
絶対に許せないことは許せないままでいい
このnoteを読んで、仕舞い込んで鍵をかけていた箱がギギギ、と開きかけたような気がした。
我ながらすごく根に持つタイプの人間だと思う。
人にされて嫌だったことや、言われて嫌だったことは、一生忘れない。それがたとえ幼少期のことであろうが、大学生時代のことであろうが。
幼稚園でハロウィンの仮装の帽子を引っ張られたことも、放課後の約束を連絡なしでドタキャンされたことも、謎の嫌がらせをされたことも、「ニコニコちゃん」と言われたことも、「忘れよう」と思っても何故かずっと残っているのだ。自分の意思とは関係なく。
でもきっと、神さまのように「すべてを許しましょう」というスタンスで生きたほうが明らかに精神は穏やかなのだ。
心に波風が立つこともなく、怒りという感情が湧くこともなく、ただ淡々と事象を事象として片付けることができるはず。
ただ、それはあくまで「理想」であって、「現実」はそうはいかない。「忘れる」と言うのはある種「覚える」よりも難しいことだ。仮に1時間を与えられて暗記することはできても、忘却することは難しい。
「許す」という行為は何なのだろうと考える。
「ごめんなさい」と自分が頭を下げることで、自分の非を認め、壊れかけてしまった関係性を修復する。あるいは自分の失態を幾分かマシなものにする。
つまるところ、「許す」というのは失態を犯した側にとってはメリットがあるけれど、被害者側にとってはメリットはない。怒りがちょっとだけ落ち着いて、「マイナス」が「ゼロ」に少し近くなるだけで、特に何もプラスではないのだ。
謝罪というのは失ったものを取り返す行為ではなく、「謝らなければ気が済まない」の「気」を満たすための自己満足な行為であり、傷つけてしまった相手に対する最低限の礼儀だ。
日常でもワイドショーでも謝罪が求められる場面は多々あるが、明らかに非があるにも関わらず頑なに謝らない人は、自分を満たせてあげていないとも言える。非を認めないことできっと、後悔するのは自分自身だろう。
スターを夢見る女の子たちが集まる音楽学校を舞台とした作品『かげきしょうじょ!!』2巻では、握手会でのトラブルで引退してしまったアイドルに対し、「どうしても謝りたくて」とファンが学校前で待ち伏せをするシーンがある。
結果的には誤解が解けて円満解決に至るのだが、ファンは「自己満足で謝りたい」だけで、許されたかったわけではないという。
わたしは、「許し」というのは強要されるべきではないと思う。
絶対に犯されたくない自分の領域があって、守るべき価値観があって、それが破壊されて「あぁ、もうこの人とは無理だ、関わりたくない」と思うのなら、たとえ相手が「許してほしい」と懇願してきても、許す必要はないと思うのだ。
「これだけ謝っているのだから許してあげなよ」という人がいるが、幾度頭を下げられたところで許せないものは許せないし、つけられた傷は消えない。そうやって言う人たちが許してあげればいいのであって、それを他人に強要するのはちょっと違うと思う。
「わたしも悪かったな」とか「反省しているな」とか「大したことじゃないから良いか」と当事者が思ってはじめて「許そう」と思える。あるいは、何かやらかしたうえでも引き続きその人と関わりつづけたいと思えるかどうか。
わたしはこれまでに自分を不快な思いにさせてきた人のことは絶対に許さないと思う。ただ、許さないからと言って別に冷たく当たるとか、拒絶するとか、そういう拒否反応を示すわけではない。普通に話すしLINEにも応じると思う。
ただ、明確に一線は引く。心の内では「でも、こういうことされたもんな」と思っている。そうやって「許さない」のは個人の自由だと思うから。
同様に、きっとわたしは誰かにとっては「許されない」存在になっているとかもしれない。でもそれは仕方のないことだし、許されようとも思わない。ただせめて、自分が何かをしでかしてしまったと気づけたのなら、せめて謝ることだけは最低限の礼儀として忘れないでおきたい。
いいなと思ったら応援しよう!
