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短編小説0005ある父親から娘への独り言 3705文字 4分半読

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「おはよう」

今朝も返事はない。
二階にある自分の部屋からリビングに降りてきたのは娘のあやだ。
先に起きている俺と妻が、あやに声がけするが、いつも通り挨拶返しはない。
中学三年生の娘は、所属していたバスケ部の、夏の大会が終わると、他の三年生と一緒に引退した。
だから今は、毎日あった朝練は無くなったので、ゆっくり起きてくる。
バスケ部ではキャプテンを任されていた。
それはどちらかというと本人にとっては不本意で、たまたま小学生からのバスケ経験者があやしかいなかったから、半ば決められていたかのようにあやになった。
キャプテンの仕事は色々と大変だったようだ。よく家でグチをこぼしては、俺と妻がアドバイスしたり、慰めたり、励ました。
もうそういったことは、なくなった。
本人もスッキリしているようだ。
あやなりによく頑張ったと俺も妻も思っている。

あやに続いて息子も二階にある自分の部屋から降りてきた。
「おはよう」
「ふわああーあ、おはようございまーす」
高校二年生の息子の亮太は少し眠そうに、あくびをしながら、ちょっとふざけた感じの挨拶返しをする。
こちらもいつもの感じだ。

全員が食卓に座り、朝食がはじまる。
「いただきます」

「亮太、沖縄の修学旅行どうなったって?」
「延期。それから行き先も変わるって。広島、京都、奈良だってさ」
「沖縄は中止かあ。残念だね。広島、京都、奈良は行ったことあるよね…。なんか残念ね」
「文化祭もさあ、食べ物の出店は今年も調理販売できないってさ。
パックのジュースとか、工場で作った、袋に入った食べ物とか、衛生的に問題ないものだけだって。だからつまんないよ」
新型コロナウィルスの影響で、まだまだ学校行事は色々と制限されているのだ。
妻と亮太はよくしゃべる。あやも妻とならまあまあしゃべる。
でも朝は別だ。
今日もあやは黙って食べている。
まだ部活があった時期の方が、元気よかったかもしれない。
なんだかんだ悩みなら、文句を言いながらも、覇気があった。
ところが、部活を引退して、大変だったキャプテンの責任もなくなり、スッキリしたはずなのに、毎朝機嫌が悪い。
思春期特有の理由なき反抗期。
まあそんなところだろう。

「ごちそうさまでした」

蚊の鳴くような声で早々とあやは朝食を終える。
「あやちゃん全然食べてないじゃない」
妻が言うが、無言のまま自分の食べ残しを鍋や、炊飯器に戻した後、空の食器を流しに置いた。
「こんなちょっとで体もつのか?大丈夫かあや?」
俺も何か言わないと、と、思い妻と大して変わらないことを口にした。
亮太は黙々と、朝飯から、気持ちの良い食べっぷりで、見ている方が思わず笑ってしまうくらい一生懸命食べる。

「行ってらっしゃい」
妻の声が聞えたので、あやが出発したことがわかる。
あやは最近「行ってきます」と言わず、黙って家を出る。だから誰かが送り出す声がないと、いつ出ていってしまったかわからない。
「やれやれ、どうしたものか・・・」
あやは、行ってらっしゃい、と言われることがわずらわしい様子だ。

俺自身は弟がいるが、女兄弟がいない家庭だったので、女である娘の扱いに困ることがある。
特に最近、中学に上がってからは、正直、どう接していいかわからないことばかりだ。
あやの反抗期、と呼ぶのが正確に彼女を表しているのかよくわからないが、それが始まった中学一年の頃、俺はあやの無礼な振る舞いによく怒り、怒鳴ってた。

でも妻に、
「あやもしょうがないのよ、無自覚であんな態度をとっているだけなの。だからそんなに怒鳴らないで」
と言われた。
妻は、かなりどっしり構えているというか、まさに暖かく、娘を見守っているという感じだった。

そうなのか。

確かに、反抗期とは大人になる道の途中を歩く青年の特権だ。親元を離れ、自立するためにあえて脳みそが理不尽な行動をさせている、とても大切な、儀式のようなものだ。
いずれその儀式も終わり、やがて落ちとつくと、どこかの心理学者だか、教育学者だかが言ってた。

お偉いさんがたがそう言うのなら、きっとそうなのだろうが、父親としては何かできることをやって、親として爪痕を残したい。
それははたして単なる軽薄な自尊心を満たすことに過ぎないのか?
あるい子に対しての自然なふるまいなのか?

いや、何もしないのが、子どもの成長の背中を押す力を最大化することなるのではないか?

