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遊びが遊びじゃなくなるとき
えーっとですね。わたしは永遠の17歳なのだが大学に行っていたことがある。(時空の歪み)
どうしても行きたい学部があって、そこから大学を決めた。
でも、受験のときに親と少し揉めた。
何故なら、わたしの行きたかった学部が一見遊びのような学部だったからだ。
併願で受けた文学部に行きなよ、と何度も諭された。たしかに文学部のほうがまだ親も理解がある。文学も遊びといえば遊びだが、少なくとも「学問」だし。
何なら、どうせ試験内容が同じなら経済や商学部に行けば良かったのに、と言われた。
実際、通ってみると親の言わんとしていることはなんとなくわかった。
偏差値の差かどうかは知らないが、経済や商は華型のようで、キラキラして見えたし、うちの学部は隅っこに佇んでいた。
「何の勉強しているの?」
他学部の人から聞かれるたびに、いつも何と答えたら良いのかわからなかった。
なんというか、勉強っぽくなかったのだ。
その学部では、たくさんの音楽とアニメと漫画と小説の知識があればあるほど輝けた。要するに、サブカルやヲタクたちが生き生きとするような場所だった。
わたしは正直大学で勉強したいことはあまりなかったが、家の方針としてもまわりの状況から見ても進学が当たり前の世界だったので、どうせなら好きなことをやりたい、と思って選んだ。
そこは、ありとあらゆるカルチャーに触れる場所だったのだ。
たとえば、とある講義では少女漫画の歴史や表現技法を学ぶ。とある講義ではループ系、つまり時空間表象について考える。とある講義では詩に触れ、実際に詩を書く。とある講義では、アニメにおける身体表象について考える。
まぁ、遊んでいるように見られても無理はない。実際遊びっぽいのだから。
変な話、解釈してもしなくてもお金にならないし、教養というよりは雑学だし、無駄っちゃ無駄だと思う。
実際、就活のときはちょっと後悔したこともある。
でも、最近になって事態は一転した。
「無駄なこと」「役に立たないこと」が優勢となってきたのだ。
『ニュータイプの時代』の山口周さんによれば、あらゆることか便利になり、重要課題が解決されつつある今、重要なのはロジカルではなくエモーショナルな思考なのだと。
物は増えた。ごはんは大体おいしい。サービスも良い。
そのなかで人はストーリーに魅せられて買う。
そこにあるのはデータに基づいた何かではなくて、人の気持ちやいろいろな表現や色彩豊かな言葉なのである。
一銭の金にもならないと筆を置いた人が、また物語を紡ぎ出すときが来たんだなぁと。
小さいころに「読むのをやめなさい」と言われた漫画も、ヘタするとビジネス書よりも尊い。
遊びが遊びじゃなくなってきた。
創作することも、創作を享受することも、もう我慢しなくて良いんだと、最近では自分の当時の選択わや肯定できるようになった。
「お金にならなくても、ただ、ただ、好き」
そんか気持ちを大事にしてほしいなと思う。
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