よくあるごった煮の話だ――キズナイーバー(6話)を枠物語から考える
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〈目次〉
1 額縁/メタ・ストーリー
2 埋め込まれた物語の枠
3 越境する劇中劇
4 失われた枠組み/物語
5 「よくあるごった煮の話」の話
6 ろくでもない話(余談)
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1 額縁/メタ・ストーリー
TVアニメ『キズナイーバー』は、痛みを分けあうキズナシステムで結ばれた少年少女の群像劇である。このことから、みんなや仲間といった他者との関係性(その中でも、3・11以降、繰り返し取り持つことが奨励された「絆」)が作品テーマであると見られているだろう。だが、その根本には(他者というよりも)むしろ自己の問題、あるいは自己との対話(もっとはっきり言えば「自己への配慮」※1:出典)が問題の核に据えられていると言える。つまり、一般に関係性という言葉から連想されるような他者との関係から自己を捉えるのではなく、自己と向き合うことを通じて、他者と向き合い、延いては世界と向き合っていく――言い換えれば、この様に自己―他者―世界と向きあいながら真理を語る主体が描かれる可能性を秘めている。
Triggerの動きで生きるキャラやストーリーの良さ、設定の面白さからでも十分に楽しめる『キズナイーバー』ではあるが、その奥にもう一つ深く掘り下げられる面白さが潜んでいそうなところが、この物語の楽しみになっている。その意味でも、本作は「よくあるごった煮の話」などではない。
もっとも、この点については結末を見届けてから改めて考えることにしよう。以下でのキーワードは枠物語(frame narrative)である。
2 埋め込まれた物語の枠
ある人が劇中劇の重要性について注目しながら映像作品を見ているので、ちょうど『キズナイーバー』の6話に出てきた劇中劇から、あれこれと考えを広げてみたい。この回では、「上から選民」こと牧穂乃香が、中学生当時二人組のマンガ家として、シャルル・ド・マッキングという名で一躍時の人になっていたことが明かされた。『天国からの約束』という彼女らによる作品の存在が、『キズナイーバー』(6話)を枠物語たらしめている。「劇中劇」が埋め込まれているような、物語の中に物語を持つ形式のことを文学理論では「枠物語」と呼ぶ。
『天国からの約束』の内容は、由多次人(狡猾リア)によれば次のようなものだ。
女子中学生が女教師に恋い焦がれ、かなわない恋心のつらさから、同級生の幼馴染とつきあうようになる。それにプラスして、集団イジメやら不治の病やら、ショッキングな内容とお涙頂戴が散りばめられた、まぁよくあるごった煮の話だ。(6話より)
この漫画を一緒に描いた相方が今は故人であり、その死に牧が深く責任を感じている様子が今回明らかになった。これまでにも初回のラストカットで、人を殺した過去があると言い放つことで強烈なヒキをつくりつつ、自ら性格が悪いと「自己紹介」をするかたちで示されていた牧の過去(これは6話で触れられている)。そして、新山仁子(不思議メンヘラ)を相手に、友人関係を築きたがることに否定的な反応を示すのみならず、突き放す様子。これら牧穂乃香の「上から選民」っぷりが、何故そうだったのか――その決定的な部分は未だ語られてはいない――が、徐々に詳らかにされつつある。これらが、牧から由多に投げつけられ、その後で彼が劇中マンガの中に発見した「壊れたっていい」というセリフに、どのような理由によってつなげられてゆくのかが次回の見所である。
3 越境する劇中劇
作品が枠物語のスタイルをとる場合、枠の内外の出来事が絡み合うことにより、伏線が効果的にカタルシスを促し、ストーリーを盛り上げる。「キズナイーバー」のなかに登場する劇中劇であるところの『天国からの約束』からは、どのような示唆が得られるのか、考えてみよう。
