
ハイリゲン・ブルート
俺は自宅の庭に植えたばかりのアカシアとミモザの若木に、丁寧に水をかけていた。
植える場所も良く選び、肥料もしっかり撒いた。
育て方の本も買ってきたし、きちんと手をかけて大きく育つよう、余計な枝葉も落とす。
こうやって丁寧に育て上げれば、大地に根の張った、立派な大木に育ってくれるだろう。
「あら、おはようございます」
近所を通りかかった、母と顔見知りのおばさんが、俺に声をかけてくる。
「朝早くからお庭のお手入れ? まぁ、新しく木を植えたのね」
「えぇ、大きな木のある庭に、憧れてまして」
おばさんは俺の庭をのぞき込み、二本の若木を交互に見比べた。
アカシアの木は父に、ミモザの木は母を思って植えたものだ。
「最近、お父さんとお母さんを見かけないけど、元気?」
「あぁ、二人とも体調を崩していまして、揃って入院しているんです」
「そうなの? まぁ、それは大変だったわね」
彼女はもじもじとして、何か言いたげな顔をちらちらとこちらに向ける。
「まぁ、病院では、二人とも元気にしているんですけどね」
そろそろ出勤時間も近い。
これ以上無駄なおしゃべりにつき合わされるのも面倒だ。
俺は毎朝の習慣と決めた水やりをたっぷりした後で、買って来たばかりの新品のホースを巻き取り始める。
「じゃあ、ご両親によろしくね」
「はい」
俺が笑顔を向けると、おばさんは自転車にまたがり去って行った。
家の中に戻り、一息つく。
「母さん、うるさいご近所のおばさんを、さっそく追い払ってきたよ」
母は台所のテーブルに座っていて、俺の用意した朝食を食べている。
「父さんも、あんまり自分勝手なことばかり言わないで、大人しくしといてくれよ」
新聞を広げたままの父を尻目に、俺も席についた。
炊きたてのご飯にお味噌汁、今日は焼いたししゃもが二匹と、沢庵に野沢菜のお漬け物。
昨日の残りの肉じゃがも添えた。
「いただきまーす」
俺は湯気を立てているその朝食に、箸をつける。
「今年の俺の担任のクラスさ、ちょっと個性的な子が多いって前にも話したじゃない? だいぶ落ち着いてはきたんだけどさ、まだまだやんちゃ盛りで大変でさ、その……」
仕事の愚痴は、同じ教職員だった両親にしか分かってもらえない。
俺はおしゃべりで弾む楽しい朝の食事を終えてから、片付けまで済ませて家を出る。
毎朝時間に余裕を持って出勤するから、一度も遅刻をしたことがない。
絶対に遅刻をするなという両親のいいつけを、いまだにきちんと守っている。
それは俺にとって、よいことだからだ。
自分からかってでた朝の挨拶当番にも、いつも開門前から立っている。
用務員さんが明けてくれた校門から、一番に外に飛び出す。
「おはようございます!」
「先生、まだ誰も子どもたちは来てないですよ」
「まずは世界中に向かって挨拶するのが、俺の基本なんです」
用務の先生は、そんな俺を見て笑って立ち去って行く。
ぽつりぽつりと登校し始めた子どもたちに、俺は元気な朝の挨拶を始めた。
副校長先生から話があると呼び出されたのは、ちょうど昼休みの時間だった。
校庭で子どもたちとサッカーをしていた俺は、すぐに校長室へと向かう。
「失礼します」
中に入ると、スーツを着込んだ見知らぬ男性が二人、丁寧に起立して俺を迎えた。
「お手数をおかけいたします」
俺を訪ねてきたのは、刑事さんだった。
「先生の担任のクラスの、ある児童についてですが……」
そのベテランと若手のコンビらしき、若手の男性の方が淡々と説明を始める。
俺の受け持つクラス児童の母親が、遺体で発見されたらしい。
「報道規制はかけています。ですが、すぐにこの件は公になるでしょう」
詳細は調査中で、詳しい事件の真相は、まだ何も分かっていないらしい。
「すみませんが、このお子さんについて、特別な配慮をお願いしたいのです」
「当然です」
あまりの出来事に、俺の声は自然と震え、それを抑えようと両手をぐっと握りしめる。
「分かりました。子どもの心のケアに、細心の注意を払います」
事件の真相とか、家庭の事情とか、そういったことは、今の俺には全く関係のないことだ。
俺には担任教師としての、俺のやるべき義務というものがある。
刑事と同じように、丁寧に頭を下げてから、俺は校長室を出た。
小学校の、少し小さくてかわいらしい廊下を、真っ直ぐに歩く。
俺のやるべきことは、とにかく普段通り、何も変わらない日常を彼らに提供し、落ち着いた学校生活を送らせることだ。
俺はそれを守り通さなくてはならない。
四年二組の教室が近づいてくる。
もう昼休みと掃除も終わり、五時間目の授業の開始を大人しく待っていなければならない時間だ。
廊下まで響く喧噪に、俺は足を速めた。
「何をしているんだ! やめなさい!」
教室の真ん中で、男児二人が殴り合いの喧嘩をしていた。
またいつもの二人か。
俺は内心でそう思いながらも、間に割って入る。
「またお前らかよ、今度はなんだ?」
「クラスで決めたルールを、全然守ろうとしません!」
殴られ、頬に赤いアザの出来た子どもが叫ぶ。
「お前が勝手にそのルールを、ころころ変えるからだろ?」
アザをつけられたこの子は、真面目でしっかりとしているが、少し融通の利かないところがある。
だけど、誠実さだけは人一倍だ。
もう一方の殴った方の子は、スポーツ万能でムードメーカーの、いわゆるクラスのリーダー的存在だ。
ただ時折、自己を過信しすぎて他者への想像力が欠如してしまうのは、まぁこの年代の年頃としては、相応としたところだろう。
俺の目の前でも、二人はまだ激しい言い合いを続けている。
その内容の細かいことは、今は問題ではない。
「先生はがっかりしているよ」
少し声を荒げて、ワザと大きな声を出す。
「君たちは、教室で喧嘩をしないという、大切なルールを破っている。そうじゃないのか? クラス全員が気持ちよく過ごす。それが一番だったろ?」
俺が見下ろすと、二人は急に大人しくなった。
「このクラスの生徒は、みんな聞き分けのいい、いい子たちばかりだと先生は思っている。そうじゃないのか?」
一人は真っ直ぐに俺の顔を見上げ、一人はうつむく。
「先生は、例えどんな理由であれ、このクラスの生徒はみんな、理解し、わかり合える仲間だと思っている。それが出来ない君たちじゃないだろう」
俺は、自分のクラスの子どもたちを見渡した。
「とても簡単な話だ。決して難しいことではない。なのにどうして、それが出来ないんだろう。先生は今とても悲しいし、残念に思っています」
始業を知らせるチャイムが鳴る。
次は社会科の時間だ。
だけど、昔と現在の生活様式の違いを発見するよりも、大切な問題がここにある。
「さぁ、どうしたら仲間同士わかり合えるのか、五時間目はその話し合いの時間にしよう」
また保護者から授業の遅れを指摘されるかもしれないな。
