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【ショートショート】キスの途中

 目覚めるとカラオケボックスで稔はキスをしていた。『チェンソーマン』で姫野先輩がデンジにしてたみたいな感じで、女が稔の上に覆いかぶさっていた。やわらかい唇の感触に、そのまま自分の唇が溶かされてしまいそうだった。

 入社一年目でこの醜態はしょうじきどうなんだろうか。しかも、これどうやら三次会に社員みんなで入ったカラオケボックスの中だ。そして覆いかぶさっているのは、いつも稔に厳しく接している小野田先輩。一次会で小野田先輩の隣に座って、えらく説教されたことは覚えている。飲んだついでに、「怒ってる先輩の顔、好きです」などと言ってしまったことも。

 たしかそのときは「調子のいいやつ」とかなんとか軽く流されたはずだったけれど、一体そのあと何がどうしてこうなったのだか。

「おまえたちそういうこうとはホテルでやれって」と部長が言って、それから次長クラスの連中の下卑た笑い声と囃し立てる声が聞こえた。それでも小野田先輩の耳にはそんな声は届いていないみたいだった。ここは自分がしっかりしなければならないんじゃないだろうか。

 だけど、体にうまく力が入らない。力は入らないんだけれど、不思議なことに力を入れなかったら自由になれた。まるでもう体の重みから解放でもされたみたいだった。小野田先輩はまだ稔にキスをしていた。でも、よく見ればその表情には焦りの色がみえる。かなり状況に混乱しているみたいだ。もしかしたら、彼女も二次会の途中あたりから記憶を失って、どうしていま自分が後輩男子社員のうえに覆いかぶさっているか分からないのかもしれない。

 ならば、自分がしっかりしなければならないかな、と稔は思い、立ち上がった。力を入れず、何も考えなければ、思いのほか体は自由だった。

「連れて帰ります」
 起き上がって抱きかかえると、その言葉に歓声が飛んだ。野次も飛んだ。嫉妬の目、嫌悪の目、同僚たちのいろんな目があった。でもここは男らしくしていなければ、と稔は考えた。

 カラオケボックスの廊下にまでどうにか出ると、そこからずるずると進んだ。ずるずる、ずるずる、と進んでトイレの中に入った。そこで、小野田先輩はうずくまった。「どうしよう……どうしよう……」

「こんなことになっちゃって後悔してるんですか? でも僕は後悔してないですよ」
 稔はそう言って、彼女の肩に触れようとした。でもできなかった。
 小野田先輩は、相変わらず稔の言葉なんて届いていないみたいに泣き続けていた。
 そのとき、稔はようやく気付いた。どうして小野田先輩の膝に頭を預けている自分が、小野田先輩の肩に触れることができるのか。小野田先輩を見下ろすことができているのか。

 二次会で小野田先輩は稔にさんざん酒を飲ませた。もう飲めません、先輩と言っても、許してくれなかった。「私を好きなら飲めるよねぇ」香水のいい匂いが近くでして、稔もすっかり心地よくなって飲み続けた。

 三次会でカラオケボックスに着いた時はすでに悪寒と吐き気がひどく意識も朦朧としていた。そのまま、意識が果てた。たぶん、呼吸が止まっていることに気付いた小野田先輩は大慌てで人工呼吸を試みた。それを見た部長はキスだと勘違いしてホテルへ行けと言い、周囲も囃し立てた。

 そのキスの途中までは肉体から世界を見ていた。
 けれど、キスの途中から、力が入らなくなって、すべての力をオフにしたら、魂が肉体を抜け出してしまっていたのだ。だから、慌てて小野田先輩は「連れて帰ります」と言って稔の身体を引きずって廊下へ出たのだ。

 小野田先輩が泣きながら言った。
「ごめんよ、稔くん……私もっと君に好きと言ってほしかっただけなのに」
 そうか、小野田先輩と両想いになれたのか。よかった。心からそう思ったとたんに、なぜだか稔の意識は空中分解していった。そうして、稔はとうとう無になった。いや、というよりも、キスの途中から無だったことに、ようやく気付いたのだ。

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