コロナの時代の幼児 ♯2

長男(4歳幼稚園児)は、2月の末から絶賛自宅待機児童である。

休園した当初、3月生まれなのに3月の誕生会がない、とか、大好きな担任の先生と中途半端なお別れをした、とか、コロナウイルスというものはひどい目にあうものらしいとか、比較的のほほんと受け入れつつ内面ではかなり焦っていたようだ。一日中、おもちゃや布団やなにかをかじり続けたり、再現なく数字を唱え、おもちゃを並べ続けたりしていた。

赤ちゃん返り(一人っ子なのに!)

自宅待機が始まってからというもの、「~でちゅ」とか、アニメで身に着けた舌足らずの赤ちゃん話法を多用するようになった。しばらく存在を無視していた母の胸元を探ったり(でも決して核心を触らないのは本当は赤ちゃんじゃない!という矜持なのだろうか)、おんぶにだっこ、過剰にべたべたしている実感がある。そう思っていたら国立成育医療研究センターのHPの「ストレスケア対処法」に一種のトラウマ反応として当たり前のこと、というような説明を発見した。

これを読み、「短期的な変化は気にしすぎなくてよいのだ」と少し安堵した。親子での情報の共有の仕方とか、セルフケアとか、良い情報を与えてくれるものなので、ぜひ子育て家庭の人々にお勧めしたいと思う。

手で食べる。ママ食べさせて!デザート!おやつ!

坊やは食欲は旺盛、好き嫌いも少ないのだが、偏食(同じメニューを好む)で、カトラリーを使うのが苦手である。箸はかじるし、スプーン・フォークの柄もギザギザにかじりあとだらけ。

ふりかけを一粒ずつ食べるこだわりなど多々あるため、食事が終わるまでに時間がかかり、最後のほうはカトラリーを使うのも面倒臭くなるし、食べることそのものも面倒くさくなり、うろうろし始めたり、食卓からスプーンやケースをポイポイ投げ始めることもある。

私は臨席で新聞などを読みながら(これはよくなさそう)、面倒臭いフェーズがやってきたら、食べさせてあげたり、励ましたり、「デザートでるよ」などエサで釣る作戦にでたり、試行錯誤している。

本当言うと、(割と食べてくれる方なんだから)完食しなくてもよいし、幼稚園や学校では誰も食べさせてくれたりしないだろうから、そのうち自力でなんとかできるだろう、と思っているのだけれど、ひとつの堰を許してしまうと将棋倒しにいろいろひどくなりそうで、なんとかなだめすかし、習慣のキープに励んでいる。

できてたんだけどな

食事の仕方もそうだけれど、絵をかく、とか、着替えを自分でする、とか、幼稚園に入園してから「自然にできるようになってきた、上手になってきた」ことがたくさんあった。休園中、それらの活動は止まったままで、どちらかというと、身体まで描けるようになっていた人物画がへのへのもへじ以下になってきたり、後退してきた、という印象を受けている。

年齢にあった(発達状況に合わせた)幼稚園カリキュラム、というのは馬鹿にできないものだ、とひしひしと感じている。先生の力も、お友達の力も、子どもの成長には絶対的に必要な要素なんだなあ。「社会性を育む」などというと、特別な教育を思い浮かべるけれども、「ただその場に一緒にある」、「ただ毎日顔を合わせる」ということが、人の営みを自然な形で複合的に育む、重要な要素なのだ、ということは、無業の引きこもりである私は、コロナの時代の母でなかったら、きづくことができなかっただろうと思う。

そういうわけで、今はただただ、園の再開を心待ちにしている。もちろん、感染のリスクについて、安心できる材料がそろったうえで。



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