2000字小説「無病息災。」
東京で疲れ果てた身体に、山梨の冬の夜の空気は沁みすぎる。
スカートなんか履いて来るべきじゃなかった。
タイツ越しに氷点下の空気が肌を突き刺して、ふくらはぎまで冷たく固まってしまったようだ。
私はコートの首元をおさえて震えながらタクシーを降りると、街灯など殆どない道を実家の玄関まで小走りに向かった。
「ただいまぁ」
3年前、広告会社に内定をもらって上京して以来、はじめて帰って来た実家だが、玄関の匂いに包まれたとたんに緊張がほぐれた。
「あら絵里、遅かったじゃない。もうすぐ紅白歌合戦始まるよ」
台所から顔を出した母は昔と変わらない調子で言ったけど、その髪には白髪が増えたな、と私は思う。
居間では父がこたつのテレビが良く見える位置にどっかりと座り込んで、画面をじっと見つめていた。こちらに見向きもしないので、私も「帰ったよ」と言いながら横をすぎた。
台所の横、ダイニングテーブルに荷物を置いて、どっかりと座り込む。ここがいつも定位置だった。背を向けて台所に向かう母の、リウマチで膨らんだ手がせわしなく人参を千切りにする様子を眺めながら息をつく。
包丁はまな板を規則正しくトントンと打ち、鍋はぐつぐつと煮えていた。
「絵里、夜ご飯はもう食べた? 年越し蕎麦が残ってるから温めようか?」
「ううん、食欲ないから大丈夫。それよりさっきから何つくってるの」
「紅白なます」
「へえ、美味しそう。今年も手作りなんだね」
そうよ、と言いながら母は手際よく千切りにした大根と人参をお湯に通すと、すぐにざるにあけて、両手で堅くしぼった。
丸く固まった野菜は、春を待つ蕾のよう。お酢をかけて箸でかき混ぜると、橙と白の花畑が広がった。
母は続けてボウルに卵を割り入れ始めた。
「だし巻き卵、絵里大好きでしょう。大輔もよく食べるから沢山作っておこうね」
大輔、と聞いて私はちらりと天井をみる。2階の子供部屋では、大輔が変わらず引きこもってゲームをしているはずだ。就活で挫折して引きこもりになったなんて情けない。
「母さん、ビールをもう一杯」
リビングからの父の声に、母はうんざりした顔で冷蔵庫から缶を取り出した。
「絵里、悪いけどもってってくれる」
出されたのがノンアル缶だったので、私は怪訝な顔をした。父は「偽物は飲まない」とよく言い張っていたが、やっと健康に目覚めたのか。すると母は小さい声で付け加えた。
「お父さん、先月に肝臓がんが見つかっちゃったのよ。お医者さんにもお酒は止められてるの。初期だったし手術でなおるっていうから、絵里にも言ってなかったけど」
なるほど、言われてみると父の顔色は少し悪いような気もする。私が持っていたビールを、父はむすっとした表情で受け取った。
父のことは小さい頃から苦手だった。仕事ばっかりで帰る時間がいつも遅いし、帰ってきても不機嫌そうに酒をあおってばかり。私が勉強で上手くいかないと愚痴を言うと「社会で生きていけないぞ」と一喝して、寄り添ってくれることなどなかった。けれど自分も会社員になった今、少しは父の抱えていたものが理解できるようになった気がする。
私は黙ってこたつの中に足をいれた。父の大きな足に占領されていないスペースに体をねじ込んで、私は座布団の上に身を沈める。ああ、暖かい。テレビでは演歌歌手の派手な演出が繰り広げられているのを聞きながら、私は意識を手放していった。
「絵里、起きなさい。おせち食べよう」
母の声を聞いて、まさかこたつで寝たまま年を越した?と思ったが、ちゃんと居間に敷かれた布団の上に寝ていたようだ。花柄の毛布も、母がかけてくれたのだろう。こたつには綺麗な重箱が置かれ、母も父も、ぼさぼさ頭にスウェット姿の弟も座って、私を待っている。顔だけ洗って戻ると、私は一つ空いていた座布団に座った。
重箱に入っているのは、紅白なます、伊達巻、黒豆、海老と、色とりどりで鮮やかな品々。母は箸をせわしなく動かして小皿にとりわけながら、「それぞれに意味があるのよ。海老は長生き、黒豆は無病息災……」と話す。
弟は伊達巻を頬張って、「姉さん。頼みがあってさ、ES添削してくれない?」と言った。
父がぽつりと「大輔はうちの会社も受けるんだってさ」と少し誇らしげに付け足す。
私はすっかり肩の力がぬけて、笑ってしまった。
なんだ、真面目に就活してたんだ。
父がそれしきり黙って黒豆を咀嚼し始めたので、私も一粒口に運ぶ。来年も再来年も、こんな風に正月が迎えられればいい、そう思いながら。