こういうことをして一番大変な思いをしなければならないのは、実は教師の側であるということを、なかなか理解してもらえない。
授業の内容をコンパクトに見直して、宿題を出して遅れをカバーしよう。
先生のクラスは宿題が多いって、また言われるだろうな。
だけど、塾や家庭学習では教えてもらえないことが、学校という集団生活のなかにはあると、俺は信じている。
「さぁ、みんなでどうすればよかったのか、今回の問題点を話しあおう」
俺の合図で、子どもたちはクラスの机を円陣になるように移動させた。
慣れたもんだ。
俺が担任になったクラスの子どもたちは、みんなこの行為にすぐに順応する。
「悪いのは、誰だろう」
俺はその子どもたちの輪の外から、声をかける。
子どもたちは次々に、殴られた方の子どもを責めた。
「掃除の時間が始まったのに、いつまでもふざけていて掃除をしませんでした」
「それを注意した子に向かって、雑巾を投げました」
「やめろっていっても、雑巾を投げてきたり、ほうきで叩いてきました」
またか。
もうこれで何回目だろう、呆れすぎてため息も出ない。
ここ最近の、彼の言動の乱れは目に余る。
本来ならこれで、いつものようにこの子に反省の言葉を述べさせ、クラス全員に謝罪し、許しをもらえればそれでお終いだが、そう何度も同じ手を使っていても、繰り返しばかりで効果がない。
「じゃあ、悪いのは真面目に掃除をしなかった人ってことになるのかな」
俺がそう言うと、子どもたちは一斉にうなずく。
「だとしたら、悪いのはここにいる全員です」
四十人から五人程度を減らしただけで、少人数学級と謳う数の子どもたちの目が、一斉に俺にだけ集中する。
「掃除を真面目にやらなかったのは誰ですか? ここにいる全員です。もちろんふざけた人が悪い。だけど、それを見ていた人も悪いし、止めなかったのも悪い」
「止めようとしました!」
殴った方の子どもが、立ち上がる。
「あぁそうだね、だけど失敗した。それでは君の行動に、意味がないじゃないか」
彼は何も反論出来ずに座り直す。
当たり前だ。
まだ小学四年生の子どもが、俺に勝てるわけがない。
「掃除をしなかったことが悪いことか? だとしたら、止めに入ったその時間は、君は掃除をしていなかったし、見ていた人間も掃除をしていなかった。掃除をしていない奴を注意しないでいることも悪い。してない奴も悪い」
教室の一段高い所から見下ろす風景は、何ものにも代えがたい。
「悪いのは掃除をしていなかった人じゃない。掃除ができなかった全員です。違いますか?」
しばらくの沈黙の後で、子どもたちは次々に自分たちの反省の弁を述べていく。
よく出来た子どもたちだ。
俺の気持ちがちゃんと全員に届いていることが、何よりも喜ばしい。
六時間目まで使って行われた話し合いは、最終的に喧嘩をした二人が握手を交わして仲直りを宣言し、あたたかな拍手に包まれて終了した。
「おまえら、これ以上授業を潰すなよ。明日からはちゃんと授業するからな」
クラスから悲鳴が上がる。
俺は笑って、本日は解散となった。
ランドセルを背負った子どもたちが、ぱらぱらと教室から出て行く。
そう、これがいいんだ。
職員室に戻った俺は、早速今日の日誌と宿題プリントの作成に入った。
「先生のクラスは、また話し合いをされてたんですか?」
一組の、学年主任のおばさん先生がのぞき込む。
「えぇ、おかげで授業の進行が大変ですよ」
へらへらと笑ってみせると、彼女は難しい顔をして隣に座る。
「先生の、生徒指導は本当に熱心ですね」
手のかかる面倒な児童を、俺たちのような若手に全部押しつけておいて、何が指導熱心だ。
だったらもっと、楽なクラス編成にしてほしい。
「まぁ、それが学校教師になった、醍醐味の部分でもありますんで」
俺は、宿題プリントの制作に取りかかるフリをする。
実際はまとめて作ってある俺の秘伝の書を、そのまま印刷して使えばいいようになっているので、それほど手間と時間はかからない。
そういった努力もしないで、生徒指導を放棄しているのは、どっちの方だ。
おばさん先生はまだ、俺の横で何かを言いたげにもぞもぞしているが、それを無視する。
「先生、お呼び出しですよ」
副校長の声かけで振り返ると、職員室の前に俺のクラスの生徒が来ていた。
「先生、ちょっといいですか?」
先ほど殴られた左の頬が、わずかに青く変化している。
「あぁ、いいよ。ちょっと待ってて」
俺はすぐに席を立つ。
助かった。
長引きそうな学年主任の小言から、これで逃れられる。
俺はその子どもを連れて、生徒指導室に入った。
入り口の扉に鍵をかける。
「どうした」
彼はじっと黙ったまま、うつむいている。
「うちのお母さんが、ずっと帰ってこなくて、お父さんもいなくなって。今日は朝から変な人たちがたくさん来て、今日は絶対に学校に行きなさいって」
「うん。よく来たね。えらいよ」
俺は彼の両肩に手を置いた。
しっかりと視線を合わせて、その顔をのぞき込む。
「大丈夫。先生が、ちゃんと守ってあげるからね」
この子どもの相談を受けた時から、俺は心に決めていた。
彼の母親は、昨日遺体で見つかったと、刑事から聞いたばかりだ。
大人が誰もいない児童生徒の自宅に、子どもをそのまま一人にしておくわけにもいかない。
「さぁ、おいで」
俺は、その子を自宅に招いた。
遠慮がちな手を引いて、両親の待つ台所へと入る。
「これが、先生のお父さんとお母さんだ。仲良くできるかな?」
父と母は、相変わらすテーブルに座っていて、じっと俺たちを見ている。
その視線に驚いたのか、子どもが後ずさった。
俺は離れようとしていくその手を、しっかりと握りしめる。
「大丈夫だよ、こう見えても、怖くはないんだ。君さえちゃんとしていれば、なにも言わないし、なにもしない」
俺は、彼に向かって微笑む。
「まぁ、緊張するのも無理はない。だけど慣れてしまえば、それほど悪いものでもないよ」
握りしめていた彼の手を離した。
「さぁ、お腹すいたね、晩ご飯にしよう。今日は君のリクエストのハンバーグだよ。手伝ってくれるかな?」
俺が流し台に立ち、キッチンの包丁を持ちあげる。
彼は素直に俺の横に並ぶと、手伝いを始めた。
「いただきまーす!」
作った四つのハンバーグ、つけあせのニンジンとホウレンソウの炒め物を、それぞれの皿に盛りつける。
お味噌汁と炊きたてのご飯も並んで、これ以上ない完璧な夕飯が出来た。
「みんなで食べると、うまいよな!」
俺がそう言うと、子どもはぎこちない笑顔を浮かべる。
「父さんと母さんも、あんまりこの子を困らせるなよ」
一応クギを刺しておく。
こうしておけば、少しは安心できるだろう。
「今日は学校でね、父母会の保護者の方が来校されていて、校庭の花壇の植え替えをしていたんだ。それでね……」
俺の雑談に、子どもも少しずつこの環境に順応し始める。
