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2000字小説「契約書にサインを」
「これにサインして欲しいんだ」
真っ昼間のファミレスで、恋人の直哉は生真面目な顔で書類を差し出した。パソコンで手作りしたのであろう『婚約事前承諾書兼契約書』というものだ。
「なんだこりゃ」
急ぎの用で会いたいと言うから、会社をランチ時間に抜け出し、受付嬢の制服から着替える手間も惜しんで駆け付けたというのに、要件とはこれだったのか。直哉のいつもの変な癖が始まってしまった。
交際して以来、色んなタイミングで「デートプラン提案書」やら「プレゼント交換企画書」とやらを受理してきたので今さら驚かないが、彼は何かと書類をつくりたがる節があり、しかも形式にひどくこだわる。
「『婚約事前承諾書兼契約書』……ってどんな意味?」
私が紙面を指さすと、直哉は姿勢を伸ばし、かたい表情で答える。
「甲が僕で、乙が君だけど……、甲から乙への求婚の申し出があった場合には、快諾するということを定めた書類だね」
紙面にはご大層な明朝体で、第一条から第五条までの細かい条文が連なっているが……
「つまり、もし直哉にプロポーズをされたら、私が『はい』って必ず答えますということを、今、ここで、誓えと言ってるの?」
直哉は神妙な面持ちで、こっくりと頷き、「平たく言えば、そうだね」と言った。
それって、もうプロポーズしてるも同然なんじゃない? 私は危うく声に出しそうになったのをドリンクバーの薄いジュースと一緒に飲み込んだ。そこに頼んだドリアとスパゲッティが届いたので、直哉はあわてて書類が汚れないようにファイルにしまい込んだ。
続きは食事のあとにしましょう、とふたりそれぞれスプーンとフォークを持つ。食事の時は互いに静かになるから、私はスパゲッティを口に運ぶ直哉の黒髪の頭のてっぺんを眺めながら、頬杖をついて考えた。
直哉とは付き合ってもうすぐ4年になる。年下の彼は今年26歳、私はもう29だ。変に真面目で不器用な彼だが、彼なりに私を大切にしてくれていることは十分に伝わっている。そういう誠実なところが好きなのだ。
明日はふたりの付き合った記念日で、仕事終わりに高級フレンチのディナーに行く約束をしていた。そうか、だから直哉は急いでいるのか。私はその確信に、思わず胸にこみあげるものを感じた。
なんとなくそんな気はしていたけれど、いざその時が来ると、嬉しいやら恥ずかしいやらで、頬が上気してしまう。
「ねえ、さっきの紙貸して。サインする」
直哉ははじかれたように顔をあげた。丸い目が見開かれ、喜びに輝いている。
「ありがとう! しっかり読んでね」
「『婚約事前承諾書兼契約書』
文香(以下甲)と直哉(以下乙)は、求婚にあたり、甲が乙に対し、以下のいかなる場合においても承諾の意を示す契約を締結する。
第一条 本契約は甲と乙が婚約をし、末永く幸せに暮らすことを目的とし締結する。
第二条 契約には以下の義務を伴う。
一、甲は乙が音痴でも求婚を承諾する。
二、甲は乙がダンスが下手でも求婚を承諾する……」
これ以上は読まない方がいいかも、と私は静かに目を伏せる。……が、やがてペンを手に取った。
ファミレスを出て、会社へ戻る足取りはちょっとだけ重い。ビルの合間の澄み渡った青い空を見上げて、私はしみじみと思うのだ。
たぶんだけど、明日、フラッシュモブでプロポーズされるんだろうなあ。