着は気持ち悪いし。みんな何してるの? いつもの筋トレはまだ?」
「あーもう。説明するのも面倒くせぇ!」

 彼は突然、僕の腕を掴むと強く引き寄せた。

「うわっ! なにすんのさ」

 ベンチに寝転がっていたのに、あっという間に水際まで連れて行かれる。

「え。なになに? ちょっと待って!」
「うるせー。これが水泳部ってヤツだよ!」

 彼に背を押され、ドボンと水中に放り込まれる。
見た目よりずいぶん冷たい水に、体が沈んでゆく。

「ごたごた言ってねーで、お前も一回泳いでみろ!」

 ここに入る気がしなかったのは、透明できれいすぎる水と、そこに混ぜられた変な薬のせいだ。
早く抜け出したい。
僕はすっぽりと全身を水中に沈めたまま、壁を蹴り反対側まで一気に泳ぎ抜けた。
じゃないとすぐに岸田くんに捕まっちゃう。
水深なんてあってないようなものだから、泳いでいた人間の真下や横をするするくぐり抜け、ぶつからないようにするのが精一杯だった。
鱗もないんだし。
固い底のコンクリートに体をすりつけでもしたら怪我しちゃう。
そして何よりも、このきれいすぎる水が気持ち悪い。
僕の出せる最速でプールの反対側にたどり着くと、すぐにこの薬液から抜け出した。

「ねぇ。シャワー浴びてきてもいい?」

 本当は、この水道というところから出てくる水だって、あんまり好きじゃない。
だけど、このプールの水よりはずっとマシだ。

「あ……。あぁ。うん。いいよ」

 岸田くんは、まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように、ぽかんと僕を見ている。
いずみまでもが、大きな口をぽっかりと開けたまま閉じるのを忘れていた。

「なに?」

 みんなと違うことをすると、普段はすぐに岸田くんといずみは怒り出すのに、今は何も言わないまま2人はただ首を横に振る。
シャワーを浴びて戻って来た僕に、岸田くんは言った。

「なぁ、宮野。もう一回泳いでみて」
「やだよ」
「なんで」
「気分が悪いんだ」
「体調悪いのか」
「だから、それとはちょっと違うんだって」

 この臭い水の中にもう一度入りたくないだけなんだけど、そんな本当のことを言ったらまた怒られそうだからやめておく。
奏はこの水の中でも、楽しそうに泳いでいたし。

 再び階段ベンチの日陰に戻った僕に、岸田くんは何も言わなかった。
彼はプールに戻ると、また人間特有の泳ぎ方でバシャバシャ泳ぎ始める。
いずみがタオルを持ってきて、僕に渡してくれた。

「宮野くん。熱でもあるの? 今日は見学にしとく?」
「いや。体調はわるくないよ」
「だって気分悪いって」
「だから、それとはちょっと違うと思う」
「そうなの?」
「うん」

 再びコンクリートの上に打ち付けられた、固いプラスチックの板に寝転がる。
この水着というものは、水に濡れると気にならない程度の履き心地になるらしい。
下半身の締め付けからは、ようやく解放された。

「宮野くん、すごいじゃない」

 頭にタオルをかけたとたん、プールの臭いをさせた奏がやって来た。
もちろん僕は飛び起きる。

「すごい。お魚みたいだった。ねぇ、もう一回泳いで見せて。お願い」
「あ……、うん。それはいいけどさ。ちょっと休憩させて」

 その言葉に、断られると思っていなかった彼女は、少し戸惑ったようだった。
奏の頼みなら、きいてあげられないわけではないけど、とにかく今はこの水のせいで気持ちが悪い。

「あぁ、うん。別に無理はしなくていいの。全然。私も宮野くんが泳いでいるところを、もう一回ちゃんと見たいなっていう、それだけだから」
「約束はちゃんと守るよ」
「じゃあ、また後でね」

 奏との約束。久しぶりの約束だ。
奏の方から話しかけてきてくれたことが、何よりもうれしい。
彼女はまた水の中へ戻ってゆく。
その二本の足が、もし大きな人魚の尾びれだったなら、きっともっときれいだったろうなんて、今さらのように思う。
ここが僕たち以外他に誰もいない海の中で、彼女が人魚だったら、僕はきっともっと上手に接することが出来ただろう。
彼女ともすぐに、仲良くなれたに違いない。
寝ているふりして階段の上から彼女を眺めながら、ついそんなことを考えてしまう。

 しばらくして、いずみの合図で泳いでいた全員が水から上がってきた。彼らも少し休憩するみたいだ。
再び奏がやって来る。

「ね、お願い。もう一回だけでいいから、50メートル泳いでみて」
「50メートル?」
「そう。このプールを、一回泳いで、折り返して戻ってきて」

 奏との約束だから、今度は彼女に言われるがまま、僕は素直にプールの端に並んだ台の上に立った。

「あ。ねぇ、ゴーグルは?」
「いらない。ここからあの端っこまで行って、また戻ってくればいいの?」

 彼女はうなずく。
いずみが合図を出してくれるらしい。
水泳部員たちは、プールサイドにびっしりと並んで、僕を見ることにしたようだ。

「用意、スタート!」

 本当はこんな臭う水なんかで、泳ぎたくはないんだけど。
いずみの合図で、それでも僕は真っ直ぐ伸ばした腕から、水中へ飛び込んだ。
浅すぎて水底まで届く光に、視界は良好だけど、目がやたらヒリヒリする。
やっぱりこの水は、なんかヘンだ。
まばたきを一つする間に壁までたどり着くと、そのまま水中で方向転換して、もとの位置へ戻る。
そうだ。
僕はもう人魚ではないから、人間みたいに頻繁に呼吸をしなくちゃいけなかった。
息継ぎをしようかとも思ったけれども、ゴールも近いし面倒くさいからやめる。
そんなことより、早くこの水から上がりたい。
スタート地点の壁に手をついてから、水面に顔を出した。
特に息は苦しくならなかったけど、それでも潜っていられる時間は、以前よりだいぶ落ちているようだ。
水から上がった僕に、いずみはぼそりとつぶやいた。

「ねぇ、信じられない記録なんだけど」

 見ていた岸田くんは、イラついたように舌を鳴らす。

「ふざけんな。あんなドルフィンキックだけのバサロでいくら泳いだって、ダメに決まってるだろ」

 タオルで臭い水を拭いている僕に、岸田くんは詰めよった。

「お前、今まで本当に泳いだことなかったのかよ」
「え。ないよ」
「は? 喧嘩売ってんのか。マジで誰にもなんにも教わってないんだな」

 僕にはどうして、岸田くんが怒っているのかが分からない。
だって、人間になってからの話しだよね。
人魚の時のことは関係ないよね? 
大体僕は、あんな変な泳ぎ方なんて、したことない。
不安になって奏を振り返る。

「いいの! いいのよ、宮野くん。今はこれでも、これから覚えればいいんだから、それでいいじゃない」

 むき出しの腕に、不意に奏の手が触れた。
僕はそれにびっくりして、触れられたその部分だけが、僕の肌ではなくなったみたいになる。

「ね。これから一緒に、泳ぎ方を覚えよう。私が教えてあげる」
「う、うん」

 彼女にそんなことを言われて、逆らえるわけがない。

「本当に奏が教えてくれるの?」
「教える。教えてあげる!」

 陸に上がってから初めて、奏が本当にうれしそうな顔を僕に見せてくれた。

「今からちゃんと、練習しよう!」

 僕はその瞬間、この臭い水も熱いコンクリートも、ちゃんと我慢することに決めた。



第10章


 そんなことがあってから、奏は急に僕に親しく接するようになってくれた。
学校に来ると一番に僕のところへやって来て、ペラペラの薄くて人間が泳いでいる写真ばかりの本を開き、何かを一生懸命しゃべっている。
僕には彼女が何を言っているのか、さっぱり分からなかったけど、嬉しそうに話す奏を間近で見ているだけで十分だった。
岸田くんもやってきて、奏と一緒になってずっとしゃべっている。
僕はそれに適当な相づちをうちながら、楽しそうに話す二人をみている。

「はい。この雑誌、宮野くんにあげる」

 奏からの初めてのプレゼントだ。

「ちゃんと自分でも読んでおいてね」
「うん」

 そのペラペラの本に映っている人間は、他のみんなと同じく盛大に水しぶきをあげて泳いでいて、正直こういう泳ぎ方はどうなのかとまだ思っているけど、これが人間流だというのならそれでもいい。
奏もそんな泳ぎ方するし。

 陸の太陽は海よりも暑くて、空が悲鳴を上げているのかと思ったら、これはセミという虫の鳴き声なんだって。
陸には海にはない生き物がいっぱいいる。

「まずは飛び込みのルールから覚えないとね、姿勢良くきちんと飛び込まないと、突然『失格!』なんて言われることも少なくないから。飛び込み台に向かう時から、笛の合図まで一連の流れを覚えよう」

 放課後になって、プールへ向かう道のりを、奏と二人並んで歩いている。
いつかこうなると思ってはいたけど、いざそうなるととても嬉しい。
楽しそうに話す彼女の隣で、僕は形のいい目元と頬骨付近ばかりを見ている。
あの変な臭いのするプールに毎日浸かっているのにもかかわらず、奏の髪からはとてもいい匂いがした。

「宮野くんは、何が得意? やっぱりバタフライかな。クロールとか平泳ぎは出来る? どんな泳ぎ方をしたって、うちのどの男子部員より、全部速そうだけど」
「泳ぎでは負けないって言ったよね」
「そうだったっけ。だけど、本当にこんなに凄いと思わなかったよ」
「見直した?」
「あはは。見直した見直した!」

 奏さえ笑っていてくれるのなら、僕は何だっていいんだ。
彼女の微笑みに、僕は満足している。

「そういえば、岸田くんが困ってたよ。リレーのメンバーどうしようかって。宮野くんの出られそうな種目と距離も考えなくちゃって」
「そうなの? 奏は、岸田くんとお話出来たんだ」
「嬉しそうだったよ。すっごく。みんなもびっくりしてた」

 僕の隣で笑うこの彼女のためなら、僕は何だって出来る。

「よかったね」
「岸田くんはずっとバタフライだったんだけど、宮野くんに譲るって言ってたよ。宮野くん体力ないから、長距離は岸田くんが出て、短距離を任そうかって」
「そうなの?」
「うん。まだどうなるのか、ちゃんと決まってないみたいだけどね。他の部員との調整もあるし」

 彼女に寂しい思いはさせたくない。
僕は必ず君を笑顔にしてみせる。
もうすぐ部室に着くから、一旦はお別れするけど、またすぐ一緒になれるのはいい。

「ねぇ奏。今度から、僕から話しかけてもいい? 泳ぎ方とか、他にも色々聞きたいことがあるんだ」
「え? そんなこと、まだ気にしてたの?」
「奏との約束は、ちゃんと全部守るよ」
「あー……。うん。分かった。じゃあね、一回リセットしよう」
「リセット?」
「そう。私とした約束は、全部なし」
「どういうこと?」
「気にしなくていいよってこと!」

 プール前の広場につくと、彼女は女子更衣室のドアに手をかけた。
僕はそこには入れない。
せっかく許可がもらえたのに、今日はこれでお終い?

「着替えたら、一緒に泳いでくれる? 平泳ぎってのが、よく分からないんだ」

「了解!」

 彼女のその笑顔は、海より熱い真夏の太陽とジメジメする空気も吹き飛ばす。
いつも避けるように遠くからひっそりと僕を眺めていた奏の目が、とても柔らかく自然になった。
よかった。
これから少しずつ、少しずでもいいから、彼女はきっと僕のことを好きになる。
僕は彼女と恋をする。

 そう思っていたのに、水着に着替えてプールサイドへ上がったら、待っていたのはガッツリ腕組みをして、異様に気合いの入った筋肉ムチムチの岸田くんだった。

「よし、宮野! 今日から特訓だ!」
「やだよ。僕は奏に教えてもらうって約束したんだ」
「なんで俺じゃダメなんだよ」
「そんなの、ダメに決まってるでしょ」

 僕は足からドボンと水に飛び込む。
いずみが貸してくれたビート板というのが、最近のお気に入り。
このつるつるしたピンクの板につかまっていると、体がぷかぷか浮かぶのが凪いだ海の中にいるようで心地いい。

「まずは平泳ぎだ。見たことないって言ってただろ。とりあえす体の動きは覚えてきたか?」
「僕は奏の言うことしか聞かないよ。奏に教えてもらうって約束したんだもんね」
「うるせぇ。男子部員の面倒をみるのは俺だ!」

 奏の姿を探しても、プールのどこにも見つからない。
まだ更衣室から出てきてないみたいだ。
本当に女の子というのは、色々と時間がかかるらしい。
それは人魚も人間も変わらないんだ。
岸田くんから泳ぎ方のアレコレを説明されても、何にも楽しくない。
そして奏がいないプールなんて、どうだっていい。

「だから潜ってばっかじゃダメだって、何度言ったら分かるんだ」
「でもその方が速いよ」
「それはみんな分かってるし知ってるけど、そういうルールなんだよ」
「じゃあなんでそうやって泳がないんだよ。意味分かんない」

 人間の作ったルールというやつは、本当に分からない。

「こんな変な泳ぎ方して、何が楽しいの?」
「うるせー、お前に変とか言われても、全然何とも思わねぇし!」
「あ。奏が来た」

 ようやく出てきた彼女に手を振る。

「かなで! 早く平泳ぎ教えて!」
「ちょっといずみとお話しがあるから、先に岸田くんに教えてもらってて」

 なにそれ。
僕は奏がいなければ、こんなところにだって来てないし、ビート板と一緒に浮かんでなんていないのに。

「ほら。愛しのカナデチャンの仰せだぞ」
「あーもう飽きたぁ」
「まだなんもやってねぇよ!」

 僕がプールの隅っこで、岸田くんからあれこれ怒られている間にも、他のみんなは両腕をぐるぐる回したり、左右に伸ばしたり引いたりしながら、バシャバシャ水しぶきを立て、ひたすら往復運動をくり返している。
岸田くんはずっと一人で一生懸命何かしゃべってるけど、僕は別に彼と話したいわけではないから、楽しくはない。

「なぁ、お前聞いてる?」
「あんまり」
「あぁ。もういいよ。俺もぶっちゃけ飽きてきたし」

 文句を言うことに疲れたらしい彼は、ようやく僕のそばを離れた。
水に浮くレールをくぐり、その壁際で水面に頭を引っ込めると、ついと壁を蹴って泳ぎ出す。
僕の目は、自然と彼を追いかけていた。

 岸田くんは、筋トレの時もそうだったけど、やっぱり他の人間とはちょっと違う。
人間特有の変な泳ぎ方には間違いないけど、動きがシャープでキレがある。
他の人間より、ずっと速い。
なるほど。
そんな彼の泳ぎを見ていれば、ここのルールでは岸田くんが一番になるはずだ。
彼の泳ぎ方を見ていると、人間の泳ぎ方というのも、見方によってはこれはこれでいいのかもしれないと、初めて思えた。

 ビート板につかまったまま、そんなふうにぷかぷか浮いて他の人間が泳いでいるのをみていると、ふとそこに奏の姿を見つける。
全員が帽子をかぶりゴーグルもしているから、誰が誰だか分かりにくい。

「かなで!」

 僕が手を振ると、ようやく彼女はこっちを見た。
その彼女に、岸田くんが何かを話しかける。
奏は岸田くんといくつかの言葉を交わしてから、こっちへやって来た。

「奏が平泳ぎ教えてくれるって言ったから、ずっと待ってたのに」

 ビート板につかまり浮かんでいる僕を見て、彼女は笑った。

「岸田くんの方が色々上手だから、その方がよかったかもよ」
「僕は奏の方が好き。奏がいい」
「はは。じゃあ平泳ぎからね」

 奏が僕に向かって話し始める。
僕は何も知らないフリをして、彼女に質問する。
教室でプールの雑誌は見せられてたし、さっきの岸田くんの話だって、全部じゃないけど少しは聞いてあげていたから、もう平泳ぎが全く分からないわけじゃない。
それでも僕は、できるだけたくさんの声を、奏の口から僕にだけ発せられる言葉を、もっと聞きたくてそうしている。

「ね、奏は平泳ぎ好き?」
「好きだよ」
「クロールは?」
「クロールも好き」
「僕はバタフライかな。平泳ぎはあんまり好きじゃない」
「あ。でもやっぱり、全部練習しないとダメだよ」
「なんで?」
「個人メドレーは?」
「なにそれ」
「あー。そっか……。本当に何にも分かんないんだね」

 奏は困ったような顔をした。
僕はもっと分からないので、そのままぽちゃりと水に沈んでおく。

「これは大変だ。次の予選会の出場メンバー。男子は揉めそうだね」

 それでも、奏といるのは楽しい。
毎日プールの水に漬かっているせいで、最近は全身にあの独特な臭いが染みついてしまったみたいだ。
こんな臭いをつけて海の仲間に会ったら、きっとめちゃくちゃ嫌がられるだろうな。
僕だって本当は嫌だけど、なんとなく慣れてはきた。

 その奏が困っていた予選会が近いとかで、近頃は昼休みにも岸田くんの周りに同じ水泳部の男子が集まり、なにやら話し合いを続けている。
僕はつまらないから奏のところへ行ってたいけど、岸田くんが「お前もここにいろ」とか言って離してくれないから、動きたくても動けない。
せっかくの自由時間なのに、ようやく話してもよくなった奏に声をかけられず、遠くから見ているだけだなんて、本当に面白くない。

「よし、分かった!」

 その男だらけの輪の中で、急に岸田くんは大きな声を出した。

「なに?」
「今日、練習終わりに選考会する」
「せんこうかい?」
「そうだ。予選会の」

 何となく話しは聞いていたけど、そんなことを勝手に決められても困る。

「僕は大会には出ないよ」
「は? なんで?」
「だって。僕は別に泳ぎたくて泳いでるわけじゃな……」

 その瞬間、岸田くんは僕の胸ぐらを掴むと強く引き寄せた。
いつも以上に真剣な岸田くんが真剣になりすぎている。

「それは、自分のフォームに自信がないからか、それとも他に理由があるのか言ってみろ」
「別に怒ることないじゃないか。出たい人が出ればいいんじゃないかって言ってるだけだし」
「お前は勝ちたくねぇの?」
「何に?」

 ずっと岸田くんとしゃべっていた水泳部員の一人が立ち上がる。

「やっぱこんな奴、試合に出す価値ないだろ! なんでずっと頑張ってきた俺たちが試合に出れねぇんだよ!」
「だけどさ、絶対勝てるって分かってるのに、出さないのはアリなのか?」

 岸田くんとみんながまた言い争いを始めている。
僕は空になった栄養ゼリーを口元にぶらぶらさせながら、早くここから抜け出したいと思っている。
不意に、岸田くんとケンカしていた男の子が、僕に向かって言った。

「宮野。お前リレーって分かるか」
「何それ」
「ふん。やっぱりな。こんな奴、全体からみたって迷惑でしかないだろ。チームワークがない。ルールも知らない。個人戦だけで十分だ。ファールとられて結局負けるだけだって」
「ファールって?」
「はは。ほらね。これで岸田も分かっただろ」
「あぁ、もういい。宮野、お前は黙ってろ」

 岸田くんに突然追い払われる。
「絶対にお前も来い」って呼ばれて来たのに、この扱いは酷くない? 
だけど、おかげで自由になれた。
自分の席に戻ろうと立ち上がると、奏と目が合う。
僕は引き寄せられるようにそのまま彼女に近寄り、目の前の席に座った。

「どうしたの? こっち見てたみたいだけど」

 僕はうれしくてにこにこしながら彼女に話しかける。

「ううん。何でもない」

 奏は自分で「なんでもない」ってそう言ったのに、何でもない様子で大きく息を吐き出し、ほおづえをつく。

「宮野くん。私たち三年生はね、この夏が最後の試合になるから、気合いが違うんだよ。学校対抗戦でも、勝ちたいと思ってるし」
「この夏が最後? じゃあ、もうみんなこれから泳がないってこと?」
「そうじゃないんだけどね」
「この夏が終わったら、もう絶対泳げないってわけじゃないんでしょう? だったら、別によくない? どうしてそんなに一生懸命なのかな」
「さぁね。なんでだろうね。このメンバーで泳げるのが、最後だからじゃない?」
「そんなの、また集まればいいじゃないか」

 この夏が最後でこれでお終いなのは、彼らより僕の方だ。
なにやら言い争いを続けていた岸田くんが、急に僕たちのところへ割り込んできた。

「なぁ、奏からも言ってくれよ。お前の言うことなら、聞くだろコイツ」
「だから、それはそれでさぁ。なんか違うってこの間も……」
「頼むよ」

 いつも岸田くんと話す時は楽しそうにしている奏が、すごく困っている。
困っている奏のことなら、僕は助ける。

「奏はどうしたいの? 岸田くんのお願いは、奏のお願い?」
「あぁ……。そうね。私も宮野くんに、そうして欲しいって気持ちはある」
「だったら、そうしてあげる」

 それなのに彼女は、やっぱり困ったような顔をしたまま僕を見上げた。
それでも僕は、奏と一緒にいられるのなら、なんだっていい。

「じゃあさ、今日は本当に、最初から二人で練習しよう。プールで。ずっと」
「うん」

 そう言った奏はあんまりうれしそうではなかったけど、困ったような顔をしていたけど、それでも一緒にいられるなら、どうだってよかった。

 放課後になって、僕は本当に奏と二人だけでレーンの中にいた。
水の中で二人で並んで、しかも立ってるなんて、不思議な気分だ。

「宮野くんは、何が苦手なんだっけ。平泳ぎ? ルールブックは読んでくれてるんだよね」
「見たよ」
「私も大会に向けて練習したいから、手短に済ますけど、後でちゃんと自分で練習するんだよ」