うん、やっぱりこの子は賢い子だ。
この家においておいても、大丈夫だろう。
久しぶりの楽しくにぎやかな食事を終え片付けを済ませると、彼は素直に俺の用意した部屋の布団に入り眠りにつく。
台所の両親にそっと目配せをしてから、俺も二階の自室に上がり、眠った。
子どもの登校時間には少し早いが、俺の出勤時間に合わせて、一緒に登校することに決めた。
この子に何かあっても大変だし、両親に任せっきりにするわけにもいかない。
この子を守るのは、俺自身だ。
校門をくぐった後は、別々に分かれる。
彼がいま俺と同居していることは、他のみんなには内緒にしておくよう約束したし、登校時間前に教室に入ることにも、校長の許可を取ってある。
俺はいつものように、誰もいない職員室へと入った。
パソコンを立ち上げ、今日のスケジュールを再確認する。
学校の資料は外に持ち出せないのがやっかいだ。
俺はいつものように、一覧表にまとめられた児童の行動評価記録を見直す。
これをしっかりつけておけば、問題のある保護者へのよい反論材料にもなるし、個人面談の時にも役に立つ。
学期末の評価もあっという間だ。
そもそも、子ども一人一人の特性をよく理解し把握しておくのも、本来教師としての大切な仕事のはずだ。
朝のホームルームまでの時間を使って、俺は今日の授業の準備を始める。
この学校でも教科担任制がとられているので、実にありがたい。
一つの科目をじっくり教えられるということは、教師のやりがいにも繋がる。
俺はUSBからデータを取り出した。
あらかじめ自分で作ってある副教材を使って臨機応変に対応していけば、どんな授業のどんなレベルにも全て対応出来る。
そのように俺が苦心の上あらかじめ作ってあるので、なんの問題もない。
子どもたちの登校時間が始まって、すぐのことだった。
職員室のドアがガラリと開いて、俺のクラスの子どもたちが数人、そこに立っていた。
「先生、ちょっといいですか」
朝のホームルームまでには、まだ時間が残されている。
俺はこのまま授業の準備を続けていたかったが、他の先生たちの視線を感じて、重い腰をあげた。
「どうした。なんの用だ?」
「ちょっと大事なお話があって、他の人に聞かれたくないんですけど」
何かと徒党を組みたがる女子のリーダー格と、それに説得された仲間の女の子たち、それと一部の男子だ。
その男の子の中には、先日あの子を殴った子も入っている。
子どもたちがそう言うので、俺は仕方なく生徒指導室の鍵を開けた。
狭い部屋に向かい合う古びたソファ。
座ったとたんに、子どもたちは口々に鬱憤を噴きだした。
真面目に聞くのも耐えがたいほどの、どうでもいい話しばかりだ。
鉛筆を隠されたとか、積み上げていたノートの順番をぐちゃぐちゃにされたとかだ。
体操服の入った袋がロッカーから落ちてくるのは、その子がわざとやっているのではなく自然現象だろ。
その全てが、俺の預かることになった子どもの悪口だ。
「先生は、誰かの悪口みたいなのをずっと聞かされるのは、好きじゃないな」
俺は子どもたちが確実に黙るセリフを、常に用意している。
しばらくの沈黙の後、女子の一人が口を開いた。
「先生、いまあの子と、一緒に住んでるんですか?」
「どうして?」
俺は不機嫌にしていた表情を和らげた。
「自分は先生のうちの子どもになったって、さっき言ってました」
ここにいる子どもたちの視線が、俺に集まる。
あれほど他の子には言ってはならないと、ちゃんと約束させたのに。
「たとえそうだとしても、先生は誰かを特別扱いにしたりはしない。先生にとっては、クラスの全員、一人一人が特別だからだ」
救いのチャイムがなった。
俺は立ち上がる。
「分かった。先生が何とかしよう。もう教室に戻りなさい」
愚痴を全て吐き出した子どもたちは、満足した様子で部屋を出て行く。
まぁこうやって、担任の先生にちゃんと話しを聞いてもらうことで、彼らが満足するのであれば、それでいいのかもしれないな。
この件に関する俺の役目は終わりだ。
指導室の鍵を閉め直して、俺は自分のクラスへと向かった。
その教室に入った俺は、なるほど彼らが言いあげに来るのも無理はないと納得した。
ひっくり返った机に散乱した教科書、恐れをなした他の子どもたちは、教室の隅で小さくなっている。
「おーい、ホームルームが始まるぞ。早く片付けろ」
「はい!」
さっきまで暴れ倒していたのか、ほんのり上気した頬で荒い息の子どもは、元気よく返事を返す。
「ほら、早くしないと授業が始まるぞ。みんなも見てないで手伝いなさい」
子どもたちは協力して、散らかった教室の片付けを始める。
俺は教卓で、今日配る予定の、日付を変えただけのプリントの端を整えた。
片付けを待っていると、『先生からのお話』をしている時間はないな。
「ほら、チャイムがなったじゃないか、急げ」
一時間目の始業開始時刻になれば、教科担任の他の先生がやってくる。
「じゃ、これ配っといて」
俺は目の前の子どもに、宿題プリントの束を渡した。
印刷したプリントは、朝イチで渡しておくに限る。
そうすれば、渡し忘れを防げるからちょうどいい。
俺は廊下に出ると、すぐに一時間目の教科担任のクラスに入った。
今日の授業で使うセリフは、全部頭に入っている。
それは俺がボイスレコーダーのように、どのクラスでも同じ内容で均一に授業を行えるよう心がけているからだ。
そうでなければ、子どもたちの公平な学力評価ができない。
宿題プリントやテストだけではなく、授業の内容も同じであるべきだ。
一言一句、というわけにはいかないが、とにかく学年が変わらない限り、一度の準備とその復習で俺自身が済むのだから、これは名案でもある。
働き方改革、教師はブラック職業なんて言われているが、そんなものは俺に言わせれば、低脳かつ非効率きわまりない連中の言い分けにすぎない。
やり方というのは、いくらでもある。
昼休みになった。俺は給食の時間は、職員室で食事を取ると決めている。
一般企業でも一時間の休憩時間は認められているんだ、教師にだって認められて当然だと思う。
他の先生から批判の目が絶えないが、そこは唯一、俺の譲れないところだ。
給食時間の終わりを知らせるチャイムが鳴る。
俺は今日も子どもたちとサッカーをするために、手を拭いて席を立った。
「先生! 先生のクラスだけ、まだ給食の食器が返ってきていません!」
白衣に白い帽子、長靴姿の調理員が、こんなことを叫ぶ。
俺に向かってそんなことを言われても、給食に関することはクラスの当番に任せている。
俺に言ってくるのは筋違いだ。
確かに子どもに全てを任せていれば、失敗も間違いもあるだろう。
だけど、それを温かく指摘し、子ども自身の力で訂正し、改善し、次につなげていくのが、本来あるべき大人の姿なのではないのか?
