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メサイア覚書 Vol.3 ---荒ぶる救世主

荒野の世界

イスラエルの死海のほとりを訪ねた時に感じたのはその風土だった。
塩湖である死海の周辺は緑も少なく、荒れた土地が広がっていた。
人間にとって厳しい環境、それがあの旧約聖書における荒々しい物語を生むのではないかと思わせる。

そういえばサロメの祖父にあたるヘロデ大王、彼が築き上げた離宮から転じたマサダの要塞も草一方生えていない荒野が続いていた。
ユダヤ陥落の地の悲劇が際立つ厳しい風景だった。

2019年2月 イスラエルのマサダの要塞にて

メサイアの旅

第5曲伴奏付きレシタティーヴォ「まことに万軍の主はこう仰られた」

さて「(神が)約束されたこと」はハガイ書からの引用による第5曲でも続く。
付点音符が象徴する偉大さを示した伴奏を伴って荒ぶる威厳的な救世主が描かれる。
ベーレンライターの注釈によると冒頭は譜例に記した赤字のリズムですべきと推奨しており、多くの指揮者もその荒ぶる主を示すかのようにそのリズムで詰めるように奏でている。

第5曲伴奏付きレシタティーヴォ「まことに万軍の主はこう仰られた」冒頭から8小節目まで

「天と地、そして陸と海を揺さぶる」では「shake揺らす」を絵画的に示す。 面白いのはヤーコプス盤(2008) 作曲家が「I shake私は揺らす」にメリスマを付けなかった箇所でもご丁寧に伴奏の16分音符を強調して振動を示す。

ルネ・ヤーコプス指揮フライブルク・バロック管弦楽団 全曲盤(2008)

このレシタティーヴォは「イエスの到来」を予告するが、上昇音型による「見よbe hold」はこのメサイアでは一種の重要モチーフとして何度も出てくる。
この段で音楽の雰囲気を変えるのはコープマン盤とアーノンクール盤で特にコープマンは22小節目からの付点を著しく遅い上に句の終わりをマイルドに奏でる処理。

第5曲伴奏付きレシタティーヴォ「まことに万軍の主はこう仰られた」19から30小節目まで


第6曲アリア「誰が彼が来られる日を耐えられるだろうか」

続く第6曲のアリアも物憂いなニ短調で威厳ある救世主への民の畏れを描く。途中からprestissimoで烈火の如き荒ぶる主を描写。
ニケ盤(2017)やミンコフスキ盤(2001)は前奏からアレンジも違うソプラノによるト短調のバージョン。またコープマン盤は前のレシタティーヴォに引き継いでバスが歌うバージョン。
普段アルトによるバージョンに聴き慣れていると新鮮である。

第6曲アリア「誰が彼が来られる日を耐えられるだろうか」冒頭から22小節目まで
第6曲アリア「誰が彼が来られる日を耐えられるだろうか」54から60小節目まで
エルヴェ・ニケ指揮ル・コンセール・スピリチュエル 全曲盤(2020)

第7曲合唱「この方はレビの子らを清め」

前曲がソプラノによるト短調アリアだと、次の7曲目合唱「この方はレビの子らを清め」も同じ調であるので、イエスの到来が強調できるかもしれない。
かつて不信仰な時代に神に忠実だったレビ族を正義を捧げる者として清めると語るこの合唱は、その響きからして襟を正すような厳格さがある。

その厳格なフーガが小節をまたぐタイによってふと生まれる流動性と甘美を伴う高揚! このタイ、私は好きだ。
そしてその高揚がポリフォニックな「(レビの子は)主に義の献物を捧げる者となり」に集約されるのである。

第7曲合唱「この方はレビの子らを清め」冒頭から4小節目まで
第7曲合唱「この方はレビの子らを清め」13から16小節目まで
第7曲合唱「この方はレビの子らを清め」21から24小節目まで


こうして威厳性、畏れと厳格さに満ちた音楽が支配されていたが、ここからはマリアの処女懐胎が予告される段へと向かっていく。

この項、了


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