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夢のしっぽ~海外ボランティアに行ったときのこと~

“あーそぼ?”
そう言って子どもたちが駆けよってきてくれる。

みんなに囲まれて幸せを感じている、そんなきらきらした夢を、やっと叶えることができた。
子どもの世話がしたいという幼いころからの夢が、海外で実現したのだ。

私は孤児院でボランティアをするため、インドにやってきている。
今朝も街に向かうため、トゥクトゥクに乗って、砂埃舞う通りコルカタの街を進む。

ガタガタ道の揺れに慣れてきたころ、信号待ちで車が止まった。

すると、すかさず物売りの少女たちがオレンジ色の花を手に近づいてくる。

悪いけど今、お花は要らないなぁと思い、“ノー・センキュー”と言うと、少女の大きな瞳から希望の光が消えゆく。

それが本当に申し訳ない。しかし観光客へのぼったくりだと分かっていると、なかなか買えないのだ。

子どもには優しくしたいし、悲しい思いをしてほしくないというのに……少女たちが路上で商売をしなければならない現実が、私も本当に悲しい。

路上には、これでもかという程のゴミが張り付いていて、その上を野良犬が歩いている。
バスの横すれすれを、花で飾られたかわいいサイクルリキシャが走っていく。

鮮やかなサリーに身を包む女性、車やお店から聞こえる音楽、それにスパイスカレーの匂いが混ざりあって、この街をかたち作っている。

ところ変われば、空気の流れや、まちの色彩が全く違うものだ。
インドに来てもう一週間は経つけど、目の前にある風景に、未だに頭がくらくらする時がある。

教会に着くと、いつものようにバナナとチャイを頂くことができた。たくさんのボランティアを受け入れているだけあって、体制が整っているから本当にありがたい。
温かくて濃厚なチャイが体に染み込んできて、ここに来るだけで消耗する何かが、みるみるうちに回復していく。

今から各施設に移動する。
さて今日も孤児院で、あの子たちのお世話をしよう。そう思っていたとき、食べ終えたバナナの皮を持った、長い金髪のお姉さんが話しかけてくれた。
“どこから来たの?”

私は答えた。
“日本だよ。あなたは?”

“私はイギリスから。もう三年目なの。そろそろお金を稼ぎに帰らなきゃ”
欧米から来るボランティアには、長く滞在している人が多い。

インドに来てまだ二週間目の私は、心から敬服の気持ちを込めて言った。
“すごいね。長年信念を貫いていて。尊敬するよ”

バナナの皮とチャイのカップを片付けてから、彼女と一緒に歩いて孤児院に行く。すると、子どもらが私たちの声をきいて駆け寄ってきてくれた。
“あーそぼ?”
そう言ってみんな集まってくる。かわいいなぁ。ほんとうに。
子どもたち、私の夢を叶えてくれてありがとう。

この孤児院に、おもちゃや遊び道具はほとんどない。
赤ちゃんは部屋で過ごし、歩ける子たちは中庭に出て花を摘んだりしている。

私は三歳のトニ君をぎゅっと抱いては力を緩める、そんなシンプルな遊びを繰り返し楽しんでいた。何度やっても、“きゃはは!”と喜んでくれるからやめられない。

この子はほとんど目が見えない。見えない分、いつでも何か触れることができるものを探しているから、手をつないだり、抱いておいてあげると安心してくれるようだ。

中庭にある大きな木の枝に取り付けられた手作りブランコ。それが唯一の遊具で、いつも順番待ちになる。まだひとりで乗れない小さい子は、抱っこで一緒に乗ってあげるのだ。

子どもたちと戯れた後は手分けして掃除をしたり、昨日彼らが身に着ていた服を全てたらいで手洗いしていく。

晴れわたる屋上にあがると、さっきの金髪お姉さんがいた。
“今日も良く乾きそうね!”
体にへばりつくような暑さの中、みんなでワイワイ洗濯をする。

せめて脱水ぐらい洗濯機を使いたいところだが、そんな文明の利器もないので、ひとつひとつ手でぎゅっと絞っていく。
完全には絞りきれないけれど、できる限り絞ったら洗濯ひもにぶら下げる。なぜだろう、この重労働が楽しくなってくるのは。

青空の下、ひらひらと風に揺れる色とりどりの洗濯物をみていたら、カラフルな夢の世界にいるように思えてきた。この感じ、デジャブかな。なんでか、どこかで見たように懐かしい。