はじめの「女子中学生が女教師に恋い焦がれ、かなわない恋心のつらさ……」という部分は、同性愛モチーフだ。もちろん、まずは作者である牧と、相方であった瑠々(紫髪ショートヘアの少女)との会話や距離から、この二人の関係性に同性愛の可能性を見出だすことになろうが、この他これまでに日染芳春(インモラル)に対し、天河一(脳筋DQN)が男色の疑念を向ける様子が4話に差し込まれている(※2)。また、スクールカウンセラーの漆原睦も、キズナイーバーたちを翻弄する首謀者である園崎法子のことを「のりちゃん」と呼び、同じ生徒であっても、大切なのはキズナイーバーたちではなく、彼女だけであることを言ってのけている(2話)。BLや百合を倒錯と捉える偏見が是正され、これらの存在が当たり前となった今では、逆に容易に想起される上のような三組は、むしろミスリードされているようにも思えてくるが、いずれかの形で同性愛と向き合うことになることはまず間違いないだろう。
続いて、「同級生の幼馴染とつきあうようになる」かどうかでヤキモキしているのが、高城千鳥(独善ウザ)である。千鳥は、突然園崎が現われ、想い人である阿形勝平(愚鈍)が魅かれている様子に気が気でないのだが、勝平の夢の中を覗き見ているワタシたちは、その夢の中で出会っている少女の面影が法子と重ねられていることを知っている。その意味では、千鳥―勝平に加えて、勝平―のりちゃん(園崎法子)もまた幼馴染である可能性が示されている以上、彼女の逼迫感は未だ高みへの階段を残している。負けヒロインや滑り台が定期的に話題になるように、アニメに登場する幼馴染の恋が成就するのかは常に物議を醸すところではあるが、天河が高城千鳥に惹かれている様子と、それを新山仁子が察知しているように受け取れるカットが見られることが、恋愛関係がもつれるであろうことは既に暗示されており、そう簡単にコトがススむ気配はうかがえない。
頭が良いことを執拗に隠す新山仁子の過去に、「集団イジメ」があったのではないかと推察するのは容易だろう。友達を作ることへのこだわりの強さと、嫌われそうな個性は隠しつつ、あえて浮くほどまでに人工的な「個性」をアピールする不自然さ。これらが「不思議メンヘラ」の背景にありそうでならないが、だとすればどのような「集団イジメ」によってその罪を背負うに至ったかの描かれ方が気になるところだ。これは推測だが、徹底した無視などがあったが故に浮くほどに無視しえない振る舞いをし続けている……という線ではありきたり過ぎるだろうか。
実験都市洲籠市の市長へとキズナ計画の報告に行った帰りの車の中で、園崎法子が腕に注射を打っている様子が描かれており、これは「不治の病」を連想させる。深窓の令嬢といった雰囲気、色素の薄さや陰を持った様子も、これに拍車をかけている。他方でまた、牧の相方、瑠々の死因についても、回想シーンに体調への配慮をする台詞があることから「不治の病」によるものだった可能性は高い。さらに性癖などに援用した用法まで拡大するなら、日染芳春のインモラルを「不治の病」の一つと見做すこともできるだろう。ただ、これだと三つ子の魂百までよろしく、「新7つの大罪」の7つすべてが、罪であると同時に「不治の病」であるようにも思えてくるので際限がなくなる。
やはり5話のラストで「今ならまだ間に合うかもしれない」と言っていることからも、法子が「不治の病」を抱えている公算が高い。そこから、残された歳月のうちにキズナ計画を確実なものとすることを法子は自らの使命と考えていると見るのは、諸々の強引な手法(拉致や「手術」の強制など)の行使と併せて、そう突飛な事ではないだろう。ひょっとすると、法子の延命がキズナ実験の成果にかかっているといったケースもあり得るだろう。
ここまで、劇中マンガから『キズナイーバー』のキャラやストーリーとのリンクを思いつくままに探ってきたが、6話の終盤で敢えて顔を映さないことでその思考の気配を窺い知ることのできなかったのりちゃんが、さながらチューニングを思わせるように「ラ」の鍵盤に触れていたラストカットを想起しながら、もう少し彼女について考えてみよう。
4 失われた枠組み/物語
園崎法子は、抱えている何かしらの病が理由で、これまでに何かを喪失しているのかもしれない。というのも、法子は――あれだけ「新七つの大罪」を重要なキーワードであるかのように示しておきながら――、それよりも重大な罪として「忘却ぶりっこ」に言及しており、しかもそれが自らのことであるように語っている。鉄面皮クールとでも呼べそうな容貌・振舞・話し方の法子は、キャラ紹介に「感情の機微が乏しく、人間味を感じさせない」とあるが、「人間身を感じさせない」のは、恐らく何かを失ったからなのだろう。失ったもの、即ち忘却したものが、「ぶりっこ」であると見立てるのは、あの派手でガーリーな携帯やパジャマを想起すればそう難しいことではない。もしそうだとすれば、その「ぶりっこ」が具体的になにを意味するのか――そして、なぜそれが「本当の罪」なのか――が、今後描かれることになるだろう。