そんなことも理解しない人間に、イライラしながらも渋々自分のクラスに戻る。
教室の中を覗くと、いつもの男児二人がにらみ合っていた。
またコイツらか。
俺の姿を見つけると、すぐにそのうちの一人が駆け寄ってくる。
「先生! 俺は先生んちの子どもになったんだよね、そうなんだよね」
「それは秘密だと約束したはずだ」
俺は床に散乱した食器を拾い上げながら、小声でささやく。
「ちゃんと片付けないと、みんなとサッカーが出来ないじゃないか」
「俺もサッカーしていい?」
「もちろん」
その子どもが片付けを始めたので、俺は見ているだけの他の子どもたちに注意をする。
「みんなで協力して、ちゃんと片付けろ! まだ食べ終わってない人は、さっさと食べなさい。もう時間が過ぎてますよ!」
ほうきと雑巾を持ってこさせる。
この子といつも殴り合いの喧嘩をする男児が、まき散らしたみそ汁の具をほうきで集めながら、ちらりと俺を見上げた。
「なんですか? なにか言いたいことがあるなら、はっきりと先生に向かって、話してください」
子どもは慌てて目をそらす。
その様子を見て、腕っぷしは弱いくせに、口だけは達者なその子どもは、バカにしたように笑った。
「おまえが笑うな!」
彼はその言葉に舌打ちをする。
俺は正直、イライラしていた。
「時間までに、食器を給食室に戻しておけよ」
教室に背を向ける。
何があったのかは知らないが、これだけの大騒ぎをしていたんだ、隣のクラスの先生や生徒たちは、絶対に気がついていたはずだ。
なのになぜもっと早く、俺を職員室に呼びにこなかったんだろう。
先生方は俺が給食の時間は職員室にいることは知っているし、子どもたちだって、教室の中を覗いて俺を呼びに来ることくらいは出来たはずだ。
自分が困っているときには人に頼ってくるくせに、人が困っている時には知らんぷりなんだな。
本当に損な役回りだ。
おかげでサッカーが出来なくなってしまった。
もう次の教室に行かないと、授業に間に合わない。
俺は職員室に戻ると、残りの時間を授業の準備のために費やすことにした。
五時間目と六時間目も終わり、ホームルームの時間がやってきた。
この時間まで俺が呼び出されなかったということは、あれからクラスに何も問題が起こらなかったということだ。
今日はもう、これ以上のもめ事はやめてもらいたい。
次の十分間だけを過ごせば、本日の仕事もやっとお終いだ。
教室に入ると、やはり例の男児二人がとっくみあいの喧嘩をしていた。
今日は一日こんな調子なのか?
俺はもう、心底うんざりしてため息をつく。
こんな状態で、今日のこのクラスの授業を受け持った他の先生方は、どうやって授業進行したんだろう。
「やめなさい」
俺が引き留めに入ると、二人はすぐに離れた。
が、その瞬間、俺に預けられている子どもの方が、相手頬に自分の拳をぶつけた。
「だから、もういい加減にしろって」
俺は、殴ったその子の手を握ると、横に立たせる。
「ほら、帰りの時間だ。早く支度しなさい」
俺がその子どもと手を繋いでいる間、この子は動けない。
彼は何を勘違いしたのか分からないが、にこにことうれしそうにはしゃいでいる。
他の子どもたちは素直に片付けを始めて、すぐに全員が席についた。
その頃合いを見計らって、俺は手を離す。
「お前もさっさとしろ」
俺は教壇の上から『今日のお言葉』を述べる。
一日一日を大切に、精一杯過ごし、明日のための活力にしようという、ありがたいお言葉だ。
全員が席について、静かに、かつ誠実に、そんな俺の話に耳を傾けているのに、彼はランドセルのふたが閉まらないと、一人で騒いでいる。
「ではみなさん、お元気で。また明日、さようなら!」
とりあえずクラスを解散させて、他の子どもたちを家に帰す。
そうしておいてから、俺はその子どものところへ行かざるを得なかった。
「ねぇ先生、今日の晩ご飯はカレーがいい!」
まだ沢山の子どもたちが教室に残っているのに、大声でそんなことを言う。
「分かった。材料を買って帰るから、大人しく家で待ってろ」
「はーい!」
彼はうれしそうに手を振って、教室から飛び出して行く。
悪い子ではないのだ。
ただ、周囲にうまくなじめないだけ。
「先生」
振り返ると、教室に他の子どもたちが全員残っていて、俺を見下ろしていた。
「先生、やっぱりアイツをひいきしてるじゃないですか」
生意気な女の子が口にする。
「そんなことを、先生に向かって言うもんじゃありません」
俺は立ち上がる。
「先生は、この問題はクラスのみんなで解決するべき問題だと思っています」
これ以上、振り回されてたまるもんか。
「どうすればいいだろう。みんなで考えてみようか」
帰りのホームルームは終わっていたが、俺は机を円陣に組ませる。
「みんなで作った決まりを分かりやすく紙に書いて、貼っておけばいいと思います」
「それを忘れないように、毎日朝の会で読んだ方がいいと思います」
「止めるように注意する人を、決めればいいと思います」
「注意された人を表にして、分かりやすくすればいいと思います」
次々と建設的な意見が飛び出す。
なるほど、子供たちの意思は出来る限り尊重するのが教師の役目だと、俺は改めて実感した。
「じゃあ、誰がその役を最初にやるのか、決めなくちゃいけないな」
俺がそう言うと、子供たちは一斉に元気よく手を挙げる。
「最初は先生が決めよう。一番態度のいい子は誰かな?」
素直でかわいい俺の子供たちは、みんな真剣な表情で、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「じゃあ、背中が一番ピンとしていた子にしよう」
俺は、一人の子供の肩に手を置いた。いつも彼と喧嘩をして、殴る方の子どもの肩だ。
子どもたちは翌日、自分たちで作ったクラスのルールを、一覧表にして早速壁に貼りだした。
注意された数は、お当番が名簿にシールを貼っていく。
当番は一週間交替で、その順番も子どもたちが自主的に決めた。
「先生、なにこれ! こんなのダメだよ!」
俺と手を繋いで登校してきた子どもは叫ぶ。
「じゃあ多数決をとろう、賛成の人?」
子どもの顔が青ざめる。
反対者など、他にいるわけがない。
「俺、聞いてないし」
「今聞いただろ」
握りしめるその子どもの手から、俺は自分の手を引き抜く。
「これは先生が決めたことじゃない。クラスのみんなが自主的に話し合って決めたことだ。クラスの一員として、仲間として、どうすべきかは分かるよな」
俺は教壇に立った。
「さぁ、朝のホームルームを始めよう」