けれどこれは夢じゃない。本当に重労働で、腰も痛いし、砂埃でのどがやられている。でも全身で協力するということは、なんと気持ちがいいのだろう。
私は突き抜けるような青空を仰いで、汗をぬぐった。

夢が叶うと、それはもう夢ではなく現実だ。
現実には、夢になかった疲れや葛藤、矛盾があるものだ。

一方、私は起きているときにも夢をみることができる。
小学生のころは、教室前方にあった何も映っていないテレビを毎日飽きずに見ていたものだ。真っ黒の画面には、授業よりよっぽど面白い、頭の中の夢が映っていた。

静かなテレビをぼーっと見ている私に先生が言う。
「いちこさん、聞いていますか?」

はっとして私は言う。
「すみません、もう一度おねがいします」
そのように現実に戻してもらう日々。

「今日は将来の夢について描いていきますよ」
先生はそう言いながら、一番前の席にプリントの束を配っていく。

みんな後ろの席の人にプリントを手渡しながら、色々言いあっている。
「お前は将来芸人だろ」
「おぉ。大人になってもテレビで引き続き笑わせてやるよ。楽しみにしとけ!」

私も白い一枚の紙を前に、未来を描こうとしてみる。
色鉛筆を使って、カラフルな民族衣装の子ども達が、笑って手を取り合い輪になっている様子を描いた。
幼い頃から私にとって、世界中にいる小さい子らの笑顔こそが、自分の将来に欠かせないものだと知っていたのだ。

その絵を描いた十年後の今、実際に海外に来て子どもたちの世話をしている自分がいる。

インドの子ども達の屈託のない笑顔は、小学生のころ真っ白の紙に描いたものであり、真っ黒に消えているテレビで見ていたものだ。

はっきりと思い描くことができる夢というのは、迷うことなく目指したら、必ず叶うものなのだなと心から思う。

今日一日の作業を終えて家に帰る。
インドにいる間どこに滞在しているかというと、まちの郊外にある一般家庭だ。
コンクリート造りの三階建てで、屋上付き。

仙人を思わせるような長い髭をたくわえた旦那さんと、ふくよかな奥さん老夫婦の家にステイさせてもらっている。

ボランティアを受け入れるため部屋や食事を提供してくれているこのご夫婦は、上級階級の人たちだ。旦那さんは元大学教授で、天文学を教えていたそうだ。

インドの田舎では今もカースト制度の影響が色濃く残っているが、このご夫婦は幸いにも、私のようなボランティアや二十歳のお手伝いさん、サーシャにも変わりない態度で接してくれている。

サーシャとは年も近く、気が合うのですぐに仲良くなった。

髪を結うのがとても上手で、毎朝ヘアアレンジをお願いしている。来週末には近所の広場に移動遊園地が来るらしく、一緒に遊びに行くことにしている。

家に着くと、ちょうど夕食がはじまる時間だった。
インド人全員の食事は朝昼晩カレーである、というわけではないと思うが、この家庭で出してもらえる食事は全部スパイスの香りが強く、カレーと呼びたくなるような料理だ。
そしてスプーンは一切使わず、右手で食べるのだが、この習慣にだけはなかなか慣れることができないでいる。

仙人のような髭を持つ旦那さんが、夕食のカレーを最後のひとすくいまで器用に手で食べ終えてから穏やかに言った。
“今夜は新月。月の光がないから、星がきれいに見えるはずじゃ。屋上でみてみよう”

奥さんが答えた。
“あら良いわね。今日は私が食器を洗うわ。サーシャ、いちこ、行ってきなさい”
“はい、ぜひ”
と私は言って、心の準備をした。というのもリビングのある一階から屋上にあがるには、結構な段数の階段を上らなければならないからだ。

ごちそうさまでした、とみんなで席を立つ。

さすが仙人さん、早く星が見たい気持ちもあるのだろう、ひょいひょいと階段を上っていってしまう。

私は遅れをとらないように懸命についていく。その様子をサーシャが見て、笑いながら後ろからついてくる。

“はぁ、早いですね”
ようやくたどり着き、息を切らせて私が言うと、仙人さんは少年のように歯を見せてにっと笑った。夢中になるものがある人というのは、いつまでも若い。

夜の屋上には、昼間のねっとりとした空気の余韻がまだ残っている。生ぬるい風が、インドに来ていたのだということを思い出させる。

真っ暗な中、辺り一面に広がる麦畑で、たくさんの蛙が一斉にゲコゲコないている。その切れ目のない声を聞きながら、目が暗さに慣れるのを待っていた。

“真っ暗ですね”と私が言うと、いつもゆっくりとしたテンポで話す仙人さんは答えた。

“うむ。夜は太陽の光がないから暗いのは当たり前じゃ。しかし太陽の光があんなに強いのに、どうして宇宙はいつも真っ暗なのか、知っているかい?”

