悪役令嬢は悪役侯爵さまの手をとるか
泣いちゃダメ。いつものように優雅に微笑んで。華やかに笑ってみせて。それがここで生き残るための道。
第一王子の誕生日パーティーに出席したアドリアナ。普段通りのパーティーだと思っていたのに、何だかいつもと様子が違う。王太子妃の座を争っていたライバルモニカの手を、正装をした王子マリウスが一番にダンスに誘った。これは事実上の婚約発表? 婚約者争いに負けたアドリアナに近づいてきたのは、マリウス王子のライバル的存在であるラズバンだった。代々宰相を務める侯爵家のラズバンが失恋したばかりのアドリアナに近づいてきて……!?
第1章
ルネマイア帝国第一王子の誕生日パーティーが、王宮の広間で華やかに開かれていた。
真っ白な大理石の床には鮮やかな深紅の絨毯が敷き詰められ、壁にも同じ色のカーテンが金糸をまといずっしりとたたずんでいる。
天井にきらめくシャンデリアは各所に生けられた花々を今が盛りと明るく照らしだし、宮廷楽団の奏でる優美な音楽は鳴り止むこともない。
会場を埋め尽く貴族たちは、それぞれに趣向を凝らした色とりどりの衣装を身につけ、会話を楽しんでいた。
今日で18歳となったマリウス王子には、婚約者候補が複数人存在した。
その中でも最有力候補とされている二人が、モゴシュ家の次女モニカと、モルドヴァン家長女アドリアナこと、この私だ。
互いに伯爵家令嬢であり、他はその他大勢といっても全く差し支えはない。
多くの令嬢はそうでなくても王子の眼中になど入りはしなかったであろうが、余計な者が王子に近づかないよう、私とモニカでことごとく蹴散らしてきた。
そんな経緯を経てついに今夜、婚約者争いは頂上決戦を迎えることになる。
会場には、当然のようにモニカが姿を見せていた。
ふんわりとした白のシフォンのドレスの上に、黄色い花の模様が細かくあしらわれている。
彼女の波打つブロンドの髪に合わせた清楚なイメージを強調するような衣装だ。
対する私は赤茶けた髪と同じ色合いをした、落ち着いた赤のドレスを選んでいる。
衣装全身に黒い糸で精巧な刺繍を施すよう、特別に依頼したものだ。
「あら、アドリアナさま。こちらにいらしてたのですか?」
ツンとした高い鼻をさらにツンとさせ、モニカが近づいてくる。
見た目だけは大人しそうな清純派を気取っているが、その中身は計算高く抜け目ない性格だ。
おっとりとして一見無力かつ害のなさそうな笑顔を浮かべていても、その平和な笑顔に騙されてはいけない。
人懐っこい朗らかな立ち居振る舞いも、全て彼女の計算通り作られたものである以上、接する時には気を抜いてはダメ。
「ごきげんよう、モニカさま。本日はいつにも増してお可愛らしいドレスですこと」
「あら。アドリアナさまの落ち着いた大人の女性らしい雰囲気には、いつも憧れておりますの」
ウソばっかり。
彼女の取り巻きは、モニカを中心にして最も彼女が引き立つよう、お揃いであつらえたものだ。
同じ仕立屋で揃えたことなど一目瞭然。
使っているドレスの生地とデザイン、それに合わせた奇抜な扇は、いま世間で大流行しているものだ。
流行を敏感に取り入れ、宮廷での話題を集めようという魂胆がみえみえ。
彼女の周りには、アカデミーで知り合ったという同じ歳くらいの女の子がひしめき合っていた。
見たことのもない髪飾りに、売り出されたばかりの香水の香り。
ハンカチまで仲間と揃えてくるなんて、どういうこと?
「アドリアナさま。こちらは先日ピクニックに出掛けた記念に、皆で揃えたハンカチでございますのよ」
「あら。とっても素敵ね。皆さんお揃いでお持ちだから、そこら中で売られているものかと思いましたわ」
「アドリアナさまもお誘いしていたのに。お越しいただけなくてとっても残念に思っておりましたのよ」
そう言ってモニカは扇で半分顔を隠し、ニヤリと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「どうして神さまはこんなにも意地悪なのでしょう。いつもアドリアナさまのご都合の悪いときにばかりピクニック日和になるのですもの」
私が招待に応じられないのは、領地での視察があるからだ。
我がモルドヴァン家には、跡取りとなる子供が私しかいない。
高齢で近頃は歩くことすら難しくなった父の代わりに、私は定期的に兵舎を周り武術訓練の観覧に出掛けている。
一方モニカは筆頭内政官の父を持つ。
今をときめく王の補佐役として、全ての貴族たちの動きを把握することの出来るモゴシュ家の令嬢ともなれば、気に入らない相手を上手く排除して立ち回ることは簡単だ。
彼女が招待し「お気に入り」として付き合う令嬢や子息たちは、モゴシュ家にとっての「友人」でもある。
家柄はもちろん、いかに自分たちファミリーにとって都合のよい人物であるか。
そこが唯一にして最高の判断基準となる。
内政を司る一家であるモニカと、軍部を動かすモルドヴァン家の一人娘である私。
しかも、第一王子であるマリウスの婚約者候補の二大巨頭となると、モニカにとって、私は最も排除すべき人間だった。
「あら。お気になさらなくてもよろしくてよ、モニカさま」
私は自分の持つ最高に優雅な笑みを浮かべる。
「わたくしは逆にうらやましく思っておりますの。いつまでもお人形遊びをなさる子供のままでいられる方々のことを。あぁ、なんて素敵なんでしょう。まるで夢のようですわ。私も地位のある立場として、立ち居振る舞いを身につけるのではなく、ただ無心に遊んでいられた頃に戻ってみたいものですわ」
上から目線で、モニカを見下ろす。
これは「私は領主として、王の妃となるにふさわしい実務を普段からこなしている。王を支える妃としての予行演習に忙しくて、あなたたちみたいに遊んでばかりじゃいられないの」という意味を込めて放った言葉だったのだが、モニカにはキチンと伝わったようだ。
普段は何も考えてなんかいませんといった人畜無害な間抜け面を浮かべているが、とたんに頬は引き締まり獲物を狙う鷹よりも鋭く冷たい視線になる。
だけどそれも、ほんの一瞬の出来事。
この宮廷の大広間にあっては、あらゆることが瞬きする間に全て終わる。
「ではごきげんよう。アドリアナさま。今は白くお美しいお手が、剣ばかりを握り、血と汗で黒ずんでしまわれませんように」
モニカは微かに笑いながら、取り巻きたちと共に背を向けた。
フンと鼻をならし息巻いているのはモニカだけで、側に控えるお仲間たちは、強気な彼女に青ざめながら私に気遣い程度の会釈は残していく。
戦争が終わり平和な時代になったからこそ、軍隊をちらつかせ政治に口出ししようという勢力は邪魔なもの。
王族すら自分たちの意のままに操ろうと試みる文官中心の貴族連中から見れば、厄介のタネは早いうちに摘んでおきたい。
「ごきげんよう。モニカさま。今度はこちらからピクニックにお誘いしますわ」
「それは楽しみですこと。ぜひよろしくお願いします」
そう言った私に、彼女は目を細め勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
私は誰にも気取られぬよう、訓練された仕草でため息をつく。
彼女とその取り巻きたちを相手にするのは、得意分野ではあるが好きではない。
ようやく落ち着いたところで、一組の老夫婦が声をかけてきた。
「ごきげんよう、アドリアナ。今日は一段と綺麗ね」
「あら、ありがとうございます。トニー伯爵、マリア夫人」
私に次々と声をかけて来るのは、年老いた年配の老夫婦がほとんどだった。
中には実の孫のようにかわいがってくれている方もいる。
私はそんな方々になら、心からにっこりと微笑み、敬意をもって振る舞うことが出来る。
彼らは全て、祖父の代から縁の続く方々だ。
私の祖父は、我がルネマイア帝国が大陸一の大国となった戦争で戦った英雄であり、その後外交官を務めた重鎮だ。
その流れを受け継いだ父は、祖父の集めた傭兵たちをまとめ上げ国境に配置し、その警護を任されている。
