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千葉市・見廻り隊17(千葉県庁)

 県庁前に県木の槇が見える。庁舎の下を通り抜けると、右に千葉の「羽衣伝説」を語る「羽衣の松」があり公園となっている。「千葉の花樹」に誘われ天女が降りたと云う謂れの地。この花樹を、蓮華や葛と解釈した千葉の名の起源とする千葉史があります。

「上つふさ睦岡村に生れたる「わらび」が知らぬげんげんの花」
「睦岡のわらびおとどは水たまる池田のあそのみ末なるべし」
正岡子規が一族の蕨真(蕨真一郎)を詠む。
「やどりせし花橘もかれなくになどほととぎすこゑ絶えぬらむ」・大江千里

 平安時代末期、挙兵した源頼朝一行が安房から着いた池田の館。館には両総平氏(上総介・下総介)、菅原氏、大江氏、三善氏、和田氏ら小川一族が揃っていたかは不明ですが、揃うのは次男の平忠常以来の出来事でした。
 千葉常胤の父・平常重は、上総介常時(常晴)の婿養子となり大椎城から池田に入り千葉氏を名乗る。子の千葉常胤と上総介広常は従姉弟同士になります。 
 武蔵の国では、池田に入った千葉常重のことをよく知ず、経緯を真言宗智山派から「平常時(常晴)の婿養子で平将門の末裔である」と知った。川口市錫杖寺、蕨市三学院、さいたま市林光寺は真言宗智山派のお寺です。

 源家からの大椎へ婿入りもあり、小川一族は孫の源義家に鎌倉の地を譲ります。上総介広常は、義家に譲ったその鎌倉で誅殺されてしまった。
 過去からの歴史の中には、仮説と錯誤が存在します。「更級日記」から始まる一族の史書にどんな意図が含まれるか、捉えるかは「一月三舟の喩」あり人それぞれ、末裔への暗示啓示のように思われます。


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