 今日の天気は薄曇りで、ちょっと肌寒いけど、水の中なら温かい。
奏はぽちゃりと肩までを水に沈めた。

「奏は本当は、自分の練習がしたいの?」
「そりゃそうだよ。学校のプールが使える時間は短いんだから。もったいない」

 奏は自分の目にゴーグルをセットした。ポチャンと頭の先まで水に沈めると、すぐに顔を出す。

「僕はもう泳げるよ。ちゃんと。みんなの見てたから、分かる」

 奏にやりたいことがあるなら、奏のやりたいことをやればいい。

「教えなくていいの?」
「何が見たい? なんでも、奏の見たいものを見せてあげる」

 クロールも平泳ぎもバタフライだって、もうとっくに覚えている。

「じゃ、じゃあ。クロールがいい」
「分かった」

 僕は壁際に移動すると、体を水中に沈めた。
そのまま壁を蹴って泳ぎ出す。
ルールだって覚えた。
潜って泳いでていいのは15メートル。
青い線とその次の赤い線まで。
そしたら浮き上がって、腕をぐるぐる足はバタバタ。
息継ぎはしてもしなくてもいい。
なんだかふざけて泳いでるみたいで、恥ずかしくなってくる。
反対側の壁についたら、方向転換。
そのやりかたは、単純に壁タッチじゃなくて、くるりと一回転。
まぁ、確かにこっちの方が早いよね。
壁を蹴ったら足で掻くのは一回。
ほらもう、奏のところに帰ってきた。

 水面から、そっと顔を出す。

僕は他の人間みたいに、下品に水音なんて立てたりしないんだから。

「ね、ちゃんと出来てたでしょ」
「は、早すぎて、よく分かんなかったよ」

 気がつけば、いつも賑やかなプールが静かになっていた。
バシャバシャ跳ねる水音は完全に消え、みんな立ち止まってこっちを見ている。

「す、凄いね。本当にこんなに泳げるとは思ってなかった」
「奏も、早く泳げるようになりたいんでしょ?」
「う、うん」
「奏はね、膝に力が入りすぎてるんだ。もう少し柔らかく、足を根元から動かす感じ」
「根元から?」
「そう。下半身が下がるのが、もう少し浮いてくると思う」
「あ、ありがとう」
「僕が見ててあげるよ。やってみる?」
「う、うん!」

 奏が一生懸命に水を跳ね上げ泳ぐ姿なら、いくらでも見ていられる。
彼女のどんな質問にだって、何だって答えてあげる。
バシャバシャ飛び散る水しぶきだって、彼女のものなら可愛らしいと思える。

「すごい! 宮野くんの言う通りにしてみたら、ずいぶん体が軽くなった! 楽に前に進めてる!」
「よかった」
「うれしい! ありがとう」

 奏が喜んでいる。
奏にそう言ってもらえるのなら、僕はこんな臭い水の中だって平気。
戻って来た彼女の手を取り、その指先にキスをする。

「大好きだよ奏。僕のことも、好きになってくれる?」
「あー。そのことなんだけど……」

 彼女は僕に取られた手を、スッと引き抜いた。

「私、他に好きな人がいるから。ごめんなさい」
「それは岸田くん?」
「そ、そうだね」
「僕も岸田くん好きだよ。奏と一緒だね」
「はは。そうだよね。よかった」

 奏は困ったように顔を背ける。
奏が岸田くんを好きでも、僕のことも好きになってほしいんだ。
ふと顔を上げると、その岸田くんと目があった。
僕は彼に大きく手を振る。

「おーい! あのね、僕と奏は、二人とも岸田くんのことが……」
「ちょーっと待って!」

 急に彼女に腕を掴まれ、ビクリとなった。

「ねぇ、それを言う時は、私から直接岸田くんに言いたいの。だからそれまでは、岸田くんにも他の人にも、誰にも内緒にしておいてくれる?」
「奏が岸田くんを好きってこと?」
「そう!」
「分かった。いいよ。ちゃんと約束する」

 僕の肌に触れたまま離れない彼女の、手の平からの熱をずっと感じている。
また一つ約束の増えたことがうれしい。
そうやって仲を深めていけばいい。
僕たちのところへ、岸田くんはぽちゃんと飛び込んできた。

「なぁ、宮野。俺にも泳ぎ方教えてくんない?」
「やだよ」
「なんで」
「奏だけ特別。もう今日はお終い」
「は? 何だソレ!」

 彼は一人で勝手にぷりぷり怒っているけど、そんなことは知らない。
無視してぷかぷか浮いていたら、そのうちどこかへ行ってしまった。
他の部員たちのところへ行ってなんかしゃべってるけど、そんなこともどうだっていい。

 僕はビート板に浮かんでにこにこしながら、奏の泳ぐ姿だけを見ている。
水泳部が楽しいと思えたのは、初めてだ。
立ち止まった彼女に手を振ったのに、見えなかったのか気づかなかったのか、反応はなかったけど、それでも僕の教えたことを一生懸命やろうとしてくれているから、僕を忘れているわけじゃない。
そうやって僕はぷかぷかしながら、ずっとのんびり奏を楽しんでいる。

 その日の部活を終え更衣室を出たら、いつものようにすぐ前の広場に奏と岸田くんがいた。
まだ少し髪の濡れている奏は、明るい西日を受けながらなんだかもじもじしていて、そんな彼女に岸田くんは熱心に何かを話している。

「だからさ、奏からアイツに頼むよ。別にお前が損する話しでもないだろ」
「それは分かってるよ。宮野くんから私だけ教えてもらってるってのも、それはみんなのためにならないって思ってるし。みんなも直接教えてほしいよね。私だって水泳部全体のためになればって思う。だけど私は、宮野くんとは特別でもなんでもなくて……」

 そう言って見上げた奏を、岸田くんはムッと見下ろした。

「だから、なんだよ」

 そう言われて、奏はまた恥ずかしげにうつむく。
もしかして奏は、岸田くんに好きだって伝えたのかな。

「何の話してるの?」

 近づいた僕に、岸田くんは顔を上げる。
彼が何かを話そうとした瞬間、奏はそれを止めた。

「わ、私ね、岸田くん。宮野くんに、岸田くんのことが好きって言っちゃった」
「は? 何それ」
「だから、その……。そういうことに、しておいてほしい……」

 奏は顔を真っ赤にしてうつむく。
岸田くんは彼女からの告白を、戸惑う様子もなく静かに聞いていた。
そんなこと、まるでずっと前から知っていたみたいだ。

「今の話は、それとこれと関係ないだろ?」

 奏は顔を真っ赤にしたまま、うつむいて動かなくなってしまった。
岸田くんはイライラと、その茶色いサラサラした髪をかきむしる。

「だけど奏、それは……。そんなふうに思う必要はないからって、ずっと……」

 彼の言葉が終わるより先に、奏は僕を振り返った。
いつものよりにっこりと、彼女は丁寧に微笑む。

「ね。だから、宮野くんゴメンね」
「なにが? 僕も岸田くん好きだよ。奏が好きなものは、全部好き」
「そっか。ならいいんだ。だけど私は、そういうのじゃないから」

 奏は今度はゆっくりと、だけど真っ直ぐに岸田くんを見上げた。

「海に溺れた私を助けてくれたこと、すごく感謝してる。だから好きになったってワケじゃなくて、前からもずっと、そう思ってたから」

 そう言った奏は、じっと彼を見上げていた。
そんな彼女に、岸田くんはゆっくりと言葉を選ぶように話す。

「お前の気持ちは……。その、うれしいけど。俺だって、お前のことは嫌いじゃない。どっちかっていうと、俺だってその……。だから、なんていうか……」

 岸田くんの目が、チラリと僕を気にして向けられた。
それからもう一度奏に向き合うと、意を決したようにすうっと息を整える。

「悪いけど、お前とは付き合えない。俺はいま、そういうことを考えてないから」
「大会が近いから?」
「それもある。だけど、それだけじゃない」
「私とは、付き合えないんだ」
「……。悪いな」
「そっか。ありがとう」

 それを言い終わった瞬間、奏は走り出した。
短いスカートの裾が、パッとひるがえる。
僕にはそんな彼女が、いま泣きながら走っているような気がした。
放ってはおけない。

「待って!」

 急いで追いかけようとした僕の腕を、同時に岸田くんが掴む。

「お前もちょっと待て!」
「何がだよ。放せ!」
「放さねぇよ。いいからちょっと聞け」

 どれだけ振り払おうとしても、押しのけようとしても、力ではどうしたって彼には敵わない。
奏を追いかけていきたいのに、僕はここから動けない。

「放せ! 僕は奏を追いかけなくちゃいけないんだ!」

 殴りたくはないけど、殴らずにはいられない。
彼女をそのままにしておくなんて、そんなことは出来ない。
思い切って振り上げた拳は、だけど簡単に押さえ込まれてしまった。

「なぁ宮野。お前、人魚だろ。俺は去年の冬、海岸で溺れた奏を浜に残して、脱げた靴を履かせてまた海に戻るのを見た」

 体の中で、ボコリと血の泡立つ音が聞こえた。
僕の体に残る人魚としての血だ。
心臓が止まる。
あの時彼女の足からポロリと外れた小さな殻みたいなものが、スニーカーという靴であることを、僕はもう知っている。

「お前が助けた後で、奏を助けたのが俺だ。お前がうちの学校に転校してきた時は、死ぬほどびっくりした」
「見てたの?」

 抵抗しようと腕を動かしても、がっちりと掴んだ岸田くんの手は僕を放してくれない。

「見てたよ。お前が凄い勢いで泳ぐから、水面がさーっと一直線に盛り上がって、それでなんだろって見てたら、勢いよく浜辺に飛び上がった。奏と一緒に」

 振り上げた拳から、力が抜ける。
もう立っているだけの力も残っていない。
僕はその場にガクリと膝を落とした。

「お願い。そのことは誰にも言わないで。じゃないと僕は……」
「だから、奏にまとわりついてんだろ?」
「なんで知ってるの!」
「有名な話しだろ。人魚っていえばさ。たいがいはみんな知ってるよ」

 どれだけ正体を隠しても、隠しきれるものじゃないって、海のみんなも言っていた。
本当のことって、嘘はつけないよって。

「他に、僕の正体を知ってる人は?」
「いずみが知ってる」

 いずみ? いずみか。
そういえばここに来た最初の頃、他の人に比べても、ちょっと僕に意地悪なような気がしてたんだ。
そうか。そういうことだったんだ。

「バカだな僕は。そんなことも知らずにいたんだ」

 岸田くんといずみが知ってるっていうのなら、僕にもう逃げ場はない。

「じゃあ、僕がどうしてここに来たかも知ってるの?」
「人間になりたいってやつ?」
「そう。そうだよ。じゃないと僕は、海の泡になって消えるんだ」

 海の泡になるのは怖くない。
いつだって彼らは僕らのそばにあったし、いつかはみんなそうなる。
暗い海に現れては浮かぶ透明な泡は、優しかった長老の魂で、美しい女王の欠片だ。
だけど僕が何よりも恐ろしいと思うのは、このまま自分が何にもなれずに終わってしまうこと。

「僕は、奏と一緒に生きていかなくちゃいけないんだ。勝手にそう決めたのは、僕だけど」
「俺にはよく分かんねぇけど……。まぁ、お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」
「頼みがある。このことを、彼女に知られたらいけないんだ。じゃないと僕は、もう絶対に人間にはなれない」

 岸田くんを見上げる。
僕の運命は、もう僕一人の力でどうにかなるものではなくなってしまった。

「まぁ、邪魔をする気はないけどさ。協力は出来ないぞ」
「だから奏は、さっき泣いたの? 奏は僕より、岸田くんの方が好きってこと?」
「知らねぇって!」

 もしかしたら彼は、そのために奏の『好き』を断ったんだろうか。
だとしたら、奏が泣いた原因は、僕にもある。

「分かったよ。もういい。黙っていてくれるだけで十分だ。ありがとう」

 震える膝を押さえ、何とか立ち上がる。
自分の体が、もう自分のものではなくなってしまったみたいだ。
たった一つの望みを叶えることが、こんなにも難しい。
自分だけの意志では、自由に動けない。

「俺がお前に協力っていうか、それを黙っててやるのは、別に脅しでもなんでもなくて、俺といずみが、お前に感謝してるからだ。特にいずみは……。あのまま奏にもしものことがあったらって思うと、今でも怖くて仕方がないって言ってる。俺だってそうだ」

 そんな僕に、岸田くんはとても優しい声で言った。

「なぁ、宮野。俺からも頼みがあるんだ」

 彼の茶色の目は、意地悪でもなんでもなく、とても綺麗に澄んだ目をしていた。

「奏以外のやつらにも、泳ぎを教えてくれないか。学校全体で、この夏を勝ちたい。だからその、お願いっていうか、なんていうか……」

 僕はすっかり日の落ちたプール前の広場で、背の高い彼を仰ぎ見る。
ここへ来たころにはよく見ていた外灯に、ようやく灯りがついた。
そんなこと、もう僕に選択肢は残されていないじゃないか。

「うん。いいよ。約束する。ちゃんとみんなに泳ぎ方を教えるよ」
「本当か! 助かるよ。ありがとう」

 岸田くんはすごく喜んでくれて、僕はそれににこりと微笑む。
彼と別れた日の沈む陸の街を、僕は使い慣れない足で歩き始めた。




第11章


 翌日、僕は岸田くんに呼ばれて、水泳部のみんなの前に立たされた。

「今日の練習から、宮野が全体のコーチをしてくれることになった」

 僕の突然の気の変わりように、全体がざわざわしている。
喜んでいるのが半分。
驚いているのが半分って感じ。

「聞きたいことがあったら、なんでも宮野に聞いてくれ。ヒマそうにしてる時に声かければ、それでいいってことになってるから」

 集まって聞いていた水泳部のみんなは、それにちょっと笑っていた。
その笑い方は、いつも教室で向けられる、僕への笑い方とは少し種類の違うような気がした。
僕はそれに嬉しいような悲しいような、少し複雑な気分になる。
ビート板に浮かんでいる時に色々話しかけられ、僕はそれに知っているような分かったような返事を返す。

「凄いじゃない。宮野くん、どうしたの?」

 奏は僕を見上げ、うれしそうにそう言った。

「あんなに嫌がってたのに。それでもやっぱり、いつかはみんなのためにやってくれるだろうとは思ってたけどね。もしかして、岸田くんの説得に負けた?」

「奏は、僕がこうすることはうれしい?」

「もちろんだよ。ちょっと見直した」

 ならよかった。
昨日あんなことがあって、奏はもう学校に来ないかもしれないし、岸田くんのことも嫌いになっちゃったのかもしれないと思っていたけど、奏も岸田くんも、いままでと変わらない感じで接している。
彼女のことが心配で、本当はずっとそばから離れたくないけど、もうそんなわけにはいかない。
岸田くんがやって来て、奏に言った。

「やっぱちゃんと話せば、分かってくれる奴なんだよ。な? コイツいい奴だよ。奏もそう思うだろ?」
「うん。私だってそう思ってたよ」

 岸田くんはずっと奏の前で僕のことを褒めちぎってくれてるけど、なんだか寂しそうに微笑んだ奏は、ぽちゃりと水中に沈んだ。
プールに張られたレーンを移動すると、壁を蹴る。
キラキラとした水しぶきを上げ、彼女は泳ぎだした。

「よかったな。奏に褒めてもらえて」
「そうなのかな。なんだかそんな風でもなかった気がするけど……」

 岸田くんは満足したように僕の肩をぽんと叩くと、自分も泳ぎ始めた。
奏が喜んでくれたのはもちろんうれしいけど、僕に残されたモヤモヤしたものが、自分でもなんだかよく分からない。
近づいてきたいずみは、黄色くて長い髪をサラリと耳にかけた。

「岸田くんから聞いたよ。なんで突然言うこと聞くようになったのか」

 そうだ。いずみも僕のことを知っている一人だった。

「私は応援するよ。奏と宮野くんのこと。もっと本気で頑張ってほしいから」
「本当に?」
「約束する」

 いずみとの約束。
僕はこれから先、どれくらいの人とどんな理由で、どんな約束を交わすのだろう。

「きっとみんなにも、奏にするみたいに優しくしてる方が、奏も宮野くんのこと、好きになってくれると思うよ」
「本当に?」
「本当。嘘は言わない」

 いずみは「うん」と力強くうなずく。
そんなこと、考えもつかなかった。

「だから、ちゃんといい人アピールしておいで」
「いい人アピール?」
「みんなに泳ぎ方を教えるってこと!」

 いずみに言われた通り、僕はみんなから聞かれたことに、色々ちゃんと真面目に答えることにした。
泳いで見せてって言われたら泳いだし、息継ぎのコツも体の使い方も教えた。
それだけじゃなくて、好きな教科とか苦手な先生、昨日食べたものとかにも、聞かれたことにはちゃんと返事をした。
イカとかワカメとか。

 そうやってしていても、奏の方から僕に話しかけてくれることは少なかったけど、それでもふとした合間に彼女と目が合うと、今までにない穏やかな笑みを浮かべてくれるようになった。
いずみの言うことは、嘘じゃなかった。
時々岸田くんの方を、寂しそうに見る彼女の目は変わらなかったけど。

 そんな日々が続き、雨が降ってプールに入れなかったある日、みんなを別の教室に集めた岸田くんが話し始めた。

「もうすぐ今年の予選会が始まります。それに向けてなんですが、今年は色々と変更を予定していて……」

 僕は岸田くんのアドバイスを受け、バタフライに出場することになっている。
他の部員たちと、出場種目を調整してくれたんだって。
一人でどれもこれも全部泳ぐってのは、出来ないかららしい。

「記録会だからって、気を抜くことのないようお願いします。この成績で、うちの学校のランクが決まることになるんで」

 このあたりの水泳部員がみんなで集まって、記録会というのをやるらしい。
公式の大会でちゃんと泳いだ記録を持っていないと、どれだけ速く泳いでも認められないんだって。
選手の登録は、期限ギリギリでいずみが済ませてくれていた。

「特に宮野!」

 突然、岸田くんは僕を名指しする。

「すぐに途中でフォームがくずれ過ぎる。お前の泳ぎは確かに速いが、それでは世間に認められない!」
「あーもう。それ何回も聞いた」

 両手で耳をふさぐ。
泳ぐスピードを競うのに、どうして自分の得意な、より速い泳ぎ方で泳いではいけないのか。
なんでそれを禁止されているのか理解できない。
水中で長く潜るのは禁止とか。

 頻繁に息継ぎをしなければならないという、人間特有の泳ぎ方で競うから、仕方ないのかな。
みんな一緒にーみたいな?

 僕の泳ぎ方だと、他の人間はとてもびっくりするらしい。
だから、知らない人には、あんまり見せられないんだって。
だから僕が出るのは、バタフライだけなんだって。
トビウオみたいにぴょんぴょん跳ねる泳ぎ方は、海にいた時も遊びでよくやってたし、慣れてるから別にいい。
他の泳ぎ方も出来ないわけじゃないけど、もっと早く泳げる方法があるのに、ワザとヘンな泳ぎ方で競争しなければならないのは、ちょっとしんどい。
僕にはどうしても、死にかけの魚みたいに感じる。
だけどここは人間の世界で、人間が人間同士で決めたことだから、そのルールに従わないといけないことは理解できる。
僕だってこれから、その人間になるワケだし。

「他のみんなも、それぞれの出場種目と、公式ルールの再確認をお願いします。あとはとにかく、練習だ!」

 おー!! という歓声が上がって、その日は筋トレ。
雨の日はいつもそんな感じ。
晴れて気温の高い日は、毎日プールに飛び込む。
人間流を覚えなくちゃいけないって言われたけど、結局自分の泳ぎやすいようにぐるぐる腕を回していたら「完璧だよ、宮野くん! やっとコツをつかめるようになったんだね」なんて、奏にほめられたりしたから、きっとそういうものなんだろうと思う。
この世界に生まれ出た瞬間から泳いでいた僕にとって、こんな狭いプーを真っ直ぐ往復するだけってのは、楽しいを通り超して狂気じみている。
奏が好きじゃなかったら、きっと好きじゃなかった。

「やっとフォームが固まってきたね。もともとドルフィンキックは得意だし、あとは腕のタイミングだけだったもんね。バタフライって苦手な人も多いから、メドレーリレーに宮野くんが入ってくれれば、心強いかも」

 いよいよ記録会とかいうものが近づいてきた日、真夏の太陽に照らされ、ギラギラ光る水面のプールで、奏は言った。

「凄く頑張ってるし、努力もしてる……よね。他のみんなだって、最近は宮野くんのこと見直したって、ちゃんと褒めてたよ。そんな風に思ってるのは、私だけじゃないから」

 奏から話しかけられたことが嬉しいのに、その言葉にももっと嬉しくなる。

「ありがとう。そう言ってもらえると、僕もうれしいよ。奏もずいぶん早くなったね」

 彼女はちょっとだけ、にこっと微笑むと、顔の半分を水に漬けぼこぼこさせながら言った。

「私が元気になれたのも、宮野くんのおかげだよ」

 その声は水の泡と一緒になって、すぐに消えてしまったけど、僕にはちゃんと聞き取れた。
泳ぎ去る彼女の水しぶきを見ながら、僕はなんだか頭がクラクラしている。
熱でもあるのかな。心臓だって、なんだかドキドキしている。

 僕はビート板に浮かんで、少し休むことにした。
真夏の太陽の下、小さなプールに沢山の水泳部員たちが泳いでいる。
この最近、ずっと奏以外にもアドバイスをしてきたおかげで、泳ぎの上手い人間とそうでない人間とは、ちゃんと分かるようになってきた。
飛び込み台からバシャリと飛び込む音がして、振り返る。
岸田くんだ。

 人間の泳ぎ方にあまり詳しくなかった僕でも、彼が上手なのはすぐに分かった。
泳ぐスピードの速さだけじゃない。
泳ぐための動作、その流暢で無駄のない体の動きが、彼個人の能力を明確に表している。
他の人とは全然違う。
僕も岸田くんみたいに泳げてるのかな。
彼のようになりたいと、ちょっとだけそんなことを思った。




第12章


 初めての記録会の日は、学校の授業はお休みの日で、朝から水泳部の人間だけが校門に集まっていた。
これからみんなで電車に乗ってバスに乗って、会場となっている大きなプールに行くんだって。
いつもと雰囲気が違うのは分かるけど、他のみんなもドキドキしてなんだか落ち着かない感じ。
会場施設敷地内に入ると、そこで別ルートから来た部員たちとも合流する。
照りつける太陽の下、タイルの張られた広場に、まとめて荷物を置いた。

