1994年《ばらの騎士》譚(Vol.5.3)---Die Schwäche von allem Zeitlichen限りあるものの弱さ/儚さ
"Versteht Er nicht, wenn eine Sach' ein End'hat? 物事には終わりがあるという事がおわかりではないの?"
Drei Aufzug 3幕
最終公演は2幕あたりからオケも歌手も興が乗る感じがしていたが、3幕は冒頭の前奏曲から勢い込ん活力感があり、この幕全体を通して大きな高揚に満ちていたのを記憶している。
結果的にこの3幕全体の演奏の出来がこの夜の印象を決定づけたと思う。
再び「オックス・ワルツ」
オックス・ワルツはこの男爵の艶話を代表するようなものだが、2幕までは単なる彼の好色を彩るものであった。
ところがクライバーはこの3幕で再びこのワルツが登場すると、コミカルを突き抜けて男女のそれのぎりぎりの危うさを演じてみせる。
「いい音楽だわ」「涙が出てくる」と酔ったふりをするマリアンデル(オクタヴィアン)に対して好機と見たオックスが自分の欲望を顕にしていく。
それは居酒屋の楽隊(舞台裏のバンダ)が演奏しているオックス・ワルツに対して、オケピットが描く音楽がその彼の《本心》とでも言うべきか。
クライバーはその性的欲望をスコアから読み取って、練習番号104に向けてオケピが奏でるワルツの変型を煽りに煽って、ゾクとっするような強めの音で「抉る」のだ。
同様に続く練習番号106番でもクライバーは強く枝垂れかかるポルタメントで、そのオックスの欲望を誘うオクタヴィアンを見せる。
これはあたかも喜歌劇的枠を突き破って、人間の欲望、あるいはギラギラした本性を見せる瞬間でもあった。
3幕のカット
3幕でも1、2幕同様に慣習的カットを踏襲している。
・練習番号116番〜119番の2小節目までの31小節間(第1場居酒屋)
・練習番号128番から137番までの56小節間(第1場居酒屋)
・練習番号149番から150番までの4小節間(第1場居酒屋)
・練習番号150番の2小節目から155番の3小節目までの32小節間(第1場居酒屋)
・練習番号163番の2小節前から167番の6小節前までの37小節間(第1場居酒屋)
・練習番号173番の2小節目から177番の4小節目までの39小節間(第1場居酒屋)
・練習番号179番の6小節前から180番の2小節目までの18小節間(第1場居酒屋)
・練習番号185番から187番の1小節目前までの25小節間(第1場居酒屋)
・練習番号191番の2小節目から194番までの31小節間(第1場居酒屋)
・練習番号197番の5小節目から201番の4小節目前までの34小節間(第1場居酒屋)
カットは第1場居酒屋でのドタバタ劇のみで全部で307小節実施された。
こうして全曲におけるカットを俯瞰して気づくことは慣習的カットはコミカルな喜劇的な部分でのみされていて、真摯なドラマには一切手をつけてないことである。
元帥夫人の憂いの登場
第2場で元帥夫人の登場とともに劇としては喜劇から真摯なドラマへと移行していく。彼女の登場と同時に「諦観の動機」が度々現れ出て憂愁へと染めていく。
練習番号232番から233番にかけての元帥夫人のオックスそしてオクタヴィアンにも向けられた「男なるものへの諦め」では、クライバーはスコアの指示よりも遥かに遅いテンポで歌わせ、ここで語られる言葉を強く印象付ける。
ところで、オックスが去った後にプレ三重唱があるのをご存知だろうか。
練習番号267番以降の「今日か明日か」で始まるこのプレ三重唱の内容は有名な三重唱に似ているのだが、唯一の違いはゾフィーがオクタヴィアンに不安を感じている点である。ゾフィーが元帥夫人を前にして確信できないでいる。
元帥夫人は既にオクタヴィアンは自分のものではないことを悟り、それに踏ん切りをつけようと葛藤している。
クライバーはこのプレ三重唱で頂点の練習番号270番のffによる諦観の動機をかなり熱く奏でていて、登場人物の葛藤を印象深く描いていた。
総括としての三重唱
岡田暁生氏によると《ばらの騎士》3幕3重唱は「劇の『交響的総括』」であるとする(岡田暁生「オペラの終焉: リヒャルト・シュトラウスと《バラの騎士》の夢」筑摩書房)
それはこの3重唱に1〜3幕の主要な動機が全て盛り込まれているという点で総括的であると。
私はそれにつけ加えて興味深いのはこの3重唱は再びワルツの3/4拍子に変わり、メインとして引っ張っていく動機が「マリアンデルのワルツ」であることだ。
実際、クライバーはこの3重唱において「マリアンデルのワルツ」をかなり強調する。実際スコアの箇所によってはこのワルツ主題の4つの音にアクセントがついているのだが、それを殊更に強調しながら音楽を高揚させていく。
つまりシュトラウスはこの劇の総括として喜劇としてのワルツを真摯なドラマと融合させて、至高な音楽へと止揚するという離れ技を成し遂げたということではないだろうか。
上述したように最終公演は3幕全体がかなり熱かったのは記憶しているが、特にこの3重唱では上掲の譜例の練習番号291番の4小節前あたりからクライバーは少しずつアッチェレランドをかけて、更にマリアンデル・ワルツのアクセントを指で突くようにオケに指示して強調させて、音楽の腰が重くならないよう推進性を以てクライマックスを迎えた。
もちろん練習番号293番で変ニ長調に解決されるクライマックスは感動的だったのだが、私が忘られないのは諦観の動機に基づく元帥夫人の「In Gottes Namenあるがままに/仕方のないこと」という言葉を漏らすとホルンがその動機に応答して、最後にコントラバスが同様に応える、その下りでクライバーはたっぷりテンポを緩めるのだ。
この深い情感は本当に感動的な瞬間だった。
円環を閉じる2重唱
ここからの2重唱までの過程もマジックだった。
もちろんスコアにはpp(ピアニシモ)へと収束するように書いてあるのだが、クライバーはそれ以上に最弱音へと導き、ほとんどピットの音が聴こえないレベルまで落とすのである。そのエアポケット状態にも近い音響空間の中であの素朴な二重唱が始まるのである。
そして最後の高みへと向かう三度のハーモニーの歌は、やはりこのフォン・オッターとバーバラ・ボニーの正確なまでのピッチと声のブレンドが素晴らしく、これは2幕の「銀のばらの献呈」と円環のように繋がった音楽なのだと気づくのである。
"Wo war ich schon einmal und war so selig? いつこんな幸福だったことがあったでしょう?」
夢心地のような感慨を抱きながら劇は終わったのである。
次回、再び来日公演のドキュメントに戻る。
この項、了