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神格化されすぎると寂しい。ゆきちゃんはゆきちゃんだから。
ちょっとタイトルが訳わからんと思うのですがまぁ聞いてくださいよ。
わたしは中学2年生のときに渡米してしまったので、いわゆる「ジモティー」がいないんだけど、大人になってから再会したジモティーがひとりだけいるんです。しかも同業で。
渋谷のイベントでたまたま会って、度肝を抜かれました。だってわたし、小学生のころ彼と近所で鬼ごっこしたりしてたんだから。それがライターをやってるって言うんだから、どんな運命の巡り合わせなのかしら、って。
都会ならまだしも、うちの地元は神奈川の田舎のほうなので、東京に進出している人はそんなにいない。ましてやライターなんて、わたしの知る限りこの子だけだ。ひと学年5クラスあるうちの、たったふたりだよ。
それで、顔も変わってないもんだから、つい小学生のノリで「あれ!? ◯◯じゃ〜ん!」なんて軽率に話しかけちゃったんだけど、なんかこう、よそよそしい感じと言いますか。それがちょっと寂しかったりしたんです。
そして最近。実家にいるついでに久しぶりにその子と焼肉を食べたんだけど、わたしが小学生のテンションを引きずりながら話しているあいだ、彼は「いや本当にすごいよ!」とわたしの行いひとつひとつを褒めて讃えて崇め奉ってくれて、それがくすぐったくもあったけどなんか変な気持ちだった。
たとえば、「毎日どんなスケジュールで動いているのか」という話題に対して、わたしが「かなりぐうたらしてる」という話をすると、「めちゃくちゃ意外だ」と思ってくれていることや、わたしが適当にツイートしていることについて「すごく考えて発信している」と思ってくれていること。
どうもその子のなかでは「ゆぴちゃん=インフルエンサー」(恐れ多い)みたいになっていたみたいなのだ。
わたしはその「いい感じのフィルター」効果でキラキラ綺麗に見えているだけで、話を聞く限りでは彼のほうがずっとすごい仕事をしている。すごいすごいと言われ、なんだかわたしのほうが恐れ多くなってきた。
そして気づいたのだ。神格化されることは、ちょっぴり寂しいことでもあるのだと。
だって、わたしの本質的な部分は全然変わってない。近所の小さい公園でキャイキャイ走りまわっていたときと同じなのに、「ハハァ〜」な態度で接せられてしまうと、距離を感じてしまう。そんなのは嫌だ!
そうしていろいろとわたしのダメなところを赤裸々にぶっちゃけまくった結果、最終的には「やっぱりゆきちゃんはゆきちゃんだったね」と言われてほっと胸を撫で下ろした。ミッションコンプリートだ。きっとわたしは憑き物を祓えた。インフルエンサーというキラキラフィルターを。
「すげー人」として接せられると、マジでどうしたらいいのかわからなくなる。だって自分は自分のことを「すげー人」とは思っていないわけだから、どちらかと言えばフラットに「やっほー!」と絡まれたほうが嬉しい。
それと同時に、わたしもまったく同じことを先日取材対象者にしてしまったなと振り返った。わたしだってすげー人に会ったら、すげーすげー言ってしまうと思うけど、すげー人はきっともっとフラットに会話してほしいのかもしれない。
よくおじさんが若い子にタメ語を使われると喜ばれるように、謙遜されるよりは腹を割って話せたほうがいいんだきっと。
わたしは全然すげー人ではないけど、チヤホヤされてちょっとだけ彼らの気持ちがわかった気がする。褒めてもらえるのは嬉しいけど、普通に扱ってもらったほうがずっと話しやすい。わたしは対等になりたかったのだ。
そんなわけで、1日をかけてわたしはやっと彼と対等になれた気がする。
数少ない大切なジモティー。これからもわたしのことを「何でもないゆきちゃん」と思ってくれたら嬉しいなと思う。
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