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1994年《ばらの騎士》譚(Vol.1)---Die Schwäche von allem Zeitlichen限りあるものの弱さ/儚さ



"Ich hab’ im Leben so was Schönes nicht gehört! 人生でこんなに美しいことを聞いたことがないわ"

長い腕が大きくしなると、指揮者はすかさず屈みこんでオーケストラを限りなく柔らかいビロードの音楽へと導いていく。
6/8拍子でたおやかに進む前奏、2ndVnとVcの3/4拍子単位のアクセントを指でつまむような仕草で強調して、シュトラウスが仕込んだギミックをさりげなく顕わにする。
そして静かに高揚した音楽の頂点でかかるスピドピアノの直後、僅かにヴィエニッシュなポルタメントがしな垂れかかると、すかさず歌を導くフルートに向かってリズムを合図する。
こうしてカルロス・クライバーが采配する《ばらの騎士》2幕2重唱「その眼に涙を溜めてあなたは僕のところへいらした」は始まった。

微笑みながら歌手と共に歌っている指揮者は、ゾフィーの「Armen(弱った私を抱いてくださるその)腕」とオクタヴィアンの「ganz verzag(あなたの心は)すっかり落ち込んだ」この2人の感情に付された付点四分音符のアクセントを歌手に向けて指を突く仕草で強調する。
言葉と音楽が螺旋状に絡み合う音楽を極めて繊細な手つきで描いた果てに、堰き止められたパウゼからの爆発---《オクタヴィアンの動機》が力強く宙に放たれる。
するとクライバーの指は大きな弧を描き、それに従ってまるでスローモーションのように旋律がついていくのだった。
そのまるで永遠を感じるかのような恍惚の円弧。

私は最も美しい音楽の瞬間を聴いていたのである。

時が強いる忘却に抗うため --- 巻頭言に代えて

人間の記憶は、HDにデータを積むように、
単純に累積していけばいいのにと思う時がある。
好きな時に傷ひとつない完璧な記憶を引っ張り出せれば、どんなにいいことだろう。

しかし実際は、それがどんなに美しくて感動的な記憶であっても、
時が経るにつれてその輪郭はぼけ始め、しまいには忘却していく。

こと音楽好きの私にとっては、
音楽会は唯一回性の時間芸術だけに、この記憶の問題は甚大だ。
あの時、あの場所での一期一会、
あの箇所での響き、演奏家のアクション、そして圧倒的な高揚。
感動が大きいほど、こうした全身的な体験の記憶は留めておきたい。
こうした体験こそ、自分を自分たらしめる要素となるだけに。
しかし、その得難い体験のディティールは時と共にベールに包まれ、掴みどころのない幻影のように成り果ててしまう。

私の記憶タンクには、時間が強いる「忘却」に抗うように生き続けている記憶の断片が、まだかろうじてある。
カルロス・クライバーの優雅にしなる腕、時に重力に沿い、時に引力から離脱するように急くフレーズの弾み、そして生々しく息づく楽器の色添え。

その記憶の断片と収集した資料・史料の数々で、私はバラバラになったピースを寄せ集めるように、1994年10月東京上野で演じられたカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場による《ばらの騎士》の事象/ドキュメンタリーを復元しようと思う。

キャンセルと再登場、そして

幻のウィーンフィル来日公演

時計の針をまず1992年に戻したい。

この年はカルロス・クライバーのウィンナ・ワルツで正月が開けた。
ご存じ彼の2回目のニュー・イヤーズ・コンサート登場である。
そしてこの吉事は3月のウィーンフィルとの来日公演に続くはずだった。
しかし思わぬ指揮者のキャンセルによって、この日本ツアーは幻となってしまったのである。
今でも思い出すが、私は卒業旅行中のザルツブルクでこの報を聞いて、駅舎のホームで崩れ落ちそうになった。奇跡の組み合わせだっただけにショックは大きく、私のクライバーへの渇望はそれ以降増すばかりだった。

1992年ウィーンフィル創立150周年記念ツアー 
カルロス・クライバー指揮
ウィーン・フィル日本ツアーのちらし

親日家でもあると聞いていたクライバーが日本ツアーをキャンセルとあって、「テレーゼ事件」以来のウィーンと決裂か?と憶測も飛んだと記憶している。
しかし広渡勲氏によると、この幻のウィーンフィル演奏会の実情は以下のようだった。

私の推測ですが、日本公演の直前にウィーン・フィルとのパリ公演が二回予定されていました。理由はよくわかりませんが、彼がもともとパリで仕事することが好きではなかったようです。パリ公演だけをキャンセルする理由を病気にした。ところが日本側というか、この公演を仕切っていたニューヨークのエージェントが過剰反応をし、彼も引っ込みがつかなくなって日本公演だけをやるわけにいかなくなった。

