練馬区・見廻り隊1(牧野記念庭園)
「わが姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り」・牧野富太郎
牧野記念庭園を訪れた。その廻覧中に、半世紀も前の5月1日を思い出した。その日は、「成東・東金食虫植物群落」の野外授業が9時からあった。
「食虫植物群落」前に集合すると、「私は牧野先生の助手となり此処の調査に加わりました」、引率した教諭の熱い説明から授業が始まった。
鋸山と此処・群落湿地はマムシが多いと聞いていた。見回すと、季節といい、マムシと出遭いそうな条件の揃った怪しい叢ばかり。好奇心から素通りするのが惜しくなり、眼を凝らしてマムシばかりを探していた。
結果、先頭から大分遅れをとり皆に笑われたが、当時の植物群落を思い出す、よい過去として残っていた。
東金市や山武市には古川姓の家が多く一クラスに一人はいた。この古川家に"三つ柏紋"を使用する家がある。家紋の謂れは、万葉集の4387和歌「兒手柏(ちごてかしわ)」から採ったと伝わっている。
"三つ柏紋"を使用する江戸大名は、長岡藩と笠間藩の牧野家(槇野?)と土佐藩の山内家がある。土佐藩主の山内一豊は、関ケ原の戦い後に、静岡県掛川から高知へ移ってきた。
幕末になり、伊能忠敬が測量のため土佐入りをする。藩主・容堂公は忠敬のために慰労の席を連日設け彼もこの席に加わった。西洋事情に詳しい忠敬に自ら教えを乞い、質問の多くは「新しい日本のかたち」と院内小川の動向が主だった。鎌倉からの同族同士、毛利、島津、山内の三家は、プライドが高く忠敬への膳の数さえ競い合ったという。
「初霜や兒の手柏のふたおもて」・正岡子規
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