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綿(ワタ)

 千葉一族が二番目に手にした武器は綿の実です。インドから799年?に日本に入って来ましたが当初は観賞用でした。棉はアオイ科の植物です。綿は木綿となり、種から造られるコットンシードオイル(綿実油)は、熱に強い食用油で揚げ物に適し綿実粕は肥料になりました。
 
 菅原道真公の6代目・子孫、孝標(たかすえ)の娘。「更級日記」は任務を終た父と作者の娘が、京都へ帰る旅路から始まり途中で寄った「いかた(池田郷)」について触れている。
「ひきぬの(匹布)を千むら(疋)万むら(疋)織らせ晒させた・・」
匹布(二反の布)を千から万も織らす「まぬの(麻布?)長者」が池田郷にいると。
 「更級日記」で語られた1020年当時の池田郷は、麻や苧麻(からむし)の茎皮から糸作りをしていた。作業は根気のいる手作業で多くの人手を必要とした。この糸作りには、「たいら(均一)になるように、たいら(平静)な心で取り組んだ」との言い伝えが残ります。多分に平氏を意識した作り話のようです。
 綿の栽培・製造方法が1200年代に池田郷に伝わり綿の栽培が始まると、糸作り作業は一変し楽になりました。綿の種を持った商人は、塩害のある埋立地へと生産拠点を移して行きます。三河へ倉敷へ、人と歴史の中で綿花は育ちました。
「此浜ヤ此頃埋メテ棉ノ花」・正岡子規
 

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