ふうわり、桜の香り ~フジ子さんの話7~
夜道をひとり、歩いていた。
あてもなく、てくてくと。
ふと目の前に現れた、「桜坂」と書かれた標識。
足が吸い寄せられるようにして、そちらの方へ向かった。
微かに漂ってくる、桜の香り。
和菓子に使われているような人工のものとは違い、気のせいかな?と何度も確かめなければわからないほどひそかな、でも確実に咲き誇る桜の香りが、そこに自らの存在を主張していた。
街灯にぼうっと照らされた先の角を曲がる。
さっきより色濃く漂う香りとともに、満開の桜がわたしを迎えてくれた。
うわあ。思わず声が出る。
ひとがまばらにしか歩いていないそこは、まるで今夜わたしだけのために用意された、贅沢な舞台のようで。
手に持っていた壊れかけのタブレットでは到底収めきれない、宵闇に浮かびあがるたくさんの桜たち。
一眼レフを片手に良いアングルを探す仲睦まじいカップルを横目に、わたしはひとり静かに心のシャッターを無数に切った。
フジ子さん、桜が咲いたね。
この香り、届いていますように。
いつもタバコの薫りに包まれたフジ子さんの笑顔を思い出しながら、あたりに漂う桜の香りを胸いっぱい吸い込んだ。
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フジ子さんと出逢ってしばらくして、新しいおうちにも少し慣れてきた頃。
彼女と買い物に出かけた帰り、初めて通る道の脇に小さな公園を見つけた。
それはどこでもあるような、近所のひとたちが集う町の片隅にある公園で、そこには少しばかりの桜の木があった。
チラホラと見えるまだ固いつぼみを見あげながら、「フジ子さん、ここの桜が咲いたらお花見に来ません?」と声をかけたわたしに、フジ子さんは吐き捨てるように言った。
「なんでこんなしょぼいとこの桜、見に来なあかんの!こんなとこ嫌やわ。」
そうか、華やかに暮らしていたフジ子さんなら、お花見は毎年豪華に行っていたのかもしれないな。たくさんのひとに囲まれて、食べきれないほどのご馳走を持って、彼女にふさわしい素敵な場所で。
きっとそうだ。
美しい桜を見ると、思い出したくないものまで思い出してしまう。
彼女には、桜の花になにか思い入れがあるのかもしれない。
そんな風になんとなく、フジ子さんの気持ちを推し量ることしかできないけれど、だけどわたしはとにかく桜が大好きなのだ。
「そう?わたしはフジ子さんとお花見したいけどなぁ。」
自分の気持ちを隠さず素直に伝えた。
わたしとフジ子さんの日々は、病院へ出かけて薬をもらって、スーパーへ立ち寄り生活に必要なものを買う、その繰り返しだ。
わたしがいられる時間は決められているし、その範囲内でできることを探すしかない。いつも、フジ子さんになにをしてほしいかを聞き、できる限りそれに応える、それだけがわたしの最適解。
だからこちらからなにかを提案したり、ましてわたしがこれをしたいなんて言える立場にはない。
それでも、わたしは利用者さん、ではなくひととしてフジ子さんが大好きになってしまっていたし、遠慮なんかしないでわたしの好き、を伝えたくなっていた。
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ある日、いつものスーパーへ出かけたら、和菓子コーナーで桜餅を見かけた。
「フジ子さん、和菓子とかいらん?桜餅が出てるで。」
そう声をかけると彼女はにべもなく言った。
「あのな、こんなとこの桜餅なんてどんなもんか、食べんでもわかる。あたしはいっつもおんなじとこでしか買わへんねん。でももうあの店ももうないやろなぁ。」
そう言って遠くを見つめた彼女の脳裏には、どんな風景が広がっていたのだろう。
できればその店を教えてもらいたかったけど、とりつくしまもない堅い表情に、わたしはただ黙って彼女の横顔を見つめるほかなかった。
翌週、彼女のお気に入りのお店にかなうとは思えないが、わたしなりに美味しいと思っているとある和菓子屋さんの包みを手に、フジ子さんの家を訪れた。
「フジ子さん、今日はちょっとだけお菓子持ってきたよ。良かったら食べてみて。」
