真っ赤な薔薇を一輪、あなたのために ~フジ子さんの話5~
フジ子さん、あなたと最後に逢ったのは、一年前の今日だったね。
あなたはもうなにも食べられず、水すら飲むのもしんどいと聞いていた私は、病室になにを持って行くか悩んだ末、小さなポットに挿しておくとオイルを吸い込んで、徐々に花が咲いたようにひらくという、フラワーディフューザーなるものを選んだ。
あれがひらいたところ、見てくれたのかな。フジ子さん。
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まだ彼女が自分の家で暮らしていて少しは元気だった頃。そこを訪ねるのが仕事だった私は、本当はよろしくないのであろうちょっとした差し入れをこっそり持っていったものだ。
娘用に買ったヤクルトの中から一本だけ、とか、うちが農家さんから分けてもらっている平飼いの美味しい卵をふたつ、とか。
そんなささやかなおすそ分けを、フジ子さんはとても喜んでくれた。
「こんなん、ちょっとだけ売ってへんもんやし、ほんまに嬉しいわぁ。いっつもありがとうなぁ。」
フジ子さんは本当に嬉しそうにニコニコしながら、その骨ばった手で力強く私の手を握る。やせ細った指は抗ガン剤を飲み始めてからというもの、爪から指先までもが一気に黒ずんでしまって、人一倍お洒落なフジ子さんはいつもそのことを気にしていた。
「昔はな、行きつけの美容院へ行ったら、髪の毛担当とネイル担当とで3人ついてな、全部いっぺんにやってもらっとったんやで。だって時間がもったいないやろ。毎日きちんとセットせなあかんからなぁ。」
その頃の写真も何度も見せてもらった。若さと自信にあふれたフジ子さんは本当に美しく凛としていて、こんなひとに会えるならついついお店に通ってしまうだろうなぁと思わせる、優雅な雰囲気を漂わせていた。
きっとその頃から変わらないであろう、何事にも率直で裏表のないフジ子さんは、なにかしてあげた時の反応がとびきり可愛らしくて、このひとにはできるだけのことをしてあげたいと思わせるような、不思議な魅力に満ちあふれていた。
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フジ子さんと過ごしはじめて数ヶ月がたった頃、ふとした会話からもうすぐ彼女の誕生日だということがわかった。還暦を迎えるというフジ子さんのために、私は花屋さんでソープフラワーという石鹸でできた薔薇の花を一輪、選んだ。
以前に住んでいた家より狭く、殺風景な部屋をいつも嘆いていたフジ子さんの気持ちが少しでも晴れればいい、そんな気持ちで、生花ではなく長く飾って楽しめるようなものにしたかった。
お店にはピンクと赤の2色のソープフラワーが並んでいて、悩んだ挙げ句、私はフジ子さんに似合いそうなピンクの薔薇を選んだ。
誕生日当日、ピンクの薔薇の包みを手渡しながら何の気なしにそのことを話すと、フジ子さんは本当にがっかりした顔をして「あたし赤の薔薇が良かったわぁ。還暦祝いはやっぱり赤やないとなぁ。」と哀しそうにつぶやいた。
慌てて私が「じゃあ、お誕生日遅れちゃうけど、お店の人に聞いてみて、できたら赤の薔薇に変えてもらってこよか?」と言うと、一瞬でぱあっと明るい顔になって「ええのん?ほんまに?そうしてくれたらほんっまに嬉しいわぁ♡」と少女のように喜んだ。
そんなフジ子さんを見て、私はこのひとはすごいなぁと心から尊敬した。
普通なら、もらったプレゼントを別のと交換してきてほしいなんて、気を遣ってなかなか言い出せないものだと思う。
少なくともその時の私にはとてもできそうにないことに思えた。それを、こんな風にナチュラルに素直な気持ちを伝えられて、相手を一切不快にさせることがないフジ子さんという女性は、なんて可愛らしいひとなんだろう。
数日後、無事に交換してもらえた赤い薔薇の箱を持ってフジ子さんのところを訪ねると、派手に両手を叩いて大喜びしたあと、居間にある大事にしているカップボードの一番上の段にすぐに飾って欲しいとお願いされた。
それから毎日というもの、フジ子さんはしょっちゅうガラス扉の中の赤い薔薇を見ていた。本当に毎日、毎日、飽きもせず。
あのカップボードに飾られた赤い薔薇は、フジ子さんに残されたわずかな美意識の最後の砦だったのかもしれない。
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それから私が家を訪れるたびに「嬉しいわぁ。還暦のお祝いくれたんな、あんただけやねん。還暦は誰かに赤いもんをもらわんとあかんって言うからなぁ。ほんまにあんたのおかげや。ありがとうなぁ。」と同じセリフを何度も何度も繰り返した。
フジ子さんには若い息子が二人いるのだが、どちらも仕事がとても忙しく、しかも家族を持ったばかりで連絡もままならないという。話を聞くかぎり、誕生日祝いなんてしてもらえるような関係性ではまったくなさそうだった。
その頃フジ子さんの家にはたくさんの人が出入りしていたけれど、みんなそれぞれが仕事として役割をもってそこを訪れているだけなのだ。フジ子さんはいつも私たちに向かって「仕事やなくて友達として来てくれたらええのになぁ。そしたら時間なんて気にせず、ずーっとおれるやろ?」と切ない顔でつぶやくのだった。
