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「忘れられない景色(1)」

 僕は小学三年生の時、神かくしにあった。

 当時は年が二個上の姉と一緒に、僕は地域のスポーツ教室の、あけぼのサッカークラブに通っていた。
 僕のクラスメイトの父親で、元Jリーグ選手だった澤村繁がボランティアで運営しているこのクラブは「サッカーを通して自立したこどもを育てる」がスローガン。

 小学生の大会ではいつも上位にはいるし、クラブの子どもたちの素行は良く、勉強にも精を出すので、地元では最も人気なクラブだった。

 人気といっても小学校のみんなが入りたがったというよりは親達が熱心に自分の子どもを会員に入れたがり、クラブに入会するには既存会員の母親と懇意になり、口聞きしてもらう必要があった(もしかしたら菓子折りなんかも貢いだのかもしれない)ということを僕はだいぶ後になって知った。

 姉と僕も、母の熱烈な願いと行動力によって入会したくちで、僕が小学校に入りたての春の日曜の朝に「河辺でピクニックしましょう」と言う母に車で連れられて、多摩川の河川敷にある、あけぼのサッカークラブ体験練習の会場にやって来た。

 白けた空の下、運動場にベンチコートを着てぬらりとそびえ立つ澤村コーチの黒くて大きな影を初めて見たとき、僕は思わず自分の体が強張ったのを覚えている。コーチは手を後ろに組んだまま、身じろぎひとつせず、くぼんだ目だけを動かしてこちらを捉えた。

 コーチの周りには、彼の腰ほどの身長の子供達が、懸命に地面を転がる球だけを見つめて、右に左に走り回っている。

 まるで軍曹と奴隷のようだ、と僕は恐れおののいた。そしてまもなく自分もその一員にならなきゃならないんだろう、という確信があった。

 その予感は果たして当たっていた。僕は週のうち五日を、その河川敷の練習場でボールを追いかけて走り回るようになった。他の子と同じようにコーチの言う事には一言も漏らさぬよう耳をすまし、過酷なトレーニングに身を浸すようにもなった。母は毎日、泥だらけの練習着を洗濯した。

 しかし悲しいことに、僕にはサッカーの才能が無かった。おまけに身体は思うように成長しなかった。同級生達の背はぐんぐんと伸び、肩やふくらはぎにも伸びやかな筋肉がついて体重も重くなっていくのに対し、僕のふくらはぎはいつまでも棒のようで、肩幅も華奢なまま。コーチには「チビ走れ」「おいチビ、気持ちで負けるな」とたまに叱咤があるときも名前すら呼ばれない。

 僕は身体も価値も、ちっぽけな存在だった。

 次第に僕は戦意を失っていった。ボールをドリブルしながらゴールを目指すとき、左右から相手チームの身体の大きな子どもにはさまれると、途端にゴールまでの道のりを遠く感じ、ボールを放り出したくなる。

 クラブには嫌な意味で頭の良い子達が沢山いて、ファールにならないくらいの絶妙な加減で、ぶつかってきてはボールを奪い、反則に近いプレーをした。身体の小さな僕は恰好の標的になる。ホイッスルが練習試合の開始を告げるたび、僕は試合が終わる頃にはひしゃげて落ち込む自分の姿を想像してみじめになった。

 やがて年下の子が入会してくると、あっという間に技術は追い越され、僕は練習試合ですらメンバー入りできず、コートの外でボール拾いをすることが多くなった。


 トレーニングの合間の休憩時間、芝生に三角座りになって草をちぎり続ける僕に話しかける友達もいない。練習がある日の朝はとても憂鬱になった。
 それでも一歩ごとに重くなる足を懸命に動かして、あけぼのサッカークラブに通い続けた。

 僕にはどうしても辞めたくない理由があったのだ。   (続く)

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