見まわり同心

日向を探しに小さな旅に出ます、鳥になって。

見まわり同心

日向を探しに小さな旅に出ます、鳥になって。

最近の記事

岩槻区・見廻り隊1(城址)

 綾瀬川の架かる妙見橋を渡り北辰神社に参拝する。そして、東北高速道路を跨いでいる新妙見橋を渡る、大田道灌の最初の居城跡岩槻へ。 「露おかぬかたもありけり夕立の空よりひろき武蔵野の原」・大田道灌  6世紀頃、渡来人と共存共栄する東国(唐国?)では、東国の守りとして西国に唐を模した国を、天皇制を創ろうと考えた。この国創りを任されたのが曽我氏と中臣氏。二氏の守護神は利根川の鹿島神宮と香取神宮。両神宮の神職は小川一族が多い。 「東南風(いなさ)に吹かれ一日に何百も利根川を上って行く

    • 鎌倉市・見廻り隊5(安国論寺)

       松葉ヶ谷霊跡・安国論寺、境内にある日朗上人御荼毘所です。日朗上人は、元寇・弘安の役(1281年)の39年後に亡くなりました。この間、時代は大きく動きました。鎌倉御家人は借金に追われ商人は財力を蓄えます。 安国論寺境内に正岡子規の歌碑があります。 「鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説える日蓮大菩薩」

      • 比企小川町・見廻り隊(浄蓮寺)

         東秩父村大字御堂にある日蓮宗妙栄山浄蓮寺。東武東上線小川町駅前からバスで15分ほどにある日朗上人(筑後房)開山のお寺です。浄蓮寺は鎌倉妙本寺と同様、比企一族から彼に贈与されました。今朝境内では、11月2日に開催される法要儀式(御会式)の準備をしています。  鎌倉幕府後期、1274年と1281年に蒙古襲来があった。小川一族が襲来に備えて来た槇や杉の船材輸出禁止と「海上の道」を行き来した交易で培った造船技術や航海技術は活かされ日本国を救った。  そのリーダーの一人だった「筑後

        • 千葉市・見廻り隊18(不動明王)

           千葉神社の院内から来て都川を渡る。左は猪鼻山、その山根にある「不動明王社」と点前の「お茶の水」跡地です。山根の湧き水は「お茶の水」と呼ばれ、房総に逃げ帰った頼朝公や同じ一族の家康公も此処の「お茶の水」を飲んだ。  「平安時代に東国にはまだお茶がなかった」と否定する説がある。だが、太平洋には黒潮の「海上の道」が走り東国は百済を介せず印度や唐国と直接交易を行っていた。5月6月の季節風*に乗りやって来て、住み着いて渡来人となった人もいた。仏教やお茶の伝来は飛鳥より早い。主な輸出品

          台東区・見廻り隊9(鳥越神社)

           一月の「どんど焼き」、六月の「鳥越の夜まつり・茅の輪くぐり」の行事で知られる鳥越神社です。鳥越神社の神紋は、神社ゆかりの平将門や源義家の月星紋を使用している。正岡子規氏に鳥越の夏の句がある。 「藪医者の先がけしたる茅の輪哉」  鳥越神社に似た鳥のお寺が京都にあります。清水寺に近く雁金紋を持つ鳥辺山妙見堂。妙見堂は日蓮宗のお寺になっている。入り易く、妙見堂の舞台に立つと市内を一望できる。  京都でも多くの小川一族が名を残してきた。湯川秀樹氏もその一人、 「素粒子の世界の謎を

          台東区・見廻り隊9(鳥越神社)

          墨田区・見廻り隊3(法恩寺)

          「ななへやへはなはさけども山ぶきの みのひとつだになきぞあやしき」  江戸氏の家系が途絶えた。当時の江戸は坂東の中心地、商人や日蓮宗徒の力が強く室町幕府の上杉では統治できなかった。其処で、選ばれた小川一族の太田道灌が川越からやって来た。  画像は、蔵前通りにある太田道灌ゆかりの日蓮宗・法恩寺です。スカイツリーが近く展望台が見えます。 「武蔵野の小川の清水絶えやらで岸のねせりを洗いことすれ」・太田道灌

          墨田区・見廻り隊3(法恩寺)

          国分寺市・見廻り隊(児手柏)

           真言宗豊山派・医王山最勝院国分寺、境内は万葉植物園になっている。本堂前左に槇の生垣、生垣の前は低い児手柏の木と歌板がある。 「千葉の野の児手柏の含まれどあやにかなしみ置きてたち来ぬ」 児手柏の歌は、「鷹を待ちわびる歌」と北院(小川)に伝わります。 「千葉の野の児手柏の含まれどあやにかなしみおきてたかきぬ」 ”鷹の一人”を生涯目指した正岡子規の歌、 「画にもならず歌にもならず武蔵野は只はろばろに山なしにして」  

          国分寺市・見廻り隊(児手柏)

          小平市・見廻り隊(小川寺)

