毒親 という言葉をよく聞くようになった。 大人になって、中年と呼ばれる世代になっても未だ親からの圧力や過干渉に手こずる人たちが沢山いる。 そこには依存のパターンがある。 子は子で、親を満足させたい、自分を誇りに思って欲しい、認めて欲しい、という欲求に突き動かされ親からの干渉を受ける受け皿を作ってしまう。 あえて親をお手本にしたような生き方をする、 もしくは全く違ったやり方を見せつけてみたりする。 でも結局、親からの太鼓判を求めてのことなので、自分が満たされることもなく、常に
普段の生活のなかで、やらかすことは多々ある。人間だもの。不注意だったり、単に疲れていたり、判断を誤ったり、文字通り何かに躓いて転んだり。 その時に、現れる救いの手。 欠けたところを埋めてくれる何かが、現れる。 倒れた身体を引っ張り上げてくれる腕。 笑い飛ばしてくれる心。 こんなに迷惑かけてしまってと申し訳なさに死にそうになるも、 人の懐の広さにすっぽり包まれて、ありがたさに泣きそうになったり。 自分が未熟で、不完全なばかりに、人間という生き物の優しさに触れることができる。
物事の側面をどちら側から見るか。 それで見える世界が決まる。 その事実を突きつけられる、ここ数年のヨーロッパ暮らし。 第二次世界大戦後すぐに生まれた世代は、 完全に世界地図の見方が凝り固まっていて、どうにもこうにもほぐしようがない。 先祖にあらかじめ敷かれた優劣の絨毯の上で、 寛ぐ人々。 そもそもその絨毯自体が西洋の産物であって、すべての人類に必要とされているわけではない。とは、思いもしないのだろう。 絨毯の下には地面があって、草や苔が生えて、木の根が走り、小さな生き物た