にこにこと満足気な、元気な子どもたちの顔が輝いている。
俺が面倒を見ている子どもに対し、いつも殴ることで対抗していた子どもが、『みんなのルールに反対した』という理由で、最初のシールを貼った。
明るい笑い声が教室に響く。
暴力を使わない手段で訴えるということを、学ぶことも大切だ。
このクラスの子どもたちが、どれだけ一方的に誰かを責めたとしても、やがて順番はめぐり、自分が評価される側になるということに、まだ気がついていない。
いや、もしかしたら、もうそれに気づいている子も、この中にはいるのかもしれないな。
子ども同士がお互いに切磋琢磨して、向上に努める姿は、とても美しい。
やがてこのクラスの混乱は収まり、俺はスムーズなクラス運営が可能になった。
子どもの成長を間近に見られることは、本当によろこばしい。
それから、二、三日が経ったころだ。
新聞の地方欄に、遺体発見の記事が載り、全国ニュースの後のローカルニュースで、殺された母親の、氏名と顔写真が公開された。
ついに怖れていた出来事が、来るべくしてやって来た。
小学生の子どもたちが、このニュースが実際にテレビで流れているのを、どれくらい見たのかは分からない。
この母親の子どもは、以前まで不登校気味であったのに、俺と暮らすようになってからは、きちんと登校し、教室の他の子どもたちとも、ようやく馴染み始めたタイミングだ。
どうしてこうも世の中というのは、真面目に生きようとする人間に対して、かくも厳しく接するのであろうか。
誰かがひそひそと、噂話を口にする。
ひとつ肩を動かすたびに、周囲の視線が鋭敏に反応する。
そんな環境下で、子どもの心がまともに育つわけがない。
「先生、ごめんなさい。学校に行きたくない」
「うん、分かったよ。じゃあおうちで、ちゃんとお留守番できるかな?」
子どもは素直にうなずいた。
仕方がない。
今の俺には、この子にしっかりと寄り添い、守ってやることだけしか出来ない。
俺には、そんな世間に立ち向かう術を、持ち合わせていない。
退屈しないように、ゲーム機と最新ソフトを買ってやる。
彼の望んだ漫画や書籍も、数十冊購入した。
遊んでばかりではダメだと約束をさせ、学校で配る予定の宿題プリントを、彼にも他の子どもたちと同じように印刷して渡しておく。
情けない。
と、思う。
俺に出来ることといえば、こんなことぐらいでしかない。
それが現実だ。
俺は彼を家に残して、いつものように学校へ出勤していく。
色々と買い与えてやったことも功を奏したのか、子どもはすっかり両親にも懐き、一緒にゲームをしようと、ゲームなんて生まれてこのかた、一度もやったこともない二人を誘っては、困らせていた。
「おいおい、あんまり無茶をするなよ」
「はーい」
確かに俺が守ってやるとは約束したが、この状況に甘んじて、楽しんでいるようにも見える子どもに、ため息がでる。
いや、違う。
そうではない。
表面上はそう見えるだけで、実際には彼の心が、今とても苦しんでいることに、間違いはないんだ。
そのうわべをとりつくろう健気さがかえって、俺の気を引き締める。
しっかりしなければ。
「登校はしなくていい。ちゃんと先生が守ってあげるからね」
子どもはゲーム機を手にしたままこちらを振り返り、一度うなずく。
俺は玄関の扉を閉め、鍵をかけた。
爽やかな朝の光と風が、さっと通り抜ける。
植えたばかりの若木が、さらさらと音を立てていた。
その声は、俺にもっとちゃんとやれ、しっかりしろと圧力をかけてくる。
握りしめた拳を、さらに強く握りしめた。
俺は外界へと足を踏み出す。
その日の夕方のニュースは、彼の父親が、容疑者として逮捕されたことを伝えていた。
それから数日が経った放課後の校長室、俺は再びそこに呼び出されていた。
「子どもさんの様子はいかがですか?」
前回と同じ刑事二人が、俺に尋ねる。
「えぇ、今のところは落ち着いています。登校は出来ていませんが、大人しく家にいて、うちの両親が面倒をみてくれています」
逮捕された父親には、以前からDVの傾向があり、事件発覚以降行方をくらましていたのが、昨夜警察によって確保されたらしい。
取り調べは、これから始まる。
「子どもさんの今後のことですが、亡くなった母親のご実家が、保護を申し出ていまして」
「分かりました。それとなく子どもには、説明しておきます」
「先生のご厚意には、感謝いたします」
刑事のうちの一人が、ちらりと俺を見上げた。
その視線に対し、俺は責任感に胸を張る。
今日の夕飯は、あの子の好きな唐揚げにしよう。
近所でおいしいと有名な、お肉屋さんの唐揚げを買って帰ろう。
それが俺の使命だ。
今夜も我が家では四人で食卓を囲み、全員がすっかり打ち解けた様子で食事が進む。
「先生、今日はね、先生のお母さんが、やっと中ボスのところまでいったんだ」
子どもの楽しそうに話す様子には、心が和む。
両親もきっと喜んでくれているにちがいない。
俺はそうかそうかと、彼の話に耳を傾けながら、刑事から言われた引き取りの話しを、どうやって切り出そうかと考えている。
ピンポーン、突然玄関の呼び鈴が鳴り、俺は慌ててインターホンに出た。
「はい、なんでしょうか?」
モニターの画面に写っていたのは、あの刑事たちだった。
「あぁ、突然来られても困ります。刑事さんがうちに来るなんて、子どもの気持ちも、少しは考えてください」
俺は台所を振り返った。
すっかり怯えきった子どもの、茶碗を持つ手が震えている。
ここで刑事と顔を合わせるわけにはいかない。
「子どもの引き取りに関する件は、こちらから話しをしておくと、お伝えしましたよね。突然尋ねてこられて、子どもを渡せと言われても、そんなことは出来ませんよ」
こちらの都合やタイミングも考えることなく、突然現れるだなんて、気が利かないにもほどがある。
「僕は教師です。一般市民の役目として、もちろん警察に協力する義務もあるし、そうしたいと思ってはいますが、それ以前に僕は教師なんですよ? 世間体よりも何よりも、守らなければならない、大切なものがあるんです」
子どもは手にしていた箸を放り投げ、彼の自室と化している部屋に駆け込んだ。
かわいそうに、頭まですっぽり布団にくるまって、あれで隠れているつもりだ。
「あなた方のそのような強硬な態度は、僕には全く理解できないし、賛同もいたしかねます。申し訳ありませんが、今日の所はお引き取りください。僕の方できちんと話し合って、ちゃんとしますから」
一方的に通話を切る。
こんなやり方は許せない。
俺のことはどうでもいい。
だけど、傷ついたこの子の気持ちはどうなる?