           小川町1丁目にある臨済宗円覚寺派・小川寺(しょうせんじ)です。境内には、小川一族を象徴する槇の植木が多くあります。  徳川政権下では、家康公への配慮から川越の「北院」は「喜多院」に改まる。三河では、小川姓が「小河」「尾川」「緒川」などの求名に改まった。  小川本家の菩提寺も浄土宗増上寺派に変るが、家紋の「丸に違い鷹羽紋」は一族に引き継がれている。  

          小平市・見廻り隊(小川寺)

          練馬区・見廻り隊3(長命寺)

           区内高野台にある真言宗豊山派・長命寺です。場所は、西武池袋線・練馬高野台駅から徒歩5分程、環八通りに面している。  創建は慶算。慶算の曾祖父・北条早雲は、信仰心を持って歌を詠むことをすすめる遺訓を残した、「歌道なき人は無手に賤き事也」と。 北条早雲の歌、 「枯るゝ樹にまた花の木を植ゑそえてもとの都になしてこそみめ」

          練馬区・見廻り隊3(長命寺)

          和光市・見廻り隊2(長照寺)

           武蔵野の大イチョウで知られる真言宗智山派・長照寺。左の大銀杏は樹齢700年を超えています。富士は西にあり、敬虔な宗教心を育む武蔵野。 「不二一つおさえて高き銀杏哉」・正岡子規

          和光市・見廻り隊2(長照寺)

          杉並区・見廻り隊3(今川・観泉寺)

           西武新宿線・上井草駅から歩いて10分程で今川家の菩提寺、曹洞宗観泉寺に着きます。観泉寺(観音寺)の境内は、小川一族に加わる今川家に相応しく吉祥槇の樹形は強い存在感を放っています。  日本の三大家系の一つ小川、一族は古から宗教と深く関わってきました。 観泉寺から近くの井草八幡宮へ→善福寺の河骨の池を見て→区内の善福寺川を下る→大宮八幡宮と和田堀→日朗上人ゆかり日蓮宗・妙法寺まで辿ると→環状7号線、中野区で善福寺川は神田川に合流して神田明神、神田小川町に近づく。 「昨日なし翌

          杉並区・見廻り隊3(今川・観泉寺)

          川越市・見廻り隊1(川越城)

           川越城本丸御殿です。御殿の右に、北院(小川一族)のシンボル・吉祥槇が存在を見せつける姿、樹形で立っています。通りを挟んだ向かいには、わらべ歌「とおりゃんせ」で歌われる天神様、三芳野神社があります。  川越市の歴史は、平良文から始まります。彼の末裔が領主となり「河越」と名乗り→大田父子→上杉→後北条→徳川へと川越領主が代わりました。 その間には、千葉氏、足利氏、古河氏、今川氏、武田氏も加わり一族間の長い戦いが続きました。 一族の二人も川越を訪れ句を残している。 「砧うつ隣に

          川越市・見廻り隊1(川越城)

          台東区・見廻り隊8(小野照崎神社)

           夏の「お山開き」で知られる小野照崎神社です。江戸でも、日蓮宗・不受不施派と受不施派の対立が激しくなり、徳川幕府は天台宗・寛永寺の造営に踏み切る。その煽りで、小野照崎神社は上野から此の地に流されました。  838年、遣唐使に選ばれた参議篁(小野篁)は、唐行きを断り隠岐に流されます。大宰府に流された菅原道真と境遇の似る学問の神様の二人が、小野照崎神社には祀られています。 「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ蜑のつり舟」・小野篁

          台東区・見廻り隊8(小野照崎神社)

          文京区・見廻り隊4(六義園)

          御用人から佐貫・川越・甲府の城主となった柳沢吉保が築園した庭園です。 六義園の名は和歌の分類六体、そえ歌・かぞえ歌・なぞらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌に由来します。  柳沢吉保の父は甲斐源氏の末裔、母は了本院(佐瀬)。佐瀬氏は、謀反を疑われ鎌倉で誅殺された上総介広常の兄の末裔です。  柳沢吉保は幼少に和歌を知り育ちます。万葉集好きの彼は、自然に対して真摯な態度で向きあい行き過ぎる開墾や水田開発に警鐘を鳴らし反対をしたが、異例の出世に妬みやっかみも多く評価される事なく今

          文京区・見廻り隊4(六義園)

          足立区・見廻り隊5(舎人公園)

          大池にアオサギが休んでいます。 「鷺の立つ中洲の草や川涼し」・正岡子規 足立は小川一族です。一族に加わり経済のスペシャリストになりました。 そして、九百年に渡って千葉院内の六院六房を支えました。 鎌倉幕府では、足立遠元が政所に入ります。そして、彼の末裔たちは、今も日本の経済をリードしています。同じ宗教を持ち同じ歴史を共有する人は、結束力が強い。その証です。 「祭見に物争へる舎人哉」・正岡子規

          足立区・見廻り隊5(舎人公園)

          富士見市・見廻り隊(大應寺)

          水子貝塚公園の向かいにある真言宗智山派・水光山大應寺です。 源頼朝が挙兵した際、地元の坂東平氏・村山党も参戦しました。いざ、蕨大膳の待つ小川口へ、船を連ねて新河岸川を下って行きました。 「富士見野をひとり過ぐれば秋花のはつはつくはし人を憶へり」・蕨真

          富士見市・見廻り隊(大應寺)