いわゆる「将軍」と呼ばれる立場だ。
平和になったいま、父が実際に戦闘で戦ったことはないらしいが、今も屋敷には士官を申し出る者が絶えない。
領地には大きな兵舎が建設され、そこでは常に訓練や武術大会が行われていた。
貴族として生まれたからには、地位や家柄によって自分の価値を判断されるのが当たり前。
それがその家に生まれたものの宿命であり、当然のこと。
貴族であればどんな無能でもバカでも、いい暮らしが出来る。
人の上に立てる。
その家柄と血統を覆しのし上がれるのは、個人の努力や才能なんかじゃない。
人脈と交友関係のみだ。
だからモニカの周りには、力を持たない下級貴族たちが群がる。
彼らが群がるのは、モニカ自身の能力や人柄に魅力を感じているのではなく、内務大臣として権勢を誇る人物を父に持っている、伝統ある伯爵家令嬢であればこそだ。
人気があるのは当たり前。
私は唯一、同世代で彼女の境遇に負けない家柄に生まれた。
だからこそ王太子妃という座を手に入れなければならない。
私自身の価値とモルドヴァン家の評価を守るために。
不意に会場の一部がざわつき始めた。
私はもう一度背筋を伸ばし気を引き締める。
皆が注目する視線の先に、本日の主役である王子マリウスが現れた。
彼は真っ白な衣装に身を固め、王太子である第一王子にのみ許された勲章を胸に付けている。
いつもなら王室の公式行事や、重要な外交での式典でしかすることのない格好だ。
今日は普通に誕生日パーティーだと聞いていたのに、なぜ王子が正装を……。
王子の思わぬ正装に会場が動揺するなか、モニカが私を振り返った。
彼女はいつも以上に大きくニンマリと微笑んで軽く膝を折り私に会釈をすると、王子の元へ進み出る。
今夜この会場に集められた大勢の貴族たちの前で、正装をした王子がモニカに手を差し出した。
「今夜、私と踊っていただけますか?」
王子の言葉に、モニカはいじらしく驚き、恥じらってみせる。
大げさな仕草がワザとらしい。
真っ先にこうされると知りながら、演技しているのがバレバレだ。
「まぁ、よろしいのですか? マリウス王子。私なんかが一番に王子のお相手で」
「もちろんです。今夜はぜひあなたと踊りたいと、心に決めておりました」
これは事実上の婚約発表だ。
王子は誕生パーティーで運命の女性と出会い、恋に落ちる。
その数ヶ月後に、彼女の元を訪れプロポーズをするのが「習わし」だ。
「まぁ。とっても光栄ですわ。王子さま」
差し出された王子の手を取り、彼女たちはダンスを始める合図のポーズをとる。
モニカの勝ち誇った顔が、私に向かってもう一度にっこりと微笑んだ。
指揮棒が振られ、この二人のためだけの音楽が奏でられる。
モニカの勝利の舞いが始まった。
どういうこと?
まさか今夜その発表がされるなんて、そんな情報入ってない。
腹の底が煮えくりかえるほど怒りと憎しみにあふれているのに、それを表には一切出さない。
清楚に微笑み、「今日の王子はなんて素敵なのでしょう」と思ってもないことを言ってみせる。
どうして?
先に知っていれば、ここへ来る時から対策を練ってそれに合わせた対応が出来たのに!
誰もがモニカと私の様子を見比べている。
だからこそ私は、普段よりもより一層余裕たっぷりに優雅に振る舞う。
動揺する姿や悔しがる様子を、微塵も匂わせてはならない。
これでモニカが正式に婚約者と決まったわけではない。
このあと私がダンスに誘われれば、「今日の一番」がモニカだったというだけだ。
そんな自分への言い聞かせが、繰り返し繰り返し頭をよぎる。
それでも私は、気づいてしまった。
彼の胸に挟まれたハンカチと、さっきモニカが見せたハンカチがお揃いだったことを。
王子は婚約者としてモニカを選んだ。
今夜のパーティーは、それを事前告知するためのものだ。
これから王子が正式にプロポーズをして婚約が公式に成立する前に、それぞれの貴族たちは自分たちがどう動くのか、意思表明をしなくてはならない。
無関心でいるのか、賛同するのか……。
今夜を境に、間違いなくモゴシュ家へ人気が殺到し、対立していた私への拒絶反応が強まるだろう。
社交の場に招待されることもなくなり、例え出席したとしても誰からも話しかけられない相手にされないまま消えてゆくんだ。
モニカと優雅に踊るマリウスと目が会った。
そうなることが分かっているからこそ、こうやって伝えているのだ。
正式に婚約が成立してしまう前に、己の身の振り方を考えろと。
モニカに頭を下げに行くか、社交界から去るか。
貴族として生まれた以上、自分一人で何かを成し遂げるなんてことは認められない。
それは平民にのみ許されること。
どれだけ商才を発揮し財をなそうと、学問に熱中し功績をあげようと、平民が貴族にはなれないように、私たち貴族がそんなことをしたところで認められない。
変わり者扱いされるだけ。
「貴族」とは、自分たちの地位を守り高めるためだけに、本心を隠し華やかに微笑む者のことだ。
大勢の観客の前で、マリウスがモニカと踊る。
勝者には賞賛を、敗者には嘲笑を。
プライドと意地だけで微笑んでみせるには、辛すぎる。
ここで泣いて悔しがっては、笑いものにされるだけ。
私が今一番すべきことは、笑って二人を祝福すること。
そうと分かっていても、体がちっともいうことをきかない。
動かない。
ここから出て行けば楽になると分かっているのに、今すぐここを出てしまえば、私にはもう戻って来られない。
待っているのは嘲りだけ。
泣いちゃダメ。
泣いちゃダメよ、アドリアナ。
ちゃんとここに居て。
ここから動かないで。
二本の足でしっかり踏ん張って立っているのよ。
いつものように優雅に微笑んで。
華やかに笑ってみせて。
それがここで生き残るための道。
正式に婚約発表がされたら、私は真っ先に彼女にお祝いを言わなくてはならない。
今この瞬間、私は負け戦の将となってしまったのだから。
「王子の登場で熱気が増しましたね。少し、風に当たってきますわ」
そう言って広間を出る。
立ち去る背中に聞こえなくても聞こえてくるのは、冷笑ばかりだ。
「あら。モルドヴァン家のご令嬢は退室なさるのね」
「そりゃ見ていられませんわよ。モニカさまと王子のダンスなんて」
「彼女は今のあのお二人のこと、どう思っておいでかしら?」
「ふふ。顔で笑って心で泣いて、いずれ頭を下げに来るでしょ。今ここでそれが出来ないなんて、まだまだ子供ね」
「これでアドリアナさまもご理解されたことでしょ。ご自分がこの社交界で、どういったお立場にあられるのかを」
冷淡な視線と値踏みばかりされる豪華な広間を抜け、バルコニーへ出る。
王子の登場によって少しでも彼に近づいておきたい招待客は、皆広間に移動してしまっていた。
華やかな広間と扉一枚隔てた静かな夜の下で、私はテラスに身を投げ出す。
「どうしてなの、マリウス……」
ひんやりとして冷たい大理石に頬をつける。
高まる熱をここで下げておかないと、私は本当の負け犬になる。
広間を離れた時点でそれを認めたようなものだけど、ここで立て直しいつものように誇らしく微笑んで、気位高く伯爵家令嬢としての品格を……。
私の頬を、一筋の涙が伝ってこぼれ落ちた。
「おや? こんなところにお一人で。どうかなさいましたか? アドリアナさま」
低く落ち着いた重低音の声と、バサリとマントを翻す音。
迷いなくこちらに近づいてくる足音に、私は密かにため息をついてから、伯爵令嬢としての仮面をかぶりなおす。
しっかりと顔を上げ、まっすぐに彼を見上げた。
「ごきげんよう。ラズバンさま。ラズバンさまこそ、どうしてこんなところに?」
礼儀も作法も完璧に身につけた「完全なる私」で振り返る。
彼も「完全なる紳士」として、ピタリとなでつけた黒髪に黒い目で優しく微笑んだ。
「あなたが会場を抜け出すのが見えたので。今夜はマリウス王子とはダンスをなさらないおつもりなのかと」
相変わらずイヤミな男。
私が公衆の面前で敗北宣言されたのを、わざわざここまで追いかけて笑いに来たの?