俺は掛け布団の上から、彼をぎゅっと抱きしめた。
刑事二人が執拗に玄関ベルをならし、大声を出してドアを叩いている。
あんなのは警察じゃない。
国家権力だとかなんだとかいう問題でもない。
それ以前に、人として、人間として、どうかしている。
刑事たちが騒ぐのは、中にいる俺たちに聞こえるよう、脅しをかけワザとやっているのだろうが、うちでかくまっているこの子の存在を、近所に知らせてしまったようなものだ。
何のために俺が保護していると思っているのか。
世間の下劣きわまりない好奇心から、彼を守るためじゃなかったのか?
俺の苛立ちが頂点に達する直前、彼らはあきらめたようだった。
静かになった瞬間、俺は立ち上がって、カーテンの隙間から立ち去る刑事二人の背中を確認する。
「もう大丈夫だ。あいつらは出て行ったよ」
俺は、盛り上がった布団の塊に向かって、しゃべっている。
「先生があいつらを追い払ったんだ」
気分が悪い。
今日はもうこれ以上何もする気が起きない。
テーブルの上に残された食器をそのままに、俺は二階に上がった。
それ以来、どうも俺の周辺を、刑事がつきまとっているような気がする。
俺が子どもを保護している以上、警護という意味もあるのかもしれないが、あまり気持ちのいいものではない。
相変わらず子どもは不登校のままだが、それでも俺が預かり始めてからの数日間は、元気よく一緒に登校していたんだ。
不登校の原因を作りだしたのは、警察の方だ。
俺までビクビクする必要はない。
堂々としていれば、それでいいんだ。
子どもたちはクラスのルールを決めてから、本当によく注意しあい、お互いに高め合って、研鑽に努めている。
周囲への配慮もかかさない。
俺が何も言わなくても、自分たちでちゃんと出来るようになった。
一部の保護者からクレームが入り、『注意をされた人』から、『いいことをした人』に変更になったが、それで何か変わるとでも思っているのだろうか。
子どもたちの、クラスでの雰囲気は何も変わらない。
みんないい子どもたちばかりだ。
俺は努めて冷静に、変わらぬ日常を心がけ、普段通りに過ごした。
決まった時間に起き、身支度をして家を出る。
信号無視もしなければ、横断歩道からはみ出ることもない。
列にはきちんと並び、順番も守るし、乗り物の席も譲る。
学校では何の滞りもなくクラスを運営し、業務を済ませて家に帰る。
事の詳細を知っているのは、校長、副校長、学年主任と俺だけだ。
学年主任のおばちゃんはビビっているのか、ことあるごとに俺の顔色をのぞき込む。
気にかけてくれるのはありがたいが、正直迷惑だ。
なぜそっと見守るということが、出来ないんだろう。
それが原因で、他の先生方にバレたら、どう責任をとるつもりだ。
そうでなくても、俺が殺された保護者の児童の担任だということは、暗黙で学校中に知れ渡っているというのに。
「先生、あの、手伝いましょうか?」
放課後、そのおばちゃん主任が、宿題プリントを印刷していた俺に話しかける。
旺盛な好奇心むき出しのその行為が、俺をさらに苛立たせる。
だけどここで腹を立てたら、俺の負けだ。
「あのね、先生にお客さまが来て、校長室でお待ちになっているそうですよ」
「あぁ、そうだったんですね、分かりました。いま行きます」
助かった。
「じゃあこのプリントを、子どもたちに配れるようにしておいてもらえますか」
大量の紙の束を、ドンと手渡す。
面倒な作業をこうやって押しつければ、これに懲りてまとわりつくこともなくなるだろう。
俺は校長室に向かった。
そこで待っていたのは、案の定、あの刑事たちだった。
「お疲れさまです」
二人は立ち上がって、丁寧に頭を下げるから、俺も儀礼的に頭を下げる。
校長と副校長に促されて、俺はソファに腰を下ろした。
「保護されているお子さまの様子はどうですか?」
「えぇ、元気にしていますよ」
これ以上、どんな返事の仕方があると言うのだろう。
もし他の言い方があるのならば、こっちがそれを教えてもらいたいくらいだ。
「申し訳ないのですが、先生にも少し、署の方でお伺いしたいことが出てきまして、ご同行願いたいのですが、よろしいでしょうか」
校長の顔を振り返る。
彼は黙ってうなずいた。
同じように副校長もうなずく。
俺は、背筋をピンと張った。
「分かりました。校長と副校長の許可があるのであれば、ご協力いたしましょう」
その言葉に、刑事二人はさっと立ち上がる。
それに促されるようにして、俺も立ち上がった。
「学校のことは、心配しなくて大丈夫ですよ」
校長の言葉に、虫酸が走る。
俺がどれだけ自分の担任クラスのために、労力をさいてきたと思っているのだろう。
その苦労が分かっていたら、そんなセリフは簡単に出てこない。
「よろしくお願いします」
俺はそれでも、丁寧に頭を下げる。
職員室に置かれたままの私物が少し気になったけれども、まぁいいや。
校舎の外に出ると、来客用の駐車場に、立派なセダンが停まっていた。
これが警察車両というやつか。
俺が後部座席に乗り込むと、若い方の刑事が隣に座った。
警察署の取り調べ室というところに、生まれて初めて入った。
テレビドラマと全く同じ作りだ。
俺は余計なものが何一つ置かれていない部屋に案内され、指示された椅子に座る。
「ドラマと一緒ですね」
そう言うと、俺とほぼ年齢の変わらないであろう刑事は、ふっと笑った。
「そうですね」
彼は手にしたファイルを、自分のために広げる。
ぱらぱらとページをめくって、そして手を止めた。
「保護した子どもさんの様子はどうですか? 彼は普段は、事件発覚前までは、どんな子でしたか?」
「特に変わったところはないですよ。ごく一般的な、普通の子どもでした」
「そうですか」
刑事は、にこっと微笑む。
彼の指先に挟まれていた分厚いファイルのページが、パタンと音をたてて倒れた。
「先に逮捕されている彼の父親が、奥さん殺害の容疑を否定しています。そしてそのアリバイが、証明されてしまいました。事件は、ほぼ振り出しといっても過言ではない状況です」
なるほど。
事件の解明が難航している。
それで俺が呼び出されたのか。
「先生は、殺された奥さんと、学校以外の現場での、接点がおありでしたよね」
「えぇ、家庭環境とか児童の生活態度について、個別に色々と相談を受けていました」
それは、俺が担任だったからだ。
「そこに、夫からの暴力も含まれていたんですよね」
「そうです」
彼女はとても困っていた。
だから相談にのった。
というか、個人面談に来て、彼女は子どもの事ではなく、自分の身の上話を延々と続けていた。
次の保護者が待っているのに、時間がおしておして、大変だった。
「その時の奥さんは、どんな様子でしたか?」
あれはいつの話しだっただろう、一ヶ月前?
