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『存在の耐えられない軽さ』忘備録

ひとつ前の記事は、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』を久しぶりに読んでいて思い出した話だ。何せこの作品ではロシアより圧倒的にチェコの悲劇に揺さぶられるから。

読んでくださった方は分かったと思うが、あの小説家が特段最低だった訳ではない(他の会話でも幻滅はあったが)。今で言う港区系みたいなところに私という異物が混入しただけの出来事で、私は彼らをくだらないと軽蔑するし、彼らにとっては私と連れが嘲笑の対象だったというだけのこと。だから周囲にもほぼ話したことがない。

あの時は若くてママの言葉にどう返して良いか分からなかったが、ママを無視して素直に小説家に聞けば良かったんだと今は思う。ひょっとしたら愛読作のある小説家から直にロシア感を聞けるかもしれなかったのだから。まあ、初めから酔いしれたかっただけで飲みの席で若い娘の質問に真摯に答えたり真面目に話す気なんてなかった可能性の方が大きいだろうけど、今も優れた作家との思いは変わっていないので、彼がロシアのどんな点に惹かれるのかは気になったままだ。

で。トップの写真ってば、、我ながらこんなに大量の付箋はもはや意味がないのではと思うけど役立ってる。いるのだ!付箋を利用したのは今回が初めてで、今回の再読だけでこの量になってしまった。
やはり私の中で特別過ぎる作品。刺さりすぎて痛いし、世の中の大抵のことは書いてある哲学書だと思ってる。

昔から一貫して思うのは、私はテレザでありサビナだということ。
だから私が双極症なのは当然なのかもしれない。鬱の時はテレザのように不安定で震え、躁の時はサビナのように奔放に進む。
更に今回はトマーシュについても思うところがあった。

はじめて読んだ20代前半の時あまりにショックでしばし読み進められなかった箇所は、もう幾度も読んでいるという理由だけでなく、自身の中で折りにつけ考える時を経たおかげで俯瞰して見ることができた。むしろ「もうすぐ来ますぜ、例のアレ」という感じですらあった。
それでも私にとってこの作品はあらゆる箇所で物思いに耽ってしまうので毎度読むのに非常に時間がかかる。幾度も本を閉じて考え込んでしまうし、自身の記憶を呼び起こされて胸が軋み過ぎて痛くて休憩せねばならなかったりする。
今回の再読(10年以上ぶり)で感じた点全て書くのはこの量の付箋なので無理過ぎるが、一点、過去あまり注視しなかった点に深い感慨を得たので以下。

それは『同情』について。
ラテン語から派生する言語では、《同じ》を意味する語と《受難》を意味する語の結合で形成されており、他の言語では《同じ》と《感情》で成り立っている。前者の同情から誰かを愛するということはその人を本心から愛していないことを意味し、後者は不幸を共に生きるのみか喜びや恐怖、幸福、痛みなどどんな感情をも共に感じられるという意味で最高の感情であるとした上での、以下ふたつの記述に考えさせられた。

もし人間に同情と呼ばれる悪魔の贈り物が与えられていなかったら

同情がトマーシュの運命(あるいは、呪い)となった

私が苦しんでいる問題は同情を仕組まれて呪いと化したからであり、それを解く術が見当たらないからなのではないかと。
こんな風に、今作の再読で最近地獄の様相だった自身の問題を少し整理することができ、メンタル面でかなり落ち着いた。
読み返す度に別の感慨を得たり自身の問題を整理できたり、読書というものは本当につくづく面白い。

ところでこの文庫版の裏面の内容説明に「究極の恋愛小説」とあるけれど、この作品を恋愛小説として読める人はこの世にいるのだろうか?
恋愛小説と思って開いた人はたぶん冒頭数行で挫折するから、逆に大失敗なコピーだと思う。
映画版は昔観たが、「ジュリエット・ビノシュかわいい」以外の感想がなかった。

なお、かつて躁うつ病と呼ばれた双極性障害は、2023年に双極症と名称変更された。うつ病のように完治することなく寛解しかせず生涯経過治療が必要な病気の呼び名が軽くなったことは、私の心を重くした。


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