「王子がどなたを今夜のお相手に選ぶのかは、王子次第ですもの。私が決めることではございませんわ」
「その割には、とても残念そうに見えましたけど?」
彼の名はラズバン・マリン。
建国以来、代々宰相を務める侯爵家の跡取り息子だ。
優秀な頭脳とその美貌で、父親の右腕として国政に参加している。
とっくに結婚していてもおかしくない年齢なのに、独身でいることを唯一誰にも咎められていないのは、とにかくイヤミで性格が悪いおかげ。
侯爵家令息という地位にありながら、自由奔放で愛想を他に振りまくこともしなくていいなんて、その血統と現在の地位がうらやましい。
「まぁ、それはラズバンさまの思い過ごしでございます」
「あなたは誇り高き英雄、モルドヴァン将軍の孫娘。王の軍隊であるはずの兵たちから軍部の人気を取り戻したいと思う王家にとって、最初から王子と結ばれるはずもなかったでしょうに」
「ラズバンさまは、結婚をそのようにお考えなのですね」
「おや。あなたは違うのですか?」
私とマリウス王子が結婚すれば、王家は軍部の人気を取り戻せるかもしれない。
だけどそれは、内政を担う貴族たちにとって阻止したいこと。
戦争の終わったいま、軍部が力を持つことをあまりよしとしない王家と貴族たちにとって、私と王子の結婚は許可出来ないという結論になったということか。
この人もきっと、私と王子の関係に反対したのね。
「いいえ。違いませんわ、ラズバンさま」
だからマリン家の嫡男であるこの人も、私にとっては政敵。
ここでボロを出すわけにはいかない。
「愛だの恋だのといったことに、全く興味はございませんの。そんなものは、おとぎ話のなかだけで十分ですわ」
「はは。それでこそモルドヴァン家のご令嬢だ」
「あなたも私と王子の結婚には、反対なさったのでしょう?」
そう言った瞬間、彼はフッと軽い笑みをこぼした。
「もちろん。反対しましたよ」
マリン家に仕える仕立屋が、マリン家のためにデザインした衣装がとてもよく似合う。
高潔で理性的。
無駄な感情など全てを捨て去ったような彼が右手を胸に当てると、私に左手を差し出した。
「ならばどうか一曲、今夜私と踊っていただけませんか?」
「え?」
侯爵家跡取りで宮廷での仕事も評価されているラズバンさまがモテないわけがない。
王子が一番人気だとすれば、この人は間違いなく二番人気だ。
多くの令嬢との噂も絶えないのに、決まったお相手がいないことでも有名な彼が、私をダンスに誘う意味って?
「珍しいですわね。ラズバンさまが皆の前でダンスをなさるなんて」
「私はね、王子の悔しがる顔が見たいだけですよ。アドリアナさまが全く落ち込んでもなければ傷ついてもいない証拠を、ここで見せておくのが得策では?」
彼が私に近づくことに、どんな意味がある?
どれだけ考えようとしても、この一瞬で正解を導き出せない。
今夜彼と踊ることは、私にとって正解なの?
だけど彼の言う通り、私が王子とモニカの婚約を全く気にしていないということを、できるだけ早く世間には知らしめておきたい。
このダンスが正しい選択かどうかは、分からないけれど……。
「モニカさまと王子のご婚約をお祝いして?」
「とてもよいお考えです」
彼はすました顔で、冷静に私の出方を待っている。
そんな彼の提案になら、乗っておくのも悪くないのかもしれない。
「いいでしょう。その話、受けてたちましてよ」
見栄を張ってこその社交界だ。
侯爵家のラズバンさまは、マリウス王子とよく比較される対照。
品行方正で王子らしい王子と、貴族としてはアウトローな生き方をされているラズバンさまは、全く正反対の性格をしている。
温厚で穏やかな王子と、冷酷無慈悲な宰相の息子。
王子にとっては、唯一のライバルと言ってもいいお相手だ。
そんなラズバンさまと王子の前で踊ることが出来れば、王子の相手選びには敗れたとしても、ラズバンさまには認められているのだと、彼を捕らえているのだと示すことが出来る。
モルドヴァン家のアドリアナは、この貴族社会でまだまだ存在価値のある人物なんだと、知らしめることが出来る。
「それでこそアドリアナさまです」
差し出された彼の手に、自分の手を重ねる。
普段はあまり表だったところで目立つようなことをしないラズバンさまにすれば、ちょうどいい話題作りだったのかもしれない。
王子相手なら、自分をネタにしてもいいと、そう思ったのだろう。
王子がフッたばかりの相手をすぐさまダンスに誘うなんて、この人にしか出来ないこと。
「これは、利害の一致ということでよろしくて?」
「賢い女性が、私の好みです」
スラリと背も高く、黒髪にマリン家伝統の黒い衣装で身を包んだ彼は、どんな場所にいても人目を引いた。
いつも女性に周囲を囲まれていても、滅多にダンスなんてしない彼が、王子がフッたばかりの元婚約者と共に彼の目の前で即ダンスを踊る。
これほど痛快な復讐方法って、他にある?
バルコニーから広間へ向かう扉を、彼が勢いよく開ける。
その音に、会場中の参列者が私たちを振り返った。
当代きっての侯爵令息に非の打ち所のないエスコートされながら、私は広間に続く階段を下りる。
もちろんマリウスと二人で一緒にいたモニカも私たちに目が釘付けだ。
そんな大勢の観衆を前に、ラズバンさまはもう一度丁寧な仕草で私をダンスに誘う。
「今宵一曲、私と踊っていただけませんか?」
「ふふ。お相手出来て、光栄ですわ、ラズバンさま」
王子とのダンスと違って、私たちのためだけに音楽は奏でられない。
手を取り合ったまま、次の曲が始まるのを身を寄せ合って待つ。
彼が耳元でささやいた。
「本当に、アドリアナさまは悪い人ですね」
「まぁ、それを提案なさったのは、ラズバンさまですわ」
「ふふ。もくろみ通り、王子もモニカ嬢も、とても驚いているようですよ」
「ラズバンさまのおかげです」
新しい曲が始まった。
私は彼にリードされ、優雅に踊り始める。
マリウスとは違って、彼はとても背が高い。
重ねた左腕が随分高い位置にあると感じる。
滑り出したとたん、彼は私の頬に口元を寄せた。
「あの王子に、見せつけてやりましょう。アドリアナさま」
軽く触れた唇がキスをされたように感じて、思わず頬を赤く染める。
彼はそれを鼻で笑うと、大きくターンした。
「ほら。思いっきり目立ってやろうじゃないか!」
その言葉通りの、大胆な動きが連続する。
くるくると何度も回転させられては、会場中を走り回った。
それに振り回される私は、息が切れそうだ。
「ラ、ラズバンさまは、ダンスもお得意でしたのね?」
「私が? それほどでもございませんよ」
最後のポーズ。
大きく背中を反らされ、倒れそうになった私を彼の腕がしっかりと支える。
これではダンスではなくて、救助か介護されているようだ。
「はは。アドリアナさまと踊るのは、そういえば今夜が初めてでしたね」
踊り終わって、解放されるかと思ったのに、彼はそのまま私の腰に手を回した。
これで解散じゃないの? まだ見せつけるつもり?
