見出し画像

働く、ってなんだ?

さっき急に思ったというか気づいたのだが、
どうして働かなきゃいけない、と思い込んでいたんだろう、と。

生きていくのにお金が必要で、だから働く、働いている、とずっと思っていた。
でも、最悪(ほんとうに出来るのかは別として)野菜育てて暮らしたらなんとかならないか?と思ったり。

働くのがあたりまえと思っていた(思いこまされていた?)ので、育ってきた環境、すごしてきた日々に様々な刷り込みをされてきたのかな・・・と。

"働きたくない”って【働かなきゃいけない】という前提があるから思うことで、『働かない』と決めてしまうことも出来るわけで。


今まで割とすさんだ職場にいたので、心も荒れ気味でした。
それなので、『心穏やかにすごせますように』と念じてすごしていました。
職場が変わり、穏やかにすごせる割合が多くなり、穏やかにすごすことはできつつある今、じゃあどうしたい、どうすごす?と考えた時に、
『楽しい人生を送る』ということが思い浮かびました。

割と何かしら音楽と共にすごしてきた(歌う、楽器を弾く、踊るなど)のですが、ここ最近は全くそういうことをやりたいという気持ちや情熱のようなものがパッタリとなくなってしまい、少々のとまどいもあるのですが、他にこれがやりたい、というものもほぼなく、年を取った・欲がなくなったということなのかな?とぼんやり思っていて、暇な時間はtwitterを見ている、という状況です。

楽しい人生とは・・・快適な生活環境の中で心地よくすごす、ってことなのかな?と思いつくのはそのくらい、という華々しさはなくたんたんと日々をすごせればと思っていて正直感情のジェットコースターはもういいかな、と。
今思えば、多分40歳頃をピークにいろいろ手放す方向に向かっていたのかな、と。今究極にない状態で(仕事、趣味、やりたいことなど)、何か残るんだろうか・・・と。何も残らなくても良いと思ってて、でも残りの人生はあるわけで、という状態な気がします。
もう少し(あと数年)子どもの巣立ちの後押しをすることが残ってはいるものの、行きたい道筋は本人が決めたので、日々のサポートと金銭サポートがある。

気持ちの落としどころを求めてるのかなあ。
日々のサポートだって十分に立派な働きだし。
自分含め家族が快適にすごせる場を維持するのって簡単なことではない。
(それでも必要最低限しかしませんが)

社会システムにもモヤっとしたものを感じていて。
本当に必要でないものも余分に余計に買わせようとするかの広告、あふれる商品たち。
欲しいと思わせるような戦略での売り出し方。
商売なのでそれが普通と言われればそう、なんですが。

仕事のストレスを買うことや何かの経験で発散させていた時期が自分にもあり、今思うと何のために働いていたのかな?と思ったり。
働くことに納得していなかったのかな、と。
なりゆき・流れでの就職。
考える暇なしの忙しさ。
この人素敵だなと思う人ほど退職していく職場。(そしてちょっと変わった人が残っていく)
自分も含めどこかが麻痺していないと働き続けていけない場所だったな、と。

自分の中で消化できていないのかな・・・。
惰性で働いていたのか?
場面ごとに目標・目的はちゃんとあったはず。
ただ納得できないことが少しずつ積み重なって、ここにあまりいたくないなという思いの方が強くなって、勤務先を変更。(肉体的・精神的に限界だった方が大きいが)


長くなって疲れてきたので、続きはまた今度・・・。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?