1994年《ばらの騎士》譚(Vol.7)---Die Schwäche von allem Zeitlichen限りあるものの弱さ/儚さ
"Die Schwäche von allem Zeitlichen 全ての限りあるものの弱さ"
あの時から30年の時間が経った。
朧げになりつつ私の記憶や他の方が記してくれた記録、そして指揮者本人も望んだ「あるべきでない録音」も頼りに、1994年のウィーン国立歌劇場来日公演の《ばらの騎士》の復元ドキュメントを作ってみた。
1幕の元帥夫人が語る”Die Schwäche von allem Zeitlichen 全ての限りあるものの弱さ"へ抗うために、ここにひとつの記録を綴った。
ふと、思った。
もしかしたら、クライバーも少しずつ忍び寄る老いを見据えながら、子供の頃から深い繋がりを感じてきたリヒャルト・シュトラウスの音楽を通じて、人生の幕を閉じるにあたっての記念碑を建てたかったのではないだろうか。
喜劇と真摯の狭間を通して
クライバーはこのオペラに何を見たのだろう。
《ばらの騎士》には様々な解釈がある。
「3幕の音楽のための喜劇」とする《ばらの騎士》は多くの識者が指摘するように真摯な装いを纏っている。
しかし、この歌劇には喜劇と真摯という対立構造はない。
シュトラウス&ホフマンスタールの凄いところは「老い」という深刻な主題とコミカルなオックス話を享楽的なワルツで見事にコーティングあるいはブレンドさせることで、本来対立すべき喜劇と真摯なドラマは見事に合一されて、ひとつの人間模様へと止揚させたことだ。
その最たる例が「劇の総括」としての3幕3重唱がマリアンデルのワルツで包まれながら三人三様の人間そのものが表出されることである。
いきなりここに来て、映画の話題に飛ぶのは誠に恐縮ではあるが、大島渚監督の遺作「御法度」(1999年)がふと脳裏に浮かんだのだ。
この映画は、新選組内における衆道がもたらす内部崩壊という陰鬱な主題に対して、坂上二郎演じる井上源三郎がコミカルなエピソードを繋いでいく。それは重く暗い画調に不思議な軽みを与える上に、大島渚は無声映画的な様式や字幕を活用して映画史的な表現も組み入れて、喜劇と真摯の統一そして映画というメディアの歴史の俯瞰という重層的な作りを通して「人間の業」を描いた。
これは《ばらの騎士》にも言えるように思える。
シュトラウス&ホフマンスタールの共作は、「モーツァルトへの回帰」しかり岡田暁生氏が指摘するように喜歌劇の歴史を取り込み、且つ真摯な老いを巡る物語と合体させることで、人間悲喜劇を描いているように思えるのだ。
山根貞男氏が「御法度」を評して、時代劇の要素を取り入れつつ、もはや時代劇/現代劇の区別がなくなり、映画自身の可能性を拡大していると指摘するように、シュトラウス&ホフマンスタールも、彼らが模範としようとしたモーツァルトの《フィガロの結婚》が自ずとジャンルを越えようとするように、この《ばらの騎士》も喜劇の枠を越える或いはジャンルを超えて描けるオペラの可能性を目指していたのではないだろうか。
クライバーが最後に振ったオペラを観て聴いた事を通じて、こうした「劇の構造」に思いを馳せるのは、人間というものの複雑で不可思議な側面を覗くという得難い体験も同時に感じている自分があるからだ。
とすれば、1994年にクライバーが提示したあの諦観が塗りこめられた繊細極まりない手触り、時にその老いに抗うように噴出するテンペラメントが交差する音楽は、このオペラと共に時を駆けてきた指揮者が辿り着いた「演奏様式」であると同時に、彼自身をも内包/反映した「人間悲喜劇」の結論だったのではないだろうか。
「瞬間的かつ永遠なるもの」
これはホフマンスタールからの引用だが、野口方子氏が《ばらの騎士》の「瞬間的な永遠性」を説明されている一文(「新国立劇場2010/11 リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』パンフレット」)を読んだ際に私は大いに刺激を受けた。
1994年クライバーが放った音楽は私を捉え、心の中に留まった。
そして私の記憶の中にあるその不可侵的な美を信じて、戯れのようなドキュメンタリーの復元までしてみた。
しかしこの一連の文章を綴っていく内に、私にとっての「永遠性」というのはあの東京文化会館で響いた音楽の核心ではなくなってきた。なぜならどんなに記憶を手繰ろうとも、どんなに音を再生しても、あの蠱惑的な音楽はあの時あの瞬間でしか感じられないことに気づくのである。
あの時に感じた美は時と共に「指の間からすり抜けていく」のである。
今、私が感じているのは、この劇の美とは何かということを問い続けてくれるという意味での「永遠性」である。
クライバーへの回顧を通して、この劇が内包する言葉や音楽の問いに汲めども尽きぬ魅了があることを、30年間かけて見出した気がする。
現在(いま)私にとっての「永遠性」は、
新たな《ばらの騎士》の出会いに繋げてくれる、
「銀のばら」になったように思える。
この一文を、
1994年ウィーン国立歌劇場来日公演《ばらの騎士》上演30周年、
伝説的な指揮者カルロス・クライバーの没後20周年に添える花束としたい。
2024年12月吉日
以下に深い感謝を!
東京都立中央図書館
T.K氏
douraku_mさん
了