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九十九里町・見廻り隊 1

  商工会館の西、記念碑にある槇の木です。右手に閉館となってしまった「いわし博物館」がありました。博物館の設立に関わった古川先生は、九十九里の"いわし文化"を大切にされていました。先生の授業は、故郷が生んだ伊能忠敬の話になると「チュウケイさん」と親しみを込め一段と熱の入る授業でした。
 古川家は千葉一族(小川)の家系です。「丸に違い鷹羽」や「九曜紋」、万葉集の"児手柏の和歌"から「三つ柏」の家紋も使用している。先生は生粋の九十九男児でした。
  九十九男児(つくもだんじ)は、幕末でも血の気が多くて博打好き。一度走りだしたら止まらない気質を持っていたようです。攘夷を掲げて「真忠組」として蜂起する。「兄貴」などと慕われると、子分を引き連れ移った飯岡で「親分」と呼ばれた助五郎。官軍医でありながら北海道に渡ったら開拓者になる関寛斎。日本を歩き続け測量をした伊能忠敬。伊藤左千夫に蕨真一郎、彼等との出会いから下総の長塚節の人生は変わってしまいました。歴史に登場する人物が、この九十九の里から駆け出します。
「天地の四方の寄合を垣にせる 九十九里の浜に玉拾ひ居り」・伊藤左千夫

 

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