いじめられていることがバレた日
学校は嫌いではなかった。
ただ、面倒くさいヤツがいた。
中学2年の夏休み前、靴箱に置いた上履きに画鋲がたくさん入っていた。
数日後には、机の中に、不幸の手紙が入っていた。
「死ね」だとか「ブサイク」だとか、まぁ、よくあるような想像通りのことが書かれていた。
幸いなのは、机に置いていた教科書などは無事だったこと。
それを見て、気の小さいいじめっ子だなぁと思った。
きっと本気で私に嫌がらせをしたいのであれば、もっとやりようがあったと思うのだが、
上履きの画鋲にしても、机の中の手紙にしても、他の人に見つからないようにコッソリやってる時点で、ずいぶん気が小さいんだなと思ったのだ。
だから、そんなに気にしていなかった。
そして、いじめの標的になってしまう理由もなんとなく理解していた。
音楽系の部活でそれなりに活躍してしまった私は、学年はもちろん、学校全体に名前が知れ渡ってしまっていた。
別に目立ちたかったワケではないのだが、一生懸命やった結果、そうなってしまったのだ。
そして、私のやっていることを、楽しそう!と思ってくれた友達数名が、私のいる部活に転部して入部してくれた。
始めた時は一人だったが、どんどん輪が大きくなっていくことが、とても嬉しかったし楽しかった。
そうなると当然、それを面白く思わない人は出てくる。
いつかは来るであろうと予想していた「ひがみ」を、この時に受けていた。
とはいえ、そんな状況になった私に対して、私の友達たちはとても優しかった。
「ぜってー許せねぇ」と怒り狂ってくれた友もいた。
「一緒に行動しよう」と私が一人にならないように気遣ってくれた友もいた。
そんな仲間達のおかげもあって、自分がいじめられていることに気付いていたものの、気の小さいいじめっぷりもあり、私自身はそんなに気にしていなかった。
そのうち気が済んだら終わるだろうと。
画鋲を踏んだとしても殺されるワケでもないし大丈夫でしょう、と。
ところが。
夏休みのある日、自宅に不幸の手紙が届いてしまった。
そしてそれを、たまたま母が見つけてしまった。
送り主の名前がなく、私宛になっている手紙を不審に思った母は、私に見せる前に開封してしまったのだ。
自宅に届いた手紙は、学校でもらっていたものよりも何十倍にも紙が増えていた。
夏休みで鬱憤が溜まっているのかも、と、のんきにしていたのだが…
さすがに自宅に届いてしまうのはマズイなぁと思っていた。
一応、家族にも心配かけたくなかったし、
家の中がぐちゃぐちゃしているのに、私のこんなことで、さらに波風が立つのは嫌だった。
確かに嫌ではあるけれど、そんなに何かを争うほどに切羽詰まってはいなかったので、とにかくコトを大きくして欲しくなかった。
それなのに、、、
その日、急に母が「ちょっと買い物行ってくる」とスーパーに出かけた後、何時間経っても帰ってこなかった。
翌日、自宅にいると担任の先生から家に電話がかかってきた。
そこで、先生から「昨日、お母さんがいらっしゃったよ」と聞かされた。
母が学校に乗り込んで、いじめが起こっていることに対しての文句やら意見やら、思いの丈をぶつけていったらしい。
やられた、、、と思った。
気持ちが振り切れると何をやるか分からない母なので、何を言ったんだろうと恥ずかしくなった。
家族のことも信頼できていなかった私は、余計なことをしやがって!という気持ちばかりが強くなり
「死ね」って書いてあるから死んでみたらどうなるんだろうか?とか、考えていた。
私は、そのうち終わるでしょう!くらいの感覚だったのに、
母が学校に乗り込んでしまったために、気持ちが揺さぶられてしまい、
本当に迷惑だった。
とにかく、そっとしておいて欲しかった。
バレてしまったので、私も先生から事情聴取をされた。
思い当たることがあるのか?と聞かれたので、上記のことを伝え、
具体的にこの人だと予想ができるくらいか?とのことだったので、
○組の○○さんと、□組の□□さんと、、、と数名を伝えた。
なぜ、そこまで明確に答えられたかというと、いつもすれ違うと睨まれていたからだ。
普通に考えて、すれ違うだけで睨まれることなんて、そんなにないはず。
それを、わざわざ睨んでくるのだから、それなりの気持ちがあるのだろうと察していた。
先生「とにかく何かあったらすぐに報告してください」
先生は優しくて、とても信頼できると思った。
その後は特に何も起こらなかったので、もしかしたら、見えない何かが働いて、いじめてた人達の抑制ができていたのかもしれないが、
私が知らないうちに母がまた学校に乗り込んでいないことだけを祈った。
3年生になり、担任の先生は本来であれば変わるはずだが、私は同じ先生だった。
きっと心配してくれていたんだと思う。
ことあるごとに、「最近どうかー?」とか声をかけてくれて、気に掛けてくれているのが伝わってきたので、頑張ろうと思えた。
卒業式の数週間前、先生に呼び出された。
先生「卒業式で卒業生が歌う時にピアノを弾いて欲しいんだけど、お願いできるか?」
私は貧乏だったのでピアノは習っていなかったのだが、独学で学び、演奏ができるほどになっていたし、それを文化祭でも披露していた。
その結果がいじめに繋がったと思っていたし、それを先生にも伝えていたので、先生もきっとこの判断にそれなりの考えや決意があったんだろうと察した。
私は、自分が出しゃばってやりたがっているように見えると、またいじめられると思い、
「学年全体で他にやりたいという人がいないようだったら、私は構いません。やります。」
と伝えた。
先生はとても理解してくれた。
その数日後、3年生の全クラスで「卒業式でピアノを弾きたい人はいるか?」のアンケートがあり、誰も弾きたいと名乗り出なかったこと、誰かが誰かを推薦することもなかったため、私が弾くことになった。
文化祭で3年間、毎年ピアノを弾いていたこともあり、「やっぱ、あなたが弾くのね」という空気が流れていた。
卒業式の日、無事にピアノを弾き、私をいじめていた人達は相変わらず無愛想だったけれど、
いじめの原因かもしれないことを、人生の大舞台の一つでやらせてもらえたことは、ある意味、してやったりだった。
やりきった感がすごくあった。
その後、高校入試では、私の学力ではちょっと厳しいと言われていた学校を受験した。
父も母も先生も「落ちたらどうするんだ!」と反対したが、私はこの学校以外行きたくなかった。
そんな気持ちも理解してくれていた先生は、私の中学校3年間を側で見守ってくれ、卒業式までやりきったことを評価してくださり、
この中学校では過去最高となる内申点を付けてくれたらしい。
受験後に教えてくれた。
ちなみに、その内申点がなかったら、高校は不合格になっていたくらい、テストの点はあまり良くなかったが、
先生のおかげで無事に合格できた。
何でも一生懸命やればできるんだなぁと、
自分が信じた道なら頑張れるんだなぁと知ることができた。
高校生になってから、憧れていた学校の制服を着て中学校に遊びに行ったこともあったけど、
高校でも、また同じような活躍をしてしまい、時間がどんどんなくなってしまったため、その後は先生とは会えていない。
先生、いつかまた会いたいなぁ。
余談だが、私をいじめていただろう人たちは、私が合格した学校よりも学力的には下の学校に合格した。
そのせいか、その後、街ですれ違っても、睨まれることはなかった。