KAWADE夢ムック文藝別冊「カルロス・クライバー 孤高不滅の指揮者」河出書房新社(2013年刊行)~p.63

ここから察するにクライバーはウィーンと禍根を残したわけではなかったようであり、実際この年の11月14日にウィーンフィル創立150周年記念の出版記念祝賀会に彼は出席して2曲指揮をした。

(ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者)ヘルスベルクはクライバーからウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の祝典で指揮する承諾を得て有頂天になった。彼はこう語っている「クライバーは三か月前にミュンヘンでわたしにごく自然にこういった。『やりましょう。でもあなたの本の中でわたしの父について悪口を書いている場合は指揮しませんよ』。こうしてクライバーはニコライの《ウィンザーの陽気な女房たち》序曲とヨハン・シュトラウス二世のポルカ《雷鳴と電光》を指揮した」

「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」アレクサンダー・ヴェルナー著  
音楽之友社(2010年刊行)~p.311

1993年の年が明けるまでには5年ぶりの登場となる1993年5月定期演奏会、そして9年ぶりの1994年3月国立歌劇場《ばらの騎士》の出演も予定に入り、クライバーとウィーン・フィルの最後の一連の共同作業が始動することになる。
奇しくもこれらはリヒャルト・シュトラウスの作品によるものなのである。

リヒャルト・シュトラウスへの拘り

1993年5月15、16日に開催のウィーン・フィル第8回定期演奏会はぎりぎりまで曲目が発表されなかった(「マエストロはまだ決めかねている」という公式発表もあった)

日本ウィーン・フィルハーモニー友の会 速報'92(1992年8月20日発行)1992/1993 演奏スケジュール

そして公演直前の4月末にやっと曲目が発表された。

モーツァルト:交響曲第33番変ロ長調 K.319
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

関係者及びファンが驚いたのは、言うまでもなく初レパートリーとなる「英雄の生涯」であった。それは望外の喜びであると同時に、「交響曲」ではなく「交響詩」という意外な選択の驚きもあったと思う。
そして、若い頃から振っていた《ばらの騎士》、ビルギット・ニルソンに懇願して振った1977年コヴェント・ガーデンでの《エレクトラ》と少なからずリヒャルト・シュトラウスに拘ってきた節のあるカルロス・クライバー、その彼が新たに取り掛かる作品として選んだのが同作曲家の「人生を回顧する」ことを描いた作品ということも。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリン奏者クレメンス・ヘルスベルクは、クライバーがシュトラウスの音楽と密接に関わっているのを知っていた。その関係は彼の子供時代にまで遡り、「彼はシュトラウスを神格化していた」

「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」アレクサンダー・ヴェルナー著  音楽之友社(2010年刊行)~p.317

また長年クライバーとの交流そして個人マネージャーの役割もされていた広渡勲氏は以下のような話を直接本人から聞いていた。

「リヒャルト・シュトラウスはバイエルンのガルミッシュ・パルテンキルヒェンに山荘を持っていて、エーリヒは息子を連れてそこを訪れたことがあるのだという。『実は、息子を連れてきています』と言うと、2階のシュトラウスの部屋にカルロスは連れていかれたそうです。『そのときリヒャルト・シュトラウスとじかに話をした。とてもいい人だった』」

雑誌「音楽の友」2004年10月号 特集I「永遠のカルロス・クライバー」〜p.97

一方で録音に極めて慎重な指揮者であっただけに、ソニー・クラシカルによるライブ録音がアナウンスされたことも嬉しい驚きではあった。
周知の通り、この時の《英雄の生涯》は指揮者の判断でお蔵入りとなり今日に至るまで商品化されていないが、1994年3月のウィーンでの《ばらの騎士》が録画され商品化されたことを考えると、晩年の彼は自ら演奏したリヒャルト・シュトラウスの音楽を記録として遺したいという意志があったのかもしれない。
つまりヘルスベルクが言及するように、クライバーのリヒャルト・シュトラウスに対する思惑には強いものがあったのではないだろうか。

1993年第8回定期演奏会直後に雑誌「FMfan」で山崎睦氏によってリポートされた記事。
ソニー・クラシカルによって提供された定期演奏会でのクライバーの写真、
そしてその年の8月21日発売予定のライブ録音アルバムの予告が出ている。
雑誌「音楽の友」1993年7月号 特集カルロス・クライバーに関する15章〜p.66
山崎睦氏による1993年第8回定期演奏会のリポート

そして、この定期演奏会前後には1994年の来日公演が日本のメディアに告知され、クライバーのリヒャルト・シュトラウスへの想いは、ウィーンとの最後の共同作業---彼の最後のオペラ上演となる《ばらの騎士》へと繋がっていく。

奇跡の組み合わせへの渇望が癒える時が近づいてきたのだ。

雑誌「音楽の友」1993年7月号 特集カルロス・クライバーに関する15章〜p.100
山崎睦氏による1994年のウィーンそして日本での《ばらの騎士》についての記事。


この項、了


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