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1994年《ばらの騎士》譚(Vol.2)---Die Schwäche von allem Zeitlichen限りあるものの弱さ/儚さ


"Die Schöne Musi いい音楽だわ"

再びのワルツ

1994年1月20日、クライバーは再びウィンナワルツを振った。
正確に言えばウィーン・フィル主催による第53回フィルハーモニカー・バルでヨハン・シュトラウスの喜歌劇《ジプシー男爵》序曲を指揮した。

雑誌「音楽の友」1994年2月号〜p.9
1月フィルハーモニカー・バルの様子を報じる山崎睦氏の記事。
記事の最後には10月のウィーン国立歌劇場来日公演告知が入っており、チケット販売の日程も記載。

今度こそは吉事へと繋がるワルツとなったのは、そこからまもなく3月にウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》公演の指揮台に立ったことである。
これは秋10月の同歌劇場の来日公演を前提にした予行練習だったとするのは言い過ぎだろうか。

「(来日公演を)実現するための前提条件として、来日前に同じ演目をウィーンで振ってもらう必要がありました。」

「マエストロ、ようこそ」広渡勲 音楽之友社(2020年刊行)〜p.161

クライバーはオケとは良好の関係だったように見えても、歌劇場の運営側とは一悶着あった模様で、当時事実上のクライバーの個人マネージャーとなっていた広渡勲氏が歌劇場との交渉のフロントに立って3月公演の段取りを取っていたことは、NBSが来日公演を成功するために必定だったかもしれない。

「このような宵のためにオペラはある」

9年ぶりの登場でウィーン騒然

ウィーン国立歌劇場の《ばらの騎士》公演は3月18、21日、23日の3日間。
海外からの手紙による事前予約は前年より開始し、前売チケットは公演直前の3月5日より発売したが(雑誌「音楽の友」1994年5月号の山崎睦氏の報による)、その前売は1公演につき500枚しか出なかったためブラック・マーケットで額面約2万円がみるみるうちに5万、10万円と吊り上がったとのこと。
また当日の立ち見席では朝6時に配布される整理券を得るために前日から長い列ができたとのことで、この後の章でも言及するが日本でもチケット発売にあたって似たような現象が起きた。


さて広渡氏の献身的なフォローは実り、3月の《ばらの騎士》はキャンセルされることなくウィーンを熱狂させた。

「現存する人物の中でこれほどの熱狂を音楽界に及ぼせるのはクライバーしかいない」

スイス・チューリッヒ「世界週報」1994年3月31日

「ウィーン・フィルという《ばらの騎士》を演奏するうえで最高の『楽器』を存分にあやつれる立場にたった彼が、長年あたためつづけてきた解釈をようやくここで実行に移した(中略)全曲のクライマックスに設定したのは3幕終わりのアンサンブルのところで、そこではオペラという芸術形態が到達した最高の美を開示されていたといっても過言ではないだろう。」

雑誌「音楽の友」1994年5月号 岡本稔氏による3月18日公演のリポート

「このような宵のためにオペラはある」

オーストリアの日刊紙「クーリエ」の公演評見出し
雑誌「音楽の友」1994年6月号 岡本稔氏による3月ウィーン公演のリポート

このウィーン公演の具体的な様子は山崎睦氏の報告に詳しい。

「彼の場合、毎回仕上がり具合が違うのは興味深いところであり、世話のやける(?)ところでもあるのだ。1回目の18日は過度にナーヴァスになっていて、前奏曲などは聞く方がエッとのけぞるほどのシロモノ! クライバーは、このところ指揮をしていない期間が長すぎるので、ごくたまにタクトを持つと、初日はどうしても(デビューのように?)プレッシャーがかかって緊張してしまうのだ。2回目の21日は堅さがほぐれ、カルロスならではのノリが出てきた快演。オーケストラ・ピットに入っている国立オペラ管弦楽団(ウィーン・フィル)の目の色が変わってきて、幕が進むに従い場内のヴォルテージは上がる一方。3回目の23日はオーケストラをさらに解放して熱気にふらえるが、歌手も含めて、細部でのオサエが効かなくなるような箇所も出てくる。(中略)
今回の演奏でしきりに鳴っているのがメランコリーなのだ。第1幕でマルシャリンが諦念をしみじみと歌いあげるからということではなく、カルロスの音楽そのものに憂愁の色が濃くにじみ出ているのを耳にして、感慨深くならざるをえない。」

雑誌「音楽の友」1994年6月号 FROM ABROAD オーストリア〜p.108-109 山崎睦のリポート
雑誌「音楽の友」1994年6月号 FROM ABROAD オーストリア〜p.108

山崎睦氏が指摘する「メランコリー」、許光俊氏はこのウィーン公演を陰鬱に染めていると批判した。70〜80年代の壮年期のクライバーが快活に奏でた《ばらの騎士》こそこの歌劇の本質に相応しいと。
70歳近くになった指揮者はもはやこの歌劇自体に追いつけないのかという問いについては別の章で考えたい。

「十数年を経てウィーンで行われた上演は、技術のうえでは比較にならないほどの清潔さを示しつつ、圧倒的に体温が低い。(中略)それも当たり前だ。本来は事件を眺めるための窓にしかすぎない元帥夫人の陰鬱さが、全体にまで影を落としているからである。(中略)枯れた花のようなわびしさが漂うだけである。」

許光俊「クラシック批評という運命」〜「カルロス・クライバー 力と可能性の『ばらの騎士』」青弓社(2002年刊)
許光俊「クラシック批評という運命」青弓社(2002年刊)

慎重なキャスティング

以下ウィーン公演の際のキャスト表の一部である。
歌手の布陣は当然来るべき日本公演に重なってくるのだが、よく見るとこれは1990年9月〜10月(計7回!)のアメリカはニューヨークのメトロポリタン歌劇場での《ばらの騎士》公演とも重なるキャスティングであり、クライバーはこのMETでの公演から主要役の歌手については見定めていたのかもしれない。

ウィーン国立歌劇場アーカイブより検索。1994年3月18日公演のキャスト一部
メトロポリタンオペラ公演アーカイブより検索 1990年9月25日初日のキャスト一部
赤囲みがウィーン公演と重複する。オックス男爵を除く主要メンバーが重なっている。
https://archives.metopera.org/MetOperaSearch/searchkw.jsp
カルロス・クライバー指揮 メトロポリタン歌劇場による1990年《ばらの騎士》
MEMORIES ME1066/68  なおこれはいわゆる膝上録音。

またウィーン公演で特筆すべきは、ユニテルによる録画収録がされてクライバーのアプルーバルが下りたことである。その結果日本では早い段階でNHKで放送され、かつ全世界に映像商品として発売されることになる。
この放送録画、商品化については次回に譲りたいと思う。

ともあれ、ウィーンの熱狂はトウキョウに移ることになるのだ。

この項、了




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