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2000字小説「船幽霊」

 霧が立ち込めて、行く先も過ぎ去った場所も見えない所を、舟はゆらり、ゆらりと進んでいく。

 月明かりも靄の中ではおぼろげで、黒い海の波はただ濁って、底知れぬおどろおどろしさがある。

 与一は船頭に座って、見張りとして先を見つめながら、鼻をすすった。ちゃんと前を見続けていなければ、とっつぁんに怒られる。なぜなら夜霧の中が一番、盗賊に襲われやすいからだ。

 とっつぁんと、おじちゃん達は暗い眼でぼんやり辺りを見ながら、舟をこぎ続けていた。静かな波の音だけが、闇夜に響いている。

 十二になる与一にとっては盗賊よりも恐れるものがあった。古くから村に伝わる、船幽霊の話だ。海に沈んだ魂が舟に乗って旅をする日、生きたものに出会うと、決まって、こう言うそうである。

「そこの人。柄杓をくれませぬか。」
 そう言われたら、底を抜いた柄杓を渡さねばならぬ。もし普通の柄杓を渡してしまえば最後。幽霊どもに舟を沈むまで、水を汲み入れられるのだ。

 服が霧に濡れたせいかじっとりと重い。ぶるぶると震える細い身体を、与一は己の手で抱きしめた。

 村に早く帰りたい。かあさんに会いたい。頭の中はそればかりである。


 懐がむずがゆくて探ると、虫が湧いた握り飯の塊が出てきた。かあさんが握ってくれた飯だったが、食欲はない。与一がそれを投げ捨てたとき、自分たちの舟の横に、大きな舟がいることに気が付いた。音も気配もしなかったが、その大きな舟は突如、そこにいたのだった。

「おい、こんな夜になぜ海に出ている。」

 とっつぁんが太い声で問いかけると、霧の向こうから声が帰った。

「おまいらは××村の者か。他の奴らが盆には海に出ないのを、密漁の良い機会と考えた賢いもんはわし等だけではなかったとな。」

「罰当たりな。誰がそんなことするか。ご領主さまが知ったらただではいられんぞ。」

 とっつぁんが言い終わる前に、隣の舟から人影が立ち上がって、こちらの舟に乱暴に足をかけた。重みで舟が左右に大きく揺れる。

「ならば、知られぬようにするまでよ。」

 霧の中から現れた醜い男は、錆びれた刀を担いで与一のすぐ横からじろりとこちらを見ていた。殺意のこもった目。大きく揺れる舟。冷たい海の底。恐ろしさに身が震える。

「与一。」
 とっつぁんが呟くのと、与一が動くのは同時だった。

 与一は足元にあった柄杓を手に、勢いよく立ち上がると、それを男の顎めがけて振り上げた。ごん、骨に当たる音がして男はのけ反ったが、一方で与一から柄杓を取り上げてしまって、遠くへ投げ捨てた。水面に落ちた柄杓はすぐに沈んで見えなくなってしまった。

「小僧、よくもやってくれたな。」
 醜い男は、今にも与一を突き刺さんとしたが、ふたりの目が合った時に、一瞬ひるんだような、戸惑った顔をした。

 青白い与一の顔面。両目は落ちくぼみ、涙が川のごとく流れ続けていた。

 うんんんん、とか細い泣き声は、霧の中に響き渡り、なんとも不幸な化け物の叫びのように響いた。その気味の悪さに男が思わず与一を手放すと、隣村の舟の周りの波が、無秩序に乱れはじめた。

 そこだけ霧が晴れると、露わになった景色に隣村の男どもは目を見張った。

 舟の周りの海面から白い手がいくつも伸びて現れたのである。余多の手が柄杓を傾けるだけで、とめどなく海水が流れ出て、舟の中に溜め入れられてゆく。

 しばらくして与一達が離れたところから振り返ると、うごめく腕に包まれて身動きが取れない隣村の舟は、海面に咲いた白い菊の花のようにも見えた。沈みゆく舟から男たちの悲鳴はやがて小さくなっていき、再び濃い霧にあたりが包まれて何も見えなくなると、静寂が訪れた。

 与一は船頭に座りなおし、先を見つめながら鼻をすすった。
 舟が揺れて、とっつぁんが船頭にやってきた。冷えた手が与一の頭を撫でた時、与一は声をおし殺して、泣いているところだった。

「やくやったな、与一。もうじきかあさんの所に帰れるからな。」

 ふたりの体は、嵐で舟が沈んだ日のまま、びっしょりと濡れて、水が滴り続けているのだったが、親子の抱き合う姿は幸せそのものであった。


 霧が再び晴れたとき、そこは皆の故郷であった。

 海岸に立って祈りを捧げる老いた家族の姿を見て、船上のいくつもの魂は、きらりと輝いてから、消えていったという。

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