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コロナ疲れ=「リセット疲れ」なんじゃないかと思う

コロナになってから、「コロナ疲れ」とは一体何なんだろうと何回も考えている。

いつもと違う生活を強いられること。口を塞がれるようにマスクを当てることが義務付けられ物理的に息がしづらいこと。好きな人や友だちと会えないこと。大きな声を出して騒げないこと。日光を浴びずに部屋でパソコンを叩かなくてはいけないこと。

このどれもが「コロナ疲れ」なんだろうけど、私は、「コロナ疲れ」とは「リセット疲れ」なんじゃないかと今日思い至った。

今日は久しぶりに友だちが開催しているポップアップショップに足を運んで、2年ぶりに会う人が2人もいたのだけど、「久しぶり!」と駆け寄りながら、最近よくこの言葉を使うなと感じた。

「久しぶり」。

今まで丁寧に築いてきた人間関係がリセットされてしまったことを、誤魔化すような言葉だと思う。

そんな「久しぶり」の感覚で人と関わると、嬉しい気持ちと戸惑う気持ちのふたつの感情がぐちゃぐちゃになってくる。久しぶりに会えて嬉しいけれど、積み重ねてきた日々がリセットされてしまったような。

たとえば、わたしは2年間ほど、外の世界を広げるために昔の交友関係をセーブしていたことがあったけれど、そんな「久しぶり」な人たちと会うときにかすかな「緊張感」が生まれているのを感じた。

リセットされると、ちょっと緊張する。

コロナ禍では、そんなリセットが毎日繰り返し繰り返し起こっているような気がしてならない。

人間関係のみならず、イベントもそうだ。まるで恋愛のように「楽しみ」と思いを募らせて募らせてその矢先に中止になって、「リセット」されてしまう。

期待すると絶望が大きくなることを人は学ぶから、だんだん期待しなくなっていく。だから、「絶対に開催してほしい」というより、「開催されたら行くかな」ぐらいの気持ちになってしまう。切ない。

わたしも楽しみにしていたライブがなくなってしまって、テレビの下に積み上げていたブルーレイをそっと棚に仕舞った。盛り上がっていた気持ちを収束させるための「リセット」なのだ。

人間関係も、仕事も、楽しみも、積み上げてきたものがバラバラとなくなって「リセット」されていく感覚。

話は変わるが、私がはじめてゲームを買ってもらった小学生のころ、「セーブ」という概念を知らず、電源を切るたびに振り出しに戻ってしまって全然ゲームが進まない、というのを1週間ぐらい繰り返していたことがあった。あのときの虚しい感じにすごくよく似ている。

自分は心身ともに健康で、趣味もたくさんあって、コロナ禍でも全然元気に過ごせるタイプだと思っていたので、これは誤算だった。これは全員病むに決まってる。

ようやくジムリーダーにたどり着いたと思ったら、またリセットされてポケモンを選ぶところから始まるのだから。そりゃ絶望もするし何もしなくても疲れる。

あと何度リセットされてしまうんだろう。せめてインターネットで繋がった糸だけは切らさぬよう、発信だけは絶やさずにいたい。

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