彼は私の腰を捕まえたまま、飲み物を取りに行こうとしている。
「そ、そうでしたわね。とても楽しかったです。またいつか機会があれば……」
握られた手を離そうとしたのに、彼はそれを力強く掴んだまま逃がしてくれない。
「おっと。まだお相手をしていただきますよ。キミには俺の女性避けになって欲しいからね」
確かに私が彼の側にいれば、他の令嬢はラズバンさまに話しかけには来られないだろう。
だけどそれは、マリウスも同じ。
私はそれとなく、だけど必死で彼の姿を探す。
王子はモニカを隣に従えたまま、他の伯爵夫妻と話していた。
私のことなんて、まるで本当に気にしていないみたい。
「おや。私といるのに他の男によそ見ですか。お行儀の悪い人だ」
「もうダンスは終わりました。離してください」
「ダメだ」
もう一度、彼の唇が私の耳に口づける。
これじゃ頬にキスしたと誤解されても仕方がない。
思わず赤くなった私を、彼は面白いものでも見るように微笑む。
ラズバンさまとマリウスはライバル関係にあり、いつも何かと理由をつけては互いに競いあい張り合ってきた。
ラズバンさまは、王子に対しそれが許される唯一のお立場。
そんな彼が、王子の「元婚約者」を連れているのは、彼にとって単純に愉快なことなのかもしれない。
「もしかして、私までからかっているおつもりですの?」
「まさか。やっとあなたを堂々とダンスに誘えるようになったのです。これまで王子以外とのダンスは、全てお断りしていたでしょう?」
「お戯れを。そうやって数多くの女性を泣かせてきたというお話は、よく耳にしておりますの」
「それは心外ですね。私はこの時をずっと待っていたのに」
どういうこと?
彼の顔が近すぎる。
実際は耳元でささやいているだけでも、本当にキスされてるみたい。
これでは私とラズバンさまが、以前からどれほど親密であったかを、周囲に誤解させようとしているみたいだ。
こんな公の場でなければ強く拒絶も出来るけど、彼の立場と衆人環視という状況を考えると、到底やめさせることなんてできない。
「さ、参りますよ。アドリアナさま。これでようやく、私の番が回ってきたんだ。今夜のうちに、ちゃんと気持ちを打ち明けておかないと」
腰に回された腕が、強く私を引き寄せる。
彼はすぐ目の前にあったテーブルの上のフォークに手を伸ばすと、そのまま小さなチーズの欠片にブスリと突き刺した。
「はい。あーん。お口開けて」
「ラズバンさま?」
正気を疑う。
立派な爵位と立場のある人が、こんなところでどういうつもり?
マリウスとだってこんなことしたことないのに!
「ほら早く。皆が見てますよ。それとも、もっと注目されたい?」
「あの、お言葉ですがラズバンさま? 私はあなたとこんな戯れを交わすほど親しくは……。っん!」
口の中に無理矢理チーズを突っ込まれ、喉を詰まらせる。
それを見たイタズラの張本人は黒い目で笑った。
「はは。本当にキミは、いつどんな時でもお可愛らしい」
「一体どういうおつもりですの? ラズバンさまは私を使って、王子をからかいたいのですか? それは的外れでしてよ」
「なぜ的外れだと?」
そう言いながらも、彼は私の腰を腕に抱え込んだまま、放す気配もない。
それどころか、フォークを片手にまた別の食べ物を物色しているようだ。
「あの、ラズバンさま? 私はもうお腹一杯ですけど?」
「またそんなつれないことを。もしかして、チーズはお嫌いてしたか? ならばこちらはどうです?」
こんどは皿に並んだ木いちごの実を突き刺した。
「ほら、食べさせてあげるから、口を開けて下さい。愛しい人」
「本当にどうなさったのですか? なんで急にこんな……」
「急だと思います?」
「当たり前です。今までこんな……」
「ラズバン殿」
不意に声をかけられ、我に返る。
マリウスだ。
助かった。
王子の前でなら、ラズバンさまもこんなイタズラは続けられない。
王子はいまだ抱き合う私たちを見ながら、静かに笑みをたたえている。
私は助けを求めるように声をかけた。
「あら、マリウス王子。このたびはモニカさまとのご婚約、おめでと……」
ラズバンさまから離れようとした私を、彼は自分の背に隠すように引き寄せた。
「何ですか王子。せっかく私がアドリアナさまを口説こうとしているのに、邪魔をしに来るとは、あなたに似合わず随分と不粋なマネをしてくれますね。らしくない」
「ちょ、お待ちください。ラズバンさま! 私はダンスを一曲お受けしただけで……」
「そうですよ、アドリアナさま。あなたが王子以外の手を取るなんて、滅多にないことではございませんか。男ならこの機会を逃したくないと思うのでは?」
「それはラズバンさまの誤解です! 王子以外の方とも、誘われればダンスくらいお受けしています!」
「おや、そうでしたか? 俺には到底そんな風には……」
言い争う私たちをなだめるように、王子が言った。
「あの、ちょっといいかな」
そんなマリウスを、ラズバンさまは見下ろす。
「なんですか王子。手短にお願いしますよ?」
「お取り込み中のところ申し訳ないが、私と踊ってもらえないか。アドリアナ」
王子が私に向かって左手を差し出した。
ダンスの誘いだ。
その行動に、周囲がざわめく。
普段マリウス王子は、一晩のうちにダンスを踊る年頃の女性は一人だけと、彼自身が決めていた。
二人目以降は、ご高齢の方か既婚のご婦人方ばかりと踊っているのに。
しかも婚約者として事実上モニカを選んだことを告知したこの場で、他の女性を誘うなんてあり得ない。
「私はいま、アドリアナさまと過ごしていたのですが? マリウス王子。王子にはあちらでたったいま愛を誓った別の女性がお待ちですよ」
ラズバンさまが彼を高圧的な態度でにらみつける。
婚約者候補から外れた私を、この人の「遊び道具」にしないでほしい。
こんなくだらない争いに、私と彼を巻き込まないで。
「あの、マリウス王子? 大変失礼とは思いますが、これではモニカさまが気を遣うことにな……」
「頼む。アドリアナ」
王子の手が、ラズバンさまに抱きかかえられた私の腕を掴んだ。
強く引き寄せられ、彼の胸に転がり込むようにして、ダンスのポーズをとる。
「私と一曲、踊ってくれ」
王子の強行ぶりに、ラズバンさまも呆れたようにやれやれとため息をついた。
ここまでされては、私も断れない。
「で、では、一曲だ……」
返事もしないうちから、王子は私をダンスへと引きずり出した。
第2章
急遽音楽が奏でられる。
王子は私を腕に抱いたまま、荒々しいステップを踏む。
まるで怒っているみたいだ。
「ねぇ、マリウス。ちょっと乱暴じゃない? もう少しゆっくり……」
「どうしてラズバンなんかと踊ったんだ」
真っ直ぐに向けられる彼の視線が、私にそう言い放った。
「別に。お誘いを受けたからよ。あの人と踊っちゃいけない理由なんてないわ」
だって、婚約者をモニカに選んでおきながら、そんなことを言う権利がマリウスにある?
