Anokoro
言葉を自由に記していくことが難しく感じるようになってから久しい。
いろんなところで垣間見た観念を吸収し、自ら自分を雁字搦めにすることが普通になっていたことに、最近気がついた。
よそはよそ、うちはうち。
そんな感じで、どこかに散らばった自分の感覚が、近頃私の中に集結し直しはじめて、戻ってくる触感に喜びを感じている。感じつつ、ふと思いついたことをノートに記していて、でも、ちょっとそれだけじゃ物足りなくなって、外にも発していく場を作るに至りました。
ささやかでも、そういう行動を積み重ねていく楽しみと恐れに慣れていこうって。
今日、ふと思ったこと。
私は大学のときの共同アトリエメンバーに
「Miって、アトリエに来ると居間にいるかのように寛いでいるよね。外も自分の空間として引き寄せるよね。」
と言ってもらえたことがある。好意的な意味で。どこでもリラックスできる場にするのは制作する上で良いことだよね、という意味で。
人の目に自分がそう映っているのは嬉しかったけど、なんか理想の自分がそこに居るようで。でも実際は違うのよ。
他の人の気配・エネルギー・食べ物などなど、アトリエに充満する匂いに耐えきれなくて、人がいる時間だとソワソワしてしまう。いない時間を狙う。
それに、アトリエについてすぐ、ぐたっと自分のスペースで横になるのは、リラックスできているからじゃなくて、ただただ毎日に疲れきっていたから。
学業に集中できるほどの体力が、当時の私には残ってなくて、生活費を稼いだり、生命活動を維持することにエネルギーをすべて持って行かれてた。
お釣りもこない。
(それが生きることだよ、あたりまえでしょ?みんなそう、みんなそう、みんなそう、、、と自分を責めたけど意味ない。なんと言われてもつらいもんはつらいんだ。)
苦境でも器用に過ごせる人もいるけど(努力の賜物の器用さかもしれないけど、ここではそれは置いておき)、私は、触れる物事が多ければ多いほど削がれていくセンシティブさを備えていた。儚かった。
(にも関わらず、自分の性質を認めないもんだから、「わたしは自分の不足感や至らなさを克服しなくては」と半ば強迫観念で自分とは異質のものに触れることに尽力していた。疲労の無限ループ。)
てな具合に、人が思う程わたしは強靭ではなく、とても脆弱な精神の持ち主で、でも、外に向かってそれを言うのはちょっと違うし(弱さアピールとか自分特別アピールがしたいわけではない)、もう少し、ヘルプ!と発せられたら、また違うわたしの姿で今日を迎えたのかもしれないけれど、当時はウィスキーをクッと呑むように、クッと自分の中に貯蔵したままの時代を過ごしたなぁと唐突に思い返しました。
(3年前気づいた。無意識に肩に力入って拳握っている。家でも外でも。それがデフォルト。一人になると体重1トンナマケモノナメクジの姿勢に変化(へんげ)する。)
他者との境界を引くのが苦手で、リラックスなんてそうそう出来なくて、今もそういう硬さは残ってるんだけど、絹さやの筋をすっと取る感覚は「なるほどな〜」と思う。
今の自分で生き易く生きられる術を、そうやって身近な素材に見せてもらっている気分。
すっとね、すっと。実まで取らないように。