「ロッカーが4つまでしか使えないから、出場者で順番に交代してね」

 いずみから渡されたプリントには、僕の名前のところにピンク色のマーカーで線が引かれていた。
奏のプリントには、奏の名前にピンクの線。
学校ごとにまとめて記載された出場メンバーの名前欄に、他の人たちに混ざって僕の名前があることは、本当にこのチームの一員になったような気がして、ちょっとうれしくなる。
僕はここで、ちゃんと人間として認められている。

 目の前にそびえる大きな建物の前には、長い金属の棒が立てられ旗が揺らめいていた。
とても大きな会場だ。
僕たちと同じようなチームが、いくつもこの周辺に集まっている。
そうか、この紅藻色のお揃いの服は、仲間を見分けるためのものだったんだ。
岸田くんもずいぶん背が高くてがっしりしているけど、それ以上に大きな人たちをそこかしこに見かける。
この人たちと、これから泳ぐ速さを競うのか。

 もう一度渡された紙に目を落とす。
僕が出るのは、バタフライの個人、100mと200mだ。

「観客席での待機場所が決まったから、出場者以外は移動を始めてください。最初は400の個人メドレー、次が100の背泳ぎと自由形だから、その出場者は、ロッカーへお願いします」

 いずみの言葉に、岸田くんと奏は大きなバッグを持ちあげた。
岸田くんは400の個人メドレーに出る。奏は100m自由形だ。

「あれ? 奏の自由形100の次が僕のバタフライ200だよ? もしかして奏は、僕の泳ぎ見られないんじゃない? ねぇ、それってどうなの? ちょっと順番変えてくださいって、大会の人にお願いしに……」

「俺が代わりに、しっかり見てやるよ!」

 岸田くんは僕の頭を上から押さえつけると、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。

「岸田くんに見てもらっても、全然うれしくないし!」
「はは。じゃあな、宮野。しっかり泳いで、衝撃のデビューを飾れよ」

 岸田くんは、大会最初の種目に出る。
残された僕たちは、2階の観客席に上がった。
見渡す限りの広大なプールだ。
白い壁と客席に囲まれ、真っ青なプールが中央にドカリと置かれている。
天井には小さな旗までぶら下げられていた。
あれは何って聞いたら、その旗を見て、背泳ぎの人が距離を知るんだって。
いつも泳いでいるコンクリートむき出しの、カビ臭い学校のプールとは全然違う。
大きさも倍はあるし、なにより室内プールだし、電光掲示板まである。

「もしかして、50mのプール?」
「そうだよ。だからターンの回数、間違えないでよね」

 奏にも出場予定が早くからあって、更衣室へ行ってしまっていたので、僕はいずみの隣に腰を下ろした。

「100だと1回、200だと3回ね。はい、宮野くんももう一回言って」

 いずみは僕に、ちゃんと念押しすることを忘れない。

「100だと1回、200だと3回です」
「はい。よく出来ました。じゃないと宮野くん、調子よくいつまでも泳いでそうだから!」
「最初が3回で、二回目は1回ね」

 ちゃんと覚えておこう。
じゃないと、また奏にも怒られちゃう。
すぐに大会開始の時間が来て、場内アナウンスが流れた。
とにかく大勢の人がひっきりなしにあちこちで出入りしている。
動画でしか見たことのない審査員も用意されていた。
その人たちも揃って同じ服を着ていて、僕にもすぐに審査員だと分かる。
隣の観客席に座っている学校のグループは、僕のいる学校より随分人数が多い。

「記録会って、凄いんだね。こんなにちゃんとした大会だなんて、思わなかったよ」

 初めての大会にキョロキョロしていた僕に、いずみは言った。

「しっかり選手の動きを見てて。笛の合図でどう動くのか。スタートで失敗して、失格になる人が多いの。宮野くんも気をつけて」

 そうこうしているうちに、女子の400mメドレーが終わった。
次が男子の400m個人メドレーだ。
この学校では、岸田くんが最初の出番になる。
じっと見ていると、プール脇の通路から、彼がゆっくりと歩いて出てきた。
事前にいずみから渡された紙にかかれた通りの、決められたレーンに入る。
4番のところだ。
選手が出そろったところで、長いホイッスルが鳴る。
飛び込み台の上に上がった。

「スタートの横にいる人を、よく見ててね」

 いつもその役は、いずみか別の部員がやっている役。
よく分からない言葉が、突然出てくるやつだ。
その審判長とかいう人が、水平に片手をあげた。
笛がなったら、スタートの合図。

「ピッ!」

 その合図と同時に、選手は一斉に飛び込んだ。
この広い会場中に響き渡るような笛の音だ。
横一列に水しぶきが上がったと思った瞬間、深く潜り込んだ体はぐんぐん進んでゆく。
最初はバタフライ。
岸田くんの泳ぎは綺麗だと前から思っていたけれど、やっぱり他の人間と比べてみても、とても綺麗だった。

「岸田くん、速いね」
「うちのエースだもん」

 いずみはうれしそうに笑う。
くるりとターンして、もう一度バタフライ。
岸田くんのスピードは落ちない。
次のターンのところで、2位の選手が迫ってきた。

「あぁ! 岸田くん、頑張れ!」

 こんな遠くからじゃ、絶対に彼に届いてないことは分かっている。
だけど声に出さずにはいられない。

「がんばれー!」

 ターンと同時に、背泳ぎに変わる。
よくもまぁこんなに、色んな泳ぎ方ができるもんだ。
しかも好きなように泳いでるんじゃない。
手の回し方とか、色々と面倒くさい決まりが細かくあるってのに。
岸田くんが追いつかれた。
2位と3位の選手に並ぶ。

「追いつかれちゃったよ!」
「大丈夫、次の平泳ぎとクロールで、取り返すから」

 くるっとターン。ほぼ3人が横並びになった。
それでもわずかに、岸田くんがリードしている。

「あぁ、がんばれ……」

 これはこれで、見ている方はとても落ち着いていられない。
握りしめた手が、じんわりと汗をかく。
背泳ぎから平泳ぎに変わった。
ターンからの伸びで、岸田くんが他より半身ほど先に出た。

「ね、ターンがどれだけ大事か、よく分かったでしょ」
「分かった分かった。もっと真面目に、ちゃんとするようにするよ」

 岸田くんが他のどの部員より、練習していたのを知っている。
そうか。
だからみんな、今日のために筋トレしたり練習したりしてたんだ。
のんびりビート板に浮かんでる場合じゃなかった。
400mメドレーは一番きつい種目だから、あんまり泳ぐ人がいないって。
だから、勝てる可能性も高くなるって。
岸田くんはそう言って、短い距離を他の部員に譲り、自分が一番しんどい種目に出ている。

 次のターン。
平泳ぎに変わってから、背泳ぎの時より少し余裕が出来たとはいえ、すぐに抜かされてしまいそうな距離だ。
自分が泳いでいるわけでもないのに、なんとも言えない苛立ちと焦りが押し寄せる。

 岸田くんに疲れが出てきたのか、平泳ぎ最後のターンで、また3人が並んだ。
水面に浮かび上がった時点で、ほとんど差はない。
岸田くんの腕が水面に肘から上がって、真っ直ぐ前に伸びる。
そのターンでのひとかきが、彼の始まりの合図のようだった。
自由形といわれるクロールに泳ぎが切り替わったとたん、彼はあっという間に他の人間を後ろにおいていく。

「やった! 岸田くんが抜いてったよ!」

 興奮してしまった僕がつい叫ぶと、周りにいた部員たちは笑った。

「はは。宮野がそんなに、岸田のこと応援してくれるようになるとは思わなかったよ」
「俺たちの時も、それくらい応援してね」
「えっ? う、うん……。もちろん応援するよ」

 そんなことを言われて、逆になんだか急に恥ずかしくなって、自分の顔が赤くなっているのが分かる。
思いがけない言葉に驚いている僕の隣で、いずみは無邪気に笑った。
岸田くんはそのまま逃げ切り、無事1位でゴールを決める。
僕は思わず立ち上がった。

「おめでとう! 岸田く~ん。やったー!」

 大きな声で、岸田くんに向かって叫ぶ。
拍手をして両手をぶんぶん振っていたら、岸田くんはちらりとこっちを見ただけで、特に反応を返してくれない。

「あれ? 聞こえてないのかな」

 そう思って、また彼に向かって叫ぶと、いずみに笑いながら止められた。

「きっと後で、岸田くんに怒られるよ」
「なんで?」
「恥ずかしいからやめろって」

 なんだそれ。
応援されるのが恥ずかしいだなんて、なんだか変わってる。
なんだよ。
人間ってのは、みんな照れ屋さんなんだな。
僕は仕方なくそこに腰を下ろす。
次は一番大事な奏の番だ。
ここまでにいくつかレースを見ていて思った。
僕はくるりと座席に座ったままプールに背を向けると、背もたれに向かってうずくまる。

「あれ、どうした。次は奏だよ。奏は応援しないの?」
「奏のは見ない」
「どうして?」

 ちらりと指の隙間からのぞいたいずみは、もの凄くびっくりした顔をしている。

「そんなの当たり前だよ。奏は何番でも頑張って泳いだし、何をしてたって僕には1番だから」
「あっそ!」

 奏はそこにいるだけでいいの。
怪我とか溺れたりなんかしないで、ちゃんと無事に……。

「違う。そうだ。何かあったら、僕が助けに行かなくちゃ」

 やっぱりちゃんと見よう。
ここからだって、遠いけどきっと1階に飛び降りれないわけじゃないし。
人魚仲間で、こういう競争を遊びでしたことはもちろんあったけど、こんなにドキドキするのは、初めてだ。
奏に自分の泳ぎはどうだったって聞かれても、ちゃんと答えられないし……。
100m背泳ぎの、女子と男子が終わって、次が奏の100m自由形だ。

「あ、ダメだ。なんか緊張してきた」

 もし奏が1番じゃなかったらどうしよう。
それで悔しくて、泣いちゃったりしたらどうしよう。
奏がもし途中で失格なんかになったら……。

 その彼女がプールサイドに現れた。
いつもの奏が、100倍かっこよく輝いて見える。
スラリと伸びた手足と、キュッとしまった体。
奏はいつ見ても綺麗だ。
その奏が、もしも傷ついたりなんかしたら……。
岸田くんが観客席に戻ってきた。

「宮野、お前なにやってんの?」

 僕は顔を両手で覆って、指の隙間から奏を見ている。
緊張で返事の出来ない僕の代わりに、いずみが答えた。

「奏のを見てたら、心臓が止まりそうになるんだって」
「あっそ」

 今の僕は、緊張で怖くてそれどころじゃない。
だけど彼女の勇姿もちゃんと見て起きたい。
奏がスタート台に立つ。
我慢出来ずに、僕はぎゅっと目を閉じた。

「ピッ!」
 スタートの合図が鳴って、静かだった会場が一気ににぎやかになる。
100mは距離が短いから、勝負もあっという間だ。
5レーンを泳ぐ奏は、なんとか先頭を泳ぐ隣のレーンの選手にくらいついている。
50mのターン。
奏は少し、距離を開けられた。

「あぁ、もうダメ!」

 目を閉じる。
僕は賑やかな会場の声や水音を聞きながら、ゆっくり数を数える。
奏の平均タイムは覚えている。
それくらいにはきっと、僕に与えられたこの試練も終わる。
1、2、3、4、……18、19、20、……。
会場から拍手がわき起こった。
勝負がついたらしい。
電光掲示板を見ると、奏は2位だった。
ちゃんと彼女が泳ぎ切れたことが、それだけで素晴らしい。

「もう奏が優勝でいい……」
「アホか」

 岸田くんが怒った。

「奏は200がメインなんだよ。150からの追い込みが持ち味なんだから、この順位は、これはこれでいいの」
「なにそれ、意味分かんない」
「だからもうちょっと勉強しろって、いつも言ってんだろ」

 僕の知らない奏を知っている岸田くんに、ちょっとムッとする。
そんなこと、聞いてたかもしれないけど覚えてない。
短水路の自由形は選手層が特に厚くて、泳ぐ人数が多い分、なかなか終わらない。
奏が観客席に戻ってきた。

「あれ? 奏、僕のバタフライ、もしかして見られるの?」
「そうだよ」

 男子の100m自由形は、女子よりもさらに人数が多かった。
奏はその様子を見ながら、少し早めの昼食をとる。

「食べられる時に、お昼食べとかないとね」

 彼女はここへ来る前にコンビニで買ったおにぎりをほおばる。

「予定表に次の開始時間が書いてあるでしょ。自分で時間見て、動かないとダメだよ。宮野くんは、200のバタフライが終わってから、お昼ご飯だね」

 水着の上から羽織ったジャージと濡れた髪。
今ここで彼女を抱きしめられたら、どれだけいいだろう。

「おにぎり美味しい?」
「うん。美味しいよ」

 代わりに僕は、彼女の額にかかる前髪をかき分ける。

「宮野くんは、おにぎり好き?」
「好き」

 彼女は海苔にくるまれたお米の塊を、むしゃむしゃとほおばる。

「ね、宮野くんも緊張とかしてるの?」
「僕が? ううん。してないよ」
「あっそ。ま、いいけどね」

 奏はもう一度、僕にスタートの説明を始めた。
何度も何度も、入れ替わり立ち替わり色々な人間からさんざん聞かされた同じ話を、僕は初めて聞くような顔をして彼女から聞いている。

「ね、ちゃんと聞いてる?」
「もちろん。ちゃんと聞いてるよ」

 どんなことであっても、彼女が僕に話してくれることなら、うれしい。
にこりと微笑んで見せたら、奏は小さく息を吐き出した。

「ま、いいけどね」

 そんな僕たちの間に、岸田くんが割って入ってくる。

「ほら宮野。のんびりしている暇はないぞ。そろそろ準備に行ってこい。ロッカーの位置くらい、分かってるんだろうな」
「分かってるって」

 せっかく今日は一日、自由に彼女のそばにいられる日なのに、なんてもったいない。
僕はやれやれと立ち上がる。

「3回ターンのやつでしょ。知ってるよ」

 泳ぎに行かないといけないのは分かるけど、奏の隣に岸田くんが座ったのが、なぜか気に入らない。
さっさと泳いで戻ってきて、すぐにどいてもらおう。

 着替えの荷物だけを持ってロッカーに入る。
このぴちぴちした水着にも、すっかり慣れた。
僕の足も、随分太くたくましくなったもんだ。
人間の泳ぎ方での筋肉がついてきている。
時間が来て、プールサイドへ向かった。
準備運動の代わりに、軽く体をほぐす。
この手も足も体も、全部自分のものだということを、もう一度確認していく。
係員に名前を呼ばれ、「はい」と返事をした。
僕はすっかり人間の仲間入りを果たしている。
誘導されたのは、プール一番端っこの0番レーン。
公式記録のない人は、泳ぐ場所もあらかじめ決められている。

 人間は、このバタフライという泳ぎ方が苦手な人が多いらしく、距離も長いので出場者も少ない。
いっぺんに泳ぐのは一組だけで、全部でちょうど10人だった。
プールサイドに集まった出場者に向かって、長い笛が鳴る。
奏たちのいるところはどこかな。
ここからだとちょっと分かりにくい。
プールの一番端っこのレーンだから、僕のすぐ横に、合図を出す役目の人間がいた。
片腕が水平に上がる。

「take your marks」

 僕は台の上に上り、背中を丸めた。
奏と岸田くんから、スタートの合図を聞いてから飛び込んだんでいいと言われている。
僕は上手くやれるよ。
ちゃんと見ててね、奏。

「ピッ!」

 もう十分聞き慣れたはずの音なのに、大きすぎるその音にビクリとする。
僕以外の全員が、水に飛び込んだ。
それを見届けてから、僕も飛び込む。
学校のプールとは、やっぱり雰囲気が違うよな。
0レーンの1番端っこを泳いでいるから、学校とは違う真っ白できれいな壁が気になって、壁ばかりを見て泳いだ。
水底の床の色が変わって、ターンをする。
ターンの動作は正確に。
水深もこっちの方がちゃんと深い。
たしか今回は、3回ターンのやつだ。
この色つきの床のところでターンして、ちゃんと壁にタッチすることを忘れないこと。

 奏に散々言われたから、もちろん言われた通りにしてるけど、絶対にこんな風に両腕をぐるぐる回しながらジャンプして泳がない方が、速いのにな。
そんなことを考えながらも、2度目のターン。
潜ったまま泳いでいいのは15mまでと決められているから、最初の蹴りからすぐに水面に浮き上がらなければならない。

 泳ぐこと一つにも色々と面倒くさい。
最後のターンが終わって、スタートラインに戻った。
ちゃんと壁にタッチしてから、立ち上がること。
ふぅ。ちゃんと出来たよ、奏。

 泳ぎ終わった僕の耳に、場内の大歓声が響いた。
振り返ると、まだ他の人間は泳いでいる。
だけどまぁ、端っこだからよかった。
すぐにプールから出られるし。
急いで奏のところに帰らなければ。
どんな時だって出来るだけ長く、彼女と一緒にいたい。

「すごいな、君!」

 更衣室に戻る途中、知らないおじさんにいきなり声をかけられた。
白い服を着ていたから、きっと審判の人だけど、とにかく早く観客席に戻りたい方が強かった。
ペコリと頭を下げただけで許されるのは、ちょっと便利。
体を拭いて、ロッカールームを出る。
交代で入る次の部員が、なんだかニコニコで片手をあげ、「ハイタッチ!」って言ってきたから、同じように片手を上げたら、その手をパチンと叩かれた。
ちょっと痛い。
いずみから言われた通り、ロッカーの鍵を渡しただけなのに、なぜか抱きつかれたりして、またちょっとびっくり。
観客席に戻ると、今度はいきなり岸田くんが抱きついて来た。

「やっぱお前、凄いよ!」

 いずみが泣いている。奏の目も赤い。
僕のところに、今までずっと今回僕の泳いだバタフライの200を泳いでいたという男の方の人間が来て、僕に言った。

「ゴメンな、宮野。やっぱお前がうちに来てくれて、よかったよ」

 ぎゅっと握手をして、肩に腕を回されたので、よく分からないけど同じように返しておく。
周りの人間はみんな喜んでいるようで、温かな拍手が起こった。
僕と同じ学校ではない、観客席の周りにいる他の知らない人間まで、こっちに向かって手を叩いていた。

「次も期待してるぞ」

 岸田くんが本当に嬉しそうに、ぽんと僕の肩に手を置いた。
電光掲示板に出た記録に、場内がどよめく。
1分55秒09。
高校生男子の、日本記録に迫る勢いだ。

「おめでとう」

 奏にそう言われて、僕はようやく、ほっと安心できる。

「ね、大丈夫だった? どっか失敗したり、間違えたりしてなかった?」
「バッチリ問題なし。大変よく出来ました」

 奏の声が震えている。
彼女の手が右の目をこすった。
やっぱり泣いたんだ。
なんだかそれが、彼女に悪いことをしたようで、僕は彼女に謝りたくて、そう思って両腕を前に差し出したのに、彼女は僕の胸に自然と体を寄せた。
ぎゅっと抱きしめる。

「ねぇ、なんで泣いてるの? 僕は奏を泣かせるために泳いだんじゃないよ」
「はは。これはうれしくて泣いてるんだから、大丈夫だよ」

 奏がそう言った直後、別の男子部員が僕の上に抱きついてきて、また別の女子部員も抱きついて来て、岸田くんやいずみまで一緒になってくるから、密集したイソギンチャクみたいになってしまった。
ぎゅうぎゅうすぎて、重いし暑い。

「ほら。宮野くんは次もあるんだから、今のうちに食事をとっておいて」

 いずみに言われて、ようやくみんなは離れる。
こんなに色んな人間に、いっぺんに触られるのも初めてだ。
岸田くんはそのまま残って、なんだかごちゃごちゃ色んなことを、僕に話しかけてくる。

「いいか、食べながらよく聞け。次の100は、お前のさっきの200の泳ぎで、完全にマークされてるはずだ。絶対にスタートで飛び出すなよ。ターンとタッチは……」

 ここに来る前にみんなで寄ったコンビニで、奏の選んでくれたおにぎりを食べている。
その横で岸田くんがいつも以上に熱く語っているけど、僕たちが速く泳ぐのは、乱暴なシャチやサメから逃げるためだったり、ハマチやカツオの群を追いかけるためだったりする。
ただ泳いでスピードを競うための話しじゃない。
もちろんそういうことだって、全然しないワケじゃないけど、岩や潮の流れもない真四角でのっぺりとした箱の中を泳いでも、あんまり楽しくはない。
僕はそういう、ただ何かをやり続けるということには、もう飽き飽きしている。

「だから、ここは……って。おい、宮野。ちゃんと聞いてるか?」

 僕は食べ終わったおにぎりを包んでいたビニール袋を、ぐしゃぐしゃと丸めながら一息つく。

「次も一番で泳ぐよ」
「お、おう」

 おにぎりは美味しいけど、あんまり好きじゃない。
さけやいくらのおにぎりは好き。
岸田くんはまだ何か言いたげな顔をしていたけれど、結局そのまま、何も言わずに立ち去っていった。
申し訳ないけど、僕はプールで泳ぐために海から上がったんじゃない。

「奏は?」
「次の個人メドレーのために、更衣室へ行ったよ」
「そっか」

 彼女と一緒にいられるのなら、どこへだって行くし、何だってする。
それだけのこと。

 次の競技に出場する奏が、プールサイドへ出てきた。
個人メドレーの2組目、5番レーンだ。
彼女はどんな気持ちで、あそこに立っているんだろう。
その思いを少しでも知りたくて、そのためだけに僕はここにいる。

 合図があって、彼女は台に上がった。
その美しい体を曲げる。
スタートと共にしぶきをあげ、水に飛び込んだ。
彼女の望みなら、なんだって叶えてあげるのに。
そうしたらきっと、僕の本当の望みを、彼女は叶えてくれる。
その唯一の人に、僕は彼女を選んだ。