「キミが婚約者として選ばれないことくらい、初めから分かってたじゃないか」
「……。えぇ、当然よね」
そんなの分かってる。
だからもう、ここでちゃんとお別れをしなくてはいけない。
「僕への当てつけのつもりか?」
「な、どうしてそうなるのよ。どういうこと?」
「約束したじゃないか。キミはもう忘れたのか」
「約束? なにそれ」
「もういい。キミが覚えてなくても、僕は覚えている。あの日鐘の音に誓った約束を」
「ねぇ、それっていつの話よ……」
忘れてない。
忘れてなんかない。
まだ幼い4、5歳の頃、小雪のちらつく中二人で部屋を抜け出し訪れた宮廷の庭園。
小さな鐘のついた東屋の下で、二人だけの結婚式を挙げた。
「その時からもう、僕の心は決まっていたんだ」
「そんな話、今ここで聞きたくないわ」
ならどうして、モニカを婚約者として選んだの?
私はずっとあなたを信じて待っていたのに。
きらびやかな王宮の広間で、私たちは大勢の目に囲まれながらくるくると回る。
私たちの背は伸び、作り笑いも上手になった。
その人がどんな人であるかではなく、家柄や地位、財産など背景ばかりを気にするようになった。
あの頃憧れた素敵なドレスと胸に輝く勲章は、なんのためのもの?
いつまでも子供のままでいたかった。
いくらそれを願っても、誰にでも平等に年月は流れる。
私たちは大人になって気がついた。
この恋は決して許されるものじゃないんだって。
「他の男といるところなんて見たくない。僕がキミを選べないことは、分かってたじゃないか。それでもずっと好きでいてくれるんじゃなかったのか」
「勝手な人ね。モルドヴァン家には私しかいないのよ。私はあなたの愛人にはなれない」
「愛人だって? どうしてそんなことを言うんだ!」
怒りを隠そうとしない彼に、私は目を閉じる。
好きよ。
マリウス。
大好き。
あなたが王族として、私ではなくモニカを選んだ選択は、間違っていない。
もし私があなたの立場だとしても、そうするだろう。
私が好きなのは、それを選べるあなた自身だから。
彼が耳元でささやく。
「愛しているアドリアナ。だからどうか離れないでくれ。キミがいない毎日だなんて、僕には想像できない」
「マリウス……」
あなたにはこの国で王室を支えていく義務がある。
私にはモルドヴァン家を安泰させる責任がある。
それを捨ててまで、この恋を貫く自信がある?
「お願いだアドリアナ。確かに僕はモニカを選んだ。だけどキミは、僕を選んでくれないか」
「酷いひと。あなたは王室を選んで、私には家を捨てろと言ってるの?」
「キミもモルドヴァン家も守る。僕はそれが出来る唯一の人間だ。キミだって、それを知ってて、こうして僕と踊ってるんじゃなかったのか?」
「私が家のためにこうしていると?」
「あぁ、これ以上僕を困らせないでくれ。これまで過ごした年月を、全てなかったことにするつもりなのか?」
マリウス。
初めて王宮に王子の遊び相手として招かれた時から、ずっとあなたは私の王子さまだった。
庭の池でボート遊びをした日のこと。
ピクニックのまねごとをして、かくれんぼをしたこと。
二人で隠れたサンザシの木の枝の中で、初めて互いの気持ちを打ち明けキスを交わした。
乗馬大会、王宮のパレード。
王宮に招かれた時には、必ず二人でこっそりと会い続けた。
今からちょうど3週間前に、彼の言う思い出の東屋の鐘の下で、二度目の結婚式を挙げた。
二人だけの結婚式。
マリウスは始終ふざけてばかりで私の話なんて何にも聞いてくれなくて、プロポーズされ誓いのキスをした。
ゴメンねマリウス。
私はその時、実はちょっとだけ気づいていたの。
王妃となるのは、私じゃないんだって。
その時あなたのくれた指輪は決して人の目に触れぬよう、大切に鍵付きの引き出しにしまってある。
「あなたからもらった指輪。一生大事にするね」
「僕にとっては、あれが本当の結婚式だった。今夜こそ、キミの指にそれがあるのを見たかったのに」
彼の指先が、繋いだ指先に絡みつく。
その手には何もはめられていなかった。
「あなたの愛が本物だというのなら、この場でキスして。あの時の結婚式のように」
「今ここで?」
「そうよ」
マリウスの顔が険しさを増す。
キスなんて、出来るわけがない。
事実上の婚約発表をした席で他の独身女性とダンスすることだって、異例中の異例のことなのに。
そんなことをすれば、モニカと彼女を支持する内務大臣家への宣戦布告に値する。
「それをすれば、キミは納得出来るのか?」
「少なくとも、今より少しは信じられるかも」
「困った人だ」
音楽が終わる。
最後のポーズを決めると、私たちは向かい合って軽く膝を折った。
これでダンスはお終い。
彼と目が合った瞬間、その手が私へ伸びた。
顎に触れ顔が近づいてくる。
マリウスが目を閉じるのに合わせて、私も目を閉じる。
会場がどよめいた。
その瞬間、マリウスの頬が私の左頬に触れる。
キスじゃなかった。
これは親愛を示す挨拶だ。
彼は一度顔を離すと、反対の頬にもう一度自分の頬を擦り付けた。
「これでキミの社交界での地位は、まだ崩れはしないだろう。僕から親愛の証を受け取ったのだから」
「……。確かにそうね」
マリウスはニコリと大人びた笑みを浮かべると、談笑をしていた重鎮クラスの男性陣の元へ歩み寄る。
マリウスはすっかり王子らしい振る舞いをするようになった。
王族としての決断。
私の気持ちと、モニカという婚約者が決まったモゴシュ家への配慮。
そして何より、私がモニカに個人として負けたわけではないということを示してくれた。
だけど、本当に私の望んでいたのは……。
「王子も随分、大胆なことをするようになったもんだなぁ」
踊り終わった私を待ち構えていたのは、ラズバンさまだった。
彼は腕を組み、珍しいものでも見るようにマリウスを見ている。
これ以上注目の的にはなりたくない。
王子と話も出来たことだし、ここは早めに退散してモニカ嬢の機嫌を損ねることなく、彼の王子としての顔も立てて……。
「すっかり人の気に当てられてしまいましたわ。今夜はこれで失礼します」
「おや。そんなことが許されるとでも?」
立ち塞がるラズバンさまの横をすり抜けようとしたのに、彼の手が私の腕を掴む。
もう! 本当になんなの、この人!
「はは。そんな顔なさらずとも、あなたの悪いようにはしませんよ」
どちらかといえばあまり表情を表に出すことのない彼の顔が、わずかに曇りを帯びた。
その目が寂しそうに見えたのは、気のせい?
そんな彼が耳元でささやく。
「さぁ、いくら由緒正しきモルドヴァン将軍家のご令嬢とはいえ、私の機嫌を損ねない方がいいことくらい、お分かりでしょう?」
「だからと言って、都合のいい玩具になるつもりはありませんの」
こんなに大勢の人目がなければ、そしてこの人が宰相さまのご令息でなければ、さっさとひっぱたいて出て行ってやるのに!
