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日々がすぎるのが早い。そして日頃思うこと。

それなりに、やることこなして、合間に適度に(多めに?)休憩しながら、気づくと夕方になってる。
昨日なんて朝、昼、夕とご飯食べた記憶しかなくて、”えぇ~っと何したっけ?”と思い返して、多少の家事と雑用をしたのを思い出して、ああやった、と再認識した。
気づくと"もうご飯の時間?”と思い、用意する(つくる)→食べるのくり返しな感じ。

いろいろと変わり目でもあるのかなあ、と漠然と感じていて、日々の仕事をこなしながらだとちょっときつかったのかな?と思うとむしろ今のたまたま無職状態も悪いものではないのかなと、プラスにとらえてみたり。

多少の備えはあるので、今日・明日食うに困るという状況にはならないと思うのでズルズル様子見をしている。ずっとこのままはまずいけど。
あたり前だけど単発で自分に都合の良いバイトはそんなにない。

お金のかからない楽しみでも見つけて動けばいいのだろうけど(noteを書くのもそのひとつの位置づけではある)、休憩と称してtwitterとnoteをエンドレスで見てる。知らない言葉(現在のはやり的な言葉が多い)をググったり。

すこーしずつ片づけたり、きれいに(掃除)したりもするけど、まあそんなに気づかれない。一日一個や一か所と地道にやってはいる。仕事してるとすべてが後回しになるので、良いことだとは思うけど自己満足。

いつも考えの行きつく先が、みんな働きすぎだし、こんなに物が必要なのだろうか、と思うほどの店に並ぶ洋服や雑貨や食品の数々…。
豊かさってなんだろう、と常々思う。物にあふれ、囲まれ、使いきれず結局捨ててしまったり。
無駄に作ってるということは無駄な労働も生み出しているわけで。

一時期仕事で病んでいた時(というか割と常々)、給料下げてもらっていいから働く時間短くしてくれ…と思っていた。
それを思うと今がそれなのかな、とか。(無給だといつかご飯食べられなくなるので、適度な仕事・収入は欲しい…)
ほんとに難しい。正社員は給料・福利厚生はしっかりしてる(と思う)。パートは自分の都合に合わせて時間など多少は選択できる、けど安く使われてしまうイメージ。自分も学生の時バイトしてたけど、自分の子に積極的におすすめはできない(搾取されてるのかな?というイメージを今は持ってるので)。

自分のつくりだすもの(関わること)で喜ぶ人がいるのは良いことだと思う。芸術、商品、援助・支援。
なんだろう、システム化されて歯車にされちゃうから納得できないのかな。
しょうがない、と折り合いをつけて生きてる人が大半なんだろうけど。
自分もなんだかんだとその社会のシステムの中でここまで来れたわけなんだけど。
我が子がもうすぐその社会に飛び立っていくわけで。
自分はな~んにも考えてなかったし、社会の仕組みもほぼわからずに社会人になって、税金もそういう仕組みなんだ、高いな、なんて思うのはほんとにここ数年。それまで知らずに収めてたからね。
機会をとらえて、こうだよ、とさらっと子に伝えたりするけど、実感するのはやっぱりまだまだ先なんだろうなあ。

子が自分の思い描く未来に向かえていれば、それでいいかな、と(多少の心配・不安はあれど)。時代的背景はほんとにそれこそガチャ要素ではあるけれど。本人の納得感があれば、違うなと思ったらそこでまた進む先を考えれば良いと思うし、自分で舵取りできることが何よりも大事だと。

話がまとまらないけど、疲れたので、いったん終わりにします。

生き方は自分で選択することが大事、とあらためて思う。


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