 奏はぐんぐん調子よく泳いで、また2位でゴールした。
記録は少し伸びたみたいだけど、タイムは2分46秒28。
悪くはないけど、よいとも言い難い結果だ。
だけどそんなことは、僕にはどうだっていいんだ。

「お帰り」

 泳ぎ終わって2階席に戻って来た彼女に、声をかける。

「ただいま」
「奏、凄く上手に泳げてたよ」
「はは。ありがとう。宮野くん、次の100に行かなくていいの?」
「奏の顔を見てから行こうと思って」

 僕は立ち上がると、にこっと彼女に微笑む。

「ちゃんと僕のこと、応援しててね」

 彼女にそう宣言して、プールサイドへ向かう。
奏が一番になれないのなら、代わりに僕が一番になる。
彼女が泣いて喜んでくれるのなら、いつだってそうする。
そんなの、負けるわけないじゃないか。

 更衣室に入り、羽織っていたジャージを脱ぐ。
スイムキャップをきっちりとかぶった。
距離が200から100になったとたんに、泳ぐ人数が増える。
僕には過去の公式記録がないから、第1組の0番レーンなのには変わりがない。

 プールサイドにずらりと並んだ一番隅っこで、軽く肩をほぐす。
真横に並んだ人間たちが、ちらちらとこっちを見ているのが分かる。
僕を意識してる? 
合図があって、飛び込み台の上に上がった。
100メートルだったっけ。
一回のターンのやつでしょ? 
余裕だね。

 スタートの合図で飛び込む。
そのタイミングだって、もう横を見ながら誰かを待ったりしない。
どんな厳しいルールが課せられていたとしても、そんなものにも負けない。
飛び込んだ水の床の色が変わった。
壁に手をつくと、すぐ足で壁を蹴る。
誰も僕には追いつけない。
泳ぎ終わったら、大会新記録の51秒96が出ていた。

「凄いよ、宮野くん。かっこいい! 優勝だよ、おめでとう!」

 客席に戻ると、奏から話しかけてくれた。
彼女が喜んでくれたら、それでいい。

「ありがとう。かっこよかった?」
「うん。すっごく!」

 これで僕の出番は全て終わったけど、まだ奏の試合が残っていた。
全員の競技が終わるまで、他のみんなも帰らないんだって。
僕はべちゃべちゃする水着を脱いで、制服に着替えていた。
乾いた服の方がいいなんて、すっかり人間になったみたいだ。

 奏のレースが始まる。
彼女の最終レース100mフリーリレーは、4分26秒75の、大会4位で終わった。

「お疲れさま」

 帰りは、会場の外で解散。
夏の日はまだ空に残っている。
みんなはまだ木に囲まれた広場から動かないけど、僕は誰よりも真っ先に奏に駆け寄る。

「ねぇ、今日は一緒に帰ろう。途中まで、一緒に帰ってくれる?」
「うん。私もそうしたい」

 みんなに別れを告げ、その場を離れる。
快く見送ってくれた。
奏の大会記録は4位だったけど、機嫌は悪くないみたいだ。
日差しの落ち着いた夏の街中を、奏と二人で歩く。
僕の隣で彼女は、ずっと自分の話をしていた。
この会場に来るのは何回目だとか、中学の時もここでやって、その時の同級生がどうのこうのとか。

「奏は、なんで泳ぐの?」
「私? 泳ぐのが好きだからかな。結局は、そこだよね」
「泳ぐの好き?」
「もちろん。好きだよ」

 そっか。ならいいや。

「僕も好きだよ」

 彼女はにっこりと微笑む。
僕はそんな彼女の、日に焼けた頬から首筋に視線を移す。
さっきまで漬かっていた水のせいで、僕と奏からは同じ臭いがする。

「そうだ。宮野くんの優勝祝いしようよ。大会新記録だよ。特別に私がおごってあげよう」
「おごる?」
「なにか食べたいものを、買ってあげる」

 彼女の手が、僕の肩にかけた鞄のベルトを引っ張った。
すぐ近くにあったコンビニにつれて行かれる。
扉を開けるとコンビニ独特のチャイムがなって、店内の冷えた空気がふんわりと体を包む。

「なにがいい?」

 そう言って彼女は、アイスケースをのぞき込む。
彼女と学校の外で二人きりになるのは、思えばこれが初めてかもしれない。
ケースの縁に置かれた手に、触れないくらいのギリギリの距離で自分の手を置く。

「奏は何が好きなの?」

 それなのに、うっかり肩と肩がぶつかってしまった。
そのまま嫌がって離れていってしまうかと思ったのに、彼女はそのままそこにいる。

「わ、私は、宮野くんの好みを聞いてるの!」

 肩同士がぶつかってしまったことを、奏は恥ずかしがっているみたいだ。

「僕は、奏の好きなものが知りたい」
「いつもそればっかり言ってるよね」
「だって、本当のことだもの」
「今は宮野くんのことを知りたいの」

 奏は、ぱっとそこを離れた。
僕はそんな彼女を追いかける。
コンビニの店内はいつだってとても狭い。
彼女はお団子とかパフェとかケーキのならんだ棚をのぞき込んだ。

「宮野くんは、あんまり甘い物食べてるイメージないなぁ。そういえば」
「僕のこと、気にしてくれてたんだ」
「だけどスポーツゼリーとかじゃ、お祝い感なくない?」
「学校のお昼休みしか食べてないのに、見てたの?」

 彼女はなぜか顔を真っ赤にした。
そんな横顔を僕に向けたまま、こっちを向いてくれそうにない。
どうしたら彼女は、僕を見てくれるようになるんだろう。

「みんながそうやって噂してるのを、聞いただけだから」
「奏もずっと、僕を見てた?」

 触れたくてたまらないその手が、棚に並んだ透明なカップケースを手に取った。
それで顔を半分隠すようにして、ようやく僕を振り返る。

「ね、これとかは? モンブラン好き?」
「食べたことない」

 手を伸ばす。
顔をちゃんと見たいから、カップを持つ彼女の手に触れる。
それを奪いとってしまいたいのに、彼女は背を向ける。

「じゃあ、ダメじゃない」
「奏が好きなら食べる」
「私は、宮野くんの好きなものを聞いてるの」
「奏。僕は奏が好き」
「それはもう知ってる」

 カップケースを戻した奏が、また動きだす。
僕はどこまでもその後を追いかけてゆく。
今度はジュースの並んだ扉の前で振りむいた。

「だけどジュースってのも、さすがに……。あ」
「どうしたの?」

 冷たい扉を背にした彼女の、真横に手をつく。
その黒いまだ湿り気のある髪に頬を寄せようとしたら、やんわりと押し返された。

「ソフトクリーム売ってる。期間限定のやつ」

 それでも僕は、彼女の髪に顔を埋め耳元にささやく。

「奏が食べたいなら、それでいいよ」
「じゃあ、それで決まりね」

 僕の腕をすり抜け、彼女はレジへ向かってゆく。
なにかを注文しているのを、僕は後ろからただ見ている。

「はい。もうなに言ってもちゃんと答えてくれないから、勝手に頼んじゃった」
「うん。それでいいよ」

 店の外に出て、彼女から鮮やかなオレンジ色のアイスを受け取る。

「じゃ、宮野くんがマンゴーで、私はチョコね」

 奏は大きく口を開けた。
とんがったその甘いクリームの先に、唇でかぶりつく。
僕はそれを見ながら、渡されたオレンジのアイスを口にする。

「ん。美味しいよ。マンゴーはどう?」
「美味しいよ」
「そっか」

 彼女のアイスを食べる横顔を、僕がじっと見ているのに、やっぱり彼女は僕を見ようとしない。

「ね、こっちのも食べてみる?」

 僕は奏に、自分のアイスを差し出した。

「いいの?」
「いいよ」

 奏の顔が近づき、僕の手からそのまま口を付ける。
彼女の舌が、自分の唇を舐めた。

「ほんとだ。こっちも美味しいね」
「奏のも食べたい」
「いいよ」

 そうやって、彼女が素直に自分のアイスを差し出すから、僕は彼女にささやく。

「ねぇ、キスしていい?」

 そう言ったら、奏は動かなくなってしまった。
返事はない。
僕が顔を近づけても、逃げるような、嫌がるような素振りもみせない。
彼女は目を閉じる。
そっと近づけた唇が触れ合う。
僕たちはゆっくりとキスをする。
彼女から甘いチョコの味がした。



第13章


 好きですって告白する時は、「付き合おう」って言うんだってのは、何となく知っていた。
岸田くんたちが、教室のその周辺で男同士しゃべっているのを聞いていたし、前に奏が岸田くんにもそう言っていたのも覚えていた。
それはお互いに「好き同士」ってこと。

「おはよう」

 教室に入ってきた奏は、一番に僕のところへ来るようになった。
机に伏して寝ていた僕の隣に、同じようにして覆いかぶさる。
肘と肘がコツリとぶつかった。

「ね、おはようって言ったのに、おはようの返事はなし?」
「ん。おはよう」

 それを聞いた彼女は、満足したように微笑む。
ふわりと立ち上がった。
そのままいつも一緒にいる女の子たちのところへ行ってしまう。
少し離れた教室から、彼女たちの声が聞こえてきた。

「ね、宮野くん。水泳の大会で優勝したって本当?」
「大会新記録だってよ。ダントツの一位。ネットニュースにもなってた」
「凄いね。やっぱ、タダモノじゃなかったんだよ」

 そうやって言われた奏が、うれしそうにしている。
奏がうれしいのなら、僕もうれしい。
昼休みには、みんなとご飯を食べ終わった後に、二人で校内を散歩する約束もした。

 奏が僕のことを好きになってくれたのなら、それはそれでうれしい。
僕も奏が好きだから。
だからきっと奏はキスをしても怒らなかったし、ようやく彼女の好きな学校の場所も、僕に教えてくれる気になった。
僕は銀色のパックに入った栄養ゼリーの、空になったのを口にくわえたまま、彼女のお弁当とおしゃべりが終わるのを待っている。

「お前、昼飯はずっとソレばっかだな」

 岸田くんは、僕の口元でぶらぶら揺れているパックを見ながら言った。

「ちゃんと飯食ってんのか。次の大会が本番なんだ。夏バテとかしてんじゃねぇぞ」
「夏バテ?」
「体力付けろってこと」
「体力はなくても、ちゃんと泳ぐから大丈夫だよ」
「飯はちゃんと食え」
「食欲がないんだ」
「それを夏バテっていうんだよ」

 奏がやっと箸をおいた。弁当を片付け始める。
彼女はチラリとこっちを見た。
それを合図に、僕は立ち上がる。

「コイツ、女が出来て浮かれてんだよ」
「ようやく愛しのカナデチャンに振り向いてもらえたから」

 教室でいつも岸田くんと囲む仲間から、ガハハと笑いを受けた。
どんなに笑われても、自分のことならどうだっていい。

「なぁ、宮野!」

 それでも、まだ岸田くんは怒っていた。
だけどそんなことよりも、僕にはもっと気になることがあるんだ。

「僕は平気だから」

 奏が待っている。
岸田くんの心配を無視し、立ち上がった。
空になったパックをゴミ箱に放り込むと、彼女の後ろに立つ。
奏のお友達たちが、僕に向かってキャアキャアなにか言ってるけど、そんなことだってどうでもいい。
適当に「うん」とか「そう」とか「あぁ」とか返事をしておく。

「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「いってらっしゃ~い!」

 元気に見送ってくれるお友達に手を振って、上機嫌な奏と教室を出る。
やっと二人きりになれた。
昼休みの賑やかな廊下を、並んで歩く。

「どこ行こっか」
「奏の好きなところじゃないの?」
「はは。それはそうだけど、なんかゆっくり出来るところがいいな」

 だけど昼休みの校内は、どこも人だらけで、二人きりになれるところなんてない。
僕は奏と並んで、ゆっくりと歩きながら校内を回る。

「水泳部のみんなからも、お祝いされちゃった。最高のタイミングですねって」
「タイミング?」
「宮野くんのこと。みんな凄いって褒めてたよ」
「奏は、僕が泳ぐの速いから、僕のこと好きなの?」
「あのさぁ!」

 奏が怒った。

「そりゃ、私も水泳やってるから、上手な人のことは好きだよ。だけど……」
「だけど?」
「もう! これ以上は言わない」

 なんだそれ。
もっと話を聞きたいけど、なんだか聞けないような雰囲気だから、黙っておく。

 彼女は自販機の前に止まると、ガコンと紙パックのフルーツミックスジュースを買った。
それにストローをさすと、ちゅっと口を付ける。

「もうここに座っちゃおうか」

 自販機のすぐ向かいにある植え込みの、その縁石に腰掛ける。
真夏の日差しもコンクリートの屋根に遮られ、ここだけは日陰になっていた。
僕も彼女の隣に腰を下ろす。

「そういえば宮野くんて、いつもスポーツゼリーばっかりだね。ちゃんと食べてるの?」
「さっきも、岸田くんに同じこと言われた」
「心配してんだよ。岸田くんは部長だから。うちのエースの心配」
「エース?」
「一番大事な人ってこと」
「僕は岸田くんのエースじゃないよ」
「じゃあ誰のエースなの?」
「誰だろう」

 そうやって僕は奏を見ているのに、奏は買ったばかりのストローを吸っている。
これも知ってる。
奏がよく飲むやつだ。
僕も気になって、前に一人で飲んでみたけど、正直あんまり好きじゃない。

「奏は、このジュース好きなの?」
「え、なんで?」
「よく飲んでるから。僕も飲みたい」

 彼女の手に触れる。
僕は背を丸め、紙パックを持つ彼女の手を引き寄せると、白いストローの先をくわえた。

「美味しいね」

 にこっと微笑んで、彼女の目を下からのぞき込む。

「奏のことは、全部好き」
「私も」

 顔を近づける。
僕の唇はもっと柔らかな唇に触れ、舌を絡めた。
彼女が逃げようとするのを、抱き寄せて離さない。

「も……。むり……」

 彼女のささやくような声に、もう一度軽く口づけてから離した。

「僕のこと、好き?」

 額を合わせて、彼女の黒い目をのぞき込む。

「好き」

 はにかむように赤らんだ頬で、彼女はそう答えた。

「よかった。じゃあ、付き合ってくれるってこと?」
「私は、もうそのつもりだったけど」

 僕の腕の中で、赤らめた頬の奏がうつむく。

「よかった」

 昼休み終了を知らせる予鈴が鳴った。
僕はもう一度彼女にキスをしようと、顔を近づける。

「もう教室に戻らなくちゃ」

 それは明確に拒絶されたので、すぐに顔を離す。
手を差し出したら、彼女はすぐに僕の手に自分の手を重ねた。
そっと繋いだ手の、指と指を絡める。
慌ただしくなった校内を、僕たちは同じ教室に向かって歩き出す。
僕は奏のくるくるした短い髪の毛先を見ている。

「今日も授業終わったら、部活だね」
「ホントにご飯、あれだけで大丈夫なの?」
「うん。平気」
「何か、お弁当的なもの作ってきてあげようか? ゼリーとかパンばっかりだよね」
「ふふ。奏もちゃんと僕のこと見てくれてたんだ」
「当たり前でしょ?」
「おにぎりも好きだよ」
「じゃ、おにぎり弁当」

 ここに来た時は迷路のようだと思っていた校内にも、すっかり慣れた。
階段を上り、廊下を歩いて自分たちの教室に近づく。
最後の角を曲がる手前で、僕は繋いだ手を引き寄せ、彼女の指先にキスをした。

「奏の方こそ、ちゃんと寝てご飯食べて、体を休めなきゃいけないんだから。そんなことしなくていいよ」

 彼女の可愛らしい目が、まっすぐに僕を見つめた。

「ねぇ。宮野くんって、本当はなにが好きなの?」
「奏だよ」
「じゃなくて、食べ物!」
「んー。刺身?」
「さ、刺身か。さすがにお刺身の手作り弁当は、ハードル高いなぁ」
「気持ちだけで十分だから」
 もう一度頬を寄せ、その髪にキスをする。
「奏のその気持ちだけでうれしい」
「うん」

 不意に彼女との視線がぶつかり合う。
奏はついと背を伸ばした。
彼女の柔らかな唇が、僕の口元近くに触れる。

「早く教室戻らないと、授業始まっちゃうよ」

 奏は軽やかな足取りで、僕を残し追い越してゆく。
くるりと振り返ったスカートが、はらりと翻った。

「また部活のあとでね」

 奏に少し遅れて教室に入ると、彼女は他の生徒としゃべりながら、もう席につこうとしていた。
僕はまだ彼女の触れた感触が残る口元を隠したまま、自分の席に戻る。
すぐに次の授業の先生がやって来て、僕はいつものように机に寝転がった。

「宮野! 寝るのはいいけど、耳だけは聞いてろよ」
「はーい」

 いくら先生にそう言われたって、退屈な話しなんて聞いていられるわけがない。
僕と奏は付き合いだした。
彼女は僕のことを好きだと言ってくれたし、僕も彼女が大好きだ。
それなのに……。

 自分の左手を広げ、じっとそれを見る。
もう人魚ではない僕の手は、爪は丸く短くなり、指と指の間にあったヒレもない。
びっしりと細かい鱗で覆われていた肌の表面も、今はむき出しのつるつるだ。
これが人間になるってこと? 
真実のキスを奏と交わしたはずなのに、僕には僕にかけられた魔法が、きちんと動いたような気がしない。
なぜだ。
3列向こうの席にいる奏を見る。
彼女は小さな机の上に教科書とノートを広げ、熱心にメモをとっていた。
彼女が僕に嘘をついているとは思えない。

「ちゃんとキスだけじゃなくて、今度は『付き合って』も言ったのになぁ……。あっ!」

 僕はぱっと起き上がると、後ろを振り返った。
すぐ真後ろに座っている岸田くんと目が合う。彼の眉間に、くっきりとしわが入った。

「なんだよ」
「……。ううん。何でもない」

 今はまだ授業中だった。
もう一度前を向いて、机につき伏す。
奏の「好き」は岸田くんが一番で、僕が二番だからかな。
そうなのかな。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
奏は先生に言われた通り、教科書のページをめくっている。

 ようやく放課後になって、僕は一番に奏に駆け寄った。

「部活行くでしょ? 一緒に行こう」

 彼女の帰り支度が終わるのを、待ちきれない。
鞄を背負い一緒に教室を出たとたん、彼女の手を取り、廊下を急ぐ。

「ねぇ、なになに? どうしたの?」

 僕は早く奏に確認したくて、彼女と手を繋いだままぐんぐん進む。
放課後の廊下は、通常教室じゃないところだと、人が少ないことを知っている。
そしてこのルートが、プールへ向かうには一番近い。
僕は辺りに誰もいないことを確認して、彼女を壁に押しつけた。
両手を壁につき、彼女をのぞきこむ。

「ね、本当に僕のこと好き?」
「なに? ずっとそうだって言ってるじゃない」

 はにかむように微笑んで、奏はぱっと横を向いた。

「私のこと、そんなに信用できない?」

 僕の腕から抜け出そうとする彼女に、ぎゅっと体を押しつける。
僕にとってそれは、とても大事なこと。

「僕と岸田くんと、どっちが好き?」

 とたんに奏は、ムッと眉を寄せた。

「ねぇ、なんでそんなこと聞くの」
「前に、岸田くんが好きだって言ってたから」
「それはそうだけど……」

 奏はうつむいた。
その頬に触れると、ぷいと顔を背ける。

「やっぱりそうだったんだ」
「今はもちろん、宮野くんが一番だよ」
「本当に?」
「疑うの?」
「疑ってないよ」

 そう。疑ってない。
疑ってはいないんだ。
僕は彼女のことなら、なんだって許すし、なんだって受け入れる。

「ねぇ、奏からキスして」

 そうお願いしたら、しばらく横目でチラチラと周囲を確認してから、ようやく奏はこっちを向いた。
そのままぱっと顔を近づけ、ちゅっと唇に触れる。

「これでいい?」
「まだ足りない」

 今度は僕の方から彼女に口づける。
舌を絡め、しっかりと思いが届くように。

「ねぇ。ちょっと、もう……」
「なに?」
「もうだめだから」
「いやだ」

 さらに深く強く絡ませる。
僕にかかった魔法は、まだ解けていない。
人の気配がして、ふと顔を上げた。
誰もいなかったはずの廊下に、岸田くんといずみが立っている。

「お前らさぁ。浮かれてんのは分かるけど、もうちょっと時と場所を選べよ」

 奏はぐいと僕を押しのけた。
彼女の顔は真っ赤だ。
やっぱり岸田くんに見られて恥ずかしかった? 
すれ違いざまに、岸田くんの「あーうぜー。俺も彼女ほしー」という言葉と、大きなため息。
そんな彼の隣にくっついていたいずみは、振り返って僕たちに言った。

「よかったね! おめでとう!」

 いずみは最後に、べーっと赤い舌を見せる。

「なにあの、『べー』ってやつ」
「何でもないよ! 早く行こう。遅刻しちゃう」

 奏は僕を置いて、先に走って行ってしまった。
まだ彼女との感触が残る唇に触れる。
確かに思いは通じ合って、キスもしたはずなのに、それでもやっぱり人間になれた気がしない。
僕は人魚のままだ。
奏は本当は、僕を好きじゃないってこと?