「そんなに嫌がらないでください。私のささやかな勇気なんて、あなたの言葉一つで簡単に折れてしまうのですから」
「なにがおっしゃりたいのか、見当もつきませんわ」
「私はいま、自分自身の決断と行動力に、自ら驚きを感じているのです。まだこんな気持ちが残っていたなんて、思いもしなかった。本当に不思議だ」
「帰ります。お先に。ではごきげんよう」
「寂しいね、お嬢さん」
彼の強い腕の力で引き寄せられる。
男性からエスコートとは名ばかりの拘束じみたことをされたら、逃げたくても逃げられない。
「ようやくあなたに近づくことが許されたのに、今夜のこの機会を他の男に譲るわけにはいかないだろ?」
「だからどういう意味なの?」
彼を押しのけようとしても、厚く黒い胸板はビクともしない。
「失恋したばかりの女性にすぐさまアプローチをしかけるのは、セオリー通りじゃないのか?」
「それは私と王子のことですの? でしたら見当違いも……」
「あなたはご存じないでしょう。私がどれだけ王子を疎ましく妬ましいと思っていたか」
「それは! いつだって王子は、誰もが憧れ羨望の的となるお方ですから。別にあなたに限ったお話ではないのでは?」
ラズバンさまの目が、じっと私に注がれる。
「あなたにとっても、王子は羨望の的だった?」
「と、当然です」
踊っているわけでもないのに、しっかりと繋がれた手を解いてくれそうにない。
エスコートというには、体が近すぎる。
早く離れたいのに、それを知ってか知らずか黒髪の男はますます私を放そうとしない。
「正直言って、俺はただ一つを除いては、王子をうらやましいと思ったことは一度もない」
彼は私の腰に回した手で背後から抱きしめると、指先に口づけをする。
「頭は悪くない王子のことだ。婚約者は必ずモゴシュ家のモニカを選ぶだろうと思ってはいたものの、気が気でならなかった。もしかしたら、覆されるかもしれない。彼はそれが出来る男だ。俺が阻止したくとも、そんな手段も持ち合わせていない。どれだけハラハラしながらこの時を待ったか、キミに想像出来るか?」
私は握られていた手を、ようやく振り解いた。
「そんなことで、私と王子を刺激しようとしても無駄です」
「王子のことなんて、もうどうでもいいだろ。今夜ではっきりしたんた。マリウスのことは忘れろ。俺の興味があるのは、キミだけだ。二人きりで話しがしたいな。アドリアナ。キミがここから抜け出したいというのなら、うちの馬車でモルドヴァン家まで送ろう」
「結構です」
「ほら、王子がこっちを気にしている。なんて悪い男だろうね。もうキミに用はないってのに」
マリウスの姿を探そうと振り返ったとたん、腰と腕を掴まれた。
ラズバンさまは私の背に回ると、後ろから抱きかかえるようにしてどこかへ連れていこうとしている。
彼はすぐ近くにいた見知らぬ男性に声をかけた。
「あぁ、確かキミの名はアンドレと言ったね。アドリアナさまのご気分がすぐれないようなのだ。私はこれから彼女を壁際のソファで休ませるから、悪いが何か飲み物を持って来てくれないか」
「あ……、はい。喜んで!」
突然声をかけられた男性は、驚き戸惑いつつもマリン家のラズバンさまににっこりと微笑まれ、言われた用件を即座に行動に移す。
彼に逆らえるような人間なんて、ここにいる?
その優しげな黒い目に反して、私を捕まえる手は力強い。
彼は強引に私を連れ去ると、ソファに座らせた。
「随分乱暴なことをなさいますのね」
「こうでもしないと、キミはすぐいなくなってしまうじゃないか。次に会ってもくれないだろ?」
「自覚はあるようで、安心しました」
扇を広げ、顔を背ける。
逆らえない無力な自分が悔しくて、目尻に涙が滲む。
彼はため息をついた。
「あぁ、こういうことには慣れていないんだ。どうすればいい?」
「慣れてないとは? ラズバンさまが、そんな風にはとても思えません」
「それは誤解だ。ただ笑ってのらりくらりと誤魔化しているだけの連中とは違うだろ」
「何がどう違いますの?」
「こんなことなら、彼らからよく学んでおけばよかった」
社交界の場で、ラズバンさまの姿を見かけることはよくあっても、会話を交わしたことはほとんどない。
この人はいつも会場の隅にいて、ただ冷静に参加者を見渡していた。
もちろん周囲に女性の姿は絶えることもなく、彼の言葉通り女の扱いに慣れてないだなんてことはありえない。
彼は生まれついての精悍な顔立ちを両手で覆い隠すと、私の隣でぼそぼそと話し始めた。
「俺は、その……。正直、マリウス王子に対しては、何とも思っていない。いや、仕えるべき王族の一人だ。俺はこのまま波風立てず、平穏に接していればいいと……。あぁ、違う。そんなことじゃないんだ。待って。どうしたらいい?」
彼の独り言のような問いかけに、私は聞いているフリをしておけばいいのか、本当に聞かなくていいのかが分からない。
「そうだ、アドリアナ。キミは愛だの恋などというものを、信じない人だったね。バカな話をするところだった。今のは全て忘れてくれ」
彼は大きく頭を左右に振ったかと思うと、不意に背筋を伸ばしふんぞり返るようにして足を組んだ。
両腕をソファの背に悠々と伸ばし、くつろいでいるようにも見える。
「で、王子のことはもう諦めるのか? 王家としても、軍部の機嫌を取るなら、キミと懇意にしておいた方が得策だと思うが?」
「王子は打算や戦略で婚約者を選ぶような方ではないですわ」
「王族の結婚なんて、どれもそんなもんじゃないか。まぁ、我々にも当てはまることだが? だとすれば、キミと俺がってことも、十分にありえる」
ニヤリと浮かべた冷静な笑み。
そんな挑発に、簡単に乗ったりなんかしない。
「今の私に、想いを寄せる方などおりません」
「はは。じゃあやっぱり、キミはストレートにマリウスにフラれたってわけだ。王子にとって、なんの魅力もなかった? ならなぜ、王子はキミを今夜ダンスに誘ったんだ。婚約者であるモニカ嬢の目の前で。随分深刻な話をしていたようだけど、何をしゃべっていた」
「特にお聞かせするような内容はございません。つまらない話です」
そう。本当にくだらない話。
くだらない上につまらなくて、面白くもない。
ラズバンさまの手が私の顎を掴むと、それを持ち上げた。
「それとも、この俺がキミに近づいたことで、代々宰相を勤めるマリン家が軍部と親しくなることを警戒したか?」
「お戯れを。どうかお許しください」
「キミはこんなにもお可愛らしい顔をしているのに、もったいない」
私たちの座るソファの前に、グラスを持った初老の女性が現れた。
ベントー公爵夫人だ。
マリウスの父である現国王の、伯母さまにあたる人。
ややぽっちゃりとした体型とグレーのずっしりとしたドレスのおかげで貫禄は十分。
「ラズバン。お久しぶりね」
「これはこれは公爵夫人」
彼はサッと立ち上がる。
さすがのラズバンさまも、ベントー夫人を前に失礼は出来ない。
私も慌てて立ち上がろうとしたところで、夫人は「あなたはそのままで」と持って来たグラスをサイドテーブルに置いた。
「ラズバンから飲み物を取ってくるようにと言付けられた方がいらしたようで。代わりに私が持ってきてさしあげましたの」
確かに夫人の後ろには、バツの悪そうにさっきの男性がおどおどと立っている。
「ラズバンの先ほどのダンスを見て、私も久しぶりに踊りたくなってしまったの。お相手を頼んでよろしいかしら?」
「もちろんですとも」
夫人は私ではなく、ラズバンさまにお小言を言いに来たんだ。
確かに今日、私たちは目立ち過ぎている。
「では、少しの間お借りしますね。アドリアナさま」
彼を連れ出してくれたのは有り難い。
ようやく自由になれた。
すぐに会場から消えるのもタイミングが悪いから、彼らのダンスが始まったと同時に退散しよう。
幸い、飲み物を言付かったひょろりとした男性も「ではこれで」と、すぐにいなくなった。
ここが最大のチャンスだ。
ラズバンさまのリードでベントー公爵夫人が腕を構えると音楽が始まる。
もう相手をしなくていい。
広間から抜けだそうとした私の前に、立ち塞がっていたのはモニカだった。
「ごきげんよう。アドリアナさま」
彼女はサイドテーブルにあった飲み物を手に取ると、私の隣に腰をおろした。
飲みかけのそれを、私に向かって差し出す。
「どうぞ、お受け取りください」
「……。ありがとう」
ここで逃げたら、単なる負け犬。
敵前逃亡。
笑いものにされるだけ。
私はフンと鼻息を鳴らし戦意を高めると、彼女からの挑戦状であるグラスを受け取った。
それに満足したらしいモニカは、自分のグラスをあおる。
淡い琥珀色をしたフルーツ系の発泡酒が、彼女の喉をゆっくりと流れた。
彼女は空になったグラスを持ち上げ、珍しいものでも見るようにしげしげと眺める。
「アドリアナさまがラズバンさまとご懇意にされていたとは、知りませんでしたわ」
「ダンスのお誘いを受けたから、お受けしただけです。他に理由などありません」
売られたケンカは買う。
相手が腰を据えてやり合おうっていうのなら、こっちだって負けるつもりはない。
「あの方はだれかれ構わずお声がけなさるような方ではありませんもの。女性に関する悪い噂が絶えないのは、相手にされずフラれた方々が勝手に流しただけのもの。……。もしや、アドリアナさまもそんなお仲間のお一人だったとか?」
「まさか。初めてお話したような方を、良くも悪くも思います? 私にはラズバンさまがどのようなお方なのか、見当もつきませんわ」
「そう」
モニカは着ている白いドレスに合わせた黄色い扇を、閉じたまま口元に押し当てた。
どこを見て話しているのか、視線はここではない遠いどこかを見ている。
「あなたと違って、私はあの方をよく存じ上げておりますの。なにせ伝統と格式あるマリン家のお方ですもの。私のお姉さまと歳も近くて、我がモゴシュ家へ何度もいらしたことがありましてよ」
モニカのお姉さま?
