誰も知り合いがいない新設された小学校へ入学した。 周辺にはいくつかの幼稚園、保育園があり、皆面識がない状況で新入学を迎える。 「どこの幼稚園?」 同級生から何度か聞かれた。幼稚園は遠方で、誰も通っていない。知らないことは6歳児でもわかる。 「ここから遠くて、○○○にある幼稚園」 漠然とした地名しか答えなかった。 自宅と学校は距離があり、小学校一年生が歩くには片道30分。心配した母親が近所の知り合いに頼み、六年生と通うことになった。 小学校には主に降雪時期、悪天候
幼稚園にはバス通園していた。 帰りのバスで事件は起こった。私を含め、同じバス停を使う3人は横一列に座る。降りるバス停が近づいたとき。紛失しないよう左右の手袋を繋いでいた毛糸の紐でクビを絞められた。相手は同じバス停を使う女の子。幼稚園でも帰宅後も遊び、一番仲が良いと思っていた。 実母と離れた生活は子供心に寂しさを抱えていた。そこへ追い討ちをかける出来事。 その日から嘔吐が続く。祖母へバスの中でクビを絞められたことについて話した。 小児科での診断は『自家中毒』 祖母は相
幼稚園の頃。親と別居している。 時代は高度成長期。日本で初の冬季五輪が開催され、新しい建物があちこちに建てられた。まさにそんな頃。父親が以前から所有していた土地に一戸建てを建設した。 問題となるのは幼稚園に通っていた私。 母親が仕事に従事していたことから、日中面倒を見る大人が不在。幼稚園と新居は同じ市内とはいえ車で一時間はかかる。しかも公共交通機関は路線バスのみ。便数も限られている。母親は運転免許がない。 祖父母宅に預けることしか選択肢がなかった。 毎日朝晩には会えた母
人生で一番古い記憶といえば、2歳の頃。共働き家庭で、母親が仕事している家庭は珍しい時代。母方祖母に預けられていた。 母親の実家である祖父母宅は2階建ての一軒家。階段に手すりがなく、角度が急で大人でも気をつけないと落下の危険がある。頭と体のバランスが取れない私は、座りながら慎重に降りるよう指示されていた。 2歳前後といえば『魔の2歳』と呼ばれ一次反抗期真っ盛り。自我が目覚め何でもチャレンジしたい年齢。普段は指示をキチンと守り階段を降りていたが、突然大人と同じように立って階段
noteをご覧いただきありがとうございます。 高度成長期に生まれ、平成で人生の転機を迎え、令和はボーっと過ごしています(笑) 人生折り返しを迎え、記憶を記録として残したく参加しました。 投稿歴は20歳前後から。 当時は大学生で時間もあったことから、思いつくままに葉書で書いていました。 non-no、YOU 、朝日新聞、北海道新聞などに掲載していただいてます。 当時一般人が文書を発表する機会は紙媒体しかなく、大切な人生の思い出となっています。 掲載誌は切り抜いてフ