ショートショート「彼の帰宅を待ちわびて」
あつあつに熱したフライパンに、バターをひとかけら置いて、私はほっと息をつく。
ジュウウ。
静かな台所にバターが溶ける音が響き、柔らかい香りが立ち昇る。
洋食を作る時は、サラダ油ではなくバターを使うとレストランの味になる、とどこかで聞いてから、我が家の冷蔵庫にはいつも個包装のバターがストックされている。
やがてフライパンの底で、黄金の液がぶくぶくと泡立ち始めたら、具材を入れる合図だ。
玉ねぎのみじん切りを入れて、飴色になるのを待ちつつ、ふと慎一のことを思い出す。
彼はこの香りに特に敏感で、私がバターを使って料理していると必ず、「何作ってるの?」と台所まで覗きにくる。味見をさせた時、幸せそうに笑う彼の三日月のように細められた目が愛おしいのだ。
それに、彼は寝起きが特に悪いのに、朝食のトーストにバターを塗っている香りに反応して、ふらふらと起き出してくることがある。寝ぼけ顔の彼は面白いし、可愛らしいと思う。
玉ねぎがつややかな飴色に透き通ったところで、火を消す。
ボウルに移して熱が冷めるのを待つ間、私お風呂場に洗濯物を集めに行った。
床には脱いだパンツや、丸まったパジャマが散らかっている。
これは慎一の悪い癖。彼はなんでもやりっぱなしにする。
そしてその片づけはいつも私の仕事だ。
ひどいことに、ヘアワックスの蓋があいたままで、その中に彼の歯ブラシの先が突っ込まれていた。元に戻しながらため息が出る。
一体なぜこんな有様になるのか。
丸まった靴下の片方が落ちているのも見つけた。もう片方はドアノブにかかっていた。
彼の抜け殻を集めていると、どんな風に朝の準備をしていたか、ぜんぶ分かる。
きっと今朝も、慎一は寝ぼけて身支度をしていたのだ。はっと時計を見たら出る時間ぎりぎり。慌てて歯を磨き髪を整え、靴下を引き出しから掴み取り、散らかしたまま家を飛び出た。
何度「自分で片付けてよ」と言っても、彼は言い訳をするばかり。
「あとで片付けようと思ってたんだ」
彼の本心じゃない。嘘をつくと慎一は必ず声が裏返って早口になる。分かりやすい人なのだ。
洗濯機を回したら、料理に戻る。
冷やしておいたひき肉と、炒めた玉ねぎをいれたガラスボウルに、卵を割り入れ、素手でそっとかき混ぜる。ひんやりと柔らかい肉が、手にまとわりつく。
ひき肉の油が手の熱で溶けて、粘り気がでるまでこねるのが美味しく作るコツだ。
熱心にこねている最中で、携帯にメッセージが届いた音がしたが、手は止められない。
肉をこぶしの大きさにまとめて、空気をぬくように叩いてから、バットに並べていく。
ひととおり作業を終え、携帯を見ると、思った通り慎一からだった。
「ちょっと遅くなる」
今日は早く帰るという約束だったのに。
「分かった。何時ごろになりそう?」
送ったメッセージに既読は付かない。別に珍しいことじゃない。私はフライパンに油を馴染ませ、丁寧に2人分のハンバーグを並べた。表面に焦げ目をつけて、美味しく焼こう。
付け合わせのサラダとスープも出来た頃に、玄関から開錠の音がした。
「ただいま! 旨そうな匂いがする」
息子の慎一は学ラン姿のまま、台所までやってきて、鼻をひくひくとさせた。
「遅かったじゃない。今日の卒業式どうだった? 見に行けなくてごめんね」
学ランを脱ぎ捨てた彼はソファに飛び込み、
「ぜんぜん大丈夫。それより腹減った~」
と、卒業証書の筒も放り投げてしまった。
「ご飯食べる前に手を洗ってきなさいよ」
「分かってる、洗うって」
いそいそと慎一は洗面所へ向かう。
夫と別れて以来、一人で慎一を育ててきたが、彼もとうとう来月には高校生になる。
この学ランも着ることはもうないのね、としみじみと思いながら、床から黒い制服を拾い上げ、ハンガーにかけていると、あれ、と違和感がある。
その正体が分かるまで少し時間がかかった。
「慎一、いちばん上のボタンが無いけど。もしかして誰かにあげたの?」
はしゃぐ気持ちをおさえ冷静なふりをして、洗面所にいる彼に大きな声で呼びかける。
「……違うよ、どっかでなくしたの!」
裏返った声が帰ってきて、思わず、ふふ、と笑ってしまった。