確か昨年の夏、遠方の領主のところへ嫁いだはず。
モゴシュ家には、モニカの他に二人の姉妹と、男兄弟が二人。
彼女のお姉さまはラズバンさまを狙っていたのが、上手くまとまらなかったということか。
「それで私も、幼少のころからラズバンさまのことはよく存じてますの。草で編んだ冠をあの方にプレゼントしたこともあって。楽しい思い出です」
「モニカさまにとって、お兄さまのような存在だったのかしら」
その言葉に、彼女の整ったブロンドの眉が、不愉快だと言わんばかりに大きく動いた。
「確かに? お兄さまと言われればお兄さまですけれども? 血のつながりのない方をいくら親しいとはいえ、そうお呼びするのは失礼なのでは?」
何を怒っているのか分からないが、とにかく彼女の逆鱗に触れたらしい。
このまま相手をしていても構わないが、まもなくそのラズバンさまのダンスも終わる。
モニカの視線も、高齢のベントー夫人を相手に優雅に踊る、黒髪のその人を追いかけている。
出来ればこれ以上長くなる前に、早くここを出て行きたい。
「ラズバンさまがそれをお許しになっているのなら、構わないのでは?」
「そういえばわたくし、ラズバンさまからお聞きしたことがありますの」
モニカは私を無視して、突然話題を変えた。
「ラズバンさまには、ずっと心に思う人がおありになるそうよ。数々の高貴なご令嬢をお相手にしてきた方だもの。さすがのアドリアナさまであっても、お相手とするには重荷なのでは?」
「何がおっしゃりたいの? 王子一筋であるはずのあなたが、マリウス以外の他に興味があったってこと?」
私の挑発に、ついにモニカはお嬢さまの仮面を取り払った。
「ねぇ、王子のお相手から外されてすぐラズバンさまって、節操なさ過ぎ。そんなに王子を取られたのがくやしかった?」
「フン。あんたなんて、どうせ政略結婚じゃない。モゴシュ家と王家の縁談だなんて、誰もが予測した通り。順当すぎて面白みも何もないから。あんたに必要だったのは、家の名前と王子と同年代に生まれたタイミングよ」
「ならどうして、最後まで張り合ったのよ。分かってんならさっさと身を引けばよかったじゃない」
「だって、それじゃ面白くないでしょう? つまらない結婚にこの私がわざわざ話題を添えてやったんだから、そっちこそちょっとは感謝しなさいよね」
「は? なんですって。ちょっとラズバンさまに慰めてもらったからって、いい気になってんじゃないわよ」
なにこの女。
いい気になってんのは、王子の婚約者の座を予定通り手に入れたあんたの方じゃないの?
「あ~ら! 私はあなたの方がうらやましくってよ、モニカさま! 晴れて王子の婚約者となられた方が、これ以上何かをうらやましがることがあって? 座ってるだけ手に入れた肩書きですもの、せいぜい大切になさるといいわ」
「言われなくてもそうするわよ。誰もがうらやむ第一王子のお妃になるのよ。これ以上の幸せがどこにあるっていうの?」
本当にくだらない。
私はこれまでの年月を、なんのために戦ってきたのだろう。
マリウスのことは嫌いじゃない。
だけど彼自身を取り巻く環境と、その荒波の渦中に飛び込んでいくには、私には覚悟が足りなかった。
そして彼自身も、私をそう決意させてくれるほどの熱量を見せてはくれなかった。
私にとっては、それだけが事実だ。
ソファから立ち上がる。
「そろそろ失礼させていただくわ。くだらないおしゃべりに付き合って、あることないこと噂されてもたまんない。おかしな話の発信源は、あなたの方ではなくて?」
「ちょっと。逃げるつもり?」
モニカは周囲の目に臆することなく、大胆なため息をついた。
「ま、王子がダメならラズバンさまよね。私でもそうするわ。切り替えが早いのは自分の役割をよく分かってるってことよ。せいぜい頑張って彼の『お心』を掴むといいわ。モルドヴァン家のアドリアナさまならいけるんじゃない? 王子と対等に張り合える一派といえばマリン家だもの。あなたがそこの第一夫人になれば、軍部はマリン家のもの。十分に相応しいお相手だわ」
お酒に酔っているわけでもないだろうに、モニカにしては珍しい物言いだ。
お妃候補になればなったで、新たな戦場が開くだけ。
彼女も戦っているのだ。
私と同じ。
「賢明な王子は、あなたを選んだのよ。もし私が王子なら、私でもそうするわ。だからあなたは、彼にふさわしい王妃になってね」
「ふふ。それで、アドリアナさまはこれからどうなさるおつもり? 自由な生き方なんて、所詮許されていないのに」
「そんなことがしたいなら、とっくにここから逃げ出してるわ。それはあなたも同じでしょ」
「あなたがライバルでよかった」
「ずいぶんな弱音を吐くのね。私はそんなこと欠片も思ってないから」
彼女が小さく笑って息を漏らすのを、聞こえないフリをして背を向ける。
私はきらびやかな社交界へ向き直った。
真っ直ぐに顔を上げ、華やかな広間を見渡す。
どんなことがあろうと、ここから逃げ出すつもりもないし、逃げたいとも思わない。
だからこの場にいつづけようと思うなら、居場所を確保するために戦わなくてはならない。
私が私でいられるために。
「だからこそ、もう忘れなきゃね」
自分が前に進むために。
マリウスが答えを出したのなら、私も答えを出さなくてはならない。
どれだけ大勢の人たちに囲まれていても、彼の居場所ならすぐ見つけられる。
王子がだめなら宰相の息子ですって?