いや、もう二ヶ月は過ぎたかな?
「彼女はとても、精神的に不安定になっていて、まともに話しが出来る状態ではありませんでした。それで僕は、よく学校に案内のきている、家庭相談室に相談しろと、アドバイスしたんです」
それを個人的な関係と呼ぶのなら、そうなのかもしれない。
「なるほど。そこはちょっと確認してみますね」
彼はそれをメモにとる。
俺は捜査に協力している。
「それで?」
『それで?』とは、どういう意味だろう。
俺は刑事を見上げた。
俺がわずかに首をかしげると、彼も同じように首をかしげ、目を合わせてくる。
それで黙っているから、どうしていいのか分からない。
「それで、感謝されました」
彼女はそれを受け取って、連絡してみると言っていた。
俺は自分なりに、出来ることはしてやったつもりだ。
「まぁ、学校の担任教師が、どこまで家庭の問題に踏み込んでいいのか、線引きが難しいところではありましたけどね、僕は僕なりに誠意をみせたつもりです。彼女はとても不安定になっていましたので」
夫からの暴力、子どもの不登校と貧困。
絵に描いたような不幸から、彼女は必死で逃れようとしていた。
「水商売をしていたことも、ご存じでしたよね」
「えぇ、生活費のため夫に言われて、でしたよね」
彼女はある晩、とても酔っ払った状態で、泣きわめく子どもと一緒に、俺の家にやってきた。
「その時はどうしたんですか?」
「その時は、深夜でもあったので、帰ってもらいました」
目の前の刑事は、俺の言葉をペンにとる。
こういう仕事も大変だな。
「素直に帰りましたか?」
「あぁ、まぁ、大変でしたよ」
「あなたに好意があった、と、思いますか?」
「あぁ、まぁ……、分かりません。でも、僕には一切、そんな気はありませんでしたよ」
あんな自堕落な生活に溺れた女なんて、俺の相手として、ふさわしくない。
「浮気はない?」
その刑事は、ふっと笑って、そう言った。
「ありません」
あるわけない。
刑事は笑いながらメモをとる。
冗談で言ったのか?
それとも警察として、一度は聞かなければいけない質問だったのかは、分からない。
だけど俺は、あんな女は好みじゃない。
俺は、玄関を開けるつもりなんて、全くなかったんだ。
そもそも学校の敷地外での、児童及びその保護者とのつきあいなんて、積極的にやりたいと思っている教師が、どれほどいるというんだろう。
「深夜に尋ねてこられて、その時に、どう思いましたか?」
「どうって言われても……」
俺は言葉を濁す。
迷惑以外の何物でもないだろ。
大人の会話を子どもに聞かせるものじゃない。
俺は、彼女の連れてきた子どもを外に残し、女を一人、部屋に招き入れた。
「迷惑でしたけど、話し合いをすることになりました。彼女はしばらくして、子どもと一緒に帰っていきました」
問題はなにもない。
俺には。
ただあの女が、どうしようもなく頭が悪く、融通も利かなければ常識もない、バカだっただけだ。
「その後、で、何か関係は変わりましたか?」
俺は俺の目の前の、俺と変わらない男の顔を見つめる。
その後で?
その後での出来事が、何だというのだろう。
「申し訳ありませんけど、僕も一人の人間で、しかも教師という仕事をしていますので、どうしても譲れない部分があるんです。あなただってそうでしょう?」
俺に、間違いや失敗があってはならない。
もちろん誰だって間違うし、迷う。
だけどそれを正して、よりよき道へと導くのが、俺の役目だ。
間違っていい、迷ってもいい。
だけどそれは、きちんと修正されなければならない。
そんな俺がどうして、間違いを犯すなどということが、ありえるのだろうか。
「刑事さんや警察官なら、俺の気持ちと通じるところが、あると思いますけど」
だから俺は、人生に迷い込んだ彼女のために助言をしたし、助けてやった。
教師として、いや、それ以前に人として、困っている人を見放しておけるだろうか。
話しも聞いてやったし、専門の支援施設も紹介した。
教えてあげると言ったのに、俺の言うことを聞こうとしなかったのは、あのバカ女の方だ。
「死亡推定時刻は、ちょうど一週間前の、この時刻あたりですね」
「あぁ、そうですか」
「そうです」
長い沈黙が続く。
外からの光が、斜めに窓を通してやってくる。
夕方の、遅い時間だ。
時計の秒針だけが、音も立てずに回っている。
ふいに男は、ファイルから一枚の写真を撮りだした。
汚く変色した女の遺体写真だ。
それがどうした。
間違いは、修正されるべきだ。
「彼女の真の幸せや救いは、どこにあったんでしょうかね」
「自殺幇助を主張するには、傷跡に無理がありますよ」
「俺はそんなことを言っているんじゃありませんよ」
話しの分からない奴だ。
俺はいつもこういう連中に、イライラさせられる。
「もっと本質的な話しをしているんですけどね」
これだから警察官は、信用ならないんだ。
自分の検挙率を上げることに夢中で、本当に事件と向き合おうとしない。
何が原因でこういう事件が起こったのか、どうして彼女のような人間が生まれたのか。
そういったことを究明していかなければ、根本的な解決など、永遠にみないのに。
そもそも、なぜ警察や関係機関は、犯罪者の経歴を発表しないのだろう。
別に俺は、個人を特定して糾弾したいと思っているんじゃない。
凶悪犯罪者の生い立ちにどのような傾向があるのか、生活環境の共通点は?
