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2000字小説「和室から」

 風鈴の音が静かに響く。
 畳の間にずっと居ると、時間の流れがなかなか分からなくなってくるのだが、代わり映えの無い風景の中の、僅かな変化をかき集めて、今は夕方か、とだけ考える。
 身体の自由が利かなくなってから、どのくらいたったことだろう。私の意識はつねに朦朧としているのだ。
 知らぬ内に始めたうたた寝から、再び意識が戻った時、部屋は襖の間から細く漏れる居間の灯りで、ぼんやりとあかるくなっていた。
 向こうから珍しく賑やかな音がするのは、長男と次女が久々に帰ってきたためのようだ。妻が慌しく居間と台所を行き来し、襖の前を何度も横切るから、灯りがちらちらとする。
 次女の産んだ双子は、もう這い這いが出来るようになったのか。暴れる子供たちをなだめる声、甘やかす声が聞こえる。私にもその顔を見せて欲しいのだが、呼びかけるための声は、喉をだめにしたせいで、空気がなるばかりだった。
 「お父さんにも挨拶しておいで」という妻の声。それから重い足音がして、私は胸をときめかせた。そして長男が襖を開けた。
 「おう、親父。帰ってきたよ」
 消防士になってから長男はますます良い体躯をしていた。私譲りの恵まれた体だ。
 「俺、この秋結婚するんだ。また奥さんを会わせにくるから」
 そうかそうか、それは良かったよ。父親としてこれ以上の幸せはない。私は表情を動かすことはできないが、心の中で微笑んだ。
 次女も赤ん坊を抱えて優しい顔をしている。赤ん坊を撫でたいが、それも我慢だった。
 妻に私は心の中で呼びかけた。親としての務めを果たせて良かったよな、私たちは。
しかし妻の顔は暗い。何か私は忘れている気がする。何か。そう、何か。
 玄関から音がし、家族は顔を見合わせた。
 「ただいまぁ、えっ。みんないんじゃん」
 長い金髪に、太ももを露わにしたミニスカートの女が、ブランドのバックを引っ提げて畳の間に入ってきた。濃い化粧ながらも、その面影で私は思い出した。
 冬の日、高校を中退すると言った長女にビンタをした、手のひりつきを。
 許してやるから帰ってこいと連絡しようと何度も思っては、できなかったことを。
 しかし感傷的な思いは一気にかき消された。「どの面下げて帰って来てんだ、この野郎!」 ドスの利いた声は、違いなく、妻のものだ。
 「事故の時だって来なかったくせに、3年経って、よく父さんに顔向けできるね!」鬼のような形相で、妻は長女を睨んでいた。
「だから今帰って来たんでしょうが!」と長女は金切り声をあげる。
「落ち着けよふたりとも。」と長男。
「おぎゃーー! 」と双子。
「あーもう、よしよし。」と次女。
 妻はどこから持ってきたか、竹刀を右手で振り回しだした。学生時代に煙草をふかし、竹刀を担いでいたこの強い姿に、私は惚れたのだったと思い出しもしたが、竹刀の先がラックにあたり、    CDケースが床に散らばったところで、私は我に返った。あそこには確か安室奈美恵のサイン付きCDも置いていなかったか。手に入れるのに苦労したんだぞ。
 止めたいのに、ああ。なぜ私の身体はこんなにも自由が利かないのか。
 ずっと高校の体育教員として勤め続けた私は、休みの日にツーリングに行くことが趣味だった。学生時代からずっと仲のいい奴らと、道路を走っていて、そして…。
 もの凄い衝撃と、目の前が真っ赤になっのだ。  とても、怖かった。
けれど気がついたら、この畳の間に帰ってきていた。あれから、もう、3年も経ったというのか。

 居間では長女が髪を振り乱して、手当たり次第に物を投げながら逃げ惑った。コップが転がり、お茶が床にぶちまけられ、家の中は阿鼻叫喚図となったが、私は耳をふさぐための手も持たない。まして、この騒ぎを一喝して止めることなどできないことが、悔しくて、悔しくて、私は最後の力を振り絞った。

 ぱたん。
 最初に気づいたのは長男だった。
 「おい、おい。見ろよ、仏壇。」
 「やだ、写真が倒れてるじゃない。」と妻も悲鳴を上げる。
 「お父さんが怒ってるんだよ」と長女は妻にぴったりと抱き着き、妻も抱き返した。
 次女も黙って赤ん坊達を引き寄せた。

 家族は皆、口を半開きに、こちらを見ている。その顔のあまりのそっくりさに、満足した私は、再び眠気に身を任せることにした。
 風鈴の音が、静かに響いている。

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