切れない、切らない。
「なあ、兄貴のこと苦手やねんけど」
僕が母にそう言うと、母は悲しそうな顔になった。「なんでそんなことを言うの」と、すすり泣くような声が聞こえてくる。
けれど仕方ない。兄は発達障害なのだから。
小さい頃の僕は兄にべったりの弟だった。兄をすることを真似、兄にできることは自分にもできると言わんばかりに、出来なければ悔しがる。そんな僕のことを兄は面倒に思うことなく、とても優しく接してくれていた。
小学校にあがると、兄は三つ上の学年にいた。
ほとんど学校で会うことは無かったが、たまに会ったときには声をかけてくれ、「誰?」と聞いてくる周りの友達に兄だということを自慢げに話していた。
兄のことは少し変わったところがあると思っていたが、それは兄の個性だと思っていたし、特にそのことを気にすることは無かった。中学で兄の話を聞くまでは。
「えっ? あいつの弟?」
バスケ部に入った僕に対して、体格の全然違う上級生が初めて声をかけてきたのはそんな一言だった。
事実として肯定した僕はそれ以上のことを聞かなかった。何か聞いてはいけないような気がしていた。
なんとなく居づらくなって、その場を立ち去ろうとした僕の耳には、「あいつの弟だって」と隣にいる先輩に話している声が届いてしまっていた。家に帰ってからも兄に聞くことはなく、その頃から兄と会話することが段々と減ってきた。
兄から物を貰った。兄にこの曲を教えてもらった。兄とどこかに出かけた。
友人達と話していても、そんな言葉ばかりが耳に残る。僕にはそんな経験は何一つなかった。兄は中学でも高校でも部活に入ることは無く、学校が終わるとすぐに家に帰っていたらしい。
兄が通っていた高校は県内でも有名な高校で、試験を受けさえすれば合格が決まっている。そんな定員割れの高校だった。
ほとんどのことに対して興味が持てないらしい。勉強することにも、運動をすることにも、アニメやゲーム、人間関係にも。
唯一好きだという野球観戦に関しては、名鑑を覚えてしまうほどの病的な興味を持っていて、夕食時には常にナイター中継が流れていた。
その頃になると僕と兄の会話はほとんどない。僕から話しかけることは挨拶以外無くなり、そんな僕に対して兄も話しかけてこない。
何も教えてくれない兄、頼りがいの全くない兄に対して、僕はいないもののように接するようになっていた。
僕が高校に上がると同時に兄はどこかの工場に就職したらしい。両親はそのことにとてもほっとしていた。けれど、そんな時間は長く続かなかった。兄は職場で度々問題を起こしているようで、その度に両親が会社まで出向き話を収める。そんなことが月に何度もあった。
「兄貴なにやってんの? 二人が行くなんておかしいんちゃう?」
部活から帰ってきた僕よりも後に、へとへとになって帰ってきた両親に対して、僕は本心からそう聞いてみた。誰を傷つけるつもりも無かったが、兄が起こした問題に両親が呼び出されるなんてただおかしいと思ったのだ。
兄はそれからも何度も問題を起こし、会社からの勧めもあって一度病院に行くことになった。兄がかかるのは精神科。もちろん一人でなく、母が付き添う。
「俺明日最後の試合やねんけど」
引退のかかった試合。それまでの感謝の気持ちを伝えたくて、かねてから母には見に来て欲しいと伝えていた。普段は仕事で忙しい母が仕事を休んで見に来てくれる。その日に母は精神科へと出向いた。
試合は負け、僕は中学から六年間かけてきた情熱に一区切りをつけて家に帰った。僕がリビングの扉を開けると、テーブルに向かい合う父と母。まるで演技をしているかのように揃って頭を抱えている。兄は少し離れたところでナイター中継を眺めていた。
「ただいま」
僕の声に父が顔を上げる。
「おお、おかえり」
それだけを言うと父は再び俯いた。僕はそんな二人に何も聞くことなく、黙って自分の部屋に閉じこもると布団の中にもぐりこんだ。
「ちゃんと生んであげられなくてごめんね」
リビングから叫ぶように聞こえてくる母の声。その声をかき消すようにしてナイター中継の音が大きくなり、おそらく兄がリモコンを使って音量を上げたのだろうと思った。
後に聞いた話だが、兄の状態には正式な病名がついたらしい。僕はそのことを知る前に、母に兄のことが苦手だと伝えてしまった。
その言葉を聞いた母の顔は二度と思い出したくは無いほどに悲しげで、母をそんな顔にさせるような言葉を放った自分のことと、その原因となった兄のことを心底恨み、僕が大学を卒業して家を出るまでの間、二度と兄と口を利くことは無かった。
それから五年。ほとんど一年ぶりの我が家。玄関を開けると兄が僕を出迎えてくれた。
「おかえり」
純粋だ。兄のその言葉には相変わらず何も含みも無い。
「ただいま」
彼は僕の兄だ。これまでもずっと。これからもずっと。
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