そんな哀しい現実をどうにかすることは誰にもできず、フジ子さんはそれでも毎日気力を振り絞って病と闘っていた。
それなのに、ずっと最後まで家にいたいというフジ子さんの切実な願いは叶わず、とうとう前もって決まっていた病院へ入院することになってしまった。そこへ行ってしまったら、恐らくもうあの家に帰ることはないだろう。これまでフジ子さんに関わってきたすべての人と、誰よりも本人がそれを一番強く、感じていたのだと思う。
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あの夏の日、私は駅から病院までの登り坂を、焦げ付くような日差しを背に受けながら歩いていた。
久しぶりに顔を合わせたフジ子さんは「あたしが寝てる間に帰ったら嫌やで。ここにずっとおってほしいねん。お願いやから帰らんといてな。」と私の手をぎゅっと握って離さなかった。
フジ子さんが起きている間はもちろんのこと、まもなく彼女が寝てしまってからも、自分に与えられた時間よりもかなり長いあいだ、私はその部屋にいた。
病院のスタッフに許可をもらって、部屋の中の高めの棚に据え付けられた小さな冷蔵庫の上に、持ってきたフラワーディフューザーを飾った。ベッドに横たわったフジ子さんからは、これが見えるだろうか。
白く閉じたままのこのつぼみが、早く色づいてひらけばいいのに。
早く、どうか早く。
そればかり思っていた。
やるべきことをすべて終わらせてしまった私は、しばらく所在なげに部屋の中をウロウロしていたが、肉親でもなんでもない立場としては、さすがにいつまでもいるわけにはいかなかった。
なるべく側にいたくてベッドの脇の丸椅子に静かに座っていた私は、仕方なくぐっすり眠ってしまって起きてこないフジ子さんに手紙を残して帰ることにした。なんでもないメモのように、できるだけ短く書いた。心が痛かった。
数日後から私は、前々から決めていた休暇をもらっていて、仕事は夏いっぱい休むことにしていた。休暇の間は遠くまで旅行に出かける予定があった。
もう、逢えないかもしれない。
心に浮かべてはいけない文字が勝手に浮かんでは消えていく。
それらをかき消すように、眠っているフジ子さんにそっと微笑んで、起きたときにすぐ目に入るよう、ベッドの横の白い壁に手紙を貼り付けた。
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フジ子さんがとうとういなくなってしまったのは、それからほんの3日後だった。
すでに旅先にいた私には、なすすべがなかった。
最後に挨拶することも、できなかった。
たとえその時いたのが旅先でなかったとしても、いろいろと事情があり、フジ子さんの葬儀やその後のことは私たちにはノータッチで進められた。当時所属していた事業所の所長だけが唯一、お別れの挨拶に伺うことができたそうだ。
暑い暑い、本当に暑い夏の日だった。
私は黙って青すぎる空をただ眺めていた。
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フジ子さん、そっちは暑いのかな。
今年の夏もまた、去年に負けず劣らず本当に毎日暑いよ。車椅子で外に出かけるなんて、とてもできそうにないくらい。
いつか私の押す車椅子に乗って、一緒に観劇に行こうって話してたのにね。
あなたの贔屓のあの役者さんは、いまどんな演目をやっているのかな。今度、本屋さんに立ち寄ったら演劇雑誌で調べておくね。
今年はまるごとの西瓜はまだ買ってないんだ。
娘と2人じゃ、とても食べきれないから。
夏休みにこどもたちが集まる機会があるから、その時は川原で西瓜割りでもしようかと思っているよ。残った皮は捨てないで、あなたに教えてもらった西瓜の漬け物、ちゃんと作ることにするね。
お花に興味があまりない私なんだけど、今日は自分ちに飾る用に、あの時と同じ赤い薔薇を買ったよ。
あなたのところからも、見えるかな。
残念ながらうちにはこれを飾るような素敵なカップボードはないんだけど、あなたを見習って、少しでも美しいものを身の回りに置くことを忘れないようにしたいな。
ねえ、フジ子さん。いつも素直な気持ちを伝えてくれて、ありがとう。
私もそうやっていつだって素直に、自分の気持ちをちゃんと伝えられるひとに、なりたいな。
大好きだよ、フジ子さん。
今年の夏もやっぱり空は青すぎて、眩しいよ。
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☆☆あとがき☆☆
何度も何度も、消しては書き、消しては書き、本来投稿しようとしていた日からすでに何日も過ぎてしまいました。赤い薔薇のお話はフジ子さんとの想い出の中でも一番印象深く、簡単にはことばにできない想いがあふれてきてしまって、こんなに遅くなってしまったけど、なんとか書き上げることができました。
もしかしたら、いまごろ家族のところへ帰ってきているのかな。
確実にフジ子さんへ届けたくて、この日になったのかもしれません。
そして今日、思わぬところから、まるごとのスイカが届きました。
あなたからの、贈り物なのかな。美味しくいただきますね。
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