 水着に着替えプールに入った僕は、ビート板にぷかぷか浮かんで、ずっとそのことを考えている。
ギラギラした太陽は、今日も激しく照りつけていた。

「なぁ宮野。バタフライのコツ教えて?」

 時々他の水泳部員がやってきて、そんなことを聞くから、分かったような分かってないことを答える。
本当はもっと大事なことを考えなくちゃいけないのに、ここにいてはそんな暇もない。
僕はお気に入りのビート板をプールサイドに置くと、ぽちゃりと頭まで水に沈めた。
そこから一気に25メートルを泳ぎきると、そのまま水中でターンをし、元の場所まで戻ってくる。
顔を出したら、ちょうどいずみが何かの棒みたいなものを、プールの水の中に突っ込んでいた。

「宮野くん。変わったよね」

 何をやってるのかと思ったら、水温を測っているらしい。
いずみは泳がない代わりに、いろんなことをしている。

「全然変わってないよ。なんで変わらないのか、不思議なくらいだ」
「え、変わったよ」
「どこがどんな風に変わった?」

 そう言ったいずみを、僕は水中から見上げた。
いずみは僕の本当のことを知っている。
だからいずみには、僕のどこが変わったのか、分かるかもしれない。

「なんてゆーか、丸くなったっていうか。その、愛想もよくなったし、他の人ともちゃんとしゃべるようになったし。コミュニケーションもとれるようになったっていうか……」
「人間っぽい?」
「あはは。まぁ、そんな感じかな。奏と付き合い始めてから、ようやく落ち着いた感じ」

 いずみはいつものように、ノートに何かの記録をつけている。
僕は置いてあったビート板を手に取ると、再び水に浮かんだ。
彼女はこそりとつぶやく。

「人間になれてよかったね」
「……。それだけどさ、僕には自分が、変わったような気がしないんだ」
「は? なにそれ。意味分かんないし。人間になれなかったってこと?」
「奏は、本当に僕のことが好きなのかな」

 彼女はプールサイドにしゃがみ込んだまま、持っていたノートを胸に抱え込んだ。

「なにそれ。奏のこと、もう飽きちゃったの?」
「飽きる? 飽きてはないよ。ただ分からないだけ」
「ふ~ん。そうなんだ。私は普通に、宮野くんのこと好きだよ」

 いずみの言葉に、僕はびっくりして彼女を見上げる。

「好き? 僕のこと? いずみが?」

 彼女は、その長くて黄色い髪をかき上げた。

「そりゃ最初は……。怖いって思ってたし不気味な感じだったし。ヤだなって思ってたけど、今はそうじゃないって分かったから」

 人間じゃないって分かっている僕のことを、いずみは好きだって言うの? 
僕が応えられずにいると、彼女は横顔を向けたまま言った。

「だって、変わったもん。私は今の宮野くんの方が好き」

 彼女はすっと立ち上がると、そのまま行ってしまった。
ストップウオッチを片手に、他の選手のタイムを計りに行く。

 いずみが僕を好き? 
僕は変わった? 
人魚のままなのに? 
真実のキスを交わすのは、一人じゃなくてもよかったんだっけ。

 何やら騒がしい動きがして、滅多に来ないコーチが、普通の服を着た知らない人間を連れて、プールサイドにやって来た。
ビート板に浮かぶ僕に向かって、手招きをする。

「おい宮野。ちょっとこっち来い。お前に取材の依頼が来てるぞ」

 強い日差しの下、焼けるように熱いコンクリートの上なんて、歩きたくもないんだけど。
それでも先生の言うことには従わなくてはいけないから、僕はプールから上がると、彼らに近づいた。
知らない人間は2人もいる。

「なに?」
「水泳雑誌の編集部の方だそうだ。お前の話を聞きたいって」

 2人のうち1人は、首から大きな機械をぶら下げていた。
僕も見たことはある。
カメラとかいうやつだ。
大きなレンズをつけたそれを、僕に向けて何かしている。

「話って、なに?」

 僕には答えられないことが多い。
もう1人の人が色々聞いてきたけど、すぐに返事を返さないでいると、先生が全部代わりに勝手に答えてくれるから助かる。
岸田くんが呼ばれた。

「彼はどんなチームメイトですか?」

 強い日差しに肌が焼かれる。
あんまり写真は撮ってほしくないな。
まだ人間になれたわけじゃない僕の体は、きっと人間っぽくはないから。

「何でも頼れる、気さくでいい奴ですよ」

 岸田くんは僕の肩に腕を回すと、顔を近づけた。
その瞬間に、またカメラマンがレンズを向ける。

「ね、泳いでるところも撮れるかな。出来れば動画で。ネットにも載せたいから。いいですか?」

 僕は許可を出していないのに、先生が「いいですよ」と答えたので、泳ぐことになってしまった。
プールへ向かう僕に、岸田くんは耳打ちした。

「いいか。元人魚ってバレるから、潜水で泳ぐな。息継ぎもちゃんとして、ゆっくりな」
「バレる?」
「バレる」

 とはいうものの、先生に泳げといわれたら泳ぐしかない。
どうしよう。
ゆっくりって、なにを? 
元人魚って……。
僕はまだ人間になれていないから、じゃあ絶対にバレないようにしないと。
そうだ。誰かのマネをしよう。
それならきっと、人間だと思ってくれる。

 僕はゆっくりとプールサイドを歩く。
泳いでいた水泳部のみんなは、水から引き上げさせられていた。

 飛び込み台の上に立った僕を、またカメラのレンズから見ている。
そろそろそれはやめてほしいな。
そう思っていたら、岸田くんと目が合った。
彼はこくりと一つ大きくうなずく。
そうだ。
岸田くんの泳ぎ方の真似をしよう。
それならきっと、間違いないしカッコいい。

 いずみがタイムを計測する。
ほとんど指導になんて来たことのないコーチが、スタートのスイッチを手にする。
大きなカメラのレンズが、僕の体を捕らえた。

「ピッ!」

 合図と共に飛び込む。100mの自由形。3回ターンのやつ。
岸田くんの泳ぎは速いけど、ちょっとはゆっくりにした方がいいのかな。
だけど、どれくらいでスピードを調節したらいいのか分からない。
1回目のターン。
最初の25mは、そんなことを考えていたら、息継ぎするの忘れてた。
折り返したところで思い出して、息継ぎを一回。
25mの壁は短すぎて、すぐにターン。
どうしよう。
もう最後の25mだ。
思い出してもう一回息継ぎ。
最後の10mはゆっくり泳いで、壁に手をついた。

 顔を上げ、立ち上がる。
いずみはタイマーを見つめたまま、じっと動かなかった。

「ねぇ、どうだった?」
「49秒36……」

 コーチの目はまん丸くなっていて、岸田くんは「ウソだろ」とボソリとつぶやいた。
カメラを構えた記者とかいう人たちが、はしゃぎ出す。

「す、凄いじゃないですか! 非公式記録とはいえ、高校新記録ですよ!」

 こんなこと、早く終わってほしい。
プールサイドに、いつも僕のために定位置に置かれてあるビート板も、片付けられている。
奏と目が合った瞬間、彼女はうれしそうに、だけどちょっと困ったみたいに、にっこりと微笑んだ。

「いやー! 次の大会が楽しみですね。ここでそれを見せるってことは、やっぱり次は自由形で挑戦するの?」

 奏のそばに行きたくて、水から上がる。
記者の人が手を差し出してきたけど、そんなことより奏の方が大事。
コンクリートの焼け付くような足裏の痛みを我慢しながら、髪からポタポタ水を垂らした僕は、彼女の前に立った。

「どうだった?」
「うん。カッコよかったよ」

 彼女から渡されたタオルを受け取る。

「なに? どうしたの? なんでそんな困ったような顔してるの?」
「ううん。そんなんじゃなくて……」
「なんか、気に障った?」
「違う! そんなことはないから」

 僕の質問に、奏はそうやって言ってくれるのに、どうして魔法は解けない? 
記者の人たちが、また僕にカメラを向けた。

「あ。カノジョさんですか? 一緒に一枚どう?」
「いや、私は別に……」

 奏は嫌がったけど、記者さんは「まぁまぁ」とか言っている。
先生が「撮ってもらっとけ」と言って笑った。
「ほらほら」と手をひらひらさせ、カメラの人も待っている。
先生の言うことは……。きく。

「ん」

 僕は彼女の肩を抱き寄せる。
その瞬間、奏は凄く驚いた顔をしていたけど、結局カメラに向かって微笑んだ。

「次の自由形、楽しみにしてるね!」

 記者とかいう人たちは、やっと先生と一緒に帰っていく。
僕は肌が焼けるのと足の裏が熱いので、早く水に浸かってビート板に浮いていたい。
一連の騒動が終わって、お気に入りのビート板を探す僕の前に、岸田くんが立ち塞がった。

「宮野。お前なんでクロール泳いだんだよ。」
「だって、岸田くんがゆっくりって……」
「それで、俺の泳ぎをマネしたって? あぁ、どうせ俺は遅いよ。ゆっくりだもんな」

 岸田くんは怒っていた。
今まで見たこともないくらい、真剣に真面目に、本当に腹を立てている。
僕にとって岸田くんは、いつも正しくて間違えない人だった。

「お前はバタフライだっただろ。次はクロールに出る気か? だからそれを俺に譲れって?」
「違う。そんなこと思ってない。僕は泳ぐのはなんだっていい」
「は! そうだよな。お前一人が全種目泳いだ方が、いいに決まってる」

 彼は被っていたスイムキャップを取ると、足元に叩きつけた。

「やってらんねー。今日は俺、帰るわ」

 岸田くんが怒っている。
こんなにも怒った岸田くんを見たことない。

「待って。僕は岸田くんと同じようにすれば、間違えないと思ったんだ。もうバタフライ以外は泳がない」
「うるせーよ。誰がそんなこと言えんだよ。言えねぇだろ。あんなの見せられてさ」

 岸田くんが怒っている。僕は間違えたんだ。

「もう勝手にしろ」

 彼が更衣室に引き上げてゆく。
追いかけようとした僕を引き留めたのは、奏だった。
彼女は僕を見上げると、首を横に振る。
そのまま彼女の視線は、岸田くんの背中を追いかける。
僕の代わりに、奏が行くの? 
岸田くんのところへ?

「待って」

 彼に投げ捨てられたスイムキャップを、奏が拾い上げた。
彼を追いかけ走り出そうとする彼女の腕を、反射的に掴んでしまう。
だけどそれを、彼女は振り払った。

「ごめん、後で!」
「かなで!」

 彼女は壁の向こうに消える直前で、岸田くんに追いつく。
奏の他にも、数人の男子部員が彼を呼び止めていた。
だったら奏は、いらなくない?

「奏! 奏はこっちに来て!」

 僕の切実な叫びにも、彼女は応じてくれない。
水の中から、冷たい笑い声が聞こえた。
プールで泳ぐ仲間たちが、僕の足元で笑っている。

「だからお前は、嫌われんだよ」
「人の気持ちってやつが、本気で分かんない奴なんだな」

 声の主は、いつかの雨の日に僕をバカにしてきた連中だ。
こんな奴らの言うことなんて、僕にとってなんの意味もない。
他にどんなことがあっても構わないのに、奏は僕の手を振り切り、岸田くんのところにいる。

「かなで!」

 返事はない。
人の気持ちが分からない?
それは僕が人間じゃないから?
だから僕は、彼女から愛されない。

「かなで! ねぇ奏!」

 何度も名を呼ぶ。
僕がこんなに必死で呼びかけているのに、聞こえていないはずがない。
彼女と僕を繋ぐ距離が、とんでもなく遠い気がした。
ようやく彼女が、コンクリートの灰色の壁から半分顔を出す。

「後で!」

 奏の足が、背中の半分が、コンクリートの向こうに隠れている。
僕がどんなに名前を呼んでも、僕のところには来てくれないんだ。
こんなにも僕は求めているのに? 
もし奏がこんなふうに僕を呼んだら、僕は全てを置いてでも彼女の元に駆け寄る!

「奏!」

 それでも返事はない。
奏はやっぱり僕のこと、あんまり好きじゃないんだ。
少なくとも僕が思うほど、彼女は僕を好きじゃない。
強すぎる日差しに日陰を求め、コンクリートの段差をふらふらと上る。
いずみがマッサージ用にバスタオルを敷いていたベンチに横になった。
誰にも見られたくなくて、顔を埋める。
頭上でいずみのため息が聞こえた。

「そりゃ、私も驚いたよ。普通誰だって、バタフライだと思うでしょ」
「そんなの、聞いてない」
「だって、前に泳いだのは宮野くん、バタフライだったでしょ。岸田くんのメインはクロールの200と400だから」

 そんな掟なんて知らない。
僕はいつも岸田くんがやっているようにすれば、それが一番なんだと思った。

「そういうの、分からないのって、やっぱり人間じゃないからかな」
「……。奏とキスしたんじゃないの?」
「したけど、人間になれた気がしてない」

 じりじりと焼け付く日差しが、キラキラする水面に反射して眩しい。
いずみの首筋に、一筋の汗が流れた。
プールから聞こえる水音と、そこに混ざる色んな声が、僕の耳を塞ぐ。
いすみの手が、すっかり日に焼けた僕の背に触れた。

「何それ。だったら奏は、宮野くんのこと、本当は好きじゃないってこと?」

 僕はそれに答えられないから、じっとしている。
いずみの手が、ヒリヒリと焼けた背を滑る。

「そっか。宮野くんは、岸田くんの変わりってことか」

 ペタペタと誰かが駆けてくる音が聞こえた。
その足音はそのままドボンとプールへ飛び込むと、日差しにすっかり乾ききった肌を濡らしている。奏だ。

「宮野くん! もうあんまり時間がないから、もったいないから私は今から泳ぐけど! 帰りちょっと話があるから! 分かった?」

 僕はバスタオルの上に寝転がったまま、返事の代わりに彼女を見る。
奏は何も言わず、そのまま泳ぎ始めた。
いずみはストップウオッチを片手に、プールサイドへ下りてゆく。

「岸田くんも戻ってきたよ。ちゃんと仲直りしといてね」

 その彼も水へ入った。
彼の周りには、すぐに人が集まって、なんやかんやと声をかける。
だけど彼は、もうそんなことにも耳を貸すつもりはないみたいだった。

 岸田くんはスイムキャップをかぶり直すと、慎重にゴーグルの位置を確認する。
頭を沈めると、真っ直ぐに壁を蹴った。
彼の跳ね上げる水しぶきは、カジキの跳ね上げるそれのようだ。
そこにいる全員が、誰もが彼の泳ぎに注目する。
僕だって、いつだって岸田くんの泳ぎが一番きれいだと思っている。

「60秒42……。60秒の壁が、厚いんだよね」

 いずみの声すら、もう彼の耳には届かないようだ。
彼はすぐに泳ぎ始める。
何度も何度も、その足で壁を蹴り、腕で水をきる。
どれだけ泳いでも、彼の美しいフォームは崩れることはない。
50mを泳ぐと、少しだけ休んでまた泳ぐ。
僕はようやく、彼があんなにも熱心に筋トレやランニングをしていた理由が分かった。
彼は誰よりも早く泳ぎたかったんだ。
跳ね上がる水しぶきに、夏の日が沈む。

 泳ぐのをやめようとしない岸田くんのことはいずみに任せて、他の部員たちは水から上がった。
僕はオレンジ色に染まったプールで泳ぎ続ける彼に、心の中で心の底から謝る。
僕は、本当にそんなつもりはなかったんだ。
着替え終わって更衣室の外に出ると、赤く染まったプール前広場に、奏が待っていた。

「話があるの」
「よかった。僕にもあるんだ」

 奏に誘われて、人間の街に出る。
夏の夜のはじめには、星の代わりに色とりどりの灯りが街を彩る。
僕は今、暗い海から眺めていただけの、キラキラ輝く喧騒の中にいる。
ずっと憧れていた。
この場所に何があるのか。
道路にあふれる人の数、行き交う車。陸なんて小さくて狭くて汚いだけだと思っていたけど、実際に来てみれば狭さなんて感じない。
きっと海が広すぎただけなんだ。

「えっと、どっかお店入る? ハンバーガーとか、お腹空いてない?」
「ハンバーガーは、好きじゃない」
「コーヒーも苦手なんだっけ」
「水ならなんとか」

 奏は呆れたように、力ない笑みを浮かべた。

「そういえば、いずみも心配してたよ。宮野くん。あんまり水分補給しないって」
「いずみが?」

 彼女がそんなこと、気に掛けていただなんて知らなかった。

「お刺身は……、ちょっとハードル高いから、ドーナツ屋さんでいい?」
「奏の行きたいところでいい」

 彼女は学校から一番近い駅の、ドーナツばかりをたくさん売っているお店に入った。

「宮野くんは、なに頼む?」
「水だけでいい」
「まぁ、そう言わないでさ」

 僕は仕方なく、何もついていない一番シンプルなものを選ぶ。
味がついているものは、あまり好きじゃない。

「一個でいいの? 飲み物は」
「一個でいい。飲み物は水」

 奏は色んな形をした、カラフルで可愛らしいドーナツを2つ選んだ。
僕はそれが、どんなに可愛くて美味しそうでも、自分の口に合わないことを知っている。
注文を済ませ、ごちゃごちゃしたうるさくて狭くて小さなテーブルに向かい合って座ると、隣の知らない人と肘がぶつかりそうだ。
そんなことも気にしない奏は、ピンク色のつぶつぶしたドーナツをほおばる。

「ん、美味しい!」
「奏。岸田くんのことなんだけどさ」

 僕がそう言うと、彼女は氷の入ったコーヒーで口に入れたばかりのドーナツを流し込む。

「ちょっとは反省した?」

 彼女はまるでそれを、当然のことのように言う。

「反省? 反省って、なに」
「そういう話じゃないの?」

 彼女は冷たいコーヒーのグラスを、トレイの脇に置いた。
僕は奏に、僕のことを聞きたい。

「奏はさ、岸田くんより僕の方が好きって言ったよね。その言葉に嘘はない?」
「またそれ? もうその話は終わった」

 彼女はもう一度残してあったピンクのドーナツをかじると、紙で指先を拭い、またコーヒーを飲む。

「ゴメン奏。僕にとっては、それはすごく大事なことなんだ。僕にとって奏が一番であるように、奏にとっても僕が一番であってほしい」
「だから、そうだって言ってるでしょ。それと今回のこととは、話しが別」
「別って?」
「だって、そうじゃない」

 奏にとっては別であっても、僕にとっては全然「別」なんかじゃない。
彼女はそのまま、水泳の話を始めてしまった。
どれだけ岸田くんが頑張ってきたのかとか、みんなもそれに合わせて協力してきたとか。
それには僕もちゃんと関係してるんだから、みんなの気持ちを分かって考えて行動しろだとか。
奏は何度も何度も、言葉を換え言い方を変え、もっと岸田くんのことをちゃんと考えろと言ってくる。
だけど僕が聞きたいのは、そんなことなんかじゃない。

「ねぇ奏。僕の話を聞いて」
「なに?」

 ずっと一人でしゃべっていた彼女は、ようやくこっちを向いた。

「僕のこと、本当に好き?」
「……。ねぇ、どうして私がずっとそう言ってるのが、信じられないの。私がいま言ってるのは、部活の話なのね。それで岸田くんが……」
「奏はさっきからずっと、岸田くんのことばかりだ。それでいて僕にまで、岸田くんのことを考えろって言ってる」

 テーブルに肘をついて話していたら、奏と額同士がぶつかり合いそうな距離で、彼女は僕を見上げる。

「ねぇ、ヤキモチやいてんの? そういうの、ちゃんと区別してくれないと困る」

 奏が怒っている。
盛大に息を吐き出し、そっぽを向いてドーナツかじる。
どうして彼女は、僕の気持ちを分かってくれないんだろう。
彼女がなにを言っても、どれだけキスをしても、僕が変わらないのが何よりの証拠。
彼女は残ったコーヒーを全部喉へ流し込むと、そのカップを置いた。

「ね、宮野くんがなに考えてんのか知らないけど、私の気持ちまで勝手に決めつけないでほしい」
「奏の気持ちは、僕にはちゃんと分かってる」
「どういうこと?」
「奏がどれくらい、僕を好きかってこと」

 僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れる。
顎を持ち上げ、ゆっくりと口づける。
どれだけ言葉を並べても、たとえそれがどんなに拙くて、口足らずなものでも、この僕にかけられた魔法が、本当の答えを教えてくれる。
たくさんの人がひしめき合う狭い店内で、彼女は僕の絡めた舌を押しのけた。

「ねぇ、いま私、そんな気分じゃない」
「あぁ。そうだろうね。よく分かったよ」

 苦くて渋いコーヒーと、甘い香料の臭う油でベトベトになった唇を拭う。
僕はまだ人魚のままで、奏は僕を好きじゃない。

「もういい。帰る」

 ゴミゴミした店内で、僕は立ち上がった。
こんなところにいる意味も、理由もない。
奏は僕を好きじゃない。

「ちょっと! どういうこと! 頼んだドーナツ、一口くらい食べていきなさいよ!」
「いらない。あげる」

 店を出る。
海を出てから、何日たった? 
僕に許された期間は、たったの1年だ。
2月の冷たい海から上がって、もう半年が過ぎてしまった。
時間がない。
奏は僕を好きじゃないとしたら、どうすればいい? 
僕はやっぱり、海の泡となって消える運命なのだろうか。

 星よりも無数に光る灯りの中を、僕は偽物の足で歩く。
夜なのに明るい街は、すれ違う人間と肩がぶつかり合うような距離の近さだ。
人と人の距離が、こんなに近いものだったなんて、見ているだけの頃は知らなかった。
奏と仲良くなれるよう努力して、人間の言葉で付き合うようにもなって、ちゃんとキスもしたのに。
それでも奏は、僕を好きじゃないなんて!

