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千葉市・見廻り隊10(お茶の水)
「千葉どのの仮屋引けたり枯尾花」・蕪村
「八平氏」から「千葉どの」と変えて詠まれた蕪村の句は、曽我物語の「富士の裾野の御屋形、御狩り過ぎしかば一宇も残らず元の野原となりにけり」からの連想の句です。
源頼朝は源氏の棟梁です。棟梁は何があっても少々の事では動じない大将としての器の違いを演じる必要がありました。戦場において狩場においても重要な事でした。
信濃の巻狩りの際は、雷雨に見舞われ元気付けに歌を供の者にせがむ様子が「曽我物語」に描かれています。信濃の巻狩りでは、梶原景時の子の景季(かげすえ)の歌が選ばれた。
「きのうこそあさまに降らめきょうはまたみはらしたまえ夕だちの神」
褒美に500町歩の領地が与えられました。500町歩は凡そ蕨市の広さです。
平氏でもある千葉一族は、次男・平忠常の時に頼朝殿の先祖に助けられた借りがありました。この借りを返す機会と捉えた一族が頼朝殿に就くと、坂東の平氏や源氏が揃って頼朝殿に加勢した合戦が始まります。
平氏は歌を好み嗜みます、謡いに合わせ舞いまでする。一族は源氏には少ない余興を持っていました。明日をも知れぬ戦場にあって歌を作り踊り皆の前で発表することは、暫しの間だが戦いを忘れることが出来る緊張を和らげた。これこそが「勝ち続ける秘訣、時代を生き抜いく知恵」と戦場から学んだ答えだった。明治になり、お茶好きの末裔が子規庵に集まりました。