俺の世代の人ならわかると思うが、俺たちが子どもの頃は、学校の先生に平気で叩かれるし、強烈に怒鳴られることは日常茶飯事だった。子ども同士でケンカもよくやっていた。
今の子どもたちはどうなんだろう。
暴力はいけないと思うが、当時の学校の先生は、自分が子どもを指導する立場であり、できるだけ、あくまでもウソ偽りなく子どもの成長を期待していたのだと信じたいが、何か目に見えて形になる行動で子どもに影響力を与えたいと無意識かもしれないが、思っていたのだと思う。
つまり、「静かに見守る」という事がものすごく理解されない時代だったのではないか。
大声で指導をする、怒る、たたく。
そういった、子どもに対して自分のアクションが大きければ大きいほど、自分の役割を果たしている、全力を尽くしている、責任を果たしている、決して手を抜いていません!
と、自他ともに認められてしまうから、どうしてもオーバーアクションになったのではないだろうか。

「じっと見守り、子ども自身から生まれる成長を待つ」

そんなことやってたら、その当時は、多分他の先生に疎まれていたと思う。
「先生、そんなんじゃ子どもになめられますよ」ってな感じで。
そんな教師がいる世界で育った大人ですから、そりゃじっと見守るという事が不安でしょうがない。

いいんだよ、もちろんいいんだよ。
今、どれだけ未熟な中学生であったっていいんだよ。

どうせ、どんな子だって社会に出ればそれなりの厳しさに触れ、自己を律する必要に迫られる。
だから勝手に大人になり、社会性を身に着ける。
中学生時分にどんなにふてくされようが、甘えてようが、大したことはない。
親がいくら何を言おうとも、例え子どもにバカにされようとも、身体の内側から熱く湧き出る成長のマグマを期待して、俺は今日も見守る。

まだ少し「これでいいのかな」と少し不安になるが、妻のお陰で「見守る」事を続けれらている。

何でもいいんだよ。
あやはあやなりの成長をしてほしい。

父ちゃんは知っているよ。
バスケ部の試合でうまくプレーができず、負けてしまい、悔しくて流した涙を。
キャプテンとして、いや、いち選手として練習が終わった後も、顧問の先生に直談判して居残り練習していたことを。
あんなに一生懸命勉強したのに、思ったよりも点数が取れなかった模擬試験。悔しくて落ち込んでたね。
ホントにがんばってた。だからどうか、いい結果であって欲しいと心からねがってたよ。父ちゃんは。俺もすごい悔しかった。
だってさ、あやが本気で頑張ってたから。


小学四年生の時、突然、
「ニワトリ飼いたい」
って言ったから、何が何でもヒヨコを手に入れようと色調べたな。何とかホームセンターで買えた時、あやがホントに大事に箱に入った二羽のヒヨコを抱えて家に帰ったなあ。
自分で世話をするって約束だったけど、殆ど父ちゃんがやってましたね。
とてもかわいく、家族のいやしになったのは全くの想定外の喜びでした。
あやがニワトリを飼うと言わなければ、この経験はなかったのだから、ありがとうね。
ニワトリ達はもう死んじゃったけど、我が家で生きたことはきっと幸せだったと思うよ。
我が家で唯一ピアノがひけるあやの、気まぐれに奏でる、中学校歌、トルコ行進曲、などなど、我が家のみならず、おそらく音が漏れ聞えている、ご近所さんにも癒しを与えているよ。

どんな大人になるのかとても楽しみだ。
どんな進路を選ぶかな。
大学に行く?行かない?世界旅行でもしちゃうか?いいねえ。
どんな仕事を選ぶのかな。
どんな恋人を連れてくるかな。
どんな道を選ぶにせよ、人にはそれぞれの道があり、それは自分で決めるしかない。
自分で決めたら道が開けてくる。
誰が決めるでもない。自分自身で決める。

そうするためにはたくさんの人と会って、話をして、色々な発想に触れ、価値観に触れ、疑問に思い、悩み、悲しみ、笑い、感動して欲しい。
本もたくさん読んでくれ。本はいいぞ。何でもいい。小説でも、漫画でも、ビジネス本でも。

そうすることで少しずつ自分が何者かが分かってくる。
自分を知るという事は、自分以外のあらゆる事を知るという作業でもある。

ゆっくりでいい。ゆっくりで。
自分の事は中々わからないから、ゆっくり知っていけばいい。
自分自身のマニュアル、説明書を発見したら、もうあやの人生あやのものだ!
怖いものなしだ。
これホントだよ。
受験勉強もいいけど、人生で一番大切なことは自分自身を知る事。
これだと父ちゃんは思う。

だから自分の感性を大切にしてほしい。
自分を信じて、諦めなくていいからね。
自分を楽しんで。

いつも見守っているよ。
でもたまにはおはようって言ってね。父ちゃんさみしいから。


おしまい

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