 路上にしゃがみ込む。
蒸し暑い駅前の広場は、学校以上に沢山の種類の人間がひしめき合っていた。
もう夜のはずなのに、ずっと明るくて、闇夜が隠してくれるはずのものまで見えてしまっている。
こんなに無数の人間がいるのに、僕だけはそうじゃない。
こんなに沢山の人の中にいても、僕はこの無数の中の一つにも入れてもらえない。

 うつむいてしゃがみ込んで、地面しか見ていなかった僕の目に、僕と同じ靴を履いた足が止まった。
細い足。いずみだ。

「どうしたの?」

 顔を上げると、彼女は長くて黄色い髪を耳にかき上げる。

「岸田くんは?」
「……。もう、それは気にしなくていいよ。向こうも反省してたみたいだし」
「反省? それは、僕がするんじゃなくて?」
「そう言うってことは、宮野くんは、もう反省したんでしょ」

 そう言うと彼女は、僕と同じ視線に並んだ。

「だったらいいんじゃない? もう反省しなくても」

 いずみの髪からは、奏とは違う匂いがする。
いずみはプールには入らないから、あのヘンな臭いがしないんだ。

「僕の反省は、終わったってこと?」

 ゆっくりと立ち上がった彼女に合わせて、僕も立ち上がる。

「そ。いつまでもそんなことぐずぐず言ってたって、仕方ないじゃない。宮野くんが泳ぐのが速いのは、分かってたんだから。それを知ってて、岸田くんだって自分たちの水泳部のために招き入れたとこもあるんだし」

 伏し目がちに語る彼女の肩から、その長い髪がサラリと流れた。
見上げた彼女の目が、真っ直ぐに僕を見つめた。

「お互いさまってヤツなんじゃないの?」

 僕を救えるのが奏じゃないとしたら、他にどんな手段があるのだろう。
その長くて黄色い髪に、初めて触れてみたいと思った。

「ねぇ。いずみって、僕のことが好きなんだっけ」
「は? なに? 奏と付き合いだしたんじゃないの?」

 彼女の顔に、警戒の色が宿る。
僕は彼女の腕を掴んだ。

「だけど奏は、僕のことを好きじゃないって言うんだ」

 僕は背を丸め、彼女にキスをする。
唇が触れ合った瞬間、彼女はぱっと体を反らした。

「ちょ、どういうこと!」

 いずみの唇を見ながら、僕は自分の唇に指を触れる。
たしかに彼女と触れ合ったはずなのに、やっぱり体に変化はない。

「なんだ。いずみも僕のこと、好きじゃないじゃないか」

 いずみはぎゃあぎゃあと何かをわめき始めた。
ごちゃごちゃした駅前の人通りの中に、僕は視線を感じて顔を上げる。
やかましいいずみの向こう側に、奏の姿が見えた。
そんなことを何にもしらないいずみは、ドンと僕の胸を突き飛ばす。

「あんたは! 奏とキスして、人間になったとた……」

 僕は慌てて、いずみをじぶんの胸に抱き寄せる。

「ダメだよ。それは秘密だから」

 奏に聞かれたら大変だ。
いずみは抵抗しようとして暴れてるけど、僕はもう、女の子には負けないくらいの力はついた。

「秘密って、なに?」

 奏の声に、驚いたいずみは僕の腕の中で振り返る。

「ちょ、待って奏! 違うの。これは……」

 いずみに余計なことを言われたら、困るのは僕の方だ。
僕は背後からいずみを抱きかかえるような感じで、右腕を彼女の口元に押しつけ口を塞ぐ。

「奏には関係ない話だから」

 奏は怒っている。
だけど、僕だってもっと怒っている。

「関係ないって、どういうこと」
「岸田くんの話をしてたんだ。嘘じゃないよ。ねぇ、いずみ」

 彼女が暴れるのをやめようとしないから、僕はますます彼女をきつく抱きしめる。
顔を覆うように回している右腕を押しのけられないよう、僕は左手で彼女の左手首を掴んで、それに抵抗する。
少し前まで、僕はいずみにも敵わなかったのに。

「これもいずみのおかげだね。ずっと一緒に筋トレしてたから」
「もういい。帰る」

 奏が背を向けた。
そのまま吸い込まれるように駅舎の中に消えてゆく。
僕と同じくるくるした黒い髪が見えなくなった瞬間、心臓がズキリと痛んだ。
なんだ、コレ。
この痛み、魔法が解ける? 
僕はもう、人間の姿のままですらいられない? 
僕が胸の痛みに気を取られた瞬間、いずみは腕から抜け出した。

「バカ!」

 いずみに怒鳴られて、ムッとなる。

「なんでバカ?」
「それが分からないから、バカって言ってんの!」

 いずみまで、走って駅の中へ行ってしまった。
それでも僕の頭の中は、最後に見た奏の横顔が、いつまでもちらついて離れない。
奏なんて、僕のこと好きでもないくせに。




第14章


 翌日、いつものように朝一番に学校に来た僕は、何となく奏の席に座った。
どれもこれも全部同じ机と椅子だけど、ここにいつも奏が座っているのかと思うと、僕のものとは違う椅子のような気がする。
そのまま机の上で眠っていたら、奏の声で起こされた。

「邪魔。どいて」

 その声にまたドキリとする。
奏の方から、声をかけてくれてよかった。
そうじゃなかったら僕は、どうしていいのか分からなかったかもしれない。

「ねぇ。もう一度確認するけど、奏は僕のこと好き?」
「好きなわけないでしょ。もう嫌いになった」
「……。そうだよね。知ってた」

 のろのろと立ち上がる。
体が重い。
筋トレとランニングで走らされすぎた、次の日みたいだ。
この重みは、人魚の僕が陸に上がってひなたぼっこしてる時と同じ重みだ。
やっぱり僕の体にかけられた魔法が、弱くなってるのかもしれない。
もう時間がないことを、知らせてくれている。

 立ち上がりはしたけど、そこから動けなくて、じっと彼女を見下ろす。
奏は肘で僕を押しのけた。
いずみには勝てるようになったのに、奏には押し退けられる。
きっと奏はいずみよりいっぱい筋トレしてるから、だから僕はまだ勝てないんだ。

「早く自分の席に着きなよ。先生来るよ」
「うん」

 すっかり人が増え、ざわつく教室の中を進む。
こういう時は、いつも岸田くんが色々教えてくれてたのに、その岸田くんは、今は僕と目を合わせてもくれない。
そういえば、奏は岸田くんと仲直りしろって言ってたっけ。
いずみはもういいって言ってたけど。
僕にはそんなことを言われて、どうしていいのか分からない。
仲直りのために謝る? 
それとも、もういいの?

 教室にいる間、奏は僕の方を見ないようにしていたみたいだけど、時々はチラチラこっちを見ていることくらい、僕だって気づいてる。
やっと放課後になった。
プールには行きたくないけど、きっと奏は行くだろうし岸田くんも行く。
あんまり行きたくはないけど、行かないと奏とも話せない。
ようやく束縛から外された教室は、とても風の通りがよくなるはずなのに、今日は濁ったままだ。
気がつけば二人はとっくに教室から姿を消していて、奏を誘って一緒に行こうと思っていたのに、少し残念な気分になる。
あまり気の進まない僕が、もたもたと片付けをしていたら、廊下からいずみがのぞきこんだ。

「宮野くん。ちょっと来て」

 夏の放課後の教室は、とにかく蒸し暑いうえに、今日はそよりとも風が吹かない。
エアコンも入っているはずなのに、ちょっとしか効いてない。
しかもいずみに連れられていくくらいなら、学校の知らない場所に行くより、まだプールの方がましだ。

「ねぇ、どこ行くの。なんかヤダ。違うところに行くくらいなら、僕はプールに行く」
「それはすっごくいい心がけだと思うけど、その前にちょっと来て!」
「ヤだ」

 いずみも怒っているみたいだけど、僕だってちょっと怒っている。
いずみはクラスが違うから、この教室に入ってこれないことを知っている僕は、どうやっていずみから逃げようかと考えながら、プールの準備が入った大きなリュックを背負う。
そういえば、このリュックは岸田くんからもらったものだ。
もう使ってないからとかいって、入部した次の日にくれたっけ。

「いいから来いっていってんの!」
「行かないって言った」

 そもそも僕は、これから奏とケンカをするつもりなのに、いずみなんかに構っていられない。
奏にはどうしても、僕を好きになってもらわなくちゃいけないんだから。
奏は自分が僕を本当に好きじゃないってことが、本当に分かってない。

 荷物をまとめると、廊下に出る。
待ち構えていたいずみは、僕の制服のシャツを掴んで引っ張った。
そういえば、いずみみたいないたずらな魚がいたな。
彼女は黄色いベラの仲間みたいだ。

「奏のところに行くんだから、邪魔しないで」
「あんた。このまま行ったら本当に奏に嫌われるよ。それでもいいの?」
「そんなの。奏はもう僕のこと好きじゃなくなってるし」

 そう言った自分の言葉に、また胸が痛む。
昨日からずっとだ。
こんなこと、今までなかったのに。
やっぱり僕にかけられた魔法の力が、弱くなっている。

「は? あんたたち、好きで付き合いだしたんじゃないの? それで、人間になれたんじゃないの?」
「そうだよ。だからいずみには、関係ないって言った」

 ウソついちゃった。
ウソをつくと心臓が痛む。
ウソをついて痛んだ心臓は、人魚の寿命を1年短くさせるから、ウソはついちゃいけない。
だけど奏が僕のことを本当は好きじゃなかったなんて、僕はそのせいで人間になれなかったなんて、他の人に知られたくない。

「人間になれたから、もう奏のことはどうでもいいの?」
「だって、奏は本当は僕のことなんて、好きじゃなかったんだ」

 心臓の動きが速くなる。
息だって溺れたみたいに苦しい。
陸に上がってようやく慣れたと思ったこの体にも、僕はまだ人間になったわけじゃないから、完全に馴染んではなかったんだ。

「ねぇちょっと、どういうことよ」
「それをこれから確かめにいくんだ!」

 ようやくいずみを振り切った。
僕は一人でプールへ向かうための薄暗い階段を下り、廊下を進む。
初めて学校に来たとき、この階段は海底洞窟みたいだと思った。
まだ冬の真っ最中だった木々は、寒さに凍えていたのに、今はそんな面影はどこにもない。
校舎を一階まで下りきった。
ここからはプールへ向かう廊下だ。
この場所で僕は奏にキスをした。
廊下の壁に張り付いている、赤い箱の付近だ。
その時の奏は、ちゃんと僕が好きって言ったのに……。
奏は一度だって、僕を好きじゃなかった。

「あれ……。なんだこれ……」

 体が急に熱くなって、足の先から血潮が湧き上がる。
その場に立ち止まった。
足元から湧き上がるそれは、頭の先にまで到達すると、声にならない声となって、喉の奥からあふれ出す。

「僕はこんなに、奏が好きなのに……」

 喉の奥が腫れたようになって、息が苦しい。
僕は無理に息をするのをやめ、ぎゅっと声をからした。
そうか。
人間になりたい人魚が声を奪われてしまうのは、きっとこんなふうに泣き続けていたからなんだ。

 ちゃんと奏に謝ろう。
何をどう謝っていいのか分からないけど、彼女がもう僕と会いたくないとか、話したくないだなんて、そんなことにしてしまいたくない。

 ようやくプール前の広場までたどり着いた。
頭上の緑の金網の向こうから、沢山の水音と人の声が聞こえてくる。
他の部員たちは、とっくに泳ぎ初めていた。
きっと奏もそこにいる。
水着に着替えたら、一番に奏のところへ飛び込もう。
そして一緒に泳ぐんだ。
それでもう一度キスが出来たら、僕は人間になれなくたって構わない。
ただ彼女とキスをしたいから、キスをするんだ。

 更衣室の重い扉を開けようとしたら、不意に後ろから声がした。

「宮野か。来たんだ」

 岸田くんだ。
背の高い茶色のサラサラした髪の下で、茶色い目が光る。

「どうして? そりゃ泳ぎに来るよ。だってここに来ないと、岸田くんも奏もいずみも、他のみんなも怒りだすじゃないか」
「はは。だって、もうお前がここに来る理由もねぇだろ。人間になれたんだから。だから奏だって、もう用なしになったんだろ」

 夏の強すぎる太陽が、僕たちの頭上に照りつける。
嫌な汗が、じっとりと背筋を流れた。
岸田くんの肩にかけていた鞄のベルトが、ずるりと垂れ下がる。

「お前、いずみと出来てたんだって?」
「なにが?」
「よかったな、魔法が解けて。それで本当に好きになった女と付き合えるなら、そっちの方がいいよな。奏もびっくりしてたよ。自分が利用されてただけだって、ようやく気づいたみたいで」

 岸田くんはずり落ちた鞄を、肩にかけ直した。
目を細め、冷たく微笑む。

「まぁでも、これでお前も自由になれたんだろ? よかったな」
「どういうこと?」

 むき出しの素肌はちりちりと焼け焦げ、痛む心臓も動き出した。
だけど僕は、まだ人間になれていない。

「命の恩人にもてあそばれるんなら、仕方ないってこと」
「……。それは、どういうこと? 奏に僕のこと、話したの?」
「泣いてたぞ、昨日。夜中に電話してきて、お前の話だろうとは思ってたけど、全然方向性違って、逆に笑ったわ」

 岸田くんの、白いシャツにつかみかかる。
彼の肩から、鞄がドサリと地面に落ちた。

「奏には言わないでって言ったのに!」
「は? もう終わった話だろ。お前はちゃんと目的を果たして人間になれた。文句があるなら、直接奏に言えよ。奏もお前の話を聞きたがってたぞ」

 岸田くんの腕に、僕は簡単に押し退けられる。
土の上に転がった僕を、彼は醜いモノでも見るような目で見ると、落とした鞄を拾った。

「お前、やっぱ最悪だな。あぁ、便利なカナデチャンが来てくれたぞ」

 顔を上げる。
その奏は、本当に僕の前に立っていた。

「違う。僕はいずみのことなんか好きじゃないし、いずみだって僕のことを好きじゃない。だから大丈夫。奏とは違う!」

 地面に這いつくばった僕を、岸田くんは笑った。

「あはは。やっぱバカだなこいつ」

 岸田くんは奏の肩を掴むと、そこに顔を近づけた。
奏の唇に、岸田くんの唇が触れる。
その瞬間、僕の心臓が悲鳴を上げた。

「宮野にフラれたんだろ? お前、俺のこと好きだったよな。アイツやめて、やっぱ俺と付き合う?」
「私をおもちゃにしないで」

 彼女はまるで、道ばたで誰かとぶつかっただけみたいに、岸田くんに触れられた唇を手の甲でぬぐった。

「だってさ。宮野。分かったか」
「なんで奏にキスしたの?」

 岸田くんはフッと微笑むと、地面に倒れたままの僕の前にしゃがんだ。

「お前だってしてただろ。人間になったんだから、もう真実のキスとか関係ねぇしな。人間ってな、本気のキスじゃなくても、そういうの、出来るんだぜ」

 彼は更衣室のドアの向こうに消えた。
重い扉のバタンと閉まる音に、僕の体はビクリとなる。
だけどこうなったのは、音のせいだけじゃない。
奏の黒く澄んだ目が、じっと僕を見下ろす。

「……。宮野くんがさ、私を助けてくれたってのは、本当なの?」

 僕はくらくらする頭でぎゅっと目を閉じる。
ずっと想い描いていた陸での暮らしが、こんな風に終わるとは思わなかった。

「そうだよ。奏」

 追いかけてきた奏。
僕の運命の人。
僕は君の、その僕にそっくりなくるくるした短い黒い髪に、自分自身の姿を重ねただけだったのかもしれない。

「その……。宮野くんが、人魚って……」
「うん。だから、奏に会いに来た。僕は、陸の暮らしに憧れたんだ」

 そう。今なら分かる。
僕は彼女を愛したんじゃなくて、海での生活に飽きていただけだったんだ。
永い永い時を、このまま独り暗い海の底で過ごすより、僕は彼女と一緒に明るい日の差す地上で、生きたいと願ったんだ。

「……。それで、宮野くんの願いは叶ったから、もう終わったんだ」
「まぁ、そういうことかもね」

 いずれにしても、彼女に知られてしまった以上、僕は終わりだ。
明るい陸の太陽が、僕と彼女の頭上に輝く。
僕は彼女に手を伸ばす。
彼女に触れたい。
だけど彼女は、その手をパシリと叩き落とした。

「最低って、言いたいけど、それが命の恩人に対して言うことではないとは、思ってる」
「うん」
「だけど、最低」

 奏が怒っている。
そりゃそうだよね。
僕だって残念だ。
だけど初めて彼女にキスをした時から、僕にはこうなることが分かっていたのかもしれない。
やっぱり人魚が人間になろうなんて、無理な話だったんだ。

「ありがとう。楽しかったよ。僕はまだ、プールに行ってもいい?」

 これからどうしよう。
死ぬのは怖くない。
もう十分生きてきた。
残りの時間は、嫌われてたっていいから、できれば彼女の近くで過ごしたい。

「それは……。私の決めることじゃないから。どうせ大会が終われば、私たち3年は引退するし」
「奏も、もう泳がなくなるの?」
「うん。大会が終わったら、そこでお終い」

 だったら少しでも長く、人魚みたいに泳いでいる彼女の姿を見ていたい。

「じゃあ僕も、大会まで泳ぐよ」

 彼女は顔を背ける。
眉を寄せ、唇をかみしめたその横顔は、とても苦しそうに見えた。
僕は奏に、そんな顔をさせるために海を出たんじゃない。

「助けてくれたことには、ちゃんとお礼は言いたい。ありがとう。感謝してる。だけど、それ以外のことは許してない。だから……」
「今まで通りにしてて。普通に。岸田くんと奏が、そうだったみたいに」
「なにそれ。そんなの無理。出来れば顔も見たくない」
「奏がそう言うなら、僕はもうここには来ない」
「それはダメ。言い過ぎ」

 僕は人間じゃないから、人間の気持ちは分からない。
だから何をやっても上手くいかないし、奏の気持ちも分からない。

「奏はどうしたいのか教えて。奏の言う通りにする」
「学校にはちゃんと来て。部活も出て。大会も真面目に泳いで。優勝して」
「それが、奏の願い?」

 彼女がうなずく。
泣き出してしまった彼女を、僕は今すぐにでも抱きしめたいけど、昨日まで簡単に出来ていたことが、もう今日には出来ない。

「約束する」

 僕は自分の小指を差し出した。
僕から奏にする、初めての約束。
彼女はその指に、自分から指を絡めてくれた。
そのことを僕は、きっと海の泡になっても忘れない。
彼女の細く小さな指が、僕から離れた。

「じゃ、さようなら」
「さようなら」

 その『さようなら』は、付き合うのをやめるってことだよね。
それはもう、僕のことを好きにはならないってことだよね。
彼女のスカートの裾が、女子更衣室の扉の向こうに消えた。
あぁ、そうか。
やっと分かった。
僕はようやく、大事なことに気がついた。
奏は僕を好きだったけど、僕が本当に彼女のことを好きじゃなかったから、この魔法は解けなかったんだ。

 鱗のない肌を、強い日差しが焼き尽くす。
僕は人魚のままだ。
自分が変われていないことくらい、自分で分かる。
奏にだけは知られてはいけなかったのに。
僕にはもう、どこにも居場所はない。
全身から噴き出した汗が、ぽたりと地面に垂れて吸い込まれる。
地上に出てから初めて、僕は海に帰りたいと思った。




第15章


 最後の大会会場となっていたのは、前回と同じプールだった。
抽選で場所取りした二階観客席に陣取る。
今回僕は、50と100のバタフライにエントリーされていた。
奏と岸田くんとその他の部員たちも、すぐに準備へ向かう。

「僕の出番は何時くらい?」

 いずみに話しかけたら、彼女はとても迷惑そうに僕を見上げた。
そういえばいずみと話しをするのも、あの時以来だ。
彼女は持っていた競技の進行表をペラリとめくる。

「まだ3時間近く待つから……。分かるところに居て」

 別にどこかに出て行こうなんて、そんなつもりじゃなかったのに。
そう言われると、本当にどこにもいけなくなってしまった。
僕はそのまま、彼女の隣に座る。
やっぱり彼女は、凄く嫌そうな目で僕を見た。

 入ったばかりの会場では、まだ競技も始まっていなくて、プールサイドにいる審判員の人たちが、慌ただしくテーブルとかの準備をしている。
客席も他の出場者がグループで陣取っていて、泳ぎに行く人と、僕みたいに残っている人、いずみみたいな人との出入りでごちゃごちゃしていた。

「……。あのさ。結局奏とは、どうなったの?」

 いずみは周りに他の水泳部員がいないことを確認してから、僕にぼそりとつぶやいた。

「どうって?」
「私は、ひたすら謝り倒して何とか許してもらったけど……。あんたのおかげで、私まで大変だったんだから」

 いずみは怒っている。
怒っているけど、もう本当には怒っていないみたいだ。
僕にはそういうことも、なんでそうなるのかがよく分からない。

「あぁ。いずみも、奏のことが好きなんだ」
「そりゃそうでしょ!」

 彼女はぱっと前を向くと、じっとうつむいた。
黄色くて長い髪が、肩からさらりと流れ落ちる。

「私だって、あんたには感謝してる。私だけが助かって、奏があのまんま大変なことになってたら、私だって……。今ここには、いなかったと思うから」

 彼女は僕に、その横顔を向けたまま、少し頬を赤らめた。
それはとても小さな告白だったけど、僕にとっては十分過ぎるものだ。

「だから、あんたが人間になれて、よかったと思ってる。奏とも仲直りしてほしい。二人にはちゃんと、幸せになってほしいと、真剣に思ってるから」
「ありがとう」

 僕が本当に人間になれていたのなら、きっと彼女の言葉に泣いたのだろう。
そうやって流す涙のことを、きっと美しいと言ったのだろう。

「いずみは、僕のことも奏のことも、好きだったんだね」
「そりゃそうだよ! だけどそれは、ヘンな意味じゃないよ!」

 だとしたら僕も、いつまでもいずみに好きなままでいてほしいと願おう。

「いずみは、僕が今日一番になったらうれしい?」
「え? そりゃうれしいよ」

 そう言った彼女に、僕はにこっと微笑んで返す。

「分かった。じゃあ、ちゃんと見ててね」

 前回より一つ上の大会だとは聞いていたけど、相変わらず僕にはその違いがよく分からない。
確かに会場の雰囲気は違うけど……。
ちょっと参加人数が多い? 
前は高校生ばかりだったけど、今回は少し小さな子供から大人まで一緒だ。

 奏の出場する、女子50m自由形が始まった。
水着に着替えた彼女がプールサイドに出てくる。
予選7組、エントリー数61種目。
奏は3組だ。
人間というのは、やること全てにきちんとルールがある。
公式大会での記録とやらで、泳ぐ組もレーンも最初から決まっていた。
最終組の方に成績のいい人間が集められているから、何組、何レーンと聞いただけで、その人の泳ぐ能力が分かる。
奏はあまり、この中では速くないということだ。
彼女が飛び込み台の前で肘を伸ばしている。
僕は立ち上がった。

