“経験”こそが最高のエビデンスになる
ライターという職業柄、エビデンスを探す癖がついている。
何かを論ずるとき、主観の入ったオピニオン記事ではなく、「根拠となる一次情報を探す」のはライターの仕事のひとつだ。
でも、最近思うのが「すべてのものにエビデンスがあるわけではない」し、「エビデンスが取れるわけではない」ということだ。
実際にこの世にあるコンテンツのすべてにエビデンスがあるのかといえば全然そんなことはない。どちらかといえばでたらめである。
試しに書店に並んでいる本を手に取ってみてほしいのだけど、割と言っていることがバラバラだったりする。
「若いうちにたくさん失敗をしたほうがいい」と主張するものもあれば、「保険をかけて生きたほうがいい」と熱弁しているものもある。
それに惑わされて「どっちが本当なんだ!」と消費者は混乱するけれど、結論としてはどっちも正しいしどっちも間違っている。
持論に正解というのはなくて、わたしたちは自分で自分にとって最適な答えを探していかなくてはならない。
では、これらの書籍の主張の根拠は何なのかといえば、「経験」に他ならない。
たとえば、「恋愛マスター」なる人がいたとして、その人が心理学や愛の歴史みたいなのをしっかり学んでいるかといえばそういうわけでもない。
あくまでその人がこれまでに経てきた恋愛経験をベースに「この場合はこうしたほうがいい」「奥手な彼を落とすならこんなLINEを送ろう」とアドバイスしているのである。
最近、わたし自身も「お金」にまつわる講義をする機会があった。
とはいっても、わたしはお金の勉強をしたことがほとんどない。FPの資格もない。それでも、これまでの消費経験をもとに、「こうすればヘルシーな浪費ができる」「ズボラでも貯金ができる」と話をすると、「有料級の情報だ!」「目から鱗だ!」と喜んでもらえた。
エビデンスはない。自分が編み出した方法だから、再現性があるのかどうかも実証できていない。
それでも、他の人にはない「経験」から生まれた「ノウハウ」には立派な「価値」があったのだ。
専門家でなくても、研究者でなくても、自分しか持っていない「経験」を価値に昇華できる。
そして、誰もがきっと自分なりの「有料級の経験」を持っているはず。強いて言えば、自分の経験こそがエビデンスなのだ。
「自己流だけど」と躊躇せず、まずは友だちに教えるような感覚で出してみてほしい。それに気付けたのなら、発信は怖くなくなるはず。