その質問を聞いて私は心の中で考えていた。確かに、太陽が明るいのに、どうして宇宙はその光で明るくならないのだろう?

いつもこの屋上で教えてもらっているからか、天文学に詳しくなっているサーシャが答えた。
“宇宙がからっぽで、太陽の光が当たるものがないから、ですよね?”

“その通りじゃ。私たちが太陽の下でものを見ることができるのは、光がものに当たるから。宇宙にはほとんど何もないから、光はひたすら永遠にまっすぐ通っていくのみなのじゃ”

さすが元教授、詳しいなぁ。私は納得して言った。
“ということは、光がものに当たってはじめて、光があったと分かるのですね”

“うむ。宇宙には、星のように目に見えるものは、ほとんどない。あとは何もないような空間で、ダークエネルギーなどと名付けられてはいるが、宇宙がなにでできているのか、どうやって始まったのか、ほぼ分かっていないのじゃ”

宇宙の素材も、生命の起源も、誰もまだ本当には分かっていない。理由も仕組みも分からないけれど人間が存在している、どうしてか、そのことが私を妙に安心させる。

それは、冒険のように宝物を探していく楽しみが残されていて、与えられた理由や答えに沿って生きなくても良いと思えるからかもしれない。

四つ並んでいるビーチチェアの位置を手で確かめ、一番端に寝転んだ。
仙人さんは私の隣、その横にサーシャが並んで一緒に空を見上げた。

だんだん目が慣れてきて、おびただしい数の星に囲まれていることに感動して息をのむ。
いつでも、たとえ昼でも、こんなにもたくさんの星が周りにあったのか。あまりに圧倒されて息をのんだまま、声が出ないほどだ。

そしてこれだけの星があるのなら、星からの影響を受けないがわけない、だから星占いというものがあるのかなと、ぽかんと口を開けたまま考えていた。

すると仙人さんがおもむろに言った。
“さぁ、天体ショーのはじまりじゃ”

それを聞いて、私は光る粒々が川のようにのびている箇所を指して言った。
“ものすごい星ですね。あれは天の川ですか?”

“そう。そして私たちのいるこの地球も、今見ている天の川の一部なんじゃ”
“え?どういうことですか?”
私が聞くと、仙人さんは教えてくれた。

“天の川の正体は、うちらがいる銀河じゃ。天の川銀河に、太陽系があり、そこに地球がある。うちらが天の川銀河の端っこのほうにいるから、天の川の中心のほうを見ると、星がたくさん集まっているのが見える、というわけじゃ”

分かったような、分からないような。ゲコゲコかえる、銀河系、ケロケロ、太陽系……。なんだか眠くなってきた。

“あっ、流れ星!”
サーシャが嬉しそうに小さく叫んだ。しかし私は残念なことに見逃してしまった。なぜかというと、今の難しい話を自分の中でくりかえしながら、仙人さんのしゅっと長くのびた髭のシルエットを見ていたからだ。

急いで空に目線を戻すと、また流れ星、そしてもうひとつ。え、また?
私がひとつひとつの流れ星を逃さないよう必死に目で追っていると、仙人さんが聞いた。
“流れ星がどうして立て続けにやってくるのか知ってるかい?”

サーシャが答えた。
“彗星が残していったちりが、地球の重力に引き寄せられて降ってきてるんですよね。何度も聞いたから覚えているわ”
“うむ。彗星が通ったあと、同じ場所を地球が通ると、流星群がみられるのじゃ”

なるほど、そうなんですね、と相槌をうつ。しかし宇宙の話を聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、謎が深まって頭を傾げたくなるのはなんでだろう。

そもそも彗星ってどんな星だっけ、と思い聞いてみた。
“彗星は何でできているのですか?”