体調に波がありすぎるフジ子さんは、いつ食欲が湧くかなんて全然読めない。
無駄になってもいいからなにか口に入れてほしい、そういう思いでわたしたちはいつも食べるものを用意し、他の家事を終わらせて家をあとにする。
小さめの桜餅と、おはぎをひとつずつ。
できることならお茶でも淹れて、たわいないことを一緒に話しながら食べたいけれど、それはたいていかなわない。
あとで気が向いて、せめてひとくち食べてくれたら。
そしてその時にフジ子さんの佳き日々が想い出されることを願いながら、わたしはそっと包みをほどいた。
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次に訪れた時、フジ子さんはとても喜んでくれていた。
「あのおはぎ、ありがとうなー!懐かしかったわぁ。昔あそこのお菓子、ひとにもらってよう食べとったわ!上品な甘みで、ほんまおいしいなぁ。あれやったら食べれそうやから、もし行けたらまた買うてきてな!」
ご機嫌が良いらしく彼女は饒舌だったが、桜餅のことはひとことも言わなかった。
わたしは黙ってうなずいた。
それからしばらくして出かけた時、例の公園の近くを通ることになり、足早に通り過ぎようとしたわたしにフジ子さんがぽつりと言った。
「あそこの桜なぁ、そろそろ咲いたかなぁ。」
「どうかなぁ。そろそろ咲いてるかもしれんねぇ。ちょっと通ってみる?」
そう言ったわたしに、フジ子さんは静かに首を振った。
「いや、ええわ。一回見たら、次は満開やろか、もう散ったやろかって気になるからな。最後の桜やとか思いたくないしな。」
そうか。そうだよな。
彼女は来年の桜を見ることができないと、もう知ってしまっているんだ。
だからこそ、見たくなかったんだ。
そんなことにも気づけない、健康な、わたし。
桜が好きだとか呑気に言ってしまえる、ちっとも思慮深くない、わたし。
たくさんのことが、頭の中をうずまいた。
「ほんでもな、あんたの買うてきてくれた桜餅は嘘くさい匂いがせんと、なかなかええ味やったな。」
フジ子さんはそう言って、ニッカリ笑った。
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今年、すでにもう何度か、わたしは桜餅を味わうことができた。
自分で買ったり、ひとからいただいたり。
フジ子さんにまあまあの評価をもらえた、あのお店の桜餅も。
香料の効いた独特の香りを嗅ぐと、あの日のフジ子さんの顔が頭をよぎる。
フジ子さん、桜の香り、わたし好きやねん。
うそもんやない、本物のお花だけのええ香り。
微かな香りの小さなお花たちが、寄せ集まって満開になった時にだけ感じられる、あの桜のふうわりとした優しい香り。
せやけど。
うそもんでも、ええやんか。
あの香りを再現したいと願うひとの気持ち。
その目で見ることがかなわないひとにも、春を届けたいと願ったひとの気持ち。
この世界は、たくさんのひとが寄せ集まって生きている。
小さな花弁のひとつひとつに、それぞれの気持ちがあって、それぞれの物語がある。
たとえその物語が語り継がれることがなくても、生きてきた証を残せなくても、花たちはただ咲いて、散ってゆく。
万にひとつの花。
散ってなお、その姿を残す花びら。
そこに在りし日を、想うひともいる。
川は流れ、花は散り、すべては流れ流れて、大地に還る。
花々を眺めて美しいと感じる心。
今このときにしか、感じることができない香り。
生まれゆく新たな息吹。
生と死と。
花を眺めながら、たくさんのことを考え出すと、いろんなことがわからなくなって、わたしのなかでぐるぐる回る。
ただ、確かなこと。
わたしは生きている。
いまを、生きている。
明日なんて誰にもわからない。
いま、の積み重ねのその先に、明日がある。
フジ子さん、わたしは、やっぱりいま、咲き誇る桜を見たいよ。
たとえそれが、最期の桜になるとしても。
この香り、あなたに届け。
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