「かなで、がんばれー!」

 僕の叫んだ声に、いずみは苦いものでも飲んだような顔をする。
ここで叫んだって、彼女には聞こえていないだろう。
だけど、堂々と彼女の応援が出来るのは、今しかない。

「応援するのもいいけど、自分の出番も忘れないでよね」
「もちろん。それは分かってるよ」

 会場の壁にかけられた時計を見る。
女子50m自由形の開始時刻は9時半の予定通り。
岸田くんの出る男子50m自由形の終わった後で、僕の出る50のバタフライが始まる。
男子50mバタフライの開始予定時刻は9時56分だ。
前回大会で100と200の記録しかない僕は、50のオープンで記録を出さないと、決勝には出られない。
だから後で一緒に争うことになる50mバタフライの選手の泳ぎは、見ておきたい。

 奏が台の上に乗った。
合図と共に飛び込む。
黒い水着に、真っ直ぐに伸びた体が、水面に刺さる。
水中を人魚のようにぐんぐん進んだ彼女の体が、水面に浮かんだ。
僕はいずみを助けるために海に飛び込んだ彼女の、この泳ぐ姿に心を奪われたんだ。
水面をかく水しぶきが、彼女の腕から湧き上がる。
奏のゴールを見届けると、僕はその姿を忘れないよう、しっかりと目を閉じた。
僕ももう、覚悟を決めなくてはいけない。
彼女が泳ぐから、僕もここで泳ぐ。
それは海を出る時に決意したことと、変わりない。

「おにぎり買ってくるね」

 いずみに言い残すと、僕は外に出た。
強い日差しが、頭上から照りつける。
陸の夏は、海の夏より暑い。
この夏の空気を、この一瞬の時を、僕は大切にしまっておこうと初めて思えた。
海から上がってきた時は、地上にあるもの全てが、珍しくてしかたがなかった。
もうすっかり見慣れてしまったけれど、こんなにも違う世界が僕のすぐ隣にあったことに、驚かされたんだ。
きっとそれを知れたことが、一番の宝物。
僕はコンビニでいつもの鮭といくらのおにぎりと、スポーツゼリーを買う。
店員さんに「ありがとう」って言ったら、「ありがとうございました」って返してくれた。

 プールに戻ると、男子50m自由形の、最終組が出発したところだった。
今は予選なので、後のオープン競技を含め、決勝の10人に残るような成績を出さなければならない。
岸田くんは第2レーン。
25秒を切るようなレース展開だ。
誰の目で見ても、確実に前回の大会より全体的なレベルは高い。
岸田くんは24秒60でゴールしたけど、この組では5位だ。
先の19組、第2レーンで泳いだ選手に0.22秒差で負けている。
前回大会で優勝した岸田くんですら、この順位だ。

「なんだよ。そんなんじゃダメじゃないか」

 俺はおにぎりのビニールをペラペラとめくると、それにかぶりついた。
おにぎりの海苔は、パリパリしてるより、しっとりしている方が好き。
このビニールとやらは、海にいるときにはかなり迷惑していたし大嫌いだったけど、陸に上がってその便利さを知った。

 岸田くんとも、学校のプール前広場でケンカしてから、ずっと話せていない。
それでも僕が彼に負けるのはいいけど、他の人に岸田くんが負けるのは嫌だ。
そう思える僕は、やっぱり彼のようになりたかったんだと思う。

 僕の出場予定である、50mの男子バタフライが始まった。
予選6組、エントリー数60種目。
30秒台後半から始まったレースは、28から27秒代で徐々に順位を上げていく。
見下ろすプールに、真っ直ぐ引かれたレーン。
その中を、たくさんの人たちが泳いでいく。
今日だけは僕は、その人間の中の一人になる。

「なんだ。たいしたことないな」

 そうつぶやいたら、いずみは力強くうなずいた。

「ぶっちぎりの予選通過、待ってるよ」

 観客席を出て、ロッカールームへ向かう。
泳ぎ終えたばかりの岸田くんが、更衣室前の廊下に立っていた。
彼とは出来るだけ、直接顔を合わせたくない。
だけど本当は、誰よりも今話したい。

「宮野。頼んだぞ」
「余裕だね」

 この大会のレベルなら、10位入賞で決勝レースに出られるのは、僕と岸田くんしかいない。
彼はうつむいたまま、片手を上げた。
僕はそれにどうすべきなのかを、もう知っている。
彼のいつもサラサラした髪は、水に濡れていた。
パチンと強く重なり合った手は、一瞬だったかもしれないけど、僕にはきっと、永遠の記憶になる。

 水着に着替えた僕は、静かに息を吐き出した。
初めて水着を履いた時は、気持ち悪くて仕方なかったのに。
この二本足も、すっかり見慣れてものだ。
このロッカールームは、学校のプールと同じような臭いがする。
僕はこの臭いを嗅ぐたびに、きっと全てを思い出す。

 プールサイドへ出た。
男子50mバタフライ、5組、50種目。
僕は最終組に入れられていた。
合図の笛が鳴り、飛び込み台の上に上がる。
戦うのは、自分のタイムだけだ。
合図が鳴り、水に飛び込む。
50mだから、このプールだとターンなしの全力疾走。
楽勝過ぎる。
僕は約束通り、25秒87の、トップで予選を通過した。

 分刻みのスケジュールは進む。
観客席に戻っても、みんなそれぞれのタイムスケジュールで動いているから、全員がそろうことはなかなかない。
いずみだけがずっと残って、電光掲示板に表示される記録の、全員分をノートに付けていた。

「お疲れ」

 いずみはそう言って、ニッと片方の眉を上げた。
その自信に満ちた表情は、まるで自分が泳いできたみたいだ。

「余裕すぎた」
「うん。カッコよかったよ。次もこの調子でよろしく」

 入れ替わりの激しいプールで、岸田くんが400mの自由形に姿を現した。
今度はタイム決勝2組。
彼は50mを泳いだ後で、すぐ400mを泳ぐ。
選手層の薄いうちのような学校では、こんなハードスケジュールも仕方がない。
4分21秒41、全体3位で終わった。
電光掲示板に、決勝レース最終結果の名前が上がる。
『岸田 智』の文字が光った。

「岸田くん、3位入賞した!」

 そこにいた部員たちは、うれしそうな声を出す。
男子400の自由形は参加者が少ないから、これでこの競技はお終い。
岸田くんに残っている個人競技は、200の個人メドレーにだけになる。
順位争いには無関係な、公式記録を残したい人のためのオープンが控えているから、本当の決勝出場者の名前が出るのは、その後だ。

 休憩を挟んで、100mバタフライ、オープンのタイム決勝。
5組42種目。前回大会の記録を持っている僕は、もちろん最終組中央第4レーンだ。

「Take your marks」

 審判員の腕が上がる。

「ピッ!」

 合図が鳴った。
僕は一呼吸置いて、全員が飛び込んだのを見届けてから、水に入る。
100mだから、このプールではターン1回のやつ。
54秒28の、2位との2秒26差で楽勝。
問題なし。
プールの壁につかまったら、会場から大歓声が上がった。
僕にはそれは、遠い世界から響く波音のように聞こえて、プールから上がって色んな人に、「すごいですね、おめでとうございます」って言われるまで、なんのことだかさっぱり分からなかった。
大会新記録だったらしい。
観客席に戻るまで、ちらちら見られていたのは、そういうことか。
ようやくみんなのところへ戻れたけど、もうそこに奏も岸田くんもいない。
やっぱりいずみだけが座っている。

「奏は?」
「次の個人メドレーに行った」

 視線をプールへ戻す。
彼女の言った通り、奏の女子200m個人メドレーが始まった。
タイム決勝3組。
彼女は2組第5レーンだ。
2分38秒58。全体8位。
好成績だったと言う人もいれば、そうじゃないと思うこともあるのかもしれない。
15人が泳いでの8位入賞。
奏の表情は明るくはない。
僕は最後に、どうしても彼女の笑顔が見たい。

「さぁ、行こうか」

 僕にはまだ、次のレースが待っている。
この仲間たちの間で、決勝を泳げるのは二人だけしかいない。
奏の200m個人メドレーのすぐ後で、岸田くんの同じレースがある。
僕は今日は、彼とロッカー前で一言交わしただけで、他では会えていない。

 会場の雰囲気が一変する。
男子200m個人メドレーの決勝レースが始まった。
長水路が得意な岸田くんは、過去の公式記録から最終組に入っている。
その最終組の登場に、会場が沸き立つのが分かる。
岸田くんの鍛え上げられた足が、飛び込み台の上に上がった。

「ピッ!」

 合図がなって、全員がきれいに飛び込む。
このレースが彼個人にとって、最後の試合だ。
水しぶきを上げ、一直線に水面を泳いでいく。
会場は大歓声に包まれていた。
10人での決勝レースに、俺はぐっと拳を握りしめる。
岸田くんは、予選タイム通りの5位から先に抜けられない。

「ねぇ! こんなところで負けてちゃだめだろ!」

 たった50mの、決められた4種類の泳ぎ方での勝負。
彼は得意とする最後の自由形で、そのスピードを取り戻した。
最後のターンを決める頃には、遅れを取り戻し、先を泳ぐ他の2人に並ぶ。
第3、第6レーンの選手との、荒れた試合になった。
ほぼ横並びになってしまったいま、誰がトップを泳いでいるのか、全く分からない。
ほぼ3人が同時に、ゴールに着いた。
この会場にいる全ての人々が電光掲示板を見上げる。
2分10秒63。
岸田くんの手は、その誰よりも早くゴールに触れていた。
歓声があがる。
プールから出てきたばかりの岸田くんと、二階席の僕を目が合った。
それは本当に、間違いなく彼と視線がぶつかったんだ。
僕は彼に向かって、大きく手を振る。

「岸田くん、おめでとー!」

 彼はそれにふっと笑うと、大騒ぎしている2階席の仲間に向かって手を振った。
岸田くんは僕に怒ったけど、きっと僕のことを嫌いじゃない。
それは僕だって、彼のことを本当に嫌いじゃないことと、一緒だ。
プールサイドから戻ってきた彼は、僕にニッと微笑む。

「じゃ、後はよろしく」
「任せろ」

 パンと気持ちいい音を響かせ、ハイタッチを交わす。
そんなこと、任されなくても大丈夫。
この僕が負けるわけない。
時間が来て、プールサイドへ向かう。
100mバタフライ決勝。
一緒に泳ぐ予定の選手たちが、僕をジロジロ観察してくるけど、もうそんな視線にびくびくしたりしない。
長い笛がなった。
出番だ。

「Take your marks」

 台の上にあがる。
僕はただ、じっと光る水面を見ていた。
「ピッ!」という合図と共に、そこへ飛び込む。
僕は泳ぎながらずっと、ルールブックのバタフライの項目を暗唱していた。
スタートはうつぶせ、飛び込み後は深く潜りすぎないこと。
水中でのサイドキックは許される。
両腕は水中を同時に後方へかき、水面上を同時に前方へ。
全ての足の上下動作は同時に行ない、交互に動かしてはならない。
頭は水面上に、出ていること! 

 壁に手を着き、ゴールタッチ。
僕はすぐに水から顔を出し、電光掲示板を見上げた。
23秒98。
表示の最後のところに、『NEW』の印がついている。
高校生新記録での優勝だ。
会場のどよめきをかき消すように、僕の居場所である2階席の一部が騒いでいた。
僕はそこへ向かって手を振る。
彼ら全員が、僕に向かって手を振り返してくれた。
泳いでいてよかった。
心からそう思える。
僕はようやく、この世界に認められた気がした。
みんなが盛大に喜んでくれたけど、僕にとって本当に大事なレースが、この後に控えている。

 最後のレースは、4人が100mのクロールで泳ぐフリーリレーだった。
男女混合で泳ぐこの競技は、事前に学校で計測した、クロールの早い4人が選ばれていた。
僕と奏と、岸田くんと岸田くんの次に早かった男子の松下くん。
水着姿の奏がすぐ真横に立っていて、僕は彼女に話しかけたいけどずっと声をかけられないでいる。
僕と奏が同じチームになるなんて、思わなかった。

「宮野。優勝よろしく」

 松下くんは僕の肩に手を乗せると、そう言った。

「俺、優勝とかしたことないから。仲間に入れてくれ」
「もちろんだよ。任せといて」

 そんなこと言われたら、僕だって大人しくしてはいられない。

「はは。お前が言うと、安心感あるな」

 彼は恥ずかしそうにそう言うと、照れたように笑った。

「あの時は、悪かったな」

 彼が小声でつぶやくのを、僕はどうにか聞き逃さずにいた。

「なにが?」
「なんでもねーよ!」

 立ち去る松下くんの向こうに、立っている奏を見つけた。
僕は彼女の様子をこっそりとのぞきこむ。
奏の表情は硬くて、緊張しているのか、まだ僕に怒っているのかが分からなかった。
彼女とはあれから、もうずっとしゃべっていない。
目も合わない。
すくなくとも僕は、彼女の笑った顔を見ていない。
だからきっと、これは僕が彼女にあげられる最後のプレゼントになる。
それを喜んでもらえるのなら、僕はなんだってする。
きっと他には、してあげられることはもうないから。

「奏と一緒に泳ぐのに、負けるわけないじゃないか」

 第一泳者は奏。
次に松下くん、岸田くんと続き、最後は僕だ。

「何があっても、大丈夫だから」

 飛び込み台に上がった彼女の背に、そう声をかける。
反応はない。

「僕のこと信じて」

「Take your marks」

 審判員の腕が上がり、僕は彼女から距離をとる。
もう返事すらしてもらえない。

「ピッ!」

 彼女が飛び込んだ。
固唾を飲んで、彼女の泳ぎを見守る。
大丈夫。
奏はきっと、分かってくれる。
5組38種目の4組目第4コース。
僕たちの敵はここにはいない。
本当にタイムを争うことになるのは、一緒には泳がない最終組に残っている10チームだ。

「どれだけ抜けばいいの?」

 奏はこの組の3位でターン。
僕は隣にいる岸田くんに聞いた。
奏と松下くんが交代する。

「ぶっちぎりの一位で」
「分かった」

 松下くんは順位を下げ、4位に追いつかれた。

「いいか、失格だけはするなよ!」

 そう言い残して、岸田くんは飛び込む。
僕はすぐに台に上がり、彼の泳ぐ背を視線で追いかけた。

 彼らの記憶に僕が残るのなら、僕はここに来た意味があったと思う。
岸田くんが順位5位から4位に取り戻した。
彼の指先が壁に触れるのを確認してから、僕は飛び込む。
沈んだ体を、すぐに浮き上がらせた。

 海にいたころは、僕にとって泳ぐことは何の意味もないことだった。
だけどそこに意味を与えてくれた地上の仲間たちに、僕は感謝している。
そのためにだったら、僕は彼らのルールで、いくらでも速く泳ごう。
それが僕の出した答えだ。

 ターンを決め、すぐに復路に入る。
約束通り、ぶっちぎりの一位で泳ぎ切った。
3分18秒52。
やっぱり『NEW』の文字。
次の最終組にもこの記録を超えるチームは現れず、僕たちは最後の競技の、優勝カップを手に入れた。

 引退試合となったこの大会が終わると、みんなは写真を撮ったり抱き合ったりなんかして、僕もその中に入れてもらう。
スマホとか持ってないって言ったら、後で画像をプリントして渡してくれるって、他の部員から言われた。
解散が告げられ、みんなはそれぞれ自分の場所に帰っていく。
僕はみんなから離れたところで、置いてあった鞄を持ち上げた。

「なぁ、宮野!」

 一人で帰ろうとしていた僕に、岸田くんが近づいてくる。

「あ、あのさ。お前、これからも水泳は続けるんだろ?」

 彼はもう、僕とケンカしていたことは、忘れてしまったみたいだ。
僕はそんな岸田くんを、かわいいと思うと同時に、うらやましくも感じる。
だけどもう、僕に選択肢はない。

「どうすればお前みたいに泳げるようになるのか、本気で教えてほしい」
「大丈夫。僕はもう泳がないよ。クロールもバタフライも、他の泳ぎも全部。この大会でお終い。だから、もう僕にマネされるとか、そんな心配しなくていいよ」
「は? なんだそれ。つーか泳がないって、どういうこと?」

 彼が驚いたことの方に、僕は驚く。

「俺は、お前に負けたことが悔しかったんじゃない。いや、それはそうなんだけど、何て言うか……。水泳は続けろよ!」
「はは。それが出来ればよかったんだけど」

 今の僕の手は、人間の手のように見える。
まるで本当に二本の足になったかのような、足元に目を落とす。

「僕はどうやら、人間にはなれなかったみたいだ。だからもうすぐ、海に帰らなくちゃいけない」
「は? ちょっと待て。お前、人間になったんじゃなかったのか?」

 彼の顔色が変わった。

「だって、奏と付き合ってただろ。キスもしてたし」

 岸田くんの手が、僕の腕を掴む。

「だけど、僕の魔法は解けなかった。奏は僕のことをどう思ってたのかは知らない。だけど僕の方が、本当の意味で奏を好きじゃなかったみたいだ」
「どういうこと?」
「難しいんだ。人間になるって。僕も人間みたいに、誰かと簡単にキスが出来ればよかった」

 夏の終わりの太陽が、会場となっていたプール前広場を照らす。
僕は岸田くんにそっと微笑むと、彼の手から離れ、人間の群れの中を歩き出す。
この世界がオレンジ色に染まってゆくのを、僕はあと何回見ることが出来るだろう。
あと何回電車に揺られ、バスに乗り、学校へ通えるのだろう。

そういえば、僕は2月に海を出て以来、一度も海を見ていない。
そのことに気づいた時、僕は海へ行こうと思った。




第16章


 夏休み中も、ずっと毎日通っていた部活が終わった。
もうすぐ学校が始まる。
そんな夏休み最後の、何もないある日の午後、僕は一人で海を見に出かけた。
本当にたった一人で遠くまで出かけるのは、これが初めてで、僕はもう随分と海から遠いところで暮らしていたんだと思った。
電車に乗って、迷いながらバスに乗り、ようやく海岸にまでたどり着いた時には、すっかりお日さまは西に傾き始めていた。
海水浴シーズンも終わり、人の減った海岸を、いつも見ていたのとは逆の立場で見ていることに、不思議な気持ちになる。
僕が海から見ていた人間は、こうやってここにたどり着いていたんだ。

 砂はサラサラしすぎていて、すぐに靴に入って来て歩きにくくなる。
僕は出来るだけ砂が入らないよう、用心深く砂浜で足を運んだ。
その歩き方は、まるで人間みたいだ。
そのことにおかしくなって、ちょっと笑う。
砂浜からせり出した防波堤に上り、そこからまた波消しブロックに飛び乗る。
この場所はよく知っている。
僕はよくここに隠れて、浜辺に集う人間を見ていた。
奏はここから海に落ちたんだ。

「はは。こんなに近かったんだ。そりゃ見つかるよね」

 僕は今その場所で、夕陽が沈むのを待っている。
海から見ていた時には、見えなかった景色が見える。
遠くに走る車とか、街の様子とか。
電車だって、見たことはあったけど、まさか自分がそれに乗って海に行く日が来るなんて。
僕はまた面白くなって、ちょっと笑った。
目的地にたどり着いた僕はそこに腰を下ろすと、じっとその時が来るのを待っている。

 太陽はゆっくりと、だけど確実に沈んでゆき、海の向こうにすっかり姿を消した。
以前から、夜になってもなんて地上は明るいんだろうと思っていたけど、本当に眩しいくらいに明るくて、ここからでも明るい空に星が見えない。
僕は月の位置と、辛うじて見えるいくつかの星を数えながら、じっと待っている。
黒い小さな波が、ブロックの壁面に打ち付けては引き返すのを、飽きることなく見ている。
そんな僕の目に、パシャリと何かが跳ねた。
時間だ。

「これを返しに来た」

 僕は、海の魔女から渡された銀のナイフを水面すれすれにかざす。
細長い刀身と、柄には繊細な波を模した細工が施され、魔力を秘めた宝石がちりばめられていた。
暗い水底から用心深くぬめりとした手が現れ、それをパッとひったくると、海に消える。

「ありがとう。感謝してるって、みんなにはそう言っといて。また会える日を、楽しみにしているよ」

 このナイフを返すのは、もう人魚として海には戻らないという伝言。
人間として生きるか、海の泡になって消えるのか、その選択をしたという証。
僕は海の泡となって、ここに戻ると決めた。
だから寂しくはない。
また途方もなく長い年月を、それは記憶がなくなるほどの果てしない時を、この海で漂いまたいつか生まれ変わる。

「またね」

 遙か沖で、鋭い爪と細かな鱗に覆われたヒレのある手が浮かび、僕に手を振った。
ぽちゃりとそれが沈むのを見届け、僕は安心する。
これでもう大丈夫。
全ての儀式は終わった。




第17章


 夏休みは終わり、次の学校が始まっていた。
部活のなくなった僕は、他にすることもないから、何となくここに来ている。
地上で唯一僕が作った居場所に、未練がないわけじゃない。
ここを離れがたいのは、きっと僕の中にも、まだ寂しいという気持ちが残っているからだと思う。
夏の太陽はすっかり陰りをみせ、その光を弱める。

 朝はゆっくり教室に入って、自分の席に座る。
すぐ隣にいた男の子に、声をかけてみた。
彼は凄くびっくりしてたけど、聞いたことには全部答えてくれる。

「宮野くんから話しかけてくるなんて、思わなかった」
「なんで?」
「え、だって。他人に興味なかったから」

 彼は眼鏡の縁をコソッと持ち上げる。
そういえば同じ教室の、奏と岸田くん以外の人とは、あんまり話したことなかったな。

「ねぇ、名前なんて言うの?」
「あ、そっからなんだ。まぁいいけど」

 僕に初めて、人間の友達が出来た。
彼の名前は田中くん。
田中くんの背はそんなに高くない。
僕と同じくらいで、体格は筋肉質ではないけど、しっかりした作りをしていた。
彼の好きなアニメやゲームを教えてもらって、一緒にやる。
もう部活に行かなくてもいいし、奏のことを気にしなくてもいいんだ。
そう思うと、僕の体は急に軽くなった。
ふわふわ宙に浮かんでいるような気分だ。
田中くんと話すようになったら、他の女の子たちとも話すようになった。
谷さんと小山さん。
二人とも真っ直ぐな黒髪で、谷さんの方は眼鏡をかけている。
仲良しになったから、昼休みには一緒にお弁当を食べようと誘われて困る。
ずっと栄養ゼリーばかりだった僕は、結局人間の食べ物が口に合うことはなかった。

