Op.52 鉄の鎧にも穴は空く
卒試も近いことだし、今月は残しておきたいときだけ書くことにする。
ついに冬休みは明けたらしい。
大学生活も後半に差し掛かり、気づいた頃には就活のついでに練習、授業、レッスン、勉強、たまに息抜き、なんて過ごし方をしていた。そして就活を終えると、それまで自分を縛っていたある意味緊張の糸のようなものから解放されて、まるですべてを束ねていたロープが切れたみたいに密度のない生活をするようになった。この生活は今でもあまり改善されていない。
これまで、あれこれやりたい事に手をつけてきた。手はつけるんだけど、だんだん飽きてきたり、他が気になり出したり。気づけばつまみ食いした残飯があちこち放ったらかしになっていた。
冬の気配が近づく頃、そろそろ、いい加減、しゃんとしなきゃいけない自覚がようやく芽生えてきた。きたきた、ここでお尻に火が点けばいける。すでにこの考えが生温い。
追い込まれないと本領発揮しない質の私もさすがに就活期は常に自分の背中を押し続け、とにかく走りながら考えるようにしていた。あの時ばかりはちょっとやりすぎたのか、夏休みも秋の初めも体調は最悪で通院ばかりしていたが。
12月になって、卒試までもう2か月を切っているのに、頭では分かっているのに、今ひとつやる気が足りない。生温い自分を奮起させるために引き受けた伴奏も起爆剤としてはちょっと弱かった。いや、私が鈍感になってしまっただけかも。とにかく、こんな自分で良い訳がなかった。
“学生最後の夏休み”はあれだけ勿体ぶっていたくせに、“学生最後の冬休み”はいつ始まったのかも曖昧で、何日間あったのかも気にならないほどには、私の生活は引き締まっていなかった。
就活の反動って、こんなに遺るもの?違うよね。余韻なんて言い訳ももう効かない時期に来ている。
この冬休み、私は何をしていたのか。
ピアノを弾かない日が計7日くらいあった。数年前の私じゃ有り得ないこと。
美味しいものをそれなりに食べた。適度に人と話す機会があった。映画を2本観た。本も2冊読んだ。どちらも2つ目は、数十時間前の話だけどね。
退屈ではなかった。悔いもなぜかあまり浮かばない。あまりにもぐうたらするせいでこの生活に慣れてしまって、満足のボーダーラインが下がってしまったのだろうか。
それも一理ある。でも、もうひとつ理由をつけられるとしたら、「考えること」は止めていなかったからかもしれない。特に、ここ数日は。
数時間前に読んでいたのは、朝井リョウの《何者》。2年ほど前に買った本なのに、ついさっき、初めて読んだ。ふと読書欲が湧いて、ぽっと浮かんだ“読みたい”にぴったりだったのが、偶然手元に近かった《何者》だった。
(就活前に読んどきゃよかった)って途中まで思わせられてたけれど、読み終える頃には(就活を終えてしばらくした今でよかったな)と。気にしい性格の私は特に。
理香さんみたいに異常にマウントを取ってくる人、GDや集団面接の時にいたな〜〜って共感できたこと(名刺を出している子は見たことないけど)。
初めて聞いた“ベンチャー疲れ”なんてワードの存在に、どこか納得してしまったこと。その辺、私は目紛しい日々とピアノの存在に救われていたのかもしれない。
瑞月さんの「だから私ね」「私」「ちゃんと就職しないとダメなんだ」というセリフから、どこか自分と似通うところをも感じたこと。たぶん、たぶんだけど、彼女と私は自分に対しての価値観が似ている。性格は、瑞月さんのほうが当たり前に良い。だって、私も理香さんたちと同じように、“他人の内定先をググっていた”から。私の場合、自分が就活を終えてから、だけど。
何より、主人公の拓人が放ったセリフは今の私に深く突き刺さった。
「頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな」。
何においても、上手くいかなかった時にいつも思うのは「こんなはずじゃなかった」。
そりゃあみんな、失敗を目指して挑む訳ないじゃない。頭の中には誰でも“現時点で最高に調子の良い自分”がいる。
でもね、普通は完璧に上手くいくはずがないの。そんな簡単に、想像どおりに、頭の中がそのまま現実にはならないの。
“頭の中の傑作”を手にするには、それに勝る努力と精神が必要なの。ただでさえ、凡人なんだから。才能を欲する前にやるべきことはある。
そんなことを巡らせながら、私は自身の心の耐性を測っていた。
世の中には、強いフリのできる人と弱さを見せられる人の2パターンがいると思っている。
私が言いたいのは、人それぞれ強度は異なれど、“本当に強い人”なんてひとりもいない、ということ。
飄々としているからって、決して200%の自信だけを携えているわけではないということ。
誰の心にだって、陰りはある。私はそう思う。
私は、鉛のようなプライドと、それ以上に重い不安を常に引きずっているような人間だ。基本的に他人には強く見られたいし、強いところしか見せたくない。
なのに、針穴よりも狭い、僅かな隙間を他人からは見えにくい死角にこっそり空けて、誰にも気づかれないように暗がりで密かに、声にもならない弱音を少しずつ吐く感覚は知っている。“強く見せる”ことが人より得意なだけで、本当はそれほど“強くない”から。
どうしても、素直に弱音を吐けない。そもそも、自身の容量を過信しているところがあるのか、私は私の限界をいまいち分かっていない。だから先日も、親友に言われて初めて「私は傷ついている」と認識できた。
そんな自分でも“壊れそうな気配”を感じるほど溜め込んでから、ようやく、「この人なら、弱くてダサい私を目の当たりにしても、きっと驚かずにいてくれる」と思える人やコト・モノの存在を探し出す。たいてい、そんな私の心中を察してくれるのはやはり親友で、無理にこじ開けず、私がぶつけやすいようにちょっとずつ道標を立ててくれる。この“ぶつける瞬間”ですら、プライドが邪魔して上手く吐けない時もあるのだが。
「つらい」
「もう嫌だ」
「どうすれば良いのか分からなくなった」
「疲れた」
素直に言葉にできる人の素直さが、私には羨ましい。