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“知識”は生きるジャマになることもある
若くしていろんなものを知っている人と話すことがたまにある。
たくさんの本を読み、博識で、聡明で、引き出しが多い。どんな話題にも話を合わせることができるし、いちいち詳しい。
でも一方で、ものすごく達観しているなぁ、と思う。
人生を何周もしてきたかのような目をして、きっと私が考えていることも、何を言おうとしているかもお見通しなんだろうなと思った。
「どうしてだろう?」という疑問から学びは始まる。疑問を解決するために本を読み、人に聞き、答えがなければ考える。
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私は一度、疲れていたのか「どうしてだろう」を突き詰めすぎたことがあった。**
どうして東京にいるとこんなにも忙しいんだろう、とか、どうして目の前にあるこのプロジェクトをやらなきゃいけないんだろう、とか、どうして私は午前2時にデスクに張り付いているんだろう、とか。
でも、それを考え始めると、大変なことに気付いてしまう。
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ぜんぶ、意味がないのだ。**
頑張って仕事をして成長してお金をもらって良い暮らしをしておいしいものを食べてようが、最終的に行き着くのは「人は死ぬ」という結論になる。
がんばって出した成果も、好きな人と過ごす時間も、必死に書いた原稿も、死んだら全部塵となる。立派になって語り継がれたところで、死んだあとに「わーい!私伝記になってるじゃーん!」なんて喜べるわけでもない。
死んだらおわり。やることなすこと意味がないのだ。
それを悟ると、マジでやる気がなくなってくる。友だちにそんな死生観を話してみると、「アダムとイブじゃん」と言われたけどそれに近い。
知恵の実は、時としてジャマになるのである。
考えすぎると、返って思考が停止する。
たとえば、人生におけるさまざまな選択も、知識を変につけてしまうことで、純粋な気持ちでは選べなくなってしまうだろう。
子どもと、大人を分かつものは、知識と経験だと思っている。
それは、大事なことだけれど、知りすぎるのもどうなんだろう。
わたしは東京に来て新しい世界を知り、確実にアップデートされたと感じるけれど、生き急ぐ必要はないんじゃないかと思う。
みんな、若くして結果を出さなきゃ、と思ってインプットを頑張るけれど、焦って知識を蓄えた先にあるのは一重に幸せとは呼べないのかもしれない。
本も映画も無限にあるから、すべてを読み切ることは永遠にないとは思うけど、それでも早熟な人や天才は、知らなくてもいいようなことまで知りすぎてあまり幸せそうには見えなかったから。
だから何ができるというわけではないけど。
知識は時として毒になるという話でした。
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