事件を起こすきっかけとなるような動機を、もっと科学的に分析し、それを世間一般に公表すべきだ。
それは差別に繋がるなんて、そんなことじゃない。
冷静に分析し、観察することで事件を未然に防ぐ。
もっとマクロな視点で語っているのだ。
そして犯罪予備軍に、事前に支援の手を差し伸べる。
それが公共の利益というものだろう。
それが分からない奴らが多すぎる。
AIの活用や、ビッグデータなんて言ってるわりには、どうしてそういう所に活用しようとしないのだろう。
それはもう、行政の怠慢としかいいようがない。
大人になってからでは遅い。
子どもの頃から適切な環境下で、正しい知識をもった人間が教育していくことが、俺はこの国の将来のためだと思う。
さらには、この警官の言動にもみられるように、現代における国語読解力の低下は、本当に目に余る。
まともに会話が成立していないじゃないか。
俺の話を理解出来ていない。
理系科目ばかりがもてはやされて、文系科目がなおざりにされてきた結果だ。
俺はそんな世間の風潮に対して、本気で異議を唱えたい。
「彼女は俺に助けを求めた。だから俺はそれに応えた。そこに問題がありますか?」
部屋の扉をノックする音が聞こえる。
もう一人の職員らしき男が入ってきて、目の前の男に何かを渡した。
彼はため息をつく。
「先生、もう一つ、大切なことを忘れていませんか?」
「なにがです?」
財布も携帯も、職員室に置いてきた。
それを『忘れ物』とは言わない。
「あなたのご両親は、いまどちらにいらっしゃいます?」
ほらきた。
そうやってすぐに話しをそらす。
彼は俺がした前の質問に答えていない。
それはまさに、この事件の本質を捉えた問題だからだ。
その問いに対する答えを、彼には答えられない。
答える意思もなければ、そんな考察をしたこともないような人間だからだ。
話しにならない。
「うちで療養中です。体が悪いので」
俺の両親は立派だ。
素敵な夫婦だ。
二人とも教師で、俺は彼らを尊敬しているからこそ、同じ教師になった。
父も母も、働きながら苦労して俺を育ててくれた。
親の愛情は絶対であり、俺はそれを全て受け取って大きくなった。
それの何が悪い?
彼らの注いでくれた愛情のおかげで、今の俺がある。
そんな両親を、どうして裏切ることが出来るだろう。
俺はちゃんとした、まともな家庭に生まれ、そこで育ち、正直で、誠実な、しっかりとした、立派な大人になった。
今の俺があるのは、両親のおかげだ。
これほど分かりやすく、公明正大な事実が、他のどこにある?
「申し訳ないのですが、令状をとって、先生のご不在中、児相と一緒に家宅捜索に入らせていただきました。先生のお預かりしている子どもさんが、素直に鍵をあけて、我々を中に通してくれましたよ」
あの子はそういう子だ。俺は拳を握りしめる。
「とてもいい子でしょう?」
俺の担当するクラスの子どもたちは、みんな素直でいい子たちばかりだ。
誰一人として問題を抱えたような子はいないし、もしクラスで何かが起きても、全員で一致団結して助け合い、協力ができる。
一人一人が明るく元気で、真っ直ぐに育ち、個性を生き生きと伸ばせる、俺の素晴らしいクラスなんだ。
「えぇ、本当に」
男は渡されたばかりのメモのような紙切れを、ずっと気にしている。
そんなに気になるような内容が書いてあるのだろうか。
だけど今は俺と話しているはずなのに、これは随分と失礼な態度ではないだろうか。
「先ほどから、何をごらんになっているのですか?」
「家宅捜索で見つけたものの、簡単なメモです」
彼はそれを、俺に見せようかどうしようか、迷っているのだろう。
だけど、自分の家の中の様子なんて、俺が一番よく知っている。
台所に座る両親の姿を写した写真が、ちらりと見えた。
父さんは、静かに眠っている。
母さんも今は、穏やかに眠っている。
俺はただ、自分の大切なものを守りたかっただけなんだ。
「家族とは、毎日楽しい食卓を囲んでいました」
「そうですか」
男は開いていたファイルを閉じると、まっすぐに俺を見つめた。
「先生ご自身は、なにがいけなかったとお思いですか?」
その眼はとても真っ直ぐで、純粋に俺自身だけを、見ていたような気がしたんだ。
他に何もついていない、本当の、ただの俺だけを。
「そうですね、もし自分に非があるとしたら……。最後まで、自分の正義を貫けなかったことですかね」
「先生のご両親は、今どこに?」
「庭の木の下に埋まっています」
男は俺に手錠をかけた。
黒光りするその冷たい感触が、妙に気持ちよく感じた。
「ふと疑問に思ったことを、聞いてもいいですか?」
「なんでしょう」
「どうしてアカシアとミモザなんですか? 両方とも、呼び名が違うだけで同じ木なのに」
それは俺が間違えているんじゃないかと、バカにしているのか?
それは俺が悪いのか?
それが俺のせいだとでも、言いたいのか?
頭にカッと血が上る。俺が悪いんじゃない。
俺に非なんて、あるわけがない。
繋がれた両手で机を叩きつけ、椅子をひっくり返す。
慌てた警官と刑事が、俺の体を押さえつけた。
僕が先生の家でゲームをしていたら、玄関のチャイムがなった。
警察の人と、児童相談所とかいう所の人が来て、ドアを開けろというから、開けてあげた。
先生は学校に行っていて、いなかった。
沢山の人が入ってきて、家中の写真を撮っていた。
特に台所に座ったままの、先生のお父さんとお母さんの写真を、一番よく撮っていた。
「この人形はなにか知ってる?」
「先生の、お父さんとお母さんなんだって」
そう聞かれたから、教わった通りに答えた。
僕はずっと、その動かない、しゃべらない、じっと見守ってくれるだけの、先生の両親が好きだった。
かかしみたいな先生の両親は、先生が食事を食べさせた時にこぼした染みで、ずいぶんと汚れていた。
制服を着た人たちが、気味悪そうに先生の両親の体をつついている。
先生のお父さんとお母さんが、ちょっとかわいそうだ。
「これが本当にそうなのか?」
そう聞かれて今度は僕は、庭にある葉を全部落としてしまった、枯れかけの二本の若木を指差す。
「あの木の下に、先生が自分のお父さんとお母さんを埋めてるのを見たって、うちのお母さんが言ってました」
それから僕は、よく分からないところに連れて行かれ、色々と質問をされた。
それが終わると、おばあちゃんが来て、僕を連れて行った。
僕は先生の家の方がいいって言ったけど、それは許してもらえなかった。
おばあちゃんの事は嫌いだ。
無理矢理連れて来られて、苗字まで変えられた。
まぁそれに関しては、前の名前も今の名前も、どっちも好きじゃないから、それはどうでもよかったんだけど、転校はしたくなかったな。
先生のことは忘れろと言われたけど、どうして今までの僕の人生の中で、一番楽しかった先生のうちでの出来事を、忘れなくちゃいけないんだろう。
先生は僕を助けてくれた、いい先生だった。
学校でも僕をかばってくれていた。
転校した小学校でも、その先の中学でも、高校でも、あの時の先生よりいい先生に出会ったことはない。
いま僕がこうして普通に生活をして、大学に通えているのも、全部あの先生のおかげだ。
先生は約束を守った。
僕は先生みたいな先生になりたい。
【完】