星の質問を受けるのが嬉しそうな仙人さんが、にこにこして答えてくれた。

“氷と屑じゃ。氷と宇宙に漂う屑が混ざり合い、雪だるま式に大きくなって、それが太陽に近づいたとき温められる。すると表面の氷が溶けだし、溶けたところが太陽の熱気で飛ばされる。それが彗星のしっぽになるのじゃ”

“彗星って、太陽のパワーでしっぽができた、宇宙の雪だるまだったのかぁ”
私が言うと、サーシャが口をはさんだ。

“しっぽは太陽と反対側にのびるんですよね、進行方向に関係なく”
“その通りじゃ”

へぇ、おもしろいなぁ。彗星や地球の軌道を頭で思い描いてみる。

思考は追いつかないけれど、とにかくこの流星群の天体ショーが美しすぎて、しばらく見とれてしまっていた。

遠くで流れる星々と、近くで赤く点滅する飛行機の光を交互にみていたら、サーシャが口を開いた。
“いちこ、流れ星の大きさって知ってる?”

私は答えた。
“うーん、分からないなぁ。遠くの星が目でみえるくらいだから、相当大きいんじゃないの?”

するとサーシャが上体を起こし、私のほうを見て教えてくれた。
“それがね、一センチもないくらいで、しかも一枚のコインより軽いんだって”

それを聞いて私は驚いて言った。
“え? そんな小さなものが、どうしてここから見えるの?”

“それはな、スピードがすごく早いからじゃ。それに流れ星が降っている場所は、実はそんなに遠くないのじゃよ”

仙人さんがそう教えてくれたけど、やっぱり不思議だなぁと思いながら、壮大な夜空を見上げた。

ゆったりとした時間のなか、蛙の声だけが響いている。

空には、瞬きをするように光る星が散らばっている。

そして降り続く流れ星のあいだからは、ゆっくりと軌道をえがく衛星も見える。

太陽のように燃える熱さと、氷の惑星ができるほどの凍える冷たさがある過酷な宇宙で、よくこの自然に恵まれた地球が生まれたものだなぁ。

真っ暗な中、青くぽっかりと浮かぶこの奇跡のホシで、私は何ができるだろう。与えられたこの命を、何に使っていったら良いだろう。

そんな事を真面目に考えていたら遠くの蛙にまじって、自分の真横から仙人さんのいびきがぐぅぐぅ聞こえてきた。

さっきまでしゃべっていたのにもう寝ているとは、なんという早業だろう。なんだか彼が本物の仙人に見えてきた。

“今夜はもう遅いからそろそろ寝ましょう”
サーシャが仙人さんを優しく起こすと、“おぉ、そうじゃな。みんな、おやすみ”と言って、すたすたっと寝室へおりて行った。

私たちも立ち上がり、三階にあるそれぞれの寝室へと向かう。

“おやすみ、サーシャ”
“スイート・ドリームス、いちこ”

スイート・ドリームス(いい夢を)、海外で眠る前によく言われるこのセリフが、私は大好きだ。
ぎゅうっとハグをしてから、いい夢を見に、ベッドにもぐる。

明日もあの子どもたちに会いに行くから、そして重労働だから、ゆっくり休まなきゃ。
叶った現実は、決して甘くはない。それでも夢を叶えていくことは、やめられない。

目を閉じてインドの満天の星空が自分の世界に広がっていくとき、ふと考えた。眠っているときに見る夢と、将来の夢は、どうして同じ「夢」という言葉なのだろう?
もしかしたらいずれも、いつか来くるべきもの、だからだろうか。
夢占いで今後を占うことができるのも、眠って見る夢に未来の要素が含まれているからかもしれない。

夢の中で、時間が戻ったり引き延ばされたりするのは、夢が宇宙とつながっているからではないだろうか。

夢が思い出させてくれる希望のひかりと、宇宙が与えてくれるタイミングが重なるところに、これからの道筋があるような気がしている。

今夜も私は次の夢を探しに、眠りにつく。

見たい夢はなんだったかなと、記憶のしっぽをたぐり寄せるとき、思わぬ探し物が見つかる時がある。

それは過去の記憶なのか、生まれる前から自分で絶対みると決めてきた場面なのか、分からない。

でもぼんやりとした中に、はっきりとした意思があることだけは感じられる。

たぐり寄せた映像は、最初は静止している。

それが古いフィルム映画のようにカタカタとぎこちなく動き出し、だんだん滑らかなモーションになり、やがて本物の風景のように流れはじめる。

そして夢の続きは、現実で見ていくのだ。

#わたしの旅行記

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