そんなの分かってる。
私がすべきなのは、この世界で生きること。
モルドヴァン家を守ること。
もうすぐ父は亡くなる。
病の悪化はこれ以上避けられない。
女である私が軍部を率いる将軍家を守るために出来ることなら、なんでもする。
だけどそれは宰相の息子に取り入るんじゃない。
モルドヴァン家の傘下にいる血統のよい優秀な将校を、婿として迎えるか、自分で剣を持つことだ。
自分で剣を持つことは、幼い頃から見よう見まねでやっている。
これからは、もっと本気で取り組まないと。
今夜のこの会場に出入りしている男性将校なら、家柄も身分も申し分ない。
そのなかから、最も条件のいい相手を見つけよう。
私の方からさりげなく気さくに声をかければいい。
モルドヴァン将軍の一人娘だ。
雑に扱われることはないだろう。
社交界というのは、こういうことのために便利に出来ている。
私はにこやかに笑みをたたえながら、会場を注意深く見渡した。
出席者のなかから軍部関係の人間を洗い出す。
年齢がさほど遠くなく、独身となると……。
「なにかよからぬことをお考えのようだ」
腕を引かれ、腰に手が回される。
手を掴まれたかと思うと、パーティーも終盤だというのに、再びダンスに引きずり出された。
「ラズバンさま!」
「声が大きいね。もっと注目されたかった?」
広間の片付けが始まっている。
楽団員たちは交代用員だけとなり、音量も落ちた。
テーブルに残された皿はまばらになり、白いクロスのみが広がっている。
密集していた室内にも隙間が目立ち始め、早い人たちから退出の挨拶が聞こえてくる。
「手をお放しください。ラズバンさまとはいえ、これ以上の無礼は許しません」
「それが許されるのが、私という立場なのですよ」
強く手を握られる。
持っていた扇を床に落としそうになり、とっさにそれをラズバンさまが取り上げた。
「この扇は私がお預かりしておきます。いずれお返しにうかがうために」
「結構です。欲しいなら差し上げます」
「あなたのものを私に? それはうれしいね」
帰り行く人々は宴の最後の悪ふざけとばかりに、もう私たちに目もくれない。
マリウスすらダンスに引きずり出された私を見て、冷めたような諦めの笑みを浮かべると、一人広間を出て行ってしまった。
「王子も退出なさいましたよ。もうアドリアナさまが他に目を向ける男はいないでしょ」
「それを決めるのは私自身です!」
「俺より他に魅力的な男がいるとでも?」
大きく伸ばされた腕に、体勢を崩される。
バランスを崩し転びそうになった私を、彼はステップを大きく踏むことで上手く受け流し私の体を自分の手中に収める。
「アドリアナさまも随分つまらないことをおっしゃるのですね。あなたらしくもない。王子がダメなら、私以外あなたにふさわしい相手がどこにいます?」
「どうしてそう思うの? こうやってダンスをするのもお話するのも、初めてなのに?」
「関係ないでしょう。キミとって俺より条件のいい男なんてほかにいない」
広間にいる人数は、半分に減った。
もう人目を気にする必要はない。
「失礼します」
ダンスから離れようと腕を振り払った私を、彼は引き寄せた。
「離さないって言ったろ」
音楽は続いている。
まだペアを組んで踊る男女も残っていた。
彼の腕の中で踊らされる私は、どこにも逃げ出すことが出来ない。
どれだけ考えても、黒髪のこの人が私に近づく理由の正解が導き出せない。
「なぜ突然私にそれほどの興味を?」
「王子にフラれたから」
こんなに面と向かって、はっきりとイヤなこと言う人、他にいる?
彼はにこやかな笑みを浮かべたまま、滅茶苦茶なダンスで私を翻弄している。
将来の政敵ともなりえる人に、簡単に気を許すなんで出来るワケがない。
「今キミが何を考えているのか当ててみようか。次の婚約者候補を探している。違うか? それとも、自分が次期領主として立つつもりか」
すました顔で挑発してくる、この人の魂胆が全く見えない。
マリウスのライバルでもある人だ。
いくらなんでも、フラれた瞬間文字通り言い寄るなんて、モニカに言われなくても危険なことは分かっている。
私は鍛え抜かれた貴族の面を被り、精一杯の憂いの表情を浮かべ、悲痛に眉を寄せる。
「私自身、王子との婚約者争いに敗れ、後ろ盾となる身内もおらず、どうやって家を守れと? あなたと結ばれることは利益が大きくとも、それ以上に反感を買うことも十分に予想されます。そんな危ない橋を渡るくらいなら、生き残るためにより安全で確実な方法を選ぶのが本分では?」
「王子との恋は本物だったのに?」
っぐ。
もうやってらんない。
ニヤニヤ笑い見下ろす彼の言葉に、私はダンスの途中で思い切り足を踏ん張った。
もうこの人と、バカみたいに踊ってられない!
「うわっ。急にどうした?」
「ラズバンさまは、どうしてそんなことをおっしゃるのですか。あなたに私の、なにが分かるっていうのよ!」
もう泣きたい。
そうでなくても今夜はずっと泣きたい気分なのに、これ以上笑ってなんかいられない。
突然立ち止まった私に、今度は彼の方が驚いたみたいだ。
「俺も好きだったからだよ! キミのことが。ずっと見ていた。だから分かる」
「ウソつき」
「ウソじゃない。もしこれがウソだったら、どうして俺がこんなことをする理由がある。じゃなきゃここでこんな風に、無理矢理踊ってなんかいない」
「そんなこと突然言われても、信じられるわけないじゃない」
「さっきからそうしているつもりだったんだが? ならばどうすればいいんだ。逆に教えてくれ」
「証拠をみせて」
「証拠?」
急に立ち止まったラズバンさまの肩に、まだ踊り続ける男性の肩がぶつかった。
「いますぐここで私にキスして。だったら信じてあげる」
マリウスより背の高い黒い目が、本当に驚いたようにじっと私を見下ろす。
呆れているに違いない。
王室の次にこの国で絶大な権力を誇る代々宰相を務める侯爵家のご令息に向かって、こんなことを言う令嬢なんて今までいなかっただろう。
彼の立場がそれを許すはずがない。
私はその場で手袋を脱ぐと、腕を前に突き出す。
「ほら。早くしてくださらない?」
失礼なんて態度じゃない。
そのまま張り倒されても文句の言えない状況だ。
マリウスさえ公衆の面前で出来なかったことを、冷徹非道で常に計算で動くこの人に出来るわけがない。
彼からの私への愛の告白は、モルドヴァン家の軍事力が欲しいだけ。
このままマリン家に取り込まれるわけにはいかない。
「……。ここでキスをすればいいのか?」
「そうよ。出来ないのなら、もう私のことはあきらめてくださらない? そもそもラズバンさまの冗談を、真に受けるような……」
彼の両腕がふわりと動いた。
ひざまずくかと思った手が近づいてくる。
顔を挟まれたかと思った瞬間、彼の唇が私の唇に触れた。
「ちょ……。ま……」
突き放そうとしても、何度も触れては吸い付いてくる。
抵抗しようとしても、がっしりと押さえ込まれた腕がそれを許してくれない。
胸を押しのけようやく離れた時には、本当に私の目には涙が滲んでしまっていた。
「キスしていいと言ったのは、キミの方じゃないか」
「もういいです!」
まだ口元に残る感触を、力一杯ぬぐい取る。
そんな私を気に掛ける様子もなく、彼は再びエスコートを始める。
「さぁ、送り届けよう。パーティーは終わりだ」
「一人で帰れます!」
「キミの誤解を解くまで、帰れなくなったじゃないか。どうしてくれるんだ」
「あなたは恥ずかしくはないのですか!」
「マリン家の跡取りが軍部を狙うこと? それとも、軍部が政治の中心に近寄ること?」
「……。そんな話をしているのではありません!」
「だとしたら、俺がキミへの想いを伝えたことか。恥ずかしくもなんともない。ずっと秘めた想いを隠していたんだ。やっと素直に話すことが出来た。それをなぜ恥じる必要がある?」
逃げられないようしっかりと腰を掴まれたまま、彼は私を広間から連れ出す。
「本番はこれからだ。屋敷までの道のりで、しっかり語り合おうじゃないか」
混雑する馬車寄せの中に、ひときわ目立つ立派な車が彼を待っていた。
私をそこに押し込めると、バタンと扉が閉じられる。
彼は私の手を取ると、再びそこに口づけをした。
「さぁ、どこから始めようか。初めてキミに気づいた時のこと? それとも、王子への嫉妬を自覚したとき? 今夜は長くなるかもしれないが、朝まで付き合ってもらおう」
馬車が動きだす。
マリン・ラズバンの黒く艶やかな瞳が、キラリと微笑んだ。
【完】
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