おかえり ~はじまりの文月~
詩織は、なんだか犬みたいだね。
好きな人にそう言われたことがある。
眠っていても少しの物音ですぐ目を開けてしまうから、らしい。
初めて男の人の部屋で眠った日、首の下に回された腕になんだか落ち着かなくて、夜中に何度も目が覚めた。熟睡している彼の吐息に、寝返りを打つかすかな振動に、自分以外の存在を認識して脳が休眠しきれない。
わたしは、独りでいることに慣れすぎていた。
誰かと寄り添って安心して眠る、ということができなかった。
陽太と出逢うまでは。
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陽太は、信じられないくらい優しい人だ。
それは決してわたしに対してだけではない。
街ですれ違っただけのベビーカーを押しているママさんとか、近所のコンビニに新しく入ったばかりの外国人の店員さんとか、とにかく誰と接する時でも他人のことなのにパッと気がついて、絶妙なさりげなさでさらりと手助けができてしまう。
押しつけがましくない優しさがいつだって身体中からじんわりと染み出しているような、本当に育ちのいい男の子という感じなのだ。
陽太がわたしなんかと一緒にいてくれるのは、奇跡みたいだといつも思う。
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「おーい、詩織ー!こっちこっち!ほら、ここ空いてるよ。」
厚手のブランケットを広げて遠くから呼んでいる陽太。
スポーツ観戦なんてはじめてで、不器用なのが一目でわかる不格好なお弁当を持ってくるのが精一杯だったわたしを、さりげなく少し日陰になる方に座らせ、どこからか取り出したボトルからカップにあったかい紅茶を注いでくれる彼が、まるで手品師みたいに見えた。
「今日はお出かけ日和だなー!ビールが飲みたくなっちゃうな。」
そう言って大きくのびをした彼の向こう側、高い空に刷毛で描いたような飛行機雲がキラリと光った。
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陽太と出逢ったのは、嘘みたいな話だがこの小さな街の図書館の片隅、だった。
本が友達、とか言ったらいまどき引かれるだろうけれど、本当にそう言っても過言ではないほど友人の少ないわたしが、休日に向かうのはこの街にひとつしかない図書館と夕方に少しだけ賑わう駅前の小さなスーパーくらい。
昼間に外を歩くのは眩しすぎて苦手だ。
夏でも長袖のシャツを羽織って、帽子を深めにかぶって、できるだけ日陰を選んで歩くわたしは、はたから見たらやっぱりなんだか暗そうで得体の知れない人、に見えるのだろう。
会社と家との往復を繰り返すだけの毎日。
休みの日には図書館で好きなだけ本を読み、帰り道少し重くなった自転車の前カゴにチェックのマイバッグを載せる。中身はさっきスーパーで割引シールがついた中から適当に選んだいくつかのお惣菜のパックと、切らしかけの台所用洗剤とピーナツチョコレート。
うちに帰って、お湯を沸かしミルクティーを淹れる。
その頃のわたしは、ピーナツチョコレートとお気に入りの本と、ミルクティーがあればそれだけで満足だった。
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「あの、そのモダンリビング、読み終わったら貸してもらえませんか?」
おもてのうだるような暑さと対照的に、少し冷えすぎの図書館の中は、平日の午後だというのに思ったより人が多い。
固い木のベンチに腰掛けてファッション誌をめくっていたわたしは、突然斜め上のほうから降ってきた声に驚いた。
「え?モダン…リビング?」
笑顔でわたしの方を見つめる彼の目線の先には、さっき雑誌コーナーから目に付いたものをぱっと深く考えずに取ってきた数冊の束があった。
重ねられた雑誌の一番上に、見事な夕景をバックにした建物のわきにMLと大きく書かれた表紙の一冊が目に入った。
「ああ、これ、モダンリビングって言うんですね。写真を見て綺麗だなぁって手に取っただけなので、本の名前は知らなくて…。もう読み終わったので、どうぞ。」
わたしはそれをさっと彼に差し出した。
「ありがとう!これ、ずっと探してたんです!いやー、こんなところにいたんだな。やっと、見つけた!」
ドキッとした。
ひとめぼれ、だったのかもしれない。
笑顔がまっすぐな、まるで向日葵みたいな、人だと思った。
一瞬。ほんの一瞬だけ、そのセリフを自分に言われたような気がして、そんなわけないのに、バカじゃないかって自分で自分を全否定して、ひとりで心の中が真っ赤になって僅かにうつむいたわたしに、彼が言った。
「しおりさん、っていい名前ですね。なんだか生まれた時から本と友達、って感じの名前ですよね。」
「えっ?なんで?私の名前…。」
「いや、だってほら、そこ。」
笑って彼が指差した先、借りようと無造作に積んであった本のてっぺんにわたしの図書館カードが、いた。
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「詩織は無防備だからなぁ。心配なんだ。」
そう言って、陽太はちょっとした買い物にもいちいちついてくる。
「大丈夫だって。すぐそこのコンビニに行くだけだよ。」
そう言って笑うわたしは、半年前とは別の人みたいだ。
日差しが眩しくてつい目を閉じてしまいそうになるけど、陽太と手をつないで歩く日なたはあったかくて、吐く息の白さもあんまり気にならない。
「あー、さみー!おでん食べない?おでん。詩織はなにが好き?俺はやっぱり大根とこんにゃくと、たまごだなぁ。」
ニコニコしながら陽太はもう、大きい方の容器とおたまを手に取っている。
「え?本当に買うの?えっと…わたしは、大根と、ごぼ天と、あとしらたきかな…。」
陽太はわたしの希望のものをサクサクとおでん鍋から掬い出し、上からおだしをたっぷり注いでレジに持って行った。
「お兄さん、からし、もひとつおまけしてよ!俺多めに付けたいんだ!」
陽太が大きな声でそう言うと、レジにいるいつもちょっと片言で話す顔なじみの店員さんが、おでんの入ったビニール袋にからしの小袋をぱさりと余分に落とし、ニコッと笑ってウインクした。
彼はいつでもどこでも、すぐに誰とでも仲良くなれる。
私とはまるで正反対だ。
汁をこぼさないようにゆっくり歩いて帰ってきたわたしの部屋で、ふたりで一緒におでんとおにぎりを食べた。
「詩織、特製うどん作ってやるよ。このたまごの黄身がちょっと溶けたおでんの汁にうどん入れて食うと最高なんだ!」そう言って彼はキッチンに冷凍うどんを取りに行った。
「おでんのたまごは、うちの母さんのがやっぱ一番うまいんだよなぁ。」
ガスの火を付けながら陽太がひとりごとみたいに呟いた。
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ーつづくー
☆INSPIRED BY☆
『Life's like a love song』 yaiko
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☆後編☆
サポートというかたちの愛が嬉しいです。素直に受け取って、大切なひとや届けたい気持ちのために、循環させてもらいますね。読んでくださったあなたに、幸ありますよう。