1000字小説「生地をこねて」
ガラスのボウルに、ぬるま湯を注ぎ入れながら、私はキッチンでほっと息をつく。
小麦粉とドライイーストを手でかき混ぜ、湯になじませていく作業は、趣味で長年続けてきたパン生地作りの中でも好きな作業だ。
暖かい生地の中でドライイースト菌は徐々に発酵し、生地を柔らかく膨らます。冷水をかければすぐ死滅するような繊細な菌だから、温度管理が何より重要なのだ。
私はずり落ちる赤いニットの袖を、粉が付くのも気にせずまくり上げ、そっと笑った。
木枯らしのなかで、寒さに震える健介に、私の白いマフラーを巻いてあげた時の笑顔を思い出す。三日月のように細められる目が愛おしいのだ。寒さが何よりも苦手な彼は、この生地がこんがりと焼きあがる前に、真っ白な息を吐きながら帰宅することだろう。
練って丸めて、大きな大福のようになった生地に、濡れ布きんをかけて一度寝かせる。膨らむのを待つかたわら携帯を触わっていると、メッセージが届いた。
「ごめん! 帰るのちょっと遅くなりそう」
健介からだ。私は焦って返信する。
「そうなの? 何かあった?」
既読は付かない。あっという間に陽は落ちて、外は真っ暗だ。健介の帰りが遅くなることなんて滅多にないから、私はそわそわと落ち着かなくなる。
生地を発酵させすぎるのは良くないので、携帯を置いて、作業に戻った。綿棒で丸く伸ばして広げると、柔らかな生地はまな板いっぱいのサイズになる。
今日のために買った、とっておきのチーズを冷蔵庫から取り出して、一口サイズにちぎる。ゴルゴンゾーラに、モッツアレラ、チェダーチーズと粉チーズを生地の上に広げて、トレイごと予熱しておいたオーブンへ入れ、焼き始める。
とろけたチーズと香ばしい生地の香りが、キッチンと居間に充満し始めたころ、玄関のドアがガチャガチャと開錠する音がして、開いた。
「ただいまー。あ、美味しそうな匂い!」
健介が青いランドセルを背負ったまま、キッチンまでつかつかと歩いてきて、赤らんだ鼻を幸せそうにひくひくさせた。
「塾、長引いたの? 返信もくれないし」
私が口を尖らせると、息子の健介は、ランドセルからごそごそと何かを取り出した。
「……これをママに渡したかったんだよ」
取り出されたのは、駅前の花屋の舗装に包まれた一輪のガーベラ。亡き夫が好きな花だった。
出来立てのピザに、蜂蜜を回しかける。チーズの塩気と絡みあい、濃厚な味わいになるだろう。
作り置きのシチューに、グラスに注いだシャンメリー、食卓の真ん中に焼き立てのクワトロフォルマッジピザを置いて、その横に小さな小瓶に挿した白いガーベラを並べると、私と健介は微笑みあった。
さあ、ふたりのクリスマスディナーを始めよう。