「一緒にお弁当はいいよ。僕は食べられるものがあんまりないから」

 谷さんと小山さんは顔を見合わせる。

「それはアレルギーとかの、健康上の理由?」
「う~ん……。じゃなくて、好き嫌い?」

 僕がそう言うと、すぐ横で黙って聞いていた田中くんは、自分のお弁当の蓋を裏返して僕の前に置いた。
そこにプラスチックで出来た、黄色い針みたいなものを刺したから揚げを置く。

「みんなで食べるってさ、ある意味雰囲気だから」

 僕には彼の言うことがよく分からなくて、もっと困る。
そしたら谷さんが自分のお弁当から卵焼きを一個取りだして、田中くんのから揚げの隣に置いた。
小山さんも、そこにウインナーを置く。

「今日の弁当の中に入ってる、俺の一番好きなおかず。同じもの食べるって、時間と思い出の共有だから。無理にとは言わないけど」

 二人の女の子も、同時に「うん」とうなずく。

「そっか。うれしいよ」

 時間と思い出の共有か。
確かに今の僕には、一番必要なものかもしれない。
油でべとべとのものは好きじゃないけど、こういう気持ちは嫌いじゃない。
遠慮なくそれをつまむ。

「うん。おいしい。ありがとう。」

 僕が微笑んで見せたら、彼らも笑ってくれた。
お弁当が終わったら、谷さんがスマホの画面を見せてくれたので、僕も一緒になってのぞき込む。

「これは何の動画? 歌を歌ってるの、なんで?」
「カラオケ、行ったことないの?」
「ない」
「じゃあ今度、一緒に行こう」

 初めての友達との約束。
今になってまで、僕に初めてがあるだなんて思わなかった。
カラオケの話しで盛り上がっていたところに、ふと人影がさす。
黒くてくるくるした短い髪が、少し伸びた奏がそこに立っていた。

「あのさ。ちょっと宮野くんに話しがあるんだけど」

 奏とは、水泳部を引退してから話していない。
岸田くんもだ。
あの大会が終わってから、もう1ヶ月は過ぎた。

「ごめん。放課後はカラオケ行く約束しちゃった」
「宮野くんに用はなくても、私には出来たの。それとも、ここで大事な話しをしちゃってもいいの?」

 奏だけがまだ怒っていた。
黒い目が、心なしか揺れているようにも見える。
奏がもう僕を好きじゃなくても、やっぱり僕は、彼女の悲しむ姿を見たくないと思った。

「分かった。場所を移そう」

 昼休みの廊下を、並んで歩くのも久しぶり。
肩と肩との距離って、これくらい開いてたんでよかったっけ。
僕はどこへ行っていいのか分からないから、ゆっくりと彼女の後ろをついてゆく。
窓の外は季節の変わり目を示す薄い雲がかかっていて、吹く風も湿度を下げた。
緑だった木の葉も、色を変え始めている。
背を向けたままの前を歩く彼女の髪からは、もうプールの臭いはしない。

「なんで強化指定選手断ったの?」
「もう泳がないから」
「なんで?」
「なんでって……」

 そう聞かれた、僕の方が驚く。
ずっと短かった彼女の髪が伸びて、そういえば自分の髪も伸びていたなーなんて、自分の襟足をつまんでみる。

「もう自由になったから、水泳にも興味なくなった?」
「自由にはなれたけど、奏が気にすることじゃないよ」

 今日は特に、吹く風が強くて肌寒い。
昨日まで暑かったのが、嘘みたいに冷える。

「そうかもしれないけど、私のこととは関係なく、泳いでいてほしい」
「う~ん。そのお願いはもう、残念だけど叶えてあげられないな」
「それは私のことが、もう好きじゃなくなったから?」

 彼女が振り返った。
その姿に、忘れていた胸の傷が疼く。
そっと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
こぼれ落ちそうな涙を、こぼれる前に僕は拭い去ってあげる。
なんだか懐かしく感じるのは、きっと彼女の着ている制服が、出会った頃と同じものに替わったせい。

「そうじゃないよ」
「じゃあどうして?」

 連れてこられたのは、自販機前の広場だ。
ここのベンチに座って彼女と過ごしたのが、もう随分遠い昔のよう。
僕は返事の出来ない代わりに、あの時と同じ場所に腰掛ける。

「岸田くんから聞いた。宮野くん、人間になれてなかったって」
「そうだよ」

 僕は奏に会えてよかった。
それは今でも、心からそう思っている。

「だからあんなに、無理矢理キスばっかしてきたんだよね。それなのに、ダメだったなんて……。おとぎ話の本当の続きって、思ったより残酷なんだ」
「そうでもないよ。僕は分かってここに来てたし」
「私はそれを、ずっと知らなかったんだよ?」

 奏が怒っている。この僕に。
ぶつけられる感情があるだけ、僕はよかったと思ってる。

「だって、本人には知られちゃいけないってのがルールなんだ。だからもう、終わったんだよ」
「終わりは、次の始まりじゃないの?」
「あはは。まぁそうなんだけどね」

 僕は目の前に立ったままでいる彼女を見上げた。
奏が僕を思ってくれていることがうれしい。

「僕は人間になれなかった。だからこの挑戦はもう終わったんだ。春が来る前に、僕は海の泡となって消える。だから次の夏に泳ぎたくても、泳げないんだよ」

 奏は僕のすぐ隣に、ぱっと腰を下ろした。

「でもさ、それって本当なの? 私は……。今でも、宮野くんのこと好きだよ」
「そう。じゃあキスしてみる?」

 そう言ったのは僕の方なのに、言った自分の方が怖くなってしまった。
これでもし人間になれなかったら? 
やっぱり僕は、奏のことを信じられなくなってしまうのだろうか。
それとも今度は、自分のことを? 

 自分の言葉に動けなくなった僕の前で、うつむいたままの彼女も動かない。
伸ばした指先で、彼女の唇に触れた。

「もうキスはしない」

 僕たちはその代わりに、しっかりと手を繋いだ。

「自分を助けた人魚だと知られたとたん、それは同情に変わるんだって。そしたらこの魔法を解くことが難しくなってしまうから、知られない方がいいって言われたんだ。罪悪感とか義務感で結ばれても、うれしくはないよね」

 奏のことを、本当に好きになりたかった。
自分のエゴなんかじゃなく、彼女にも僕を好きになってほしかった。
僕が海を出たいと思ったのは、自分を取り巻く世界を変えたかったから。
それが叶わないのなら、僕なんていう存在はこの世から消えてなくなればいいと、本気でそう思ったんだ。
だから僕は海を出た。
後悔なんてない。

「やっぱり、私のせいなの?」
「それは違う! 奏のせいじゃない。僕のせいだ。僕が君のことを……。本当の意味で、好きじゃなかったってことだよ」

 こんなこと、彼女にも言いたくなかった。

「ごめん。ごめんね。悪いのは全部僕だ。僕のわがままに、結局付き合わせちゃった」

 本当にごめんなさい。
僕はワザとらしく小さな声を出して笑う。

「見透かされちゃった。僕が海の生活に飽きてただけだって。人魚の寿命は長いからね。そこから抜け出すための理由なら、なんだってよかったんだ。奏が悪いんじゃない。僕が悪かった。だから、奏には怒ってくれている方がうれしい」

 そしたらこんな僕でも、少しは気が楽になるから。
最後まで甘えてごめんね。

「怒ってる。怒ってるよ」

 繋いだ手の、指先が深く絡まる。
強く握りしめた彼女から伝わるぬくもりに、僕は崩れてしまいそうになる。
「だから今度は、宮野くんが私に付き合って」
「もちろん」

 奏のお願いなら、なんだって叶えてあげる。

「僕は僕の全てを、君に捧げに来たんだから」

 秋の柔らかな日差しが、僕たちを包みこむ。
放課後に僕たちは自然に並んで、ゆっくりと歩き始めた。
もちろんカラオケだってみんなと行く。
彼女は自分の好きなことを一生懸命にしゃべっていて、僕はただそれを「うん、うん」と聞いていた。
本当に、ただ聞いているだけの彼女の何気ない言葉の一つ一つが、僕にかかった重荷を取り除いてゆく。

「ここで初めて、一緒にドーナツ食べたの覚えてる?」
「うん、覚えてるよ。おいしかった」
「本当に?」

 彼女は何も気づかないフリをして笑う。

「ねぇ、宮野くんの好きなもの、お刺身以外のことを私にも教えて」
「他に好きなもの?」

 ぱっと頭に浮かんだのは、魚肉ソーセージ。
だけど、前に学校でそれをかじっていたら、他の人に笑われたから、その問いに答えるとしたら、するめか、はんぺん?

「普通に、パンとかご飯とか」

「じゃあさ、ドーナツじゃなくて、サンドイッチか、おいしいパン屋さんに行こう」
「だけどそれじゃあ、奏は楽しくないんじゃないの?」
「宮野くんの行きたいところなら、どこだっていいよ」

 吹く風は徐々に冷たくなり、校庭の桜の木はその葉を赤や茶色に変えた。
奏の言葉に、僕は今さらのように本当の気持ちに気づく。

「実はさ、ずっと水族館に行ってみたかったんだ。海の近くにあるやつ。船にも乗ってみたい。どんな舟でもいいから。夜の空にドンと上がる、大きな花火も見たい。それから大きなでっかい丸い金属の輪っかで、小さな箱にぶら下がって回るやつにも乗ってみたい!」

 いつも海から見ていた、人間の作った美しいもの。
夜にだけこっそり近づいて、遠くからながめていた。
僕にはいま、それが出来るんだ。

「大きな白い帆船に乗りたい。すごく綺麗な船が、ずっと停まってるところがあるよね。あの船のところに行こう」
「ふふ。じゃあ約束ね」

 差し出された奏の約束の小指を、僕は初めて見たような気になる。

「本当にいいの?」

 彼女はうなずいた。
僕は自分のための約束を、奏と交わす。

「誰かのためとかじゃなくて、自分の好きなことをしていいんだよ」
「それは、奏にとっても?」
「そう! それが私の、いま一番やりたいこと!」

 白浪を切って大海原を走る大船団を見たのは、いつの頃だっただろう。
キラキラと光る海面を、風を受けて走るあの姿は本当に勇壮だった。
その仲間からはぐれたたった一隻の船が、その美しい帆を張ったまま港に釘付けにされているのを、僕はいつか解放してあげたいとずっと思っていたんだ。

 約束通り、僕は休みの日に奏と待ち合わせて、一緒に船を見に行った。
何だか寂しそうだったその船は、陸から見てもやっぱり寂しそうで、冬の近づいた曇り空の下では、真っ白な美しい帆を張ることすら許されていなかった。
どんなに美しい船でも、陸に上がることはある。
僕はこの船を見上げるために作られた歩道で、冷たく冷えた手すりをぎゅっと握りしめる。

「思ってたのと違った?」

 奏はマフラーに手袋をして、僕の隣に並んだ。
彼女の吐く息が白く濁る。

「ねぇ、今度は奏の行きたいところに行こう。奏は何が好き? 何がしたい? 奏のしたいことなら、僕は何でも……」
「違う。私は、宮野くんのしたいことを聞いてるの」

 僕のしたいことなんて、ただ一つしかない。

「そうだね。じゃあずっと、奏といたい」

 僕はすぐ隣にいる彼女の顔が見れなくて、その代わりに動けなくなった船を見上げる。
その唇に触れたいと願っても、その瞬間に今のこの時も気持ちも、全てが否定されるかと思うと、怖くてたまらない。

「ならずっと、ずっと一緒にいよう。ずっとだよ」

 そう言った奏を、背中から抱きしめる。
手袋をしたまま手すりに乗せた彼女の手に、自分の手を重ねた。
彼女は手袋を外し、僕の指に指を絡める。
彼女の伸ばし始めた黒髪の、その首筋に顔を埋めたら、くすぐったそうに笑った。

「奏が髪伸ばしたら、今のくるくるがもっとくるくるになるかもね」
「そうかな。重みで伸ばそうと思ってるんだけど」
「奏の髪がまっすぐになるの?」
「なったらいいね」
「そうなったら、僕も見てみたい」

 奏が僕の腕の中で振り返る。
少し背伸びをして、彼女の顔が近づく。
だけどそれは、すくにうつむいて僕の胸におでこをつけた。

「寒くない?」
「大丈夫」
「あったかいココアを飲んだら帰ろう」

 それから毎日、僕たちは待ち合わせて登校し、帰りは奏を駅まで送った。
二人で遊園地と水族館へ行き、映画も見に行った。
スケートにも行ったし、公園でこっそり小さな花火もした。

「私も、宮野くんの本当の姿を見てみたかったな」

 冬休みが始まる学校最後の日、教室の外にはちらちらと雪が舞っていた。
奏の髪は肩まで伸びて、くるくるはもっとくるくるになっていた。
僕は彼女の跳ね上がった毛先を指に巻いて、するりとほどけるのがまた跳ね上がるのを楽しんでいる。

「私だけなんだよね。本当の姿を見てないのって」
「今の僕が、今の本当の姿だよ。だから奏にとっては、これが本当の僕のままでいて」

 お正月とやらのカウントダウンに行って、朝日が昇るのを一緒に見た。
水平線から昇る太陽は、暗い海を赤く輝かせる。
お正月は神社でおみくじをひくものだというから、奏と一緒にそこへ行った。
入り口の鳥居は、海の底にも見たことがある。

「これ、知ってるよ」
「海にも同じのがあるの?」
「置いてある。僕の『宮野』っていう名前は、ここから取ったんだ」

 僕はなんだかちょっとうれしくなって、海の話しをする。

「海岸線はね、岩でごつごつしてて、上りにくいところとそうじゃないところがあるんだ。人が整備してるところへなんか行かないよ。そういうところは壁が真っ直ぐで高くて、こっちからは見えにくいからね。上りにくいし。なにより見つかるのが怖いから。お日さまに当たりたい時は、人間の船なんかが滅多に来ない、沖の小さな孤島に……」

 ぎゅうぎゅうの人混みの中で、奏は僕の手に触れると、それをぎゅっと握りしめた。
僕はそんな彼女の指先にキスをする。

「奏の手、あったかい」
「宮野くんの手も、あったかいよ」

 奏の髪はもっと伸びて、特徴的だったくるくるが少し落ち着き始めていた。
ようやく最前列について、大きな鈴を鳴らす。

「こういう建物だったんだ」
「この扉の向こうに、神さまがいるの」

 奏はそういうと、両方の手の平を合わせ、目を閉じる。

「それで、神さまにお願いごとをするの。願いが叶いますようにって」
「陸の神さまは、祈っただけで願いを叶えてくれるの?」
「願いを叶えるのは自分自身だけど、応援してもらう感じ?」
「だとしたら、随分優しい神さまなんだね」

 僕の知ってる海の神さまとは、大違いだ。

「海の神さまは、もっと怖いよ」
「海の神さまに会ったことあるの?」
「ある。凄く怖い」

 奏に教わった通り、僕は陸の神さまに祈る。
僕の願いは叶わなくても、奏の願いは叶いますように。
隣で祈る奏は、何を願っているのだろう。
合わせた手を下ろすと、彼女と目があった。
僕たちはゆっくりと微笑み、ぎゅっと手を繋ぎ合う。
穏やかな時間が流れていた。




最終章


 やがて空気にも徐々に暖かさが戻り、また春がやって来た。
僕が海から上がって、ちょうど一年になる日だ。

「なんであの時、奏たちは海に来ていたの?」

 その海に向かう電車に、彼女と二人で乗っている。

「毎年部活で、海岸の清掃活動に参加してるの。それで、打ち上げられたゴミを拾っていて……」

 電車を降りる。駅を出ると、田舎町の小さな商店街が、海岸まで続いていた。
今日は僕と奏の、最後のデートの日だ。

 閑散とした土産物通りの店を、一つ一つ見て回る。
小さな通りにぎゅうぎゅう詰まったお店は、フジツボが並んでいるみたいだ。
僕は奏の欲しがった、小さな貝の飾りを買ってあげる。
奏も同じものを僕に買ってくれて、彼女はそれを携帯にぶらさげ、僕はポケットに入れた。
それから僕の好きなイカ焼きを食べ、奏が食べたいと言ったかき氷を食べる。

「なんでかき氷? 寒いでしょ」
「いいの!」

 小さな甘味処で、なぜか一軒だけかき氷をやっている店を見つけた。
お店の人は、「たまにそういうお客さんがこんな時期にもいるのよ」なんていいながら、黒い木製のテーブルの上に、ピンクのかき氷を置く。

 彼女がスプーンでそのひとさじをすくって、僕に差し出した。
口の中に、冷たくて甘い氷の欠片が広がる。
僕たちはこの数日を、一番大切な言葉を避けて過ごしていた。

「明日は海に帰る日だから、奏は来なくていいよ」

 そう言ったのに、彼女は一緒に行くといって聞かなかった。
一人で海から上がって来たのだから、僕は一人で海に戻るつもりだったし、そうすべきだと思っていた。
奏が本当に、ずっと最期までそばにいるだなんて。
こんなことになるなら、僕は本当は用意された自分の家の風呂場みたいなところで、いつの間にか泡となって消えた方がよかったのかもしれない。
彼女の氷をかむシャリシャリという音が、他に客のいない狭い通路みたいな店内に響いていた。

「季節がまだ、夏だったらよかったのに」

 スプーンを持つ彼女の手が震えている。
その手に触れると、冷たく冷え切っていた。
僕は彼女の手を温めようと、そっと包み込む。
スプーンの氷が溶けそうになっているから、そのまま顔を近づけ、口に入れた。

「食べ終わったら、海に行こう」

 お日さまは丁度空の真上にかかっていて、珍しく風も穏やかだった。
春先の穏やかな波は静かに砂浜に打ち寄せ、人影もまばらで、僕たちはずっと手をつないで歩いている。

 僕なんかのせいで、奏には海を嫌いになってほしくないな。
海を見たら思い出してほしいなんて、そんなことをお願いするつもりはないけど、僕が消えてしまったら、いつか奏の記憶からも、僕は完全に消えてしまうのだろうか。
そんなことを考えていた手に、不意に何かが落ちた。
見ると小さなしずくが、手の甲に跳ねている。

「泣いてるの?」

 奏に言われて、初めて気がついた。

「本当だ。ずっと海の中にいたから、自分の涙って、初めて見た」

 頬をぬぐったら、手にべっとりと水がつく。
これが涙か。
奏の手が伸びて、僕の頬に流れるしずくを拭った。
彼女の指先は、そのまま僕の唇に触れる。
だけどその距離を、僕たちは互いに縮めることが出来ない。

「行こうか」
「うん」

 僕はしっかりと彼女の手を繋ぐ。
奏も強く僕の手を握り返した。
春の潮風が、長く伸びた波打つ彼女の黒髪をやわらかくまき上げる。
コートは着ているけど、温かな春の日差しは、惜しみなく降り注いでいた。

「いい天気でよかった」

 僕がそう言ったら、奏は遠くに見える防波堤を指さした。

「私が海に落ちたのはね、こんな風に吹かれて、その時に持っていたゴミ袋が……」

 砂の上をゆっくりと歩く靴の中で、僕の体がボコリと泡だった。
体内に生まれた泡が、足元からゴボゴボと胸にまで上がってくる。
どうやらこの魔法は、夜まで待ってくれないみたいだ。
突然立ち止まった僕を、奏は見上げる。

「もう行っちゃうの?」
「時間だからね」

 胸が苦しい。息が出来ない。
足元から湧き上がる泡は、すぐに全身に広まった。
これ以上、余計なおしゃべりはいらない。
彼女の手が、僕をぎゅっと握りしめる。
せめて最期くらいは、奏にカッコ悪いところ、見られたくなかったな。
僕は精一杯の笑顔で、つながれていた彼女の手をほどく。

「ありがとう。僕の知らなかった世界を見せてくれて。本当に感謝してる」

 気の遠くなるほどの永い年月を、たった独り海で過ごしていたこの僕に、新しい世界へ飛び込む勇気をくれたのは、間違いなく彼女だった。
人間の世界で何も知らず、何も分からなかった僕に、たくさんのことを教えてくれた。

「だから奏も、もう泣かないで」

 海から出てきた時、僕は一人だったのに、今は奏がいる。
それだけ幸せだったんだ。
もう一度彼女に微笑んで、繋がれた手を離す。
打ち寄せる波に、一歩を踏み入れた。
潮騒の声を聞くのも、久しぶり。
僕は今から、この無限に沸き立つ海の泡の一部となり生まれ変わる。

「元気でね」

 体を支えきれなくなった足元が崩れ、前のめり倒れそうになるのを、とっさに彼女は支えた。
僕は奏の腕に抱かれ、最期を迎えることになったらしい。
あの時、海の泡に包まれ飛び込んできた君のその横顔に、僕は恋をしたんだ。
僕は今からその泡となって、また君を包もう。
誰かを好きになるってことを、教えてくれたのは君だった。

「大好き」
「僕もだよ奏」

 彼女の手が伸びて、崩れてゆく僕の頬を包み込む。
あぁ。奏は本当にずっと、僕のことが好きだったんだ。
それなのに僕は……。
彼女の顔が近づく。
その頬に流れる涙を拭ってあげたいのに、動かせる手はもうない。
触れた唇から伝わった熱が、僕の全身を駆け抜けた。
全身の血が沸騰したように沸き立つ音を聞いて、そっと目を閉じる。

「奏!」

 体温が突然、3度くらい上がったような気がした。
崩れかけた体の輪郭が、しっかりとした感覚として蘇る。
熱い激流のような血潮が、全ての血管を駆け巡った。

「宮野くん?」
「奏!」

 彼女を抱きしめた僕の腕は、以前より重く、熱くなり、赤味を帯びた肌が、人間になったことを証明していた。
もう一度、彼女とキスをする。
その唇が、こんなに熱いものだと知らなかった。
人間になった僕は彼女と一度手をつなぐと、大海原を後に駆けだした。

『完』


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