園崎は「忘れてしまいたい過去は、絶対に忘れてはいけない過去なんです」と語っている。忘れていないからこそ「忘れてしまいたい」のだが、その大切さを彼女が知っているのは忘れてしまった事で何かを失ったからなのではなかろうか。ここから、まだ間に合う(つまり、記憶や感覚を取り戻せる)勝平に対し、もう取り戻せない(忘却の)法子という対称性があるようにも思えてくる。二人のカラーリングが白系統で近しいのは、白がなにかを取り去った(漂白した)、色を失った色というイメージからきているのかもしれない(実際1話の冒頭で勝平の頭髪の色が抜けるようなシーンが見られる)。
また忘却が罪ならば、罪には罰が課せられることから、最大の罰としては死が与えられるという連想を経て、再び法子の生命に何らかの制約が付きまとっているように思えてくる。物語の中心の二人に、どのような失われた物語があったのか――この点が終盤へ向けての注目点であることは間違いない。
5 「よくあるごった煮の話」の話
『天国からの約束』は「ショッキングな内容とお涙頂戴が散りばめられ」ているストーリーのようだが、「キズナイーバー」が今後どのようなショッキングな展開を見せ、(お涙頂戴とはっきりと言わないまでも)泣かせる仕掛けをもってくるのかは、視聴者が皆楽しみにしていることだろう。人の痛みを知ること、人の気持ちを知ること。これらがテーマである以上、後者への期待は必然的に高まってくるし、これが岡田磨里の原作・脚本であるならそれは尚更のことである。
結末へ向けての助走は、心の痛みも分け合ったことで痛みを一人で抱えることにならずに良かったんだと新山仁子(不思議メンヘラ)が言ったところから、もう始まっている。しかし、ここから「他人の痛みを実感として得ることが、争いのない平和な世界を導く」という、お題目ではない本当のキズナ計画の目的が明かされるまでには、まだドラマの積み重ねが不可欠である。また、その「目的」がエヴァンゲリオンの人類補完計画的なものとなるのか否かも、作品の成否を決める重要なポイントとなることだろう。
身体と心の痛みの先に、なにか更なる共有が遂げられるようになるのか。既に(これはキリスト教的な色彩の濃い言葉だが)ミッションをクリアすることで一体感を持ち始めたキズナイーバーたちは、繋がりによって痛みが分散されることによって、試練を乗り切ることが出来るのか試されているのだが、しかし、このキズナシステムの存在ゆえに、感動のカタルシスもまた分散され、軽減されてしまう恐れがあると見る向きもあるだろう。もっとも、ワタシとしては、そのような危惧にこそ『キズナイーバー』がより深みを持ちうる契機が潜んでいるものと見ている。
これまで、世に多くの「感動作」が生み出されてきたのは、痛みを受け入れることや、痛みを乗り越えることが人間にとって困難であるためであり、だからこそその様子を多様に描くことが出来たからに他ならない。そこでは往々にして、苦痛や犠牲、あるいは喪失が伴ってきたと言えるだろう。これは、その苦痛や犠牲や喪失が、たとえ乗り越えるにしても不当なほどに巨大なものだったとしても、それに立ち向かうという姿勢を持つ時点で評価されていること窺わせる。言い換えれば、痛みは、ごく当然の対価として、代償として、甘受されるものという認識が広く行き渡っているように思われる。
これに対して、痛みを分散するというキズナシステムの存在を『キズナイーバー』において描くということは、当然の対価として世に広く受け入れられている「痛み」という存在そのものに立ち向かっていく(ことによると否定することもあり得る)ことが、あるいは企図されているのかもしれない。痛みというものが、本来の生存に必要な警告機能を超えて、文化的・宗教的ないし精神的な意味を伴いながら、みなが当然に甘受している根源的な感覚(ひっくり返った「生きている実感」)となっている様子に迫りたいのではないか、と思えてくる。世界中に肉体に痛みを加えることに意義を見出す教義や慣習が今も強く残る中で、痛みの配分や軽減が生の質(QOL)との関連で徐々に広まりつつある動きと重ねてみるのは、すでに本題からはだいぶ逸れてしまった藪睨みの域に達した感があるので、「ごった煮」としてしまう前に、このあたりで止めておくとしよう。
ただし、6話において、身体的苦痛としての痛みよりも、心の痛みにより重きを置くような展開が阿形勝平の言によって切り開かれている。そして、それはキズナシステムの外側から傍観している園崎法子との間に、明らかに一線を引くことになる強い言葉――軽蔑―を発する結果となった。痛みに鈍いことと、人に興味がないことにより、人を傷つける自覚のなかった彼が、キズナでつながった牧への実験のありかたを巡って、のりちゃんを傷つけんとする言葉を投げるに至ったことは、大きな変化であることに間違いはない。もっとも、このことにより、キズナ/絆というものが、繋がれている人同士の気持ちを絆(ほだ)すことは出来る一方で、外部に対して排他的になり得る危うさと表裏一体となっていることを明らかにしており、テーマの深部につながるものとして見ると、とても興味深いのである(これだけでも、冒頭において「自己への配慮」に触れた理由が、多少なりとも伝わったのではなかろうか)。
6 ろくでもない話
以下余談。
『キズナイーバー』では「7つの大罪」への言及があることからも(また上で述べたように「ミッション」といった言葉から連想されるように)キリスト教的な語彙からの借用が見られる。そこから、阿形勝平という主人公の名前が「アガペー」と関連付けられているように見るのは、穿ちすぎだろうか。隣人愛(アガペー)を忘れた(失った)少年が、キズナを通じてそれを取り戻すというストーリー、と考えるのは通俗的ながらも、それゆえの判りやすさがあるように思える。また、このように名前から意義を汲むような見方を敷衍すると、園崎法子を「その先の利己」ないし「利己・の・その先」して見ることで、ポスト・キズナ計画のヴィジョンの鍵が彼女に握られているように思えてくる。あるいは「その先[の]法(ほう/のり)」といったかたちで、法や秩序の「先」にある、争いのない平和な世界と向き合う/目指す様子を示しているのかもしれない。
高城千鳥は、鷹匠という狩人の同音と、たくさんの鳥の騒々しさを連想させる、ある意味で対極的な組み合わせとなっているものの、千鳥の場合は、その「独善ウザ」のうるささを表しているように思える。また、天河一は天下一から「脳筋DQN」の武闘派っぷりを体現したような名前と見るのはド直球過ぎるだろうか。なお、円盤の2巻を飾るのがこの二人というところからも、幼馴染との失恋の救済(悪く言えば保険)への路が整備されつつあるように見えてきてしまい、ここは予断をゆるさない。
また、由多次人を「ユダ[を]継ぐ人」に解すれば、狡猾リアという罪のラベルと相まって、裏切ることを運命づけられているように見えてきてしまう。ただ、これまでの彼の働きを見てくれば、忠告をするという意味での「告ぐ」(人)という方が妥当なのかもしれない。養殖から天然のイケメンへと話を移すと、日染芳春を、芳醇な春が潜んでいる名前と見るならば、そのまま「インモラル」と合致しているように見える。だとすれば彼が何を秘しているのかが気に懸かる。6話で牧を救うミッションを仕掛けたのが園崎じゃないかと、日染は言い当てているように見えるが、それ自体にも何かの作為ゆえのことなのもかもしれない。
(なお、牧穂乃香と新山仁子については、アナグラムや音からの連想により着想を得るには至らなかった。)
注記
(※1) 出典情報は下の有料記事部分にあります。ご興味のある方はご購入の上ご確認ください。ただし、この言葉にピンと来ている場合は、わざわざ確認するまでもないと思いますので、念為。
(※2) 日染に対し天河が「性的倒錯」の疑念を向けるのは、(ホモセクシャルが多いとされつつも)表面的にはホモフォビア的マスキュリニティを顕示しがちな「脳筋」の面目躍如として描かれているものと考えられる。ただし、可能性は薄いが、天河が阿形の家に入り浸っている様子から、この両者のあいだのカップリングもないことはない、のかもしれない。この場合、天河は千鳥に好意を持っているのではなく、自らが勝平に向ける行為を禁忌と考えるがゆえに千鳥を応援し、勝平と恋仲にさせることで、自らが持つ逸脱の選択肢を排除しようという心理が働いている……など、いくつかの可能性が考えられるが、1クールのアニメにそのようなスピンオフないし二次創作的展開を盛り込めば、それこそ「ごった煮」では済まない盛り過ぎ感があふれてくるおそれが高くなるとみられることから、ここで触れるにとどめておこう。
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