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迎合なんてするなよ
昔、かなり我が強めな友だちがいた。
18:30まで限定で見られるコンテンツがあるとか何とかで、部活帰り、早足で家路を歩かされたのを覚えている。
わたしは早足で歩くのが嫌いだし、今だったら「いや、自分ひとりで帰れや」と突っ込んでしまうだろう。
でも、当時は言えなかった。
嫌われたくなかったからだ。
今のはちょっと極端な例かもしれないけれど、人はいつから他人の顔を伺い始めるのだろうと思う。
そりゃ、わたしだってできることならみんなに笑っていてほしい。身勝手な一言で歪む顔なんて見たくない。自分がちょっと我慢すれば済むのであれば、喜んで我慢する。
しかし、そんなちょっとした我慢は、いつしか自分の気付かないところで、自分を殺してしまう。
こうすればいいんだ、こう言えばいいんだ、と打算的に動く。
わたしの場合は、たとえばカフェでえらぶメニューひとつとっても何となく相手に合わせがちだ。シェアをするなら、こっちのほうが良いだろうか、なんていらないことを考える。相手が賛成してほしそうだったら、賛成をしておく。
ちっぽけなことかもしれない。
でも、これが積み重なれば、自分で選ぶ力を失っていく。
ゴールデンウィークのおわり、実家に帰った。
別に話題でもないドラマを自分で選んで観て、ものすごく人気が爆発しているわけでもない本を買って、海辺でぼんやり読んだ。
誰の顔を伺うでもなく。
話のタネにするわけでもなく。
誰に頼まれたわけでもなく。
それが、なんだかしあわせだった。
というか、誰かに合わせて取捨選択をしていくことが、ものすごくアホらしいということに気付いた。
人間関係を円滑に進めていくためには迎合というスキルが必要なときもある。
余計な争いを生まないためだったり、仕事とお金のためだったり、長い付き合いのためだったり。
でも、それを選んだ自分を、それで選んだ答えを、自分は愛していけるんだろうか。
まわりまわると、実はそれがマイナスに働くことに気付く。
自分の好きじゃないことを頑張って主張して気に入られたところで、ねぇ。
どうなんだろう。
でも、迎合ばかりしていたら、いつか自分を嫌いになってしまうんじゃないか。そして、それに気付いて迎合をやめたとき、取り返しのつかないことになっているんじゃないか、と思ってしまったのだ。
心の声に従って、嫌なことは嫌と。
そして、マイナーで人気がなくて絵もヘタクソで全然売れていないような漫画を胸を張って